中央労働金庫小田原支店

2013-07-31 18:53:33 |  神奈川県


 小田原城址公園の東に位置し、国道1号の曲がり角に建つこの建物は大正末から昭和初期頃にかけて明和銀行本店として建てられたもの。 正確な建築年代は分かりませんが明和銀行は休業した小田原実業銀行の整理依託を受けて昭和2(1927)年に新設された銀行なので、遅くともその年までには建物は完成していたものとみられます。 明和銀行は昭和16(1941)年に一県一行主義により横浜興信銀行(現在の横浜銀行)に営業譲渡、建物は同行の小田原支店となりましたが昭和49(1974)年の移転に伴い神奈川県労働金庫の小田原支店へと引き継がれます。 さらに平成13(2001)年の首都圏8労働金庫の合併・統合により現在は中央労働金庫の小田原支店へと再度名称が変えられています。  神奈川県小田原市本町2-1-23  08年03月上旬他

 ※参考『神奈川県の近代化遺産』 2012



 角地にある建物ですが出入口は角隅にあらず南面と西面に設けられる。 写真は西面側です。


 2階まで伸びる付け柱。


 こちらが南面。


 車の往来の激しい所なので目の前に歩道橋があるのは仕方ない事でしょうね。


 付け柱の柱頭は出入口のイオニア式オーダーとは違ってます。


 銀行建築でありながら建築年のみならず設計・施工などの建築データも一切不明というのも珍しい気がします。 デザインの纏めかたも上手いと思うので、それなりの業者が建設に関わっているようにも思いますが…。

京品ホテル

2013-07-30 19:27:48 |  東京都


 一日平均で33万人もの乗車人数(2012年度・JR)を誇る品川駅前にかつて存在していたレトロホテル。 早稲田大学教授であった吉田享二(1887~1951)の設計、清水組の施行により昭和5(1930)年に建てられたもので、当初の客室は畳敷きで旅館形式の宿泊施設であったそうです。 戦後は米軍により接収され、その後に室内を和風から洋風へと衣替えして近年までホテルとして営業を続けていました。  東京都港区高輪4-10-20  09年03月中旬

 ※参考『東京 建築懐古録Ⅰ』 1988
    『港区の歴史的建造物』 2006

 ※現存せず。



 第一京浜(国道15号)を挟んで京急・JR両品川駅のほぼ正面という抜群の立地条件にありました。


 吉田享二は戦後に建築学会会長(1949-50)も務めた建築材料学の権威。
 

 内・外観とも度重なる改修を受けており、特に昭和63(1988)年には外壁タイルを含めて室内にも大改装が行われ当初の面影を残すのは階段ホールくらいだったともいわれます。


 平成20(2008)年10月の廃業決定後も従業員達が自主的に営業を続けるという異常事態に発展、従業員達に対する建物明け渡しの強制執行が行われたニュースは記憶にまだ新しい。


 建物は完全に解体され、現在は跡地にパチンコ屋が建つ。

旧大谷公会堂

2013-07-29 18:39:41 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 城山村在郷軍人分会により公会堂として昭和4(1929)年に建設。 村議会や芝居、演劇の会場などとして使われました。 昭和29(1954)年に城山村が宇都宮市に吸収合併されてからは宇都宮市の管轄に置かれ、現在まで同市の倉庫となっています。 建物は当地特産の大谷石を積み上げた積石造の平屋建て、正面を飾る4本のピラスター(付け柱)が特徴的な外観を作り上げています。  栃木県宇都宮市大谷町1313-12  08年01月中旬

