2012年を振り返る

2012-12-27 07:14:20 | その他・雑記

 元旦は鹿児島にいました


 窓の外には桜島 


 山鹿の芝居小屋は煌びやか


 邑久町虫明にて 


 真壁の奉安殿には十六菊花紋


 こんな擬洋館を見たり


 諏訪では街歩き


 慶應義塾YMCAチャペル


 長野宇平治の遺作に時も忘れて立ち止まる


 登山鉄道にゆられて箱根へ建築散歩


 曽禰中條のモダニズム


 見慣れていたはずなのに見惚れていた


 2度目に見た時は更地になっていた稲田駅前の個人邸。


 トイカメラ風撮影でお遊び


 上田の洋館付は格調高く


 高台からちょっとだけ見えた小諸の洋館


 信濃町の慶應


 美しきスコットホール


 この配色が好き


 風車の国の大使公邸


 川越で息を呑む


 海岸寺ではこれ発見


 突飛なファサードに驚きつつ


 廃墟嗜好もふつふつと


 ここだけ何故か変化球


 赤レンガに花が咲く


 かつての警察署でした


 今は縫製工場?


 久しぶりの高知県


 近道しようとして帰り道で田んぼに落ちたトコ


 石灰業者密集地


 南国の一番星


 於 聖パウロ教会


 和み処だね


 少しずつだけど確実に変わっている町


 自家設計の活版所


 高槻の階段教室はヴォーリズさん


 ステンドグラスが美しい吹田の武田五一


 北を向いたサンルーム


 大正時代の学校建築


 我が家にとって所縁のある土地


 吉武東里の作品らしい


 はしゃぎ声が聞こえてきます


 静謐な小空間


 プロローグ


 扉の向こうに明治が見えた


 函館公園にて


 カギ落してますよ


 なんか寂しいね


 おいでませ東北


 郡山の学校建築


 福井県もお久しぶり


 櫻谷文庫


 いい場所見つけた


 一応、加古川の旧郵便局


 兵庫は近代建築の宝庫


 円筒好きを確認する


 西宮まちたび博にお世話になりました


 線路の近くで見つけた下見板


 オープンアーキテクチャーには今年もお世話になりました


 某講堂内にも初めて入れた


 クリスチャンではないけれども 


 西脇の近代和風建築


 京都にも何度か足を運びました


 美浦の廃物件


 前田侯爵邸の新たな一面


 やはりこの配色


 螺旋のある擬洋館


 4年に1度の公開の為に東大阪へ


 神戸の無料休憩スポットはここです


 エアトンが私のヒーロー


 木子七郎物件


 不本意ながら内部見学してみたら意外に凄かった


 元は競馬場


 新しい朝が始まりました


 これも解体されるの?


 カフェにもなってる小田原の和風建築


 ネットにはあまり出て来ない京大の大倉三郎作品。


 京都の謎ビル


 『近代建築の夜明け』に昔の写真が載ってるね


 カッコいい


 校庭を万人に開放しましょ


 改めて見てみると色々な発見があるもんだ


 オイラもそろそろ疲れたよ、若手の台頭に期待したい


 今は大使館公邸


 復元なった東京駅をやっと見てきました


 クリスマス・イヴ


 この辺も変わったね


 日本の原風景を訪ねて


 今年も1年ありがとうございました これから1月6日まで旅に出ます 皆様良いお年を!  

