日光市庁舎本館

2020-09-24 08:17:55 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 日光街道から少し奥まった高台に位置するこの建物は、当初は大名ホテルという名前の主に外国人向けの宿泊施設として建てられたものでした。 外国人避暑客などを相手に古美術骨董商を生業としていた小林庄一郎により明治38(1905)年に建設に着手、約35万円(当時)をかけて大正の初期頃にほぼ完成したといわれています。 「ほぼ」とわざわざ書いたのは、実は建物の外観は完成したものの内部が未完成であったとかホテルとして営業した記録が殆んど無かったからであり、資金繰りその他の関係で実際は開業に至らなかったともいわれます。  栃木県日光市中鉢石町999 13年09月下旬


 ※参考『栃木県の近代化遺産』 2003
    『近代和風建築』 1988



 日光駅から東照宮へと向かう途中に建つ。


 南側(向かって左側)に付属棟が接続。 竣工年は大正5、同7、同14年と諸説あり現在も判明していません。


 外国人の目を引くためか外観は城郭風。 施工者は不詳、設計者は大栗某(?)ともいわれますが、それすら定かかどうか良く分からないそう。 当初は屋根に金の鯱が一対載っていたそうですが第二次世界大戦中に撤去(金属供出か)されています。 


 破風の懸魚を拡大。 最初は龍かと思いましたが魚の尻尾みたいなのが見えるので…何でしょう? 鯉から龍へと変わる姿??
 

 次は向かって右側の破風。


 真ん中が壊れていますがこれは龍だと思います。


 左の破風を見ると龍の姿が完全に残っていました。


 坂道を登って出入口のある付属棟へ。


 建物は昭和18(1943)年に古河電工日光精銅所が買収、戦中は徴用工員宿所となり戦後は進駐軍に接収されて社交場となりました。 昭和23(1948)年に古河電工から日光町に寄付され、同27(1952)年からは町役場(現・日光総合支所)となっています。


 側面に周ると下見板が。


 更に裏手に周っていくと黄味がかった下見板の姿が現れました。




 

 軒下には漆喰装飾。


 日光を訪れる外国人の増加により古美術骨董商として商売は順調、小林は日光町議会議員や栃木県議会議員を経て明治41(1908)年には立憲政友会から選挙に出馬し見事に当選、衆議院議員にまで上り詰めている。


 明治30年代中頃から大正初期における日光はホテルや旅館業者が激しく鎬(しのぎ)を削った時代であり、その激戦地に参入しようとしたのが大名ホテルでした。 しかし第一次世界大戦(大正3年・1914に勃発)へと向けて世界情勢は緊迫し、日本から本国へと引き揚げる外国人の姿も目立ち始めるような時代が既に到来しており、大名ホテルが営業を始めるには余りにも遅きに失しました。 


 全てが夢のままに終わる。

旧田中別荘

2020-09-22 09:07:30 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 北軽井沢は長野と群馬の県境に位置する浅間山の北側に位置する避暑・別荘地。 軽井沢が外国人宣教師や日本人有産階級を中心に発展していったのに対し、北軽井沢は学者や大学関係者といった文化人達によって発展してきた歴史があるのだそうです。 この建物は明治末から昭和初期にかけて実業家として活躍した田中銀之助(1873~1935)の別荘として大正から昭和の初め頃に建てられたもので、浅間高原北麓で最古の洋館といわれるもの。 付近一帯は森林型リゾート地として開発され、現在この建物はレストランやカフェとして利用されています。  群馬県長野原町北軽井沢  13年09月上旬



 長野原と軽井沢を結ぶ国道146号から脇道にそれて少し進むと「LUOMUの森」と書かれたゲートがあり、その奥にこの建物があります。


 石積みの煙突。


 正面から中に入ってみます。


 1階は浅間山麓周辺の食材を使用した料理を提供するレストラン。 少し覗かせてもらいました。


 

 2つある階段のひとつ。 こちらが主階段?


