鹿児島カトリック・ザビエル教会旧聖堂

2013-06-02 19:51:18 | 福岡・長崎・佐賀


 宣教師フランシスコ・ザビエルが日本へ渡来してから400年にあたる昭和24(1949)年に鹿児島市内に建てられた木造の聖堂。 建物の老朽化、及びザビエル渡来450年祭の折にコンクリートの聖堂に建て替えられるべく平成10(1998)年に解体されましたが、部材は福岡県宗像市の「福岡黙想の家」の敷地に運搬されて保存、平成19(2007)年に着工した復元工事が苦難の末に今年完成して聖堂は現代に甦りました。  福岡県宗像市名残1056-1  13年04月下旬

 ※参考『聖堂再生』 2007



 木造の聖堂は塔までの高さが21メートル。


 「聖フランシスコ・ザビエル カトリック教会」。


 この聖堂は2代目の建物にあたり、初代の石造の建物(明治41年築・1908)は昭和20(1945)年4月の鹿児島空襲で外壁だけを残して全焼したという。


 鹿児島市はザビエルが初めて日本に上陸した歴史的な場所でキリスト教信者にとっては聖地とも呼べる場所。 ザビエル渡来四百年を記念して海外巡礼団が訪れる予定を控えていた為、戦後すぐに労力と知恵を結集して聖堂は再建されました。


 オレンジがかった赤屋根が飛び切り目映い。


 アーチ型の高い天井。




 終戦直後で物資も不足する中、信徒や信徒以外の若者も再建に加わり、一面焼け野原の中でも明日への希望を夢見て作業に従事していたと伝わります。






 この聖堂の設計者は当時の神父の七田和三郎と衛藤右三郎という建築家。 衛藤は大連市・南満州工業専門学校建築学科を卒業し中村宗像建築事務所(中村與資平・宗像主一)に入所、終戦後は鹿児島で最初の設計事務所を開設した人物という。




 2階へと上がってみます。






 火の点いたロウソクを模したようなガラス窓です。


 賛美歌も響きそう。






 すりガラスの模様が四葉のクローバーのようにも見えますね。






 耐震の為の鉄骨がサイドに張り出す。




 モルタルによる側面窓の装飾。


 側面出入り口。


 今度は山間の町から平和を見守ります。

旧雨森邸

2013-05-28 19:17:33 | 福岡・長崎・佐賀


 明治中期頃に英国人のウィルソン・ウォーカーにより現在の南山手町2-11番地(旧南山手町12番地)に建設された住宅で、初期には外国人用のホテルとして使用されていたともいわれます。 建物の設計・施工は分かっていませんが日本人大工の手に成るものと思われ、長崎居留地における同時期の洋風住宅が小型・簡素化していく中では珍しい非常に質の高い住宅だそうです。 大正11(1922)年頃からは医院や住宅として使用されていましたが昭和63(1988)年に解体される事になり、長崎市が寄贈を受けて現在地に移築復元して現在は町並み保存センターとして活用されています。  長崎県長崎市南山手町4-33  09年12月下旬他


 ※参考 『総覧 日本の建築9 九州・沖縄』 1988
     『南山手の洋館』 1977



 当初は大浦天主堂へと向かう坂道の途中に建っていました。




 吹き放ちの玄関ポーチ。


 