金透記念館

2012-12-16 18:40:38 | 南とうほく (宮城・山形・福島)


 明治6(1873)年に盛隆舎として開校した郡山小学校が、増大する児童を収容する為に明治9(1876)年におよそ1年の歳月をかけて完成させた和洋折衷校舎。 当初は正面2階建て・桁行31間の本館の両端に平屋の袖校舎が附属する「コ」の字型の平面プランを持った建物で、棟梁は増子儀三郎・宗形彦八の2名、建築費は4964円(当時)ほどでありました。 完成直後の明治9年6月には明治天皇の東北巡幸に際して2階東端の礼法室が休息所として使用され、昭和8(1933)年の校舎改築の時にはこの礼法室を含む東側10間が切り離されて曳家、解体された正面玄関・ポーチ部分が中央に取り付けられ建物としての体裁を整えられました。 その後、老朽化により解体され昭和53(1978)年に鉄筋コンクリートで復元、正面上下の玄関だけが原型のごく一部として残されているようです。  福島県郡山市堂前町5-21  07年11月上旬ほか

 ※参考『ふくしまの西洋造』 1977
    『明治初期の擬洋風建築の研究』 1999



 棟梁の増子儀三郎は学校建築掛(係)の一人であった柏木喜兵衛に伴われ京浜方面の洋風建築を見学して建設に当たった。 明治9年当時、福島県内にはこれほど洋風の建築は学校建築を問わず1棟も存在していなかったという。


 多角形のベランダに入母屋の屋根を載せたので角の部分が三角形に突き出しています。


 和風建築に見られる懸魚も付く。


 柱頭の野暮ったいデザインも逆に微笑ましい。


 昭和7(1932)年頃の姿。 『ふくしまの西洋造』より。

京都大学工学部 建築学教室本館

2012-12-15 16:51:54 | 京都・兵庫


 京都大学は明治30(1897)年に第三高等学校の敷地であった現在の本部構内に、京都帝国大学理工科大学(後の理学部・工学部)として設置されたのが一般的な始まりとされます。 その後、法科大学・医学大学、文科大学が順次設置され、分科大学制が学部制に変わった後は経済学部の設置と続けられました。 工学部に建築学科が開設されるのは大正9(1920)年の事、創設委員で学科主任教授であった武田五一(1872~1938)は自ら建築設計顧問に就任し、セセッションに代表される新しい建築意匠の建物をキャンパス内に設計していく事になります。 写真の建築学教室本館は大正11(1922)年に竣工したもので、京都大学における最初のRC造建築であり初めて瓦屋根を持たない建築の出現でもありました。  京都府京都市左京区吉田本町36-1  12年12月上旬

 ※参考『京都大学建築八十年のあゆみ 京都大学歴史的建造物調査報告』 1977 



 玄関上部の湾曲した壁面とバルコニー。




 小豆色のタイルとチョコレート色のタイルで模様を描いています。


 玄関を縁取る卍。


 バルコニーは両端にもありました。






 貼り紙を読むと通常は閉鎖されているようです。




 中を覗くと緩やかにカーブした階段が。


 上がってみたい衝動に駆られます。


 

 裏に回ってみました。




 この半円にさっき表から見た階段が収まっています。


 窓にはクローバーをデザインしたようなステンドグラスも嵌まっていますね。


 こちらも同じく。






 

 東側に渡り廊下で繋がった建物があります。


 建築学教室東別館(昭和12年築・1937 設計・大倉三郎)になるのでしょうか。


 昭和7(1932)年、還暦を機に武田五一は京大教授を退官。 以後は愛弟子であった大倉三郎などが跡を引き継いでキャンパスの拡充が図られていく事になります。

旧亀田町役場

2012-12-08 04:24:08 | 山梨・新潟


 昭和4(1929)年に町役場として建設され、平成2(1990)年に役場が移転した後は亀田郷土資料館として使用される。 その資料館も今年に入って新築移転、この建物は来年度に取り壊される事が決定しています。  新潟県新潟市江南区亀田新明町1-2-3  12年11月下旬



