群馬県庁昭和庁舎

2013-03-23 19:16:00 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 昭和3(1928)年完成の旧群馬県本庁舎。 庁舎建築を得意とした佐藤功一による設計です。 昭和3年4月9日の県庁舎落成式後に3日間(4日間とも)に渡って行われた一般開放には約30万人もの見学者が訪れ、当時の群馬県民の4人に1人はこの県庁舎を見に来た計算になるのだそうです。  群馬県前橋市大手町1-1-1  13年03月上旬



 鉄筋コンクリート造3階建て・地下1階、横に長くて安定感のあるプロポーション。


 敷地はかつての前橋城の跡地です。


 3階中央部分にはバルコニー。 平面図を見るとこの部屋は正庁の間となっています。


 2階と3階の窓の間の装飾。


 

 建設費は当時の金額で79万円余り。


 

 屋上庭園・スチーム暖房・水洗式トイレ・押しボタン式自動消火器など当時の新鋭設備を誇る先進的な建物でありました。


 

 扉の上の植物模様のレリーフ。


 梁にも同じような装飾が用いられています。


 玄関ホールと中央階段。




 連なる曲線が美しい。




 平成11(1999)年の新庁舎建設に際してもこの建物は活用を前提に残されました。


 昭和61(1986)年の耐力診断では構造的に堅牢である事も判明しているそう。


 1階ロビーは休憩・談話室のようになっています。


 奥には昭和34(1959)年に購入したと説明書きのある金庫が置いてありました。


 当時の公金支払は現在のような口座振替ではなく現金を直接支払っていおり、支払いに必要な現金を毎日銀行から下ろしてこの金庫に保管していたそうです。




 

 建物の背面にあったこの区画は増築でしょうか。


 表とは打って変わって裏面は真っ白な姿でした。


 まるで水着の日焼け跡。


 玄関ホールに戻って外に出ようとしたらこんなプレートが目に付きました。


 「築廰紀功」? 漢文に見えてしまい読むのが億劫になりました。 「築庁起工」かも知れませんね…。


 背にした側にもプレートが。


 設計者名として佐藤功一、さらに建築顧問として徳永庸(佐藤功一の建築事務所の所員)の名前もありました。 木村武一については不明です。




 群馬県庁が初めて設置されたのは高崎でしたが明治14(1881)年に前橋に移転する事が正式に決定し、以来今日までその状況が続いています。


 後ろには33階建てと高層になった現・県庁舎が控える。

横浜の洋館

2013-03-21 20:45:47 |  神奈川県


 元町公園から少しばかり西へといった山手の尾根の支脈沿いに建っている木造洋館。 正確な建築年は文献にも書いてありませんでしたが、恐らく関東大震災後の大正末期から昭和初期頃に建てられたものと思います(個人的推察)。 以前紹介した同じ横浜にある小さな西洋館とは少しタイプの異なる建物ですが、玄関脇に半六角形の出窓を設置する構成は良く似ています。 表札には日本語の個人名(苗字)と横文字の企業名らしきが掲げてありました。   神奈川県横浜市南区  13年03月中旬

 ※個人邸と思われますので見学の際はご配慮願います。

 




新日本製鐵室蘭製鉄所 知利別会館

2013-03-14 19:36:54 | 北海道 その他のエリア


 新日本製鐵(新日鉄)の前身会社である日本製鐵の幹部クラス向け職員倶楽部として昭和15(1940)年に建設。 工事の発注額は当時の金額で100万円以上だったといわれます。 終戦直後の約1年半は進駐軍に接収され宿泊所にあてられ、その後は社内外の来賓の接待や従業員の婚礼の場として用いられているようです。  北海道室蘭市知利別町4-27-1  11年04月下旬