 中央部が突出したこのベランダ面が当初は海側を向いていました。 三角のペディメントが立体感を訴えかけてきます。 


 掃き出し窓。






 玄関から入ります。




 先程見たベランダに面した側の部屋。 間仕切りは引き込み戸になっていました。


 暖炉にはマントルピース。




 扇形の装飾があります。


 照明の台座にも漆喰による植物模様の装飾。


 ベランダの無い壁面にはベイウインドウが設けられています。


 中廊下を通って階段へ。


 親柱は随分と大振りなデザイン。




 2階は研修室や会議室・ギャラリーとして使用されています。


 2階にも暖炉+マントルピースがありました。








 1階とは異なる細かいデザインです。






 移築される遥か昔、ホテルとして使われていた頃は海を望める抜群の眺望だったでしょう。


 畳敷きの部屋もありました。


 和とも洋ともいえない部屋です。




 無料公開なのでお勧めの場所。




 横浜、そして神戸に主役を奪われる前の最も輝いていた時代の長崎居留地の栄華を今に伝えています。

旧三潴銀行本店

2013-03-03 19:42:01 | 福岡・長崎・佐賀


 清力酒造社長・中村綱次ら大川の地元融資家が明治27(1894)年に設立した鐘ヶ江銀行を端緒とする三潴(みずま)銀行の本店として明治42(1909)年に建設。 表からは窺い知れませんがレンガ造の建物です。 18世紀半ばに開港した若津港と共に発展したこの一帯も、明治41(1908)年に開港した三池港の影響を受けて次第に衰退し、三潴銀行も大正14(1925)年に十七銀行(現在の福岡銀行)に合併され、この建物も海運会社やケーブルテレビ局等として使用されました。  福岡県大川市向島2367  13年01月上旬

 ※参考『筑後の近代化遺産』 2011



 正面玄関。 現在はこちらからの入場は出来ません。


 ペディメント付きの1階の窓。


 2階中央の窓はイオニア式の柱頭を持った付け柱で飾られています。


 2階の左右にある窓。 窓の装飾材には花崗岩を使っているそう。


 屋根窓の形をした換気口。


 隣接する新しい建物から中へ入ります。 現在は三潴銀行記念館(併設・九州貨幣博物館)となっていて国内外の貨幣等が展示されていました。


 この写真では良く分かりませんが階段手前の左側にあるドアが入場口です。


 中から見た正面玄関。


 装飾部を拡大。


 営業室だった吹き抜けの空間。 銀行時代のカウンターは取り外されています。


 ドイツ製の鋳型打ちブリキ天井が輝いていました。 平成21(2009)年に大改修が行われて往時の姿が甦っています。


 暖炉のデザインは様式的ながらも少し自由な感覚。 外観デザインとも共通する雰囲気です。


 イタリア製のタイル。


 金庫室です。


 劇場のボックス席のようにも見えますね。




 階段の脇を通って最初の部屋へ。 建物の北に位置する3部屋の一番西側の部屋です。


 隣りに新しい建物が出来たので、窓の外はニッチのような空間に改変されています。


 次の部屋へ。


 ここは部屋というより通路といった方が正しいのかも知れません。 3部屋の中央に位置し扉の向こうが先程の営業室にあたります。




 一番東側の部屋。


 裏手に附属屋があるのでここの窓の外もニッチ状になっています。






 戻る前に天井を見上げる。




 親柱のてっぺんにある円い部分は質感などから新しいもののようにも思えます。 この部分は復元なのかも。




 

 右のこの扉を開けると新館の2階に繋がっていました。 昔はどこに繋がっていたのでしょう? あるいは改修時に階段が設置され窓から出入りしてるのでしょうか。


 それにしても眺めの良い場所です。


 2階は会議室と重役室として使われていました。






 最初に広い方の部屋へ。


 天井の造作が素敵。






 右の扉から今度は小さい方の部屋へ入ります。


 こちらが重役室になるのかも。




 

 ディティールも逃したくない。






 天井の境目も気になる。




 内部を見終えて再び外に出てきました。




 避雷針。
 

 裏側です。


 正月早々という事で訪問時は閉まっていましたが、恨めしそうに中を覗いていたらおじさんが出て来てくれてワザワザ開けて下さいました(感謝)。。

行橋赤レンガ館

2012-08-27 19:28:55 | 福岡・長崎・佐賀


 この赤レンガ造の建物は大正3(1914)年に百三十銀行(本店・大阪市)の行橋支店として建てられたもの。 設計は清水組の本店技術部になりますが、辰野片岡事務所が設計監督をしているという事もあり所謂「辰野式」にも通ずるデザインを纏っています。 平成9(1997)年まで各種銀行や信用組合の店舗として使用されていましたが現在は行橋市が土地と建物を買収、復元改修工事を行って市民ギャラリーとして活用されています。  福岡県行橋市大橋3-7-14  09年04月下旬



 1年後に建てられた百三十銀行の八幡支店(北九州市)は鉄筋コンクリート造。 大正期の銀行建築はレンガから鉄筋コンクリートへと建築構造が変わっていく転換期にあたります。