 建物に入れるのは今月23日がリミット。 夏頃から訪問を計画していましたが、ようやく最近になって見に行く事が出来ました。
 

 建物を囲う塀にもアールデコを感じます。 


 公開しているのは土日だけのようです。 もう何日もありませんね。




 北東面。




 階段室と思われる部分。 ささやかな装飾も見えます。




 秋の終わりが近づく。


 最後の大仕事、市民プロジェクトとして芸術イベントが開催されていました。


 木製のカウンターが存在感を放つ。 脇の階段は使えません。


 内部撮影は自由。 思い出としてドンドン撮って下さいと言って頂けました。




 亀田は「芦沼」と呼ばれ「地図にない湖」とも称された土地。 先人たちが水や土と闘ってそれを乗り越えてきた歴史があり、今回の作品のテーマもその記憶再生となっているようです。 




 中央の階段を使って2階に上がります。


 虚飾を廃した実用本位の力強い造形。




 かつての議場。


 モールディングも手が込んだものになっていました。


 隣りの部屋に移ります。




 記憶の海へと漕ぎ出していく。


 水害を克服してきた歴史も甦る。






 玄関ポーチ上に掲げられていたと思われる「亀田町役場」の標示板。


 議場を写した古写真も飾られていました。


 役場風景。


 散りゆく間際の鮮光。




 日帰りの強行軍でしたので帰る時間が近づいてきていました。








 入れ替わり立ち代わりで見学者が訪れていました。


 冬の気配が冷たく街を包み込む。

旧柳原学校

2012-12-07 19:29:48 |  滋賀県


 日本初の近代的学校制度を定めた学制の発布(明治5年・1872)から4年、明治9(1876)年12月に新儀村(現在の高島市新旭町)の太田神社境内に建てられた小学校。 明治39(1906)年に近くに尋常高等小学校が設立された事から学校としての役目を終え、以降は地区の区長事務所として使用されました。 昭和34(1959)年に擬洋風建築としての価値が認めら県文化財の指定を受け、同45(1970)年に近江風土記の丘の建設に伴い現在地に移築されました。   滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678(近江風土記の丘)  07年11月下旬

 ※参考『街角ルネサンス 湖国に息づく西洋建築』 1986
    『明治初期の擬洋風建築の研究』 1999
    『湖国のモダン建築』 2009



 建物右手に入母屋屋根の玄関を持つ和風部分があるのは、校舎建築に際して太田神社社務所の古材を使用したため。


 学校建設にあたっては地域住民の教育に対する熱心な要望が結実したものとみられる。 明治7(1874)年3月25日から建築費用の募金が始められ、翌8年5月には255円14銭集まり建設に至った事が当時の資料から窺い知れます。 


 棟札から工人(棟梁)は清水吉平という事が判明。




 昭和35(1960)年に内外の修理が行われ、移築時にも当初の姿へ復原がなされています。


 2階へ上がる階段はハシゴの様な急角度、しかも微妙に湾曲していて子供たちの昇降には向きません。 2階は戸長などが詰めていたものと推測されるようです。




 和風部分は畳敷き。




 2階にはベランダが廻り屋根には太鼓楼。 昭和3(1928)年鋳造の鐘も太鼓と共に吊るしてあったそうです。




 文化財に指定されなければ残らなかったといわれるほど修理前は老朽破損が酷いものでした。


 棟梁の清水吉平は恐らく京都へ洋風学校・役場の視察へ赴き、見聞してきた事を自分なりに解釈してこの学校建設に携わったと見られています。 教育へとかける地域の思いが一つになってこの建物に込められているのを感じました。

金善ビル

2012-12-04 19:38:25 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 明治9(1876)年に金居善太郎により創業された金善織物は、大正6(1917)年にいち早く力職機200台を導入、職工170人を抱えるなど織物業で栄えていた桐生市内でも有数の規模を誇りました。 このビルは善太郎の長男である常八郎が貸し店舗として大正10(1921)年頃に建てたもので、地方都市ではまだ珍しかった鉄筋コンクリート(RC)造で建てられました。 金善織物は太平洋戦争さなかの昭和19(1944)年に企業の統合整理の対象となり廃業しましたが、桐生繁栄のシンボルであったこの建物は今も昔とほぼ変わらぬ姿で街を飾っています。  群馬県桐生市本町5-345  09年11月下旬・10年06月上旬

