博報堂旧本館

2012-06-27 19:22:18 |  東京都


 創業は明治28(1895)年という老舗広告代理店の本社屋として昭和5(1930)年に完成。 3階部分にまで伸びた4本の円柱と南東の隅に聳えるアールデコ風の塔屋が印象的です。 設計の岡田信一郎(1883~1932)は東京帝国大学を卒業後は西洋建築史、特に古典主義の研究に取り組み、建築家としてよりも研究者を目指していたといわれます。 しかし病弱なため憧れであった渡欧の夢は叶わず、また元芸妓で「日本一の美人」と謳われた萬龍(田向静)との結婚により周囲から批判を受け、希望していた東大での研究職のポストは断念して建築家として本格的に歩み始める事になったそうです。 昭和7(1932)年に早すぎる死を迎える事になる岡田にとって晩年の作品であったこの建物は、平成22(2010)年、残念ながら取り壊されてしまいました。  東京都千代田区神田錦町3-22  06年03月中旬他

 ※参考『近代日本の異色建築家』  1984
 ※現存せず。























 ネットを被る前の姿が2006年03月に撮影したもの。 

旧私立新川中央病院本館

2012-06-26 18:42:08 | 愛知・岐阜


 明治44(1911)年に九州帝大医科を卒業した施主が、新規に開業するにあたって建設した病院(大正3年築・1914)。 設計者は不明ですが診察室や手術室、応接室から調剤室まで一通りの設備を機能的に配した設計になってるそうです。 訪問時は建物を使用している雰囲気は薄く、病院の記念碑的な建物として保存しているように見えました。  愛知県碧南市松江町6-83  09年02月上旬

 ※参考『愛知県の近代化遺産』  2005



 この建物の一番の見せ場になる玄関ポーチ。 真ん中の角柱は補強用として近年に加えられたものです。


 玄関周りをペパーミントグリーンで縁取りして清潔感があります。


 古典的な装飾。


 基礎にレンガを5段積み。 後補の柱も同様の仕上げにして統一感を持たせています。








 ここは学校の跡地であったという。


 このまま大切にして欲しい。

旧大崎報公義會舘

2012-06-25 18:42:37 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島


 地元の大崎青年団(報公義会)によって建てられた会館建築。 青年団は地引網漁で得た利益で勧業銀行の債券を買い、当選した特等1000円で石造平屋建ての会館を建設(明治末期)。 さらに大正末、当時の会長であった吉峯喜八郎が多額の寄付金を集め旧会堂の前にこの2階建ての洋風建築を増築したものだと伝わります。  鹿児島県南さつま市加世田唐仁原6078-2  12年01月上旬



 国道226号に面す。 


 この門も登録文化財。 増築部と同時期(大正末)に建てられたもの。


 萬世町は大正14(1925)年から昭和29(1954)年まで存在していた町。 加世田町と合併して加世田市になり、平成17(2005)年に近隣の4つの町と合併して南さつま市になっています。 




 解説文によるとこのレリーフは龍だそう。 バリとか東南アジアの方のお面にも見えます。






 柱型にあるこの渦巻きはイオニア式オーダーのつもりでしょうか?




 玄関ポーチの足元。


 ナスカの地上絵に見えてしまった…。


 旧会館。


 正面部分はRC造。 建てられた時期や場所を考えると町の自慢の建物であった事が容易に想像できます。


 青空が良く似合う。

旧住友銀行尾道支店

2012-06-22 19:43:02 | 岡山・広島・山口


 野口孫市(1869~1915)が率いていた住友臨時建築部の設計により明治37(1904)年に建設。 木造ですがモルタルの壁面に目地を切って石造風の厳めしい建物に仕上げています。 明治42(1909)年に増築が行われ、同時に入口上部にドーム屋根と3連の屋根窓が追加されましたが現在は屋根の付加物は取り除かれてしまっています。 昭和13(1938)年の銀行移転後はカフェーに転用、昭和20年代に海運局となり昭和50(1975)年頃からは尾道市の分庁舎として使用されています。  広島県尾道市久保1-10-3  10年12月下旬他