 この百三十銀行行橋支店は明治11(1878)年開業の第八十七国立銀行を前身とする銀行。 明治35(1902)年に八十七銀行(第八十七国立銀行から改称)は百三十銀行に吸収合併されたようです。




 銀行建築らしく内部は吹き抜け。




 耐震の為の鉄骨と歩廊が廻る。 歩廊は建築当初の設計図を元に復元したもの。


 歩廊へと上がる螺旋階段も復元したもののようです。






 竹内金庫製。 古建築の金庫としては良く聞く名前ですが詳しい事は分かりません。。




 展示物を避けて写真を撮ったので似たようなアングルばかり(汗)。


 イギリス積み。


 裏手には金庫室が附属。




 屋根の四方にはドーマー。


旧厳木郵便局

2012-05-23 18:08:46 | 福岡・長崎・佐賀


 医院診療所として使われていたこの建物は大正7(1918)年に建てられた旧厳木郵便局。 昭和28(1953)年に新局舎が竣工した事により局舎としての役目を終え、買い取られて現地に移築されてきたものになるそうです。  佐賀県唐津市厳木町厳木  09年12月下旬

 ※参考『佐賀県の近代化遺産』 2002



 正面側全景。 訪問時は廃院しているような雰囲気でしたので敷地の外からの撮影です。


 下見板で白ペンキ仕上げ、基礎はレンガ積み。


 玄関と両翼を前に突き出したEの字型の平面プランになるのでしょうか。


 懸魚があって和風の要素も感じさせます。 下のくり抜かれた図形はハート♡にも見えますね。


 小城から唐津まで行きたかったけど、時間切れの為ここで引き返す事になりました。

石炭会館

2012-04-19 18:59:02 | 福岡・長崎・佐賀


 明治34(1901)年に設立された若松石炭商同業組合の事務所として明治38(1905)年に建設。 木造ですが外壁にモルタルを塗って目地を切り、石造風の仕上げを施しています。 石炭関係者の公私の社交場やクラブ、迎賓館として使われるなど、石炭の積出港として栄えた若松の歴史を端的に表す建物です。  福岡県北九州市若松区本町1-13-15  09年04月下旬

 ※参考『北九州の近代化遺産』 2006



 古写真を見ると屋根の正面中央に飾り窓が一つとパラペットが廻らされていて、現在の姿よりもかなり荘厳な雰囲気を持った建物でした。


 昭和19(1944)年に社団法人 若松石炭協会となり同48(1973)年からは現在の株式会社 石炭会館となっています。


 中に入ると目の前に階段。 途中で左右へと分かれるタイプのものです。 


 上がりたいけど「立入禁止」の立札。。


 天井です。




 1階にはクロワッサンで有名のお店が入っていて客足が止まらないほどの盛況でした。 扉の上の装飾も目を引きますね。




 外に出ます。 かつては目の前はすぐ船着き場のようになっていましたが、埋立てによって海岸線はほんの少しだけ遠ざかっています。

旧若松労働会館

2011-09-14 19:13:24 | 福岡・長崎・佐賀


 大正15(1926)年築のこの建物は昭和24(1949)年までは若松連歌町病院だった建物。 昭和32(1957)年からは若松地区の労働者の福利厚生や権利活動の拠点である労働会館として使用されてきました。 2年前に訪問した時には玄関に「若松地区労組協議会」という看板がかかっていましたが、今年の3月に地区労は解散・退去、現在この建物は空き家になっているのかも知れません。  福岡県北九州市若松区浜町2-6-7  09年04月下旬







 タイルがアクセント。








 鉱滓レンガでしょうか。


 向かいの建物が取り壊されていなかったら「引き」が取れそうもない路地に建っています。


 さっき来た道を引き返す。 光の射す方へ。

旧長崎警察署

2010-11-08 07:10:10 | 福岡・長崎・佐賀






 小雨まじりの長崎の空、宿泊したホテルの向かいにあったこの建物はかつての長崎警察署、現在は長崎県庁第3別館として使用されている大正12(1923)年築の建物です。 平面プランはL字型で角地の部分に玄関を設けて上部を塔屋状に建ち上げたスタイル、一つ目の怪人のようにも見える丸窓が一際異彩を放っています。 長崎の被爆建造物にも指定(Dランク)されてる建物ですが、隣接する長崎県庁の建て替え(新築移転?)計画を見てみると敷地は史跡として将来的には刷新されてしまいそうなニュアンスが伝わってきて、この建物も同時にお払い箱にされてしまいそうな予感もあります。  長崎県長崎市江戸町2-1  09年12月下旬