 ※参考『群馬県近代化遺産総合調査報告書』 1992
    『颯爽たる上州 群馬の近代化遺産』 1995
    『シルクカントリー 群馬の建造物史』 2009
    『群馬県の近代和風建築総合調査報告書』 2012



 玄関上を飾るモダンな装飾。


 地上4階・地下1階、1階部分は石張り・2階より上をタイル張りにして外観に変化をつけています。


 パラペットにも装飾がありました。


 屋上の塔屋に見えるのは煙突だそうです。


 こちらはかつての金善織物の居宅兼事務所。 中央3連丸窓の玄関ホールと脇の応接室は大正10年頃(?)、向かって右側の居宅が明治後期頃(?)、左のサロンが明治前期とされるようです。 サロンは吹き抜けで畳敷きのギャラリーが廻るという。


 白色と相俟って物凄いインパクトのある「顔」をしています。


 東側には道路を挟んでノコギリ屋根の工場があり主屋と地下で結ばれていました。 今は工場は無くなっています。


 現在この建物は個人邸となってます。 見学の際は十分にご配慮願います。

無鄰菴

2012-12-02 20:01:28 | 京都・兵庫


 無鄰菴は明治の元勲・山縣有朋(1838~1922)が京都に築いた別荘の名称。 敷地の大半を占める池泉回遊式庭園には木造2階建ての母屋と茶室、そしてレンガ造の洋館の3つの建物が設えてあり、現在は京都市の管理の下、一般に公開されています。  京都府京都市左京区南禅寺草川町31  12年10月下旬

 ※参考『京都府の近代和風建築』 2009
    『京都モダン建築の発見』 2002
    『近代京都の名建築』 1994  ほか



 山縣有朋は「無鄰菴」と呼ばれる別邸を生涯に渡って3度建設している。 郷里・長州の下関、京都の木屋町二条、そして南禅寺に近いこの場所に建設したのが明治27~29(1894~96)年といわれます。


 表門をくぐって受付へ。


 庭園に入って直ぐ右側にある洋館は明治31(1898)年の築。 設計者の新家孝正は旧川崎銀行水戸支店旧学習院初等科正堂等を手掛けた建築家。


 階段部分。






 レンガ造とは思えぬ土蔵風の建物。 山縣は洋館を防寒室として建てたとしており、また外観も庭園と不調和である為、植栽で隠すと発言しています。 


 洋館の入口へ。


 蔵の扉といった感じです。


 

 展示室になっている1階は煉瓦むき出しのまま。 




 洋館の造り。




 階段室は外から見ると意匠が微妙に異なっているのが特徴的。 増築か改築部分のような気もしますがそういう資料は見当たりませんでした。


 突き当りが主室で左が控えの間になります。




 主室。 金碧花鳥図障壁画で飾られたこの部屋で明治36(1903)年4月21日、午後4時から2時間に渡って日露開戦を決めた「無鄰菴会議」が開かれた。 出席者は山縣の他に伊藤博文・桂太郎・小村寿太郎の3人。




 折上げ格天井からシャンデリアが吊り下がる。


 この部屋は薄暗い上にフラッシュ撮影も禁止。 私が使っている名刺サイズのコンデジで手持ち撮影だとこれが限界です。


 一つだけソファの色が違うのは何故でしょう?








 狩野派といわれる障壁画。 これ以上ズームにすると手振れが酷くて寄れません。。


 こちらは控えの間。


 当時の椅子でしょうか。




 洋館を出ます。


 茶室は明治28年に移築してきたものらしいです。




 庭園を歩く。


 10月末の京都の空。






 明治28年築の主屋。 明治31年と大正期に改造されているようです。




 庭園は山縣が自ら設計・監督したもので、造園家・7代目小川治兵衛(1860~1933)が作庭したもの。 東山を借景にし疎水の水を取り入れた美しい庭園です。