 ※参考『道南・道央の建築探訪』 2004



 道路からは少し高台になった丘陵地の途中に門を構える。


 新日鉄の他に日本製鋼所も抱える室蘭は「鉄の街」と称され発展してきた歴史があります。


 白壁が清楚な雰囲気。


 鉄鋼会社の建物でもこの建物は木造建築。 昭和15年という当時の社会情勢も関係しているのでしょうか。


 企業施設という事もあり勝手に敷地内に入る事も憚られたので少し高台から眺めてみました。


 時計塔とか教会建築の塔のようにも見えます。




 庭木の間から微かに見えた南面。 1階部分には応接室や談話室、撞球場など主に洋室があり、2階には大広間や和室があって内部は和洋折衷になっているみたいです。

旧前田利為侯爵邸洋館②

2013-03-13 18:47:46 |  東京都

 …前回からの続き
 

 階段途中にある装飾。


 2階ホールに上がってきました。 普通の邸宅では有り得ない広さです。


 赤紫色の絨毯が格調高い。


 まずは南東側の部屋から時計回りに見ていきます。


 庭園に面した南東の部屋は利為夫妻の寝室でした。


 前田家時代の家具や調度品は残っていなかったようなのでベッド等は全て再現品と思われます。




 絨毯が敷かれている部分は最初からその厚み分だけ低く作られていて床との段差を無くしています。


 暖炉は丸みを強調した柔らかなデザイン。


 

 西隣りは旧婦人室。


 

 葡萄唐草のレリーフだそうです。


 グリルのデザインは小菊。


 こちらも花柄に見えますね。


 

 緻密。


 窓の外はベランダになっていますが出る事は出来ません。


 隣りに移動して旧次女居室。


 前の2部屋に比べると随分狭く感じてしまいます。




 存在感タップリ。 ちなみにグリルに描かれた梅(梅鉢)は加賀前田家の家紋だそう。


 台座の天井レリーフは八芒星。


 一番南西の部屋は書斎でした。 ここはその前室にあたります。




 壁は床の間風。


 利為候の旧書斎。


 主の部屋に相応しい設えです。




 玉を抱いた龍の姿がありました。






 書斎の北側は旧長女居室。 ちょうど正面の車寄せの上の部屋にあたります。








 長女居室の隣りの部屋。 見るからに寒々しいこの部屋は物置か何かでしょうか。


 旧三男居室。




 廊下の窓から見ると建物の平面は中庭のあるロの字型をしているのが良く分かります。

 


 

 三男居室の北側は階段を挟んでフロアが半階低くなっています。 床の高い南側が家族の個室で、低い方の北側が主に使用人の部屋になっているようです。




 階段下の1階部分は非公開エリア。


 主階段よりは遥かに質素です。 


 一番北西にあたる部屋は旧会議室。


 お隣りのこの和室は旧女中部屋でした。


 中庭を通して向こうに見える縦長窓は主階段室の窓。


 この部分です。


 北東にもう一つ女中用の和室がありました。 この邸宅で暮らした前田家の家族は6人でしたが、使用人は住込みと通いを合わせて140人いたそうです。 想像していたのとは桁が一つ違いました。


 3階へ上がれる階段も通行禁止。


 この下も非公開エリア。


 イガイガしてる。


 旧三女居室。


 大食堂の上の部屋なのでラウンディッシュ。


 最後の部屋は旧浴室。 2階で一番最初に見た夫妻寝室と三女居室の間です。




 バスタブも何も無い部屋でした。


 左に見える階段上の透かし窓は仏教的なモチーフである宝相華唐草。




 階段を下ります。


 

 室内用のスリッパから靴に履き替える時に見つけた天井装飾。
 

 

 外に出て北面を見てみます。


 使用人用の裏玄関が二つ。
 

 

 厨房などのある地下部分。


 見上げた図。




 今度は南に回ってきました。


 当初は本郷に構えていた加賀藩前田家の上屋敷(大名屋敷)ですが、明治4(1871)年の廃藩置県により敷地の大半が収公(没収)されて文部省用地となり、そこに東京大学のキャンパスが整備されました。 それでもなお前田家は敷地の一角に屋敷を構えていましたが、関東大震災(大正12年・1923)の発生により東大本郷キャンパスの建物が壊滅的な打撃を受け、その復興計画の為に更なる敷地の必要性があった事から大正15(1926)年に敷地交換が行われこの駒場に移ってきたのでした。