2つの小学校

2010-06-04 07:09:35 | 福岡・長崎・佐賀


 島原市立第一・第三小学校は共に昭和初期に建てられた鉄筋コンクリート(RC)造の建物。 建設から80年以上経ち、両校舎はいま耐震強度不足を理由とする改築・大規模改修の議論の中で揺れています。  長崎県島原市城内1-1129(同・広馬場7758)  09年12月下旬



 第一小学校の門柱。 建物の柱型とも共通する意匠。


 子供達を守る大きな庇(ひさし)。


 照明の取り付け部分にも装飾。 




 昭和2(1927)年築。 祖父母の代から見上げた視線の先にはいつもこの建物がありました。


 歴史の重みが持つ風格。 しかしまだ将来は見えません。


 (おまけ)敷地の南側にある旧島原高等女学校正門(大正11年 1922)。




 第三小学校へは煉瓦塀の階段を駆け上がります。  


 昭和3(1928)年築。 平面と曲面の違いはあれど、第一小学校とも共通するデザイン。








 正面は北東向き。 庇を支える逞しい円柱が足元に影を落とす。 


 時間と共に育まれた都市の景観は、一つ一つの町の記憶の積み重ねでもあると思います。


 ※両校舎とも現役の施設として使用されています。 見学の際は充分に御配慮願います。

旧長崎刑務所

2010-05-27 18:59:43 | 福岡・長崎・佐賀


 司法省・山下啓次郎の設計した五大監獄のひとつ(明治40年築 1907)。 近代的な思想を取り入れ人間の本質と向き合ったこの建物も、「刑務所」という負のイメージからか刑務所移転後も長きに渡り空き家のまま放置され、平成19(2007)年に正門と本館の一部を残してその大部分は解体撤去されました。  長崎県諫早市野中町  09年12月下旬



 正門を望む。 奥に見えるトンガリ屋根が本館。




 アーチの一部に石を用いた正門。 赤茶に錆びた門扉の奥には今では広大な敷地が広がっています。


 両側の出っ張りは門衛所でしょうか。




 一部保存とは聞いていましたが、これほど無残な姿でとは想像もしませんでした。


 2005年に初めて訪れた時の写真。 夕方の訪問で強烈な逆光になってしまいロクな写真ではありませんが、建物の持つ本来の魅力は垣間見えるかと思います。


 かつてはこのような煉瓦塀が敷地を隙間無く取り囲んでいました。


 個人的には重文級の建物。 全ては無理として一部分だけでも完全な姿で保存出来ていれば、旧網走監獄のような観光施設にも転用できたはず。 何とも悔やみきれません。

旧古賀銀行神埼支店

2010-02-08 07:14:12 | 福岡・長崎・佐賀


 明治18(1885)年に佐賀市に設立された古賀銀行の神埼支店として大正3(1914)年に建設。 大正期には九州5大銀行のうちの一つに数えられるまでに成長した古賀銀行でしたが、金融恐慌のあおりで昭和8(1933)年に解散し、この建物は産科医院~歯科医院として使用されてきました。 平成16(2004)年に歯科医院が移転した後は暫らく空家になっていたようですが、神埼市が昨年購入し、今後は修復・整備されて活用される事が決まったみたいです。  佐賀県神埼市神埼町神埼438  10年01月上旬

 

 正面玄関。


 「福成歯科医院」の書体も味わい深く。


 屋根の換気口にも装飾が。




 レンガの煙突が載った付属屋。 何でしょう?