  

 2階はブックカフェ。 郷土誌や自然をテーマにした書物、雑誌などが並べられています。


 ここで遅めの昼食を頂きました。 読書に耽りながらの静かなひと時。


 ゆっくりしたかったのですが天気予報は午後から雷雨の予報、実際に雷鳴が近づいてきたので後ろ髪を引かれる思いで店を後にします。


 

 この建物の事が書かれた文献を読んだ事が無いので設計・施工等は分からないのですが、施設の公式HPを見ると“あめりか屋”とかヴォーリズ建築の特徴を有するとあります。 両者いずれかの設計という事になるのでしょうか。


 HPには大正9(1920)年築とも書かれていました。


 こちらは裏面。 イメージ的に硬質な感じがする建物です。


 解説板にあった田中銀之助の写真。 学習院を経て後にイギリス留学、帰国後に日本で初めて慶應義塾大学にラグビーを伝えた事から「日本ラグビーの父」とも呼ばれる。


 現在、文化財登録を申請中のようなので、登録が決まったらもう少し詳しい建築情報が分かるのかも知れません。
 ※2013年現在。

カトリック松が峰教会

2020-09-18 07:20:26 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)

 
 松が峰教会は明治21(1888)年にパリ外国宣教会のカジャック神父により市内・川向町に宇都宮天主公教会として発足、後に現在の松が峰に移って明治43(1910)年には最初の聖堂が建設されました。 現在の聖堂は昭和7(1932)年にスイス人建築家、マックス・ヒンデル(1887~1963)の設計により建てられたもので、外壁に大谷石を用い双塔をもったロマネスク様式の壮麗な建物となっており、ヒンデルの日本における事実上の最後で最大の作品となっています。  栃木県宇都宮市松が峰1-1-5  08年01月中旬他

 ※参考『栃木の建築文化 カトリック松が峰教会』 1986
    『大谷石百選』 2006  ほか



 総工費5万3千余円(当時)、延べ3万6千人余りの人員により完成。


 十字架の先端までの高さは27メートル近くもあります。


 施工は当時、横浜にあった宮内建築事務所(宮内初太郎・1892~1957)。 優秀な技術陣を擁し外国人(特に仏人)からの信頼が厚かったといわれます。


 石工棟梁は安野半吾(1872~1951)。 工事には多くの石工が参加するも細かい細工が多く加工石数が伸びない事から工事を辞退する者が続出、その為に半吾が賃金を補償する事によって石工を繋ぎとめ完成に漕ぎ着けました。


 1階は当初、幼稚園となっていましたが現在は隣接する建物に独立し、ここの扉は基本的には開かれていません。


 

 正面の階段を上がって2階の礼拝室へ。




 戦災により屋根が落ち内部も焼失するなど半壊に近い被害を受けましたが、戦後になって直ぐの昭和22(1947)年には早くも復元工事が完了しています。


 現在は椅子席となっていますが建築当初は畳敷きでした。 正面のパイプオルガンは昭和53(1978)年に奉献された西ドイツ(当時)製のもの。  










 ヒンデルはスイス・チューリッヒのフルンテルン地区生まれ。 大正13(1924)年3月に来日し札幌で3年、横浜で13年の合わせて16年間を日本で過ごしました。 この聖堂の工事の際には敷地内に仮設の事務所を設けそこで寝泊まりし、監督や職人達に直接に指揮をしていたそうです。


 ゴム靴を履いたカエルの雨水落し。 これは建築当時の司祭が宮沢賢治と親交があったそうで賢治の童話『蛙のゴム靴』にちなんで作ったもの。 




 今の様に高い建物が周りに密集する前は、この尖塔が列車の中や遠く離れた場所からも良く見えました。 宇都宮に到着した事を実感する一瞬だったそうです。


 この聖堂が完成して3年後の昭和10(1935)年5月にヒンデルは自らの建築事務所を解散、同15(1940)年には日本を離れドイツ・レーゲンへと旅立っています。 ここを最後に以後は目立った創作活動をしなかったヒンデルにとっては正に建築家人生の集大成といってもよい作品なのかもしれません。

旧大谷公会堂

2013-07-29 18:39:41 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 城山村在郷軍人分会により公会堂として昭和4(1929)年に建設。 村議会や芝居、演劇の会場などとして使われました。 昭和29(1954)年に城山村が宇都宮市に吸収合併されてからは宇都宮市の管轄に置かれ、現在まで同市の倉庫となっています。 建物は当地特産の大谷石を積み上げた積石造の平屋建て、正面を飾る4本のピラスター(付け柱)が特徴的な外観を作り上げています。  栃木県宇都宮市大谷町1313-12  08年01月中旬