 

 素朴な風合い。
 

 翼のあるライオンが上から睨みを利かしていました。


 利為の戦死後は土地・建物は人手に渡り、敗戦後は連合軍に接収され司令官官邸として使われました。 利為がこの立派な邸宅で家族と暮らしたのは十数年に過ぎなかった計算になります。

旧前田利為侯爵邸洋館①

2013-03-06 08:00:00 |  東京都

 
 昭和4(1929)年に旧加賀藩主・前田家16代当主の利為(としなり)の本邸として建設された洋館。 裏手に和館を配した和洋並立型の住宅となっています。 洋館はイギリスの中世後期ゴシック様式を簡略化したチューダー様式といわれる建築スタイルで、建てられた当時は東洋一の大邸宅と謳われました。  東京都目黒区駒場4-3-55  06年09月上旬他

 ※参考『お屋敷拝見』 2003



 敷地は現在、目黒区立の駒場公園となっています。


 正門の脇には門衛所。


 門衛所の脇の非公開エリアの奥には、前田育徳会事務棟(図書閲覧所 昭和3年築・1928)など3棟の建物も残ります。


 前田利為(1885~1942)は学習院から陸軍士官学校を経て昭和11(1936)年には陸軍中将、同17(1942)年にボルネオ守備軍司令官となるが搭乗機の墜落により帰らぬ人に。




 利為はイギリスでの生活を長く経験し、新邸の建設にあたっては外国人客をもてなすのにも相応しい建物を希望、洋館の設計を東京帝国大学教授の塚本靖(1869~1937)に依頼しました。


 建物の実際の設計は塚本の愛弟子で大正5(1916)年に東京帝国大学の建築学科を首席で卒業した高橋貞太郎(1892~1970)が担当しています。


 車寄せの天井照明。


 中へ入ってみます。


 主灯には唐草模様。


 右手の部屋は旧応接室。


 暖炉の上の大きな鏡が部屋を一層広く見せています。


 

 応接室の奥にはもう一つ小さな応接室がありました。


 

 この楕円の円柱状のものは暖房用のラジエーターカバー。


 女性的な繊細さ。






 

 柱頭はアカンサスをモチーフとしたコリント式。 イタリア産の大理石で出来てるそうです。


 旧応接室の隣りには小サロン。


 各部屋で意匠も全て異なります。






 大サロンが続いています。 境目の引き込み戸で客の数に合わせて部屋の広さを調節したようです。


 今度は大サロンから小サロンを見ています。




 

 グリルのデザインは唐草に梅? 和風チックですね。


 外はテラスになっています。


 葡萄と蔦の葉。


 

 どちらに行こうか。


 運命の分かれ道。
 

 右の扉から旧大食堂へ。


 鋳鉄製のフードが付いた白大理石の暖炉。




 ここだけ何故か近付けません。




 立入禁止の訳はこの暖炉の両脇のブラケットのある部分には金唐紙が貼られていたのでした。 金唐紙というと主に明治期の壁紙(技術)という認識でしたので、まさかここに貼ってあるとは思いもしませんでした。 ブログを書くのに調べていたら知った事なので肝心な部分の写真を撮っていません。。 


 暖炉の向かいの窓は緩くカーブしています。


 外から見るとこの部分。


 光のプリズム。




 この部屋は壁に木パネルを高い位置まで廻らせていて厳かな雰囲気です。




 大食堂の隣りは小食堂。 家族の日常的な食事はここで行われていました。






 造り付けの食器戸棚。 この戸棚の中には地下の厨房から料理を運ぶリフトが設けられています。


 ここにも葡萄の彫り物がありました。


 小食堂の外には裏の和館への渡り廊下があります。


 フェンスで遮られた空間なので外から見えるのはこれくらい(南面)。


 北側から見た渡り廊下。


 渡り廊下部分。 通常は非公開エリアで立入り出来ません。


 瓦屋根の和館が見えています。


 この階段を下りていけば和館。


 洋館の翌年に完成した和館。 こちらの設計は帝室技芸員であった佐々木岩次郎が担当しました。 和館は日常的な生活の場では無く、外国人の接待や雛祭り・端午の節句といった家族の伝統的行事を行う際に使われたそうです。 写真の量が多くなりすぎてしまうので今回は割愛。


