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酒見賢一「泣き虫弱虫諸葛孔明」

2008年04月09日 08時07分34秒 | 読書
酒見賢一「泣き虫弱虫諸葛孔明」               文藝春秋


 一人称じゃない小説において大切なポイントのひとつに作者の位置がある。
 作者は外から登場人物を眺めていることしかできない存在なのか、全知全能の存在としてあらゆる登場人物の心の中まで瞬時に、かつ同時に分かってしまうものなのか、一人称小説と同様一人の人間なら外も中も分かるけれど、同時に他の人間はわからない限定的な存在なのか、はたまた生の作者として話の中に登場して意見を述べたりするものなのか。
 小説を読みながら、そんなことを意識するのも楽しいかも知れない。
 最初の登場人物を外から眺めるような小説って、一時流行ったヌーヴォー・ロマンなんかに多い。そこで読者は、いったいこいつは何がやりたいんだ、結局事件は起こったのか、起こらなかったのか、ジリジリしながら、何の説明もない、ちょっと居心地の悪い空間に放り込まれる。これはこれで読書以外ではなかなか体験できない居心地の悪さで、読後感のなんとも落ち着かない感じとともに積極的に楽しんで欲しい境地であったりする。ロブ=グリエとか。
 次の全知全能の存在。これは、トルストイに代表される近代西洋小説にまま見られる。人物の上に君臨し、登場人物の性格や心の中までお見通しした挙げ句、人物の配置やエピソードの挿入など、手で小説をこねくり回す感じ。スタンダールもお見通しなんだが、トルストイが人物の上に君臨しているとするなら、彼は登場人物の中に紛れ込んでしまっている。
 一人の視点、ということで言えば、それへの意識の徹底を眼目のひとつにしたのが、たとえばサルトルの「自由への道」だろう。小説として成功しているかどうかは別にして(いや、ぼくはわりかし面白かったんだよ。でもさ、なんだかブツ切れな感じも否めないんだよなあ)。
 最後の生作者。これはなんと言っても司馬遼太郎だろう。小説なのか、エッセイなのか迷っちゃうほど、作品によっては頻々と顔を出して意見を述べる。
 そういう作者目線に対して、酒見賢一はかなり意識していたに違いない。そしてそのポジションについて考えた上で、この小説のスタンスを決定したのだろう。
 「弱虫泣き虫諸葛孔明」は、三国志のメタ小説と言ってもいい。もちろん舞台は三国志だが、その世界を物語るというより、作者が三国志に触れた段階で突き当たってしまった疑問の数々を解決しながらの三国志旅行記と言ったほうがいいかもしれない。
 疑問とは、普通に言えば疑問だが、くだいて言えば「ツッコミ」である。おいおい、なんで実績も経験もない若造がいきなり「臥竜」呼ばわりされるんだYO! みたいな。
 そう、ここで作者のポジションとは三国志、ならびに三国志の世界観、さらに三国志を彩る登場人物たちへのツッコミ役なのである。司馬遼太郎の「意見」とはちょっとカラーの違う作者の存在感だ。
 たとえば、こんなふう。


「しかし、こいつら、なんでこんなに戦争ばっかりしてるんだ?」
 と感想せざるを得ず、大陸人同士が、やめりゃあいいのに人口が半減するほどの殺し合いを飽きもせずに続けるという異様な話なのである(だが中国史とはこのような強烈な話の連続なのであって、三国時代がとりたてて異常なわけではない)。


英雄連中もしょっちゅう二十、三十万の大軍を起こしては火で燃やされたり、河江に沈められたり、得体の知れない罠にはまったりして、虫けらのように殺されてゆく。それを、
「乾坤一擲の大智謀、秘計が当たったわい!」
 と喜んだり、褒めたり、けなしたりし合っているのである。人間の知性は「三国志」では、人殺しに用いられるばかりである。紛争解決にもっとよい知恵を出すのが知性というものだろうと思いたい。敢えて人類とは度し難い生き物だということを示したいのか。
「………こいつら、結局、根本的に頭が悪いんじゃないのか?」
 と首をかしげさせられることもしばしばである。


 などなど。
 登場人物に対しても、そのツッコミは多々あるが、しかし、それでこの三国志世界を馬鹿にしているのではないと感じられるところが、この作者の人柄であろう。どいつもこいつも作者に一言二言つっこまれながらも、実に輝いているのが読んでいて楽しい。
 どうしようもなく、なんとなく、流された結果が三顧の礼とは、また愉快であるし、その持ってきかたも見事。
 そんなわけで三顧の礼をもって、この小説は終わっているのだが、第二部も楽しみである。
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