 ※参考『栃木県の近代化遺産』 2003
    『大谷石百選』 2006



 正面玄関。 古写真を見るとかつては玄関前に3段の石段がありました。


 大谷石は凝灰岩の為、風化しやすいという特性を持つ。 特に垂直面よりも水平に用いた部材は水分が中で凍結し膨張・収縮を繰り返すのでその度合いが激しいそうです。




 設計者は県内で最初の建築設計事務所を開設した更田時蔵で、鳥取出身の更田は早稲田で佐藤功一の薫陶を受けた人物という。 以前紹介したこの建物も更田の作品。 


 中央の2本のピラスターは下からの通しになっており、一番高い部分まで7.4メートルにもなるという。

関西日仏学館

2013-07-27 18:53:53 | 京都・兵庫


 昭和2(1927)年に京都・東山の九条山に日仏の文化交流とフランス語教育の為に設立された関西日仏学館が、昭和11(1936)年に現在地に移転してきた時に建てた2代目の建物。 基本的な設計はフランス人のレイモン・メストラレが担当し、大阪に設計事務所を開設していた木子七郎が京都の気候風土に合わせて実施設計を行っています。 正面中央の2階部分に曲面をつけて張り出させ、同じく曲面のついた柱型を配して直線と曲線を上手くミックスさせるなど、古典的な秩序の中にモダニズムを織り込む手法は現在においても古さを感じさせない建物とする事に成功しています。  京都府京都市左京区吉田泉殿町8  12年10月下旬他


 ※参考『京都の近代化遺産』 2007ほか



 東大路通を挟んで京都大学の吉田キャンパス(本部)と相対する。




 RC造地上3階、地下1階建て。




 四隅も丸い。


 12月に入って木々が落葉した時に撮りました。


 クリスマスツリーも飾られている。


 1・2階は主として教室や図書室などの学校施設、3階は館長の居住空間でした。




 現在は1階にはカフェがあってフレンチも気軽に楽しめるようです。


 玄関入って直ぐの床に敷かれていたモザイクタイル。 色使いがお洒落~。


 壁には何やらプレートが。


 建設にあたっては大阪商工会議所会頭や貴族院議員も務めた稲畑勝太郎(1862~1949)の存在が大きく、彼の呼び掛けで多額の寄付金を集めたようです。


 竣工当初は木子の友人であったレオナール・フジタ(藤田嗣治 1886~1968)が絵画『ノルマンディーの四季』を描き寄贈し、1階に飾られていたともいう。


 木子七郎の家系は元来、京都御所出入りの棟梁の家柄。 彼はこの建物や日本赤十字社の支部建物の設計などにより昭和12(1937)年にフランス政府からレジオンドヌール勲章を授与されました。

松山大学温山記念会館

2013-07-23 19:29:58 | 京都・兵庫


 松山高等商業学校(現・松山大学)の創設者・新田長次郎(1857~1936)が嫡孫である利國の為に昭和3(1928)年に建設。 長次郎の長女カツの娘婿である建築家・木子七郎(1884~1955)に設計を依頼して建てさせたスパニッシュと和風を組み合わせた瀟洒な洋館です。 長年に渡って新田邸として用いられてきましたが平成元(1989)年に松山大学に寄贈され、現在は学生の研究活動の場などとして活用されています。 ちなみに「温山」(おんざん)とは長次郎の雅号から命名されたものになるようです。  兵庫県西宮市甲子園口1-12-31  09年1月下旬ほか

 ※参考『歴史遺産 日本の洋館 第五巻 昭和篇Ⅰ』 2003
    『銀座八丁目の75年 新田ビルの建築記録』 2007
    『日本のステンドグラス 宇野澤辰雄の世界』 2010
    『萬翠荘物語』 2012



 JR甲子園口から歩いて5分、閑静な住宅地の小川沿いに建物が見えてくる。


 長次郎の長男であった利一は若くして亡くなり、その息子である利國も体が弱かった為、気候温暖で空気の良いこの地を選んで建てられたという。


 玄関脇の小窓にはビン底のように見えるクラウンガラス。


 イスラム風のタイルが玄関周りに貼られています。


 見学会に参加して内部へ。
 



 こちらの足元にもイスラム風タイル。


 ペンダント照明です。


 まずは1階のセミナー室へ。


 

 

 床の模様が立体的に見えてくる。




 各部屋や廊下にはセントラルヒーティングが設置されグリルにも手の込んだ装飾が施されていました。


 門の外からも見えていた玄関横の3連アーチ窓の部屋。


 半円のステンドグラス。




 鹿の頭の剥製がある造り付け(?)の家具。


 こちらのタイルもイスラム風ですね。




 隣りの部屋は元のダイニングルーム。


 重厚。
 

 暖炉風のセントラルヒーティングになるのでしょうか。


 左が新田長次郎。 長次郎は現在の松山市山西町の生まれ、二十歳を機に大阪に出て製革所に勤めた後に独立、安価で質の高い伝動用革ベルトの製造に成功したのを皮切りに事業を拡大して一代で巨万の富を築いた立志伝中の人物。 郷里を慕い、松山高等商業学校の設立の際には必要な費用を全額負担し、それは現在の金額に直すとおよそ30億円にもなるという途方も無い金額であったという。


 

 外套掛け?


