北海道大学 和歌山研究林本館

2007-08-29 20:16:33 | 奈良・和歌山




 昭和2(1927)年に建てられた洋風建築。 シンプルですっきりとした下見板の建物です。 この場所は北海道帝国大学により林学の研究のため大正14(1925)年に創設されたのが始まりのよう。 研究が研究だけにかなりの山奥にあり、ここに辿り着くには一苦労です。 すれ違い困難なクネクネ道を車で長いこと走り続け、やっとこさ到着しました。 事前のネット検索で現存が確認できてなかったら絶対に訪れないような所ですね。  和歌山県古座川町平井559  07年08月中旬

 
 
 *おまけ これは途中で見つけた建物。 すぐに学校だと思いましたが予想的中、建物前庭にあった石碑には大己(巳?)小学校跡、創立明治12年、廃校昭和45年云々・・・と刻んであります。 私が生まれる前には既に廃校になっていたという事実が時の流れを感じさせます。 建物の詳細は分りませんが、ちゃんと手入れされているみたいなので現在も地区の集会所か何かに使われているのではないでしょうか。 警備会社のステッカーが窓に貼られているのでしっかりと管理もされています。 下手に近づいて警報を作動させてしまっては、ここまで急行する警備員に申し訳ないので(山中だから大変だろうな・・・)早々に退散。 多分、すさみ町のすさみ古座線沿いか、その近くの辺りにあります(場所がよく分かりません)。  





 自分のパソコンは完全に壊れてしまいましたので、とりあえずの限定復帰です。またしばらく休眠致しますので御了承の程を。

鳥羽小学校

2007-08-25 20:03:24 |  三重県



 小高い丘の急な坂道を上り詰めると見えてくる3階建ての校舎(昭和4年築 1929)。 老朽化した建物は「危険校舎」のレッテルをはられ、小学校の移設はすでに決定済みのよう。 この場所はもともと鳥羽城址であり、眼下には鳥羽の町並みが広がっています。 ここで学び巣立っていった卒業生達は、故郷の遥かな眺望を思い出すたびにこの古ぼけた学び舎も思い出すに違いないのでしょうね。  三重県鳥羽市鳥羽3-1-61  07年08月中旬

※現役の小学校です。見学の際は十分に注意して行動して下さい。

 ※ブログ再開といきたいところなのですが、この夏ついにパソコンが壊れてしまいました。 以前からパソコンの電源が急に落ちるというトラブルが出ていたのですが、お盆休みから帰宅した直後からその症状が頻発。 19日にかろうじて復帰したのですが、翌日からはほぼ壊滅状態。 なにせ人から貰った97年製のパソコンですから寿命がきたんですね。 10年よく頑張りました。
 ・・・そんな訳でしばらく不定期更新が続きます。 ほかのブログにコメントを残す事もままなりません(ゴメンナサイ)。 おそらくパソコンは新しく買い換えることになると思いますが、急な出費で先立つものが御座いません(笑)。 じっくり予定を立てて購入していきますね。
 よくよく考えてみたらこのブログも「築」1年。 10年は無理でもまだまだ続けていくつもりなので、これからも皆様、是非御笑覧下さいませ。


疲労困憊。

2007-08-19 21:27:42 | その他・雑記


 ご無沙汰の管理人・esです。
 
 この一週間、和歌山・三重の建築訪問に繰り出していましたが、連日の酷暑の中、朝から夕までのスケジュールの下では体力を使い果たしてしまう結果に。

 この土日はおとなしくしているつもりでしたが、今日は入間の西洋館(旧石川組製糸西洋館)の公開日だった事を何故か思い出してしまい、やっぱり突撃(笑)。

 そんな訳で気力も使い果たし、今は抜け殻状態でありまする。
 写真の整理も手につかず、頭も回りません。
 なのであと一週間ほどお休みを頂いたら今回の旅の成果を(ちょっとだけ?)紹介しますので、もうしばらくお待ち下さいませ。
 