 ※参考『広島県の近代化遺産』  1998



 アーチ部分の旭日風の意匠に目が行きます。






 明治42年の増築後の姿を見ると、いかにも明治建築らしい古典的な様式の装飾に飾られていましたが、現在は外観的な特徴は窓周りに残るだけになってしまいました。


 昔日の姿を知ってしまうと今の姿はあまりも寂しすぎます。
 

 裏面。 内部も改変が著しいそう。 このあたりは明治初期に埋め立てられた場所になるようです。


 尾道商業会議所記念館で紹介されていた古写真。 この姿に復元される事を願ってしまいます。

佐藤医院

2012-06-18 18:48:35 | 山梨・新潟


 新潟県の最北端、旧山北町で見つけた医院建築。 調べてみたら昭和10(1935)年に建てられたもので、近くには昭和30(1955)年の合併(いわゆる昭和の大合併)で消滅した八幡村の役場などもあった地域の中心的な場所でした。  新潟県村上市勝木  12年05月中旬



 右側が少し切れていますがほぼ全景です。


 門から覗くと左手にある建物。 用途が良く分かりませんが待合所のようなものでしょうか?


 右側にはこの建物。


 奥に本宅(住居)があるのでこの建物が診察棟と思われます。 窓のアルミサッシがなんとも惜しい。
 

 玄関部のアップ。 今も営業してるか分からなかったので奥までは踏み込みませんでした。


 破風。




 カメラを落として以来、ズームするとピントが微妙に合いません。 直しに出してるヒマも無く…。


 「佐藤医院駐車場」の看板で建物名称が確認出来ました。


 平成5年に撮影された写真と見比べると、玄関周りの塗装の色が少し変わっていました。
 

吉川英治旧宅・草思堂

2012-06-16 13:36:06 |  東京都


 『宮本武蔵』『三國志』などの執筆で多くの読者を集め国民文学作家として親しまれた吉川英治(1892~1962)が、疎開の為に昭和19(1944)年から同・28(1953)年まで家族と共に暮らしていた邸宅。 元は地元の養蚕農家であった野村氏が弘化4(1847)年に建てたものでしたが幕末に土台を残して焼失、現在の建物は明治初期に建て替えられたものになるそうです。  東京都青梅市柚木町1-101-1  11年02月上旬

 ※参考『東京建築懐古録Ⅲ』 1991
    『昭和史の住宅』 1989



 受付を済ませ門をくぐると正面にあるこの建物が「草思堂」。 草紙(書物などの意)をもじって英治が命名しました。 


 玄関の敷居を跨いで中へ。


 建物内には上がれないのでここからガラス戸越しに見学する事になります。












 草思堂の東側にある井戸。 丸太で組んだあずま屋を被せたのは英治の時代。


 英治がこの屋敷を買い取ったのは昭和15(1940)年ころ。 昭和13年という資料もあります。




 新聞広告でこの建物が売りに出されているのを知って文子夫人が一人で見に行き、梅の木が沢山ある事を話しただけで英治も気に入り購入したという。 敷地は観梅で有名な吉野梅郷の西端に位置しています。


 庭園を含めた敷地はおよそ1700坪。 少年時代に不遇をかこった英治は自分の子供達は田舎でのびのび育てたいと願っていたようです。


 樹齢500年を超えるシイの木の下は英治のお気に入りの場所のひとつ。


 明治中期に建てられた洋間の離れ。 野村氏の時代のものです。








 足元には瀬戸で焼かれた本業タイル。










 洋間には書斎が復元され愛用していた文具類などが当時のままのように置かれています。
















 日本の敗戦による衝撃から断筆し、夫人と共に晴耕雨読の生活を2年間続ける。 戦後の代表作である『新・平家物語』の執筆を始めたのは昭和25(1950)年、英治の本当の再出発はそこから始まっていく事になります。