 キッチンは現代的なものに変えられています。


 使用人用と思われる階段。 この建物には利國夫妻の他には女中が3人と男衆が1人の計6人が暮らしていたそう。


 1階の東南にある和室。




 和室にいると庭園を間近に感じます。
 

 

 

 玄関ホールに戻ってきました。


 ここに主階段があります。 写真には全く写っていませんが他にも見学者が多くて苦心しながら撮っています。。


 45度ねじれて立つ階段親柱。


 階段部分にはダイヤ柄のアーチ窓が並ぶ。


 2階の会議室。










 アール・デコのステンドグラス。 この邸宅のステンドグラスは大正12(1923)年に大阪に設立されたベニス工房によるものらしい。 日本のステンドグラスの歴史を開いた宇野澤辰雄(1867~1911)の流れを汲む工房です。


 南西の部屋。






 床の模様は一風変わったデザイン。


 先程の会議室の東隣りの部屋。




 廊下側にステンドグラスがあります。


 槲(柏・かしわ)の葉と実をデザインしてあるようですが…?




 くぐり抜けた先は和室になっています。




 

 丸窓と一枚板で作られた違い棚のバランス感覚が美しい。


 2階のトイレもチェック。


 

 

 ビリヤードルーム。 利國は外ではほとんど遊ばず、友人を家に呼んではビリヤードをするのが好きだったそうです。


 談話室も兼ねる。


 上流社会の嗜み。
 

 扉は市松模様。




 トップライトの照明のガラス板にも装飾がありました。


 小扉を開けると階段室。


 ささやかな仕掛けが楽しい。




 楽しい時間はあっという間に過ぎ去る。


 



 内部見学の時間は終了、外に出てきました。


 南面の様子。 複雑な造形を何とか収めたような印象です。


 

 壁泉がありました。


 雄羊の吐出し口。
 

 お庭を回って東面へ。


 

 建物完成の翌年に造られたという防空壕がありました。


 中へ入ってみます。


 



 お別れの時。 庭園と一体になったその姿は訪れる人々を今も魅了して止まない。

旧周防銀行本店

2013-07-11 07:23:45 | 岡山・広島・山口


 明治32(1899)年に柳井・岩国の実業家ら33名によって資本金30万円で設立された周防銀行の本店社屋として明治40(1907)年に建設。 銀行建築を数多く手がけた長野宇平治の事務所所員でもあった佐藤節雄が設計を行っています。 周防銀行は周防貯蓄銀行と日韓産業銀行を吸収合併して明治41(1908)年には資本金125万円を誇り県下最大の銀行となりますが、大正3(1914)年に起こった取付け騒動により休業に追い込まれ、昭和2(1927)年に同行は解散となり営業免許取消命令も受けました。 その後この建物は他行の支店として使われた後に市立図書館に転用、昭和62(1987)年からは町並み資料館兼観光案内所として使われるに至っています。  山口県柳井市柳井津442  09年9月中旬

 ※参考『山口県の近代化遺産』 1998



 木造2階建て。 2階中央にはバルコニーがあります。
 



 当初の出入口は中央ではなく向かって右側にあり、玄関ポーチの上にはチャップリンの山高帽のような形状のドームが載っていました。


 1階の旧営業室。




 金庫が残っていました。


 熊平金庫製。 明治31(1898)年に広島市に設立された会社で現在まで続いている企業です。








 2階へ上がってきました。 2階は会議室や頭取室になっていたとの事。


 こちらが頭取室でしょうか。






 カーテンボックスの装飾。




 1階へ戻ってきました。


 佐藤節雄は工手学校建築学科を明治34(1901)年に卒業、日銀京都出張所の工事概要に名が残り、長野宇平治の建築事務所を経て昭和期に独立し関西で設計事務所を構えていた人物という。