 渡り廊下の途中にあった造り付けのベンチ。 夏場はヒンヤリして気持ち良さそうです。




 洋館の2階から見るとこんな感じ。 先程のベンチがあった所です。


 こちらも普段は非公開の壁泉。


 羊の口から水が出るのでしょうね。




 小食堂に戻ってきました。


 

 玄関ホールと一体となった階段広間。


 階段下はイングル・ヌックと呼ばれる暖炉とベンチのある小さな空間。


 淡い黄色のステンドグラス。








 



 次回は2階を紹介します。

旧三潴銀行本店

2013-03-03 19:42:01 | 福岡・長崎・佐賀


 清力酒造社長・中村綱次ら大川の地元融資家が明治27(1894)年に設立した鐘ヶ江銀行を端緒とする三潴(みずま)銀行の本店として明治42(1909)年に建設。 表からは窺い知れませんがレンガ造の建物です。 18世紀半ばに開港した若津港と共に発展したこの一帯も、明治41(1908)年に開港した三池港の影響を受けて次第に衰退し、三潴銀行も大正14(1925)年に十七銀行(現在の福岡銀行)に合併され、この建物も海運会社やケーブルテレビ局等として使用されました。  福岡県大川市向島2367  13年01月上旬

 ※参考『筑後の近代化遺産』 2011



 正面玄関。 現在はこちらからの入場は出来ません。


 ペディメント付きの1階の窓。


 2階中央の窓はイオニア式の柱頭を持った付け柱で飾られています。


 2階の左右にある窓。 窓の装飾材には花崗岩を使っているそう。


 屋根窓の形をした換気口。


 隣接する新しい建物から中へ入ります。 現在は三潴銀行記念館(併設・九州貨幣博物館)となっていて国内外の貨幣等が展示されていました。


 この写真では良く分かりませんが階段手前の左側にあるドアが入場口です。


 中から見た正面玄関。


 装飾部を拡大。


 営業室だった吹き抜けの空間。 銀行時代のカウンターは取り外されています。


 ドイツ製の鋳型打ちブリキ天井が輝いていました。 平成21(2009)年に大改修が行われて往時の姿が甦っています。


 暖炉のデザインは様式的ながらも少し自由な感覚。 外観デザインとも共通する雰囲気です。


 イタリア製のタイル。


 金庫室です。


 劇場のボックス席のようにも見えますね。




 階段の脇を通って最初の部屋へ。 建物の北に位置する3部屋の一番西側の部屋です。


 隣りに新しい建物が出来たので、窓の外はニッチのような空間に改変されています。


 次の部屋へ。


 ここは部屋というより通路といった方が正しいのかも知れません。 3部屋の中央に位置し扉の向こうが先程の営業室にあたります。




 一番東側の部屋。


 裏手に附属屋があるのでここの窓の外もニッチ状になっています。






 戻る前に天井を見上げる。




 親柱のてっぺんにある円い部分は質感などから新しいもののようにも思えます。 この部分は復元なのかも。




 

 右のこの扉を開けると新館の2階に繋がっていました。 昔はどこに繋がっていたのでしょう? あるいは改修時に階段が設置され窓から出入りしてるのでしょうか。


 それにしても眺めの良い場所です。


 2階は会議室と重役室として使われていました。






 最初に広い方の部屋へ。


 天井の造作が素敵。






 右の扉から今度は小さい方の部屋へ入ります。


 こちらが重役室になるのかも。




 

 ディティールも逃したくない。






 天井の境目も気になる。




 内部を見終えて再び外に出てきました。




 避雷針。
 

 裏側です。


 正月早々という事で訪問時は閉まっていましたが、恨めしそうに中を覗いていたらおじさんが出て来てくれてワザワザ開けて下さいました(感謝)。。