 ※写真は和歌山県那智勝浦町にある「那智の滝」。日本三名爆のひとつです。溢れるイオンを感じ取って涼んでいただけると狙い通りなのですが。

旧マッケンジー邸

2007-08-10 07:05:41 |  静岡県
















 ダンカンとエミリー、マッケンジー夫妻の住居として昭和15(1940)年に完成。 ダンカンには喘息(ぜんそく)の持病があった為、海辺からも程近く、心地良い海風が通り抜ける松林の中を選んで自宅を建てたといわれます。 設計はW・M・ヴォーリズ。 スパニッシュスタイルのいかにも彼らしい建物で、立地条件を考慮して土台には木材を使用せずコンクリートを打ち(潮風による腐食対策)、通風を良くする為の工夫や生活しやすい各種の配慮もされているそうです。
 
 日米開戦の為、一時期日本を離れた夫妻でしたが昭和23(1948)年には再来日。 ダンカンは静岡特産のお茶の輸出に尽力し、その拡大・発展に大きな役割を果たしましたが、昭和26(1951)年に持病の悪化の為死去。 一方、残されたエミリーはこの地に留まり、私財を投じ恵まれない子供達に数々の救いの手を差し伸べました。 そんな彼女には昭和34(1959)年、長年の功績が認められ静岡市の名誉市民第一号に選ばれるという栄誉が授けられています。 昭和47(1972)年に高齢の為アメリカに帰国したエミリーは、翌年にカリフォルニア州のパロアルト市で永眠(享年86歳)。 慈愛に満ちた生涯を母国で終えました。 夫妻が残したこの場所には、2人が日本に託した想いが、時を経た今なお深く刻み込まれているかのように感じられます。  静岡県静岡市駿河区高松2852  07年02月上旬
 
 ※HOMAMとは夫妻が名付けたこの屋敷の愛称。 ペガサス座の星ホマム(「勇者の幸福な星」の意)から取ったもので、二人は塔屋から見える星空を好んでいたそうです。
 ガレージにはエミリーが愛用していたキャディラックが保管されています。


 今日からちょっとお休みを頂きます。 更新・コメントも滞ると思いますので御了承願います。

柏久保ハリストス正教会聖堂

2007-08-09 07:04:05 |  静岡県




 明治20(1887)年に建てられた非常に質素な教会。 明治13年に地元の有力者・森氏の私財によって建てられた小会堂は既に無く、こちらが2代目の聖堂のようです。 ここと姉妹教会である修善寺ハリストス教会同様に、内部には山下りんのイコンも残っているそうです。  静岡県伊豆市(旧修善寺町)柏久保324  07年08月上旬

 
 ※おまけ こちらは日本基督教団 修善寺教会。 それほど古くない建物かもしれませんが、近くで見つけたので載せておきます。


 
 ※ 2つとも現役の教会と思われますので、見学の際は充分な配慮をお願い致します。

坂口合名ビル

2007-08-07 07:07:33 | 島根・鳥取




 山陰の玄関口であり商業都市としての顔を持つ米子市。 この建物は大正9(1920)年創業の坂口合名会社の本社屋として昭和6(1931)年に完成したもの。 現在も同社の事務所として活用中のようです。  鳥取県米子市尾高町66  06年11月上旬他

聖ヨハネ教会堂

2007-08-06 07:03:04 | 愛知・岐阜





 明治40(1907)年に京都の河原町通りに建てられた教会。 定礎石の中から発見された設計図により立教学校の校長兼建築家として来日したJ・M・ガーディナーの設計だという事が判明しました。 建物は耐震性に考慮して1階がレンガ造、2階が木造になっているそうです。 昭和38(1963)年に解体され翌年明治村に移築復元されました。  愛知県犬山市内山1 博物館明治村内  07年04月下旬

横浜税関庁舎

2007-08-04 07:38:31 |  神奈川県






 昭和9(1934)年に建てられた「クイーン」の塔。 イスラム寺院風のグリーンのドームがその名に恥じない気品ある姿を演出しています。 税関の建物らしく正面は海側を向いており、港に出入りする船舶に対して厳しい目と優しいまなざしで向き合っているようにも感じられます。
 設計は大分出身で大蔵省営繕管財局技師の吉武東里。 当初は神奈川県庁本館(キング)の塔より2メートル低い47メートルで設計されていた為、当時の税関長・金子隆三に一喝され、5階建ての一部を4階に削って、浮いた予算で塔の高さが51メートルに改められたという逸話も残っています。 海外からも目が向けられる国際港・横浜の国家機関の建物が、県の建物に(高さで)劣るというのは許しがたい事だったのでしょうか。
 建物1階の資料展示室には税関関係の資料や偽ブランド品、密輸の手口などについて紹介されていて誰もが見学可能となっています。 今までは確か平日のみの公開でしたが、今年の4月からは土日祝日も公開になったようです(今度行ってみよ)。  神奈川県横浜市中区海岸通り1-1  06年10月下旬他