 ※参考『栃木県の近代化遺産』 2003
    『大谷石百選』 2006



 正面玄関。 古写真を見るとかつては玄関前に3段の石段がありました。


 大谷石は凝灰岩の為、風化しやすいという特性を持つ。 特に垂直面よりも水平に用いた部材は水分が中で凍結し膨張・収縮を繰り返すのでその度合いが激しいそうです。




 設計者は県内で最初の建築設計事務所を開設した更田時蔵で、鳥取出身の更田は早稲田で佐藤功一の薫陶を受けた人物という。 以前紹介したこの建物も更田の作品。 


 中央の2本のピラスターは下からの通しになっており、一番高い部分まで7.4メートルにもなるという。

群馬県庁昭和庁舎

2013-03-23 19:16:00 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 昭和3(1928)年完成の旧群馬県本庁舎。 庁舎建築を得意とした佐藤功一による設計です。 昭和3年4月9日の県庁舎落成式後に3日間(4日間とも)に渡って行われた一般開放には約30万人もの見学者が訪れ、当時の群馬県民の4人に1人はこの県庁舎を見に来た計算になるのだそうです。  群馬県前橋市大手町1-1-1  13年03月上旬



 鉄筋コンクリート造3階建て・地下1階、横に長くて安定感のあるプロポーション。


 敷地はかつての前橋城の跡地です。


 3階中央部分にはバルコニー。 平面図を見るとこの部屋は正庁の間となっています。


 2階と3階の窓の間の装飾。


 

 建設費は当時の金額で79万円余り。


 

 屋上庭園・スチーム暖房・水洗式トイレ・押しボタン式自動消火器など当時の新鋭設備を誇る先進的な建物でありました。


 

 扉の上の植物模様のレリーフ。


 梁にも同じような装飾が用いられています。


 玄関ホールと中央階段。




 連なる曲線が美しい。




 平成11(1999)年の新庁舎建設に際してもこの建物は活用を前提に残されました。


 昭和61(1986)年の耐力診断では構造的に堅牢である事も判明しているそう。


 1階ロビーは休憩・談話室のようになっています。


 奥には昭和34(1959)年に購入したと説明書きのある金庫が置いてありました。


 当時の公金支払は現在のような口座振替ではなく現金を直接支払っていおり、支払いに必要な現金を毎日銀行から下ろしてこの金庫に保管していたそうです。




 

 建物の背面にあったこの区画は増築でしょうか。


 表とは打って変わって裏面は真っ白な姿でした。


 まるで水着の日焼け跡。


 玄関ホールに戻って外に出ようとしたらこんなプレートが目に付きました。


 「築廰紀功」? 漢文に見えてしまい読むのが億劫になりました。 「築庁起工」かも知れませんね…。


 背にした側にもプレートが。


 設計者名として佐藤功一、さらに建築顧問として徳永庸(佐藤功一の建築事務所の所員)の名前もありました。 木村武一については不明です。




 群馬県庁が初めて設置されたのは高崎でしたが明治14(1881)年に前橋に移転する事が正式に決定し、以来今日までその状況が続いています。


 後ろには33階建てと高層になった現・県庁舎が控える。

金善ビル

2012-12-04 19:38:25 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 明治9(1876)年に金居善太郎により創業された金善織物は、大正6(1917)年にいち早く力職機200台を導入、職工170人を抱えるなど織物業で栄えていた桐生市内でも有数の規模を誇りました。 このビルは善太郎の長男である常八郎が貸し店舗として大正10(1921)年頃に建てたもので、地方都市ではまだ珍しかった鉄筋コンクリート(RC)造で建てられました。 金善織物は太平洋戦争さなかの昭和19(1944)年に企業の統合整理の対象となり廃業しましたが、桐生繁栄のシンボルであったこの建物は今も昔とほぼ変わらぬ姿で街を飾っています。  群馬県桐生市本町5-345  09年11月下旬・10年06月上旬

 ※参考『群馬県近代化遺産総合調査報告書』 1992
    『颯爽たる上州 群馬の近代化遺産』 1995
    『シルクカントリー 群馬の建造物史』 2009
    『群馬県の近代和風建築総合調査報告書』 2012



