京都のA邸

2013-06-30 18:57:40 | 京都・兵庫


 京都御所に接した烏丸通から少し西へと入った住宅地にあるこの邸宅は大正11(1922)年の建築。 京都帝国大学の電気工学科教授であったA氏が、同僚の建築学科教授・武田五一に設計を依頼して建てたものだそうです。 台所には「万能電気料理台」なるものが設置され玄関にはラッパ型のドアホンが装備されるなど、電化住宅を試みた実験的で野心的な住宅でありました。  京都府京都市上京区  13年04月中旬

 ※参考『フランク・ロイド・ライトと武田五一 日本趣味と近代建築』 2007

 ※個人邸ですので見学の際はご配慮願います。



 粗く仕上げたモルタル壁で木造住宅の様に見えますが、実は鉄筋コンクリート(RC)造の住宅。 RC造の個人住宅としてはかなり初期のものになります。


 家主のA氏は武田と仲が大変良かったと伝わっています。




 設備の中には自動ドアという記録もあるそうですが、現代のいわゆる自動ドアとは意味が少し違いリビングで玄関の施錠が出来るという程度の物だったらしい。


 「電化住宅 大正時代」でググると日本の電化住宅の先駆けと名前が出てくる芦屋の旧山邑邸(大正13年・1924)。


 同じく名前が挙がる名古屋の旧川上貞奴邸(大正9年・1920)。 日本初の女優といわれる川上貞奴が電力王・福沢桃介と暮らした邸宅です。

旧武田五一邸離れ

2013-06-26 19:21:50 | 京都・兵庫


 京都を代表する建築家・武田五一(1872~1938)の自邸の離れとして昭和4(1929)年に建てられ、武田没後は武田未亡人の終の棲家となった建物。 母屋は昭和30(1955)年頃に現在のこの建物の持ち主であるS家が購入しましたが同37(1962)年の火災で焼失、その後に武田夫人が亡くなった為にこの離れもS家が購入しました。 昭和47(1972)年に大規模改修が行われ内部は旧情を留めていないそうです。  京都府京都市北区  13年04月中旬

 ※参考『京都市の近代化遺産』 2006
    『関西の近代建築 ウォートルスから村野藤吾まで』 1996

 ※個人邸ですので見学の際は十分にご配慮願います。



 東面から。 この離れは元は製図室であったという。


 西面に回ると窓には幾何学模様のステンドグラスがありました。


 壁には青紫色の装飾タイル。


 武田五一は包容力があって人間的にも優れ、建物の実施設計を弟子達に任せて自由にやらせる事も多かったという。 中でも松本儀八(1888~1973)に対しては一際信頼が厚く、武田自邸の実施設計も松本に委ねているそうです(焼失した母屋部分、この離れへの関与は不明)。 松本は武田が教授を務めた京都高等工芸学校時代の教え子であり、大正14(1925)年に開設された大林組住宅部の部長でもありました。

革島医院

2013-06-25 18:35:48 | 京都・兵庫


 蔦の絡まるトンガリ屋根のこの建物は昭和11(1936)年に建てられた個人医院。 建築が趣味であった施主(初代院長)が留学先で見たドイツの城郭をモデルとして半年間をかけて自ら図面を引き、引き直す事30回の後に「京都あめりか屋」に発注し、その案を元に図面の修正が行われ完成したのだそうです。 平面は中庭のあるロの字型で円筒のある北側(写真向かって左側)は住居で南が病院部分、その病院部分の2階は入院患者用の病室になっているようです。  京都府京都市中京区麩屋町通六角下る坂井町470  13年05月中旬

 ※参考 『京都の洋館』 2004
     『京都の近代化遺産』 2007



 北西から見た外観。 木造2階建て(一部3階)で円筒部分の1階は応接室に充てられています。 右隣に新しい建物があるのでここはもう住居だけの使用かも。


 

 玄関扉は新しそうですが菱形デザインのステンドグラスは建築当初の物でしょうね。


 ブラケットも古そう。


 診察室には初代院長がドイツから取り寄せた医療器具もあったという。 今もあるのでしょうか。
 

 避雷針はアールデコ風。


 三角の切妻を見せるこの部分は階段室になっています。


 京都あめりか屋の設計担当は首藤重吉という人物。


 蔦の葉が風にざわめく姿はまるで建物に生命が宿っているかのような錯覚を抱かせる。

旧八幡郵便局

2013-06-22 16:15:37 |  滋賀県


 明治42(1909)年に当地の素封家・小西家によって建設され、大正10(1921)年に既存の町屋の前面を増改築する形で完成した郵便局舎。 設計は近江八幡を拠点に活躍した米国人建築家(後に帰化)W・M・ヴォーリズによるもので、昭和36(1961)年に郵便局が移転した後は一時的に別の用途に使用され、その後は長い間放置され玄関部分が取り壊されるなど建物は荒れていました。 しかしその状況を危惧する有志達6名によって始められた保存運動によって少しづつ整備・再生工事が行われ、現在は広く一般に開放されるまでの状態に戻っています。  滋賀県近江八幡市仲屋町中8  07年11月下旬他