国立天文台

2007-08-03 07:05:56 |  東京都














 上から第一赤道儀室(大正10年築・1921)、大赤道儀室(天文台歴史館 大正15年築・1926)、アインシュタイン塔(太陽分光写真儀室 昭和5年築・1930)。
 両赤道儀室ともドイツのツァイス社製の望遠鏡を設置。 第一赤道儀室は太陽黒点のスケッチ観測に使われ、大赤道儀室は土星の衛星・星の位置観測に使われた後、現在は天文台歴史館として各種展示が行われています。 アインシュタイン塔は塔全体が望遠鏡となっており、以前は太陽の分光観測が行われていました。 ドイツはベルリン郊外にあったポツダム天体物理観測所(アインシュタイン塔)と同じ研究目的で造られた事からそう呼ばれるようになったそうです。 ここだけ内部非公開。

 明治21(1888)年に港区麻布に造られた東京天文台は、大正3(1914)年から三鷹に移転が始まり、10年後に全ては完了。 現在は国立天文台と名称を変え独立行政法人化され、宇宙の神秘について研究観測を続けています。 ここは入り口で手続きをすれば見学可能(無料)になっており、土日祝日・夏休み中は解説員が常駐していて説明もしてくれます。 但し駐車不可なのでご注意。  東京都三鷹市大沢2-21-1  05年04月上旬

 ※データは訪問当時のもので現在は変更点があるかもしれません。 見学の際は各自でご確認をお願い致します。

浜松銀行協会

2007-08-02 07:05:15 |  静岡県



 地元・浜松出身の中村與資平(よしへい)の設計により昭和5(1930)年に完成したスペイン風の建物。 浜松の銀行集会所及び手形交換所として使用されました。 白壁が大変美しい建物なのですが、正面北向きなので日中は逆光になってしまいます。 現在は浜松市の所有となり、今後の活用に向けて模索中のようです。  静岡県浜松市栄町3-1  07年06月下旬

有島生馬記念館

2007-08-01 07:08:33 |  長野県





 明治23(1890)年にイタリア人貿易商ヴィヴァンティ氏により鎌倉の七里ガ浜(鎌倉市稲村ガ崎3丁目)に建てられたもの。 氏は船で世界を旅している時に立ち寄った横浜の事が気に入り、イタリアから木材を運んで鎌倉の地にこの洋館を建てました。 そして生糸商を営んでいましたが、その後日本を離れアメリカに渡り、この屋敷は空家となって荒れるに任せました。

 有島生馬(ありしまいくま 1882~1974)は兄に小説家の有島武郎、弟に作家の里見(さとみとん)を持ち、自らも創作活動に従事。 生馬がこの建物に出会ったのは肺尖(はいせん)を病み、療養のため鎌倉を訪れていた時でした。 イタリアに留学経験もあり古いものは何でも好きだったという生馬は、すっかりこの建物に魅せられて購入を決意。 時は大正7(1932)年の事でした(大正9年という資料もあり)。
 庭に松の木がたくさんあった事からこの建物は「松の屋敷」と呼ばれ、生馬は没するまでの大半をこの洋館で過ごし絵画と文学に没頭、数々の作品を生み出しました。 特に海の見えるベランダがお気に入りで、晩年は終日海を見ながらそこで静かに時を過ごしていたといいます。

 生馬の没後、この建物は上智大学の保養施設となっていましたが、手狭になった為に改築される事が決定。 それを聞きつけた有志達が同大学から譲渡を受け、現在地に移築復元し「有島生馬記念館」として、彼の作品や遺品などを展示する施設として公開されるに至りました。  長野県信州新町上条88-3  07年07月下旬他

 ※『残照 神奈川の近代建築』を参考にさせていただきました。