 玄関上を飾るモダンな装飾。


 地上4階・地下1階、1階部分は石張り・2階より上をタイル張りにして外観に変化をつけています。


 パラペットにも装飾がありました。


 屋上の塔屋に見えるのは煙突だそうです。


 こちらはかつての金善織物の居宅兼事務所。 中央3連丸窓の玄関ホールと脇の応接室は大正10年頃(?)、向かって右側の居宅が明治後期頃(?)、左のサロンが明治前期とされるようです。 サロンは吹き抜けで畳敷きのギャラリーが廻るという。


 白色と相俟って物凄いインパクトのある「顔」をしています。


 東側には道路を挟んでノコギリ屋根の工場があり主屋と地下で結ばれていました。 今は工場は無くなっています。


 現在この建物は個人邸となってます。 見学の際は十分にご配慮願います。

旧ハワイ公使別邸

2012-05-31 18:35:50 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 ハワイがまだ独立国家(ハワイ王国)であった頃の駐日代理公使、ロバート・ウォーカー・アルウィン(1844~1925)の別荘として使用されていた建物。 外国人にとっては日本の夏は蒸し暑くて耐え難く、避暑の為の別荘を探していたアルウィンが伊香保の爽やかな気候と静かな環境を気に入り明治24(1891)年にこの建物を買い求め、大正14(1925)年に亡くなるまで毎夏を過ごしていました。

 アルウィンは現在のハワイ日系人社会の基礎となっている移民(官約移民)の実現をした人物であり、明治18(1885)年の第一回移民から明治27(1894)年の官約移民終了までに3万人近い数の日本人移民を送り出し、「ハワイ移民の父」と呼ばれその名を現在に残しています。  群馬県渋川市伊香保町伊香保29-5  10年04月下旬





 右がアルウィンの写真で左がハワイ州旗。 ハワイ王国は1893年の革命で親米的な政府が成立、1898年にはアメリカ合衆国に併合され完全に消滅しました。


 昭和60(1985)年がハワイに移民が渡って百周年になるのを記念して建物は史跡指定され保存されるに至ったようです。


 展示室内部。 アルウィンが生前に使用していた品々や関係資料が展示されています。


 別荘の一部を保存したので広さはそれほどありません。








 地元の人達からは「アルウィンさんの別荘」と呼ばれ親しまれていたそう。


 伊香保には明治26(1893)年に御用邸も建てられ皇族も避暑に訪れていました。


 近くにある伊香保観光ホテル(昭和4年築・1929)。 外国人向けに建てられたホテルですが現在は事業停止中で放置状態。


 登録文化財になっていますが今後どうなる事やら。

旧茨城県畜産試験場庁舎

2012-04-02 19:57:27 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 茨城県畜産試験場の跡地、南北合わせて39haもの広大な敷地の北東隅に位置するこの建物は大正12(1923)年の建築。 元々は大正8(1919)年に兵庫県に設置された北条(條)種羊場(大正12年廃止)の建物を移築してきた可能性が高いのだそうです。 平成12(2000)年に試験場は八郷町(現・石岡市)に移転し、この建物はドラマや映画、CM等のロケに使用されていますが老朽化が進み内部の使用は出来なくなっているようです。  茨城県笠間市(友部町)平町  12年04月上旬

 ※参考 『茨城県の近代化遺産』 2007



 左右にスロープのついた車寄せ。




 丸電球はそっぽを向いたまま。




 玄関の窓越しに撮影。 傾斜の緩やかな優しい階段です。


 もぬけの殻状態。




 敷地の外からは見えなかった南西面。 この面は一際大きく窓がとられています。


 歯抜けになった窓。 ガラスの破片が地面にも散乱していました。


 良く見ると2階はベランダになっていて後から窓を入れた事が分かります。




 背面部。




 壁の亀裂と天井の漆喰が剥落しているのは震災の影響と思われます。


 この雰囲気が好き。


 「お薬出します」的な小窓もあります。


 純朴。


 北条種羊場―友部種羊場―茨城県種畜場(昭和36年に茨城県畜産試験場と改称)と移り変わってきたようです。

松原製材所事務所

2012-03-27 18:11:56 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)