 志賀直哉の勧めもあってやがて熱海へと居を移す事になりますが、村人(当時は吉野村)たちとの親交も厚く、一家が村を去る時には300人を超える村民が庭に集まり別れを惜しんだという。

熊本大学YMCA花陵会館

2012-06-15 20:02:25 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島


 花陵会は旧制第五高等学校のキリスト教信者7名による相互協力や聖書に基づく真理の探究、社会への貢献などを固く誓って明治29(1896)年に結ばれた団体。 翌年には貸家を借りての共同生活を始め、自炊寮を苦心しながらも経営しました。 この建物は北米YMCA同盟、花陵会OBや熊本の有志の寄付を得て昭和6(1931)年に建てられた2代目の会館で、設計はOBの大倉三郎(1900~1983)によるものだそうです。 終戦後、第五高等学校は熊本大学へと引き継がれ花陵会も熊本大学YMCAへと継承、現在も聖書を中心とした共同生活を行って活動を展開しています。   熊本県熊本市黒髪2-27-21  12年01月上旬



 建物はRC造2階建て、南東の隅に八角塔屋を載せたモダンな造り。


 テラスの屋根を支える5連のアーチが自由な気風を感じさせます。


 大倉三郎は京都帝国大学建築学科で武田五一に薫陶を受け、卒業後直ぐに大阪の宗建築事務所に入所。 昭和3(1928)年から同・15(1940)年までは京都帝国大学の営繕課に勤めていました。 彼の作風はセセッション・表現派的なものからドイツ・クラシシズム、近代主義的なものなど幅広く完成度も高かったという。


 窓から内部を拝見。 今も聖書研究会などの活動が週に1回行われているそう。


 北東面。 写真の撮影日は一緒ですが時間に1時間ほどのズレがあるので天気が違っています。


 ポーチの開口部は尖頭アーチ。


 花陵会の沿革は銀色のプレートに書かれている内容を参考にさせてもらいました。




 

 建物の性質上、皇紀ではなく西紀となっているのがポイントですね。


 この窓枠のグリーンが好き。


 こちらが寮の建物で、花陵会のHPを見ると築79年となっているので会館とほぼ同じ時代に竣工したものと思われます。 ちなみに寮生は熊本大学の男子学生に限られています。


 帰り際に再び立ち寄ったら晴れてきた。

旧玉島信用組合事務所

2012-06-14 19:22:31 | 岡山・広島・山口


 静かな港町の風景に忽然と現れるこの建物は、大正3(1914)年に設立された玉島信用組合が昭和10(1935)年に現在地に移転した時に新築された建物だといわれます。 後に玉島信用金庫と改称されてもその本店として使用され、昭和29(1954)年に本店が別の場所に移転してからは商工会議所に寄付され使われていました。 商工会議所も移転した後は民間会社(モタエ)が入居、現在も建物を使用しているみたい(?)です。  岡山県倉敷市玉島阿賀崎1205  11年01月上旬

 ※参考 『岡山県の近代化遺産』 2005



 玄関の両脇にニッチのような“くぼみ”を設けたのは、金融機関らしい柱(オーダー)を従来と異なる手法で表現したかったのでしょうか。


 このアングルだと2本の角柱のようにも見える。


 中を覗くと足元にもタイルが張られていました。


 裏面はモルタルのみの簡素な仕上げ。


 近くにある息が切れるような急階段を少し上がってみましたが、良いアングルは見つかりませんでした。




 内部には大理石のカウンターも残っているようです。


 設計・施工等の建築データは不明。


 こんなような顔をした海洋生物がいたように思いますが名前が出てきません。。

旧根雨公会堂

2012-06-13 19:04:34 | 島根・鳥取


 根雨は江戸時代より栄えた出雲街道の宿場町。 その根雨の町を見下ろすように山の中腹に建つこの白壁の建物は、鉄山経営で財を成した根雨の近藤家7代目当主・近藤寿一郎(1880~1958)が当時の根雨町に寄贈したものという(昭和15年築・1940)。 寿一郎は事業の他に郷土の教育文化の振興にも貢献し、日野郡や鳥取県の教育会長を歴任、この建物は演劇、映画、講演会など幅広く活用されて地域文化の発展向上に寄与してきました。  鳥取県日野町根雨497  10年05月上旬