 ※参考『ヴォーリズ建築の100年』 2008
    『湖国のモダン建築』 2009



 正面外観。 スパニッシュに和風を加味した折衷様式になるそう。


 平成16(2004)年に復元された玄関(庇)部分。 他の部分と見比べるとまだ少し新しい感じが残っていました。


 ここにも円弧状の庇。


 軒の一部が途切れ、その部分を破風状に立ち上げる。 中央の装飾は…


 関西学院の本部棟(昭和4年・1929)などに似たものでした。


 こちらは経済学部。


 旧八幡郵便局に戻って室内の木製カウンター。


 内部も自由に見学出来ます。


 天窓があって奥の方も明るい。






 この部屋は無料の休憩所になっていました。




 郵便局時代の窓口。


 

 ドアノブは紫色のクリスタル。




 室内にはアンティークショップがあって絵葉書なども売られています。


 室内を通り抜けて建物裏手へ。


 2階への階段。




 上っていく。


 クランクを抜けて。




 天窓部分。


 2階は主に電話の交換室で、現役当時は10人余りの若い女性がここで働いていたそうです。


 今は各種資料展示室。




 

 活気に満ちた華やかな仕事場だったんでしょうね。
 

 ヴォーリズの結婚式の写真が飾られていました。 大正8(1919)年、夫・メレル38歳、妻・満喜子35歳。 東京の明治学院チャペルでの幸せの一コマ。




 局長の小西氏は、建築家になる前の英語教師時代のヴォーリズの教え子でした。
 

 ヴォーリズ建築を愛する人たちの手により、これからも守られていきます。

京都大学 文学部陳列館

2013-06-05 20:25:14 | 京都・兵庫


 京都帝国大学の拡張期(大正3~11年頃)を代表するネオバロック風の建物で、国史・考古・地理・美学等に関する分野で収集した資料を収蔵・管理する為の建物(大正3年築・1914)。 当初はL字型の平面プランを持つ建物でしたが大正12(1923)、同14(1925)年及び昭和4(1929)年と3度の増築を重ねて全館完成し、ロの字型の平面プランへと変わりました。 しかし建物の狭隘化や老朽化により資料の活用に次第に困難をきたすようになり、昭和61(1986)年に新たな博物館が完成すると資料はそちらへと移転され、その際にこの建物も背面側が半分ほど撤去され再びL字型の平面プラン(但し当初とは逆向き)へと変わりました。  京都府京都市左京区吉田本町(京都大学吉田キャンパス内)  12年12月上旬他

 ※参考『京都大学建築八十年のあゆみ』  1977
    『近代名建築 京都写真館』 1996



 レンガ造ですが外壁にモルタルを塗り、目地を切って石造風の仕上げとしています。


 鍵がかかっていて中には入れず。


 軽やかで華麗な装飾です。




 玄関頂部のキーストーン(要石)風装飾。


 玄関ポーチの照明台座を真下から見上げる。






 建物の両端には三角形のブロークンペディメント。


 ぺディメントの中央には楕円窓。


 植物の緑と上手く調和していてお洒落上手です。




 正面の櫛形のペディメントでは丸窓になっていて変化を加えています。


 建物の設計は京都大学建築部創設(明治39年・1906)と同時に初代建築部長に任命された山本治兵衛と、山本没後に建築部長を引き継ぐ事になる永瀬狂三の手によるものです。

鹿児島カトリック・ザビエル教会旧聖堂

2013-06-02 19:51:18 | 福岡・長崎・佐賀


 宣教師フランシスコ・ザビエルが日本へ渡来してから400年にあたる昭和24(1949)年に鹿児島市内に建てられた木造の聖堂。 建物の老朽化、及びザビエル渡来450年祭の折にコンクリートの聖堂に建て替えられるべく平成10(1998)年に解体されましたが、部材は福岡県宗像市の「福岡黙想の家」の敷地に運搬されて保存、平成19(2007)年に着工した復元工事が苦難の末に今年完成して聖堂は現代に甦りました。  福岡県宗像市名残1056-1  13年04月下旬

 ※参考『聖堂再生』 2007



 木造の聖堂は塔までの高さが21メートル。


 「聖フランシスコ・ザビエル カトリック教会」。


 この聖堂は2代目の建物にあたり、初代の石造の建物(明治41年築・1908)は昭和20(1945)年4月の鹿児島空襲で外壁だけを残して全焼したという。


 鹿児島市はザビエルが初めて日本に上陸した歴史的な場所でキリスト教信者にとっては聖地とも呼べる場所。 ザビエル渡来四百年を記念して海外巡礼団が訪れる予定を控えていた為、戦後すぐに労力と知恵を結集して聖堂は再建されました。


 オレンジがかった赤屋根が飛び切り目映い。


 アーチ型の高い天井。




 終戦直後で物資も不足する中、信徒や信徒以外の若者も再建に加わり、一面焼け野原の中でも明日への希望を夢見て作業に従事していたと伝わります。






 この聖堂の設計者は当時の神父の七田和三郎と衛藤右三郎という建築家。 衛藤は大連市・南満州工業専門学校建築学科を卒業し中村宗像建築事務所(中村與資平・宗像主一)に入所、終戦後は鹿児島で最初の設計事務所を開設した人物という。




 2階へと上がってみます。






 火の点いたロウソクを模したようなガラス窓です。


 賛美歌も響きそう。






 すりガラスの模様が四葉のクローバーのようにも見えますね。






 耐震の為の鉄骨がサイドに張り出す。




 モルタルによる側面窓の装飾。


 側面出入り口。


 今度は山間の町から平和を見守ります。