   
 関東屈指の焼き物の産地・栃木県益子町。 町の玄関口になる真岡線益子駅の近くにあるこの建物は、今から1世紀以上も前になる明治40(1907)年頃に東京の洋館を真似て建てられたもの。 2階が畳敷きの住居になっていて1階は製材所の事務所、その事務所部分は漆喰仕上げでヴォールト天井(かまぼこ型天井)になっているそうです。  栃木県益子町益子1067  12年02月中旬



 2階南側のバルコニーは大人が乗るにはちょっと頼りなさそう。


 内部も見たかったのですが窓ガラスは曇り気味。 中を覗くには顔を相当近付けなくてはならないので断念(笑)。


 増築された箇所も多そうです。


 2階の窓の上下に入る横ラインが気になったのですが、これは窓を左右に開ける(ずらす)ためのレールのようなものでしょうか?


 1階は3面とも全て上げ下げ窓。 下見板のペンキの剥げ具合が哀愁を誘います。

行方の赤別荘

2012-03-14 19:58:18 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 国内では琵琶湖に次ぐ大きさ(面積)を誇る茨城県の霞ヶ浦。 その東側に位置するのが行方市であり、2005年に近隣3町による合併で誕生した新しい市になるのだそうです。 市内には鉄道が通っておらず市民の足は専らマイカーによるものと思われますが、この建物は旧玉造町の某所、車で走っているだけでは決して見つからない所に建っています。 今回30年近く前の本に載っていた写真を頼りに訪問してみましたが、既にこの家には住み人はおらず、建物は竹林に覆われた風の音だけが聞こえる静かな空間でゆっくりと自然に還る途中のようでした。  茨城県行方市  12年02月上旬



 近づいてはいけないような気がしました。


 大正11(1922)年築。 和洋折衷の館です。




 洋館1階部分の外壁は薄いピンク色。




 

 2階はベランダ付き。 家人にはここから何が見えていたのでしょう。






 洋館の隣りには附属屋もありました。


 こちらにも。


 こちらも。


 最初に見えた光景。 予想していたものとは大きく違ったものでした。 


 赤別荘と称されていた頃。 『常陽 藝文』特集/茨城の洋風建築 1983年12月号より

粟野の見世蔵と洋館

2012-02-18 21:11:48 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 平成18(2006)年に鹿沼市と合併して廃止された(旧)粟野町に残る黒漆喰塗の見世蔵と石造の洋館建築。 正確な建設年代は不明ですが明治から大正頃のものとされています。 こちらのお宅は天保年間に菜種・胡麻・荏などから絞油を行っていた事から屋号を代々「油屋」と称す旧家で、林業にも携わり明治から昭和にかけては郵便事業も任されていました。 この建物も当初は郵便局として使用された後、昭和5(1930)年までは下野中央銀行の粟野支店となっていたそうです。  栃木県鹿沼市(粟野町)口粟野  11年06月下旬

 ※参考 『栃木県の近代化遺産』 2003
 ※現在は個人邸と思われますので見学の際はご配慮願います。



 イギリス積みのレンガとタイルのコンビネーションが折り目正しさを感じさせる。


 タイルは銀行として使われていた時に貼られたものとされています。


 雷文入り。






 撮影した時は気付きませんでしたが丸ポストがありますね。 旧郵便局というのも納得。




 この部分を見ると石造というより木造か土蔵造りのようにも思えてしまいます。。。




 ここでは掲載しませんが表札には今でも「油屋」という2文字が入っています。


旧利根銀行新治支店

2012-02-14 19:02:27 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 明治33(1900)年に新治村に資本金1万円(当時)で設立された利根銀行の社屋として明治40(1907)年に建設されたもの。 利根銀行は大正15(1926)年に沼田商業銀行と合併、この建物は利根銀行の新治支店となりました。 その後も銀行の合併・再編などにより群馬中央銀行~群馬銀行~群馬大同銀行の各支店となりましたが昭和9(1934)年に銀行としての役割は終えました。 昭和28(1953)年からは土建業者の事務所として使用され現在に至っているようです。  群馬県みなかみ町羽場1094  10年04月下旬