 道路拡幅により曳家され、その際に復元工事も受けているよう。 但し古写真と見比べると窓周りの装飾は大部分が失われ、屋根の正面中央にあった破風状の飾り(パラペット)も無くなっているのが分かります。

野村証券本店(旧日本橋野村ビル)

2013-07-02 07:08:05 |  東京都

 
 野村財閥の二代目・野村徳七(1878~1945)によって大正7(1918)年に設立された大阪野村銀行(現・りそな銀行)の証券部が同14(1925)年に独立し、その東京進出の足掛かりとして日本橋の袂に建築された建物(昭和5年築・1930)。 大阪を中心に活躍した建築家・安井武雄(1884~1955)の東京における第一作にあたります。 SRC(鉄骨鉄筋コンクリート)造地上7階地下2階、1階を五島産の砂岩貼りとし2~6階までをタイル貼りとした建物は量感に溢れ、預金証書や有価証券を保管するという使命を全うするに相応しい頑強さを見た目にも表しています。  東京都中央区日本橋1-9-1  09年03月中旬他

 ※参考『総覧 日本の建築3 東京』 1987
    『東京 建築懐古録Ⅲ』 1991
    『関西の近代建築 ウォートルスから村野藤吾まで』 1996
    『日本建築家山脈』(復刻版) 2005



 安井武雄は千葉県佐倉市の生まれ、東京帝国大学の建築学科を卒業(明治43年・1910)後は南満州鉄道建築課技師となり大陸へと渡る。


 同期14人の中で上から3番目と成績の悪くなかった安井が満州まで下らなければならなかったのは、不文律の伝統に反して卒業設計に木造の和風住宅というテーマを取り上げた為、教授達から反感を買ってしまったからだといわれています。


 大正8(1919)年、安井はかつての級友・波江悌夫の誘いを受けて大阪の片岡建築事務所へと転じ5年間在籍。 その間に手掛けた野村財閥の仕事から創始者・野村徳七の信頼を勝ち得て大正13(1924)年に安井武雄建築事務所を開設して独立します。


 様式に従う事を否定し「自由様式」という独自の作風を追求した安井ですが、この野村証券本店の設計に於いては施主側から変更案の逆提示を受けたもののそれを突っぱね、最終的には野村徳七の指示により安井の原案が通ったという逸話も残っているそう。 
 



 敗戦後の昭和21(1946)年から同28(1953)年まではGHQに接収され、「リバービューホテル」という名前で士官などの宿舎にあてられる。


 関東大震災後の着工、しかも地盤の弱い橋詰めでの工事という事もあり水漏れなど建設には幾多の難関にも直面する。 支柱には1本18トンという巨大な鉄骨を使用し、その見た目の逞しさから「軍艦」と称されるほどでありました。

琴平のT邸

2013-07-01 05:15:05 | 愛媛・香川


 創業は明治26(1893)年、体育用器具などの製造を行い県内でも有数の職工数を誇っていたという都村体育器械製作所(現・都村製作所)の経営者の自邸として大正14(1925)年に建設されたもの。 木造モルタル3階建ての建物は1階が和室で2階が洋室、そして3階には和室と洋室が設えてあるそうです。 当初は建物南側に店舗兼主屋があり、2階にはそこに繋がる渡り廊下がありましたが現在は両者とも撤去されてしまっています。 建物の主たる玄関口は撤去された主屋にあった為、この洋館には正規の玄関口が無いそうです。  香川県琴平町  10年08月中旬

 ※参考『香川県の近代化遺産』  2005

 ※個人邸ですので見学の際はご配慮願います。



 3階にはバルコニー。


 ステンドグラスが嵌まっています。


 建物から少し離れると寄棟屋根が見えました。


 窓枠は木製なのでしょうか。


 大工棟梁は本田正という人物。


 2階側面にある大きな開口(ガラス窓)が渡り廊下のあった部分になると思われます。