『宮本武蔵』『三國志』などの執筆で多くの読者を集め国民文学作家として親しまれた吉川英治(1892~1962)が、疎開の為に昭和19(1944)年から同・28(1953)年まで家族と共に暮らしていた邸宅。 元は地元の養蚕農家であった野村氏が弘化4(1847)年に建てたものでしたが幕末に土台を残して焼失、現在の建物は明治初期に建て替えられたものになるそうです。 東京都青梅市柚木町1-101-1 11年02月上旬
※参考『東京建築懐古録Ⅲ』 1991
『昭和史の住宅』 1989
受付を済ませ門をくぐると正面にあるこの建物が「草思堂」。 草紙(書物などの意)をもじって英治が命名しました。
玄関の敷居を跨いで中へ。
建物内には上がれないのでここからガラス戸越しに見学する事になります。
草思堂の東側にある井戸。 丸太で組んだあずま屋を被せたのは英治の時代。
英治がこの屋敷を買い取ったのは昭和15(1940)年ころ。 昭和13年という資料もあります。
新聞広告でこの建物が売りに出されているのを知って文子夫人が一人で見に行き、梅の木が沢山ある事を話しただけで英治も気に入り購入したという。 敷地は観梅で有名な吉野梅郷の西端に位置しています。
庭園を含めた敷地はおよそ1700坪。 少年時代に不遇をかこった英治は自分の子供達は田舎でのびのび育てたいと願っていたようです。
樹齢500年を超えるシイの木の下は英治のお気に入りの場所のひとつ。
明治中期に建てられた洋間の離れ。 野村氏の時代のものです。
足元には瀬戸で焼かれた本業タイル。
洋間には書斎が復元され愛用していた文具類などが当時のままのように置かれています。
日本の敗戦による衝撃から断筆し、夫人と共に晴耕雨読の生活を2年