 屋根に有刺鉄線。 鳥よけでしょうか。


 柱頭は直線的なデザイン。




 旧長崎街道沿い。 今後の活用に期待です。

九州大学本部(事務局第一庁舎)

2010-01-17 10:37:08 | 福岡・長崎・佐賀


 大正12(1923)年末の怪火事件で焼失した旧工学部本館を建て替えする間の工学部の仮実験・研究室として大正14(1925)年に建設。 レンガや石材は焼失した旧工学部本館の物を再利用したリサイクル建築ですが、新しい工学部本館が昭和5(1930)年に完成した後は大学事務局に使用されるなど決して応急的な建築ではありませんでした。 但し設計に時間が取れなかった事やコストを圧縮して建設されたので全体的な装飾は簡素になっているとも云われます。   福岡県福岡市東区箱崎6-10-1  09年12月下旬他

 ※参考 『福岡県の近代化遺産』  1993
     『福岡の近代化遺産』  2008



 半円形の大きな窓。




 左右に双子の角柱。








 パラペット周りの装飾は取り除かれています。 車寄せのポーチも後設。 当初は建物本体から吊られる形状の庇がありました。


 ペディメント風の床下換気口。

有田異人館

2010-01-16 20:42:16 | 福岡・長崎・佐賀


 明治9(1876)年竣工の擬洋館。 陶磁器の買い付けに訪れた外国人商人の接待・宿泊用に建てられたもので、アーチ型の窓と列柱に支えられたベランダが特徴的です。 内部は非公開ですが半円形の回り階段があって2階は21畳敷きの部屋になっているそう。 大正4(1915)年頃に増改築(曳き家?)された形跡があるようです。  佐賀県有田町幸平1  10年01月上旬他
 
 ※参考 『総覧 日本の建築9 九州・沖縄』  1988
     『佐賀県の近代化遺産』  2002  



 ○に十は建主の田代助作の「田」をデザインしてる? 


 ここにも「田」。


 今は手摺りだけですが、かつては2階部分にも列柱があったそう。






 これも「田」?


 柱頭はシンプル。


 裏面も案外フツー。


 やっぱり「田」。




 鬼瓦の上に突き出している瓦を鳥衾(とりぶすま)と言うらしい。


 昭和10年代の道路拡幅により正面の軒を3尺(約91センチ)切り落としているので外観のイメージは少し変わっているそう。 例えるなら前髪を切り過ぎてしまった感じ?

旧出島神学校

2010-01-15 07:10:04 | 福岡・長崎・佐賀


 空色に塗られた明治の洋館。 伸びやかなフォルムが涼しげですが、調べてみると当初の姿は現在のそれとはだいぶ違ったみたいです。 明治11(1878)年に英和学校として建てられたのがアーチ窓のある西側(向かって左側)の切妻屋根の部分という事でかなり小さめな建物からのスタート。 英和学校が閉鎖された後は神学校~宣教師宿舎と転用され、明治23~25(1890~92)年頃にベランダのある中央部と東側の切妻屋根部分が増築されてほぼ現在の姿になりました。 明治の末頃から民間の眼科や外科病院になっていたものを昭和47(1972)年に長崎市が買収し、その後の解体修理で大正末の震災で落ちたままになっていた塔屋上部などが復元されたそうです。  長崎県長崎市出島町  09年12月下旬他  







 

 以前は内部撮影不可(有料展示館だった為)でしたが2階には上がれたように思います。




 中央部分の1・2階全ての部屋にマントルピースがあるそう。


 









 4年半ぶりの長崎訪問でしたが出島周辺は整備が行き届いた様子でした。

杤木ビル

2009-11-19 07:10:04 | 福岡・長崎・佐賀





 造船と船舶代理業を行う杤木商事の本社屋として大正9(1920)年に建設。 ちょっと見た限りでは2階と3階の窓の間に菱型のタイル装飾があるのが目に付く位のシンプルな建物ですが、面白いのは表と裏、2か所に玄関が備わっている点。 それも表側(道路側)よりも裏側(海側)の玄関のほうが横幅が広く、上部の装飾も凝っていて堂々としています。 資料によると裏玄関には風除室まであるようなのでどうやら正式の玄関はこちらになるようです。 建物の上に架かる若戸大橋(開通・昭和37年 1962年)により若松と戸畑が短距離で結ばれ陸上での往来が頻繁になるまでは、船でこの建物の裏手に乗り付けるのが日常の光景だったのでしょうか・・・?  福岡県北九州市若松区本町1-15-10  05年04月下旬他