 ※参考 『群馬県近代化遺産総合調査報告書』 1992
     『颯爽たる上州 群馬の近代化遺産』 1995



 関東と越後を結ぶ三国街道沿いに建つ。 起り(むくり)屋根の玄関ポーチが和的です。 


 玄関上部にはファンライト。 一転して洋風のイメージ。 




 築100年を超え、各部には経年劣化も。


 合併先の沼田商業銀行の建物(旧沼田貯蓄銀行本店・明治41年頃)も沼田市内に現存していますが、あちらは囲いで覆われてしまってその姿は殆んど見えません。

旧川崎銀行水戸支店

2012-02-06 18:10:38 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 水戸市の南側に位置する茨城町海老沢に生まれた川崎八右衛門(1834~1907)により設立された川崎銀行。 川崎家は回漕問屋として東北諸藩の御用達を勤め、幕末期には水戸藩の財政立て直しの為に藩内で通用する藩札・通貨の鋳造など、鋳銭事業も手掛けるようになっていきました。 明治7(1874)年には為替取扱業の川崎組を創設、本店を東京・日本橋に置き現在の警視庁や千葉・茨城両県の公金取扱いを行って富と信用を蓄えていったそうです。 そして明治13(1880)年に川崎組は銀行組織となって川崎銀行と改称。 後に川崎財閥へと発展していく我が国を代表する私立銀行の誕生でした。

 水戸にこの建物が新築されたのは明治42(1909)年の事。 設計は明治15(1882)年に工部大学校造家学科(現在の東大工学部建築学科)を卒業した新家孝正(1857~1920)。 構造は鉄筋コンクリート(RC)造といわれ、国内では最も早い時期のものとなるそうです。  茨城県水戸市泉町3-2-4  09年01月中旬他

 ※参考『総覧 日本の建築 関東』  1989
    『特別展 西洋ロマンとモダン建築 水戸の近代建築から』  2004
    『茨城県の近代化遺産』  2007



 1階部分にはルスティカ積み風の仕上げも見られます。


 2階は白いタイルを貼って清楚な雰囲気を漂わす。 川越の旧八十五銀行本店(大正7年)にも通ずるイメージ。


 戦災で車寄せと屋根、建物内部を焼失。 戦前の古写真を見ると正面中央に三角のペディメント△を掲げ、中央と両脇の3か所に尖がり屋根がありました。


 玄関上部にあるキーストーン風の装飾。


 窓を飾る面格子。 戦前の写真には写っていないので戦後の物と思われます。


 大田原と新庄に古い建物を使用している現役の銀行店舗(信金含む)がありますが、洋風建築ではこれが一番古い?


 西側面。 こちら側にあったレンガ塀は先の震災で大部分が崩れてしまったそう。 写真を探しましたが撮っていなかった…。


 現存する国内最古のRC造は横浜の三井物産ビル(明治44年)だと思っていましたが、情報が正しければこちらの方が2年早く竣工した事になります…?

長野原町役場

2010-08-31 07:04:07 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 役場事務量の増大に伴って昭和4(1929)年に1万3千円(当時)で新築された町役場。 バルコニー付きの立派な洋風建築です。 長野原は軽井沢の少し北側に位置し、伊香保温泉を超えて草津に行くちょっと手前と言えば関東在住の人間には場所のイメージがつかめるでしょうか。 明治時代の始まりと共に全国各地に広まっていった近代化の波は、長い年月を経てこんな小さな山間の町にもその足跡を残していました。  群馬県長野原町長野原66  10年04月下旬



 東京では桜はもう散っていましたが、長野原ではまさにシーズン。


 適度な緩さのデザインが魅力です。


 ちょっとオシャレ。


 一時期有名になった八ッ場ダム(やんばダム)もここ長野原。 

日本基督教団 佐野教会

2010-08-30 07:08:55 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)




 早稲田大学に建築科を創設し教鞭をとった事で知られる佐藤功一の設計により昭和9(1934)年に完成。 佐藤功一の作品というと県庁舎や公会堂などRC造の大規模な公共建築、それもルネッサンスやゴシックを加味した水平線と垂直線を端正に纏めた建物といったイメージが強く、このような小規模な木造教会を設計していたというのはイメージとかけ離れます。 開口部の尖塔アーチや花弁模様の大きな丸窓などが印象的な建物ですが、少し残念なのは玄関ポーチの屋根の角度が非対称に変えられてしまっている点。 当初は同じ勾配の切妻屋根が3段重なったシンメトリーな正面を構成していたそうです。  栃木県佐野市金屋仲町2431  08年10月下旬