 ※参考 『鳥取県の近代化遺産』 1998
     『鳥取建築ノート』 1991 



 建物の設計者は岡田孝男(1898~1993)という大阪三越百貨店住宅建築部の技師だった人物。 武田五一の愛弟子であり、和風にスパニッシュを取り入れたスタイルは恩師からの影響があるものといわれます。


 根雨の「ネ」と文化の「文」を重ねた誇り高きシンボルマーク。


 2本の円柱が並ぶ玄関。




 昭和61(1986)年に改装されて現在は日野町の歴史民俗資料館。 事前予約で内部見学出来るようです。


 かつては石州赤瓦が葺いてありましたが平成7(1995)年に取り替えられています。




 寿一郎の希望により外観は周囲の民家との調和を考えて努めて質素に造られる。


 建物の見学中、付かず離れずでずっと私を「観察」していた猫さん。 そんなに怪しい者ではありません(ちょっとは怪しい…)。


彦根地方気象台

2012-06-10 16:21:03 |  滋賀県


 明治26(1893)年に開設された彦根測候所の2代目庁舎として昭和7(1932)年に建設。 設立時は県立の測候所でしたが昭和15(1940)年に国に寄付され、同・32(1957)年に地方気象台に昇格して現在に至っています。  滋賀県彦根市城町2-5-25  09年10月上旬





 表札は「氣象台」の文字が入っているので昭和32年以降の物と思われます。


 戦前築の気象台(測候所)の建物は横浜・水戸・広島などに現存。 前橋も戦前築のようですが文献ではまだ未確認です。 


 昭和42(1967)年に改修され現在の外観になっていますが、建設当初はタイル張りだったそう。


 良く見ると単なるアーチではなく放物線アーチ。 鹿児島地方気象台などと同じく表現主義の手法が用いられています。


 背面側。 中央は1階から塔屋までをつなぐ階段室。


 放物線アーチの下、2階の中央の窓は改修前は2連の縦長窓になっていました。

芦屋市立図書館打出分室

2012-06-09 18:03:07 | 京都・兵庫


 大阪・淡路の金庫屋で仏教美術コレクターであった松山与兵衛の住宅の中の一つ、「松濤館」と名付けられていた美術品収蔵庫を芦屋市が敷地と共に買い取って図書館へと転用したもの。 元々は大阪の両替商であった逸身銀行の店舗として明治後期に建てられたもので、与兵衛が建物を購入して昭和5(1930)年に大阪から現在地に移築してきたものと伝わります。  兵庫県芦屋市打出小槌町15-9  09年01月下旬



 こちらが本来の正面玄関と思われますが現在は使用されておらず、増設された新しい建物から中に入るようになっています。
 

 窓が小さく壁も厚く、石造りという事もあって非常に堅牢な建物という印象が強い。 構造はRC造となっているので、移築された時か図書館へと転用された時に内部を補強されたものと思われます。


 中華風というか東洋趣味的なデザインですね。


 北・東面はルスティカ積み風の凸凹とした荒々しい仕上げ。


 調べていたら「逸見」と「逸身」がごっちゃになってしまいましたが、明治34(1901)年の金融恐慌で解散に追い込まれたという「逸身」銀行が正しいのでしょうか? 


 戦後は進駐軍や警察予備隊が建物に駐留し昭和27(1952)年に芦屋市が買い取って内部を改装、2年後に図書館として開館。 昭和24(1949)年から同・29年までは芦屋仏教会館内に市立図書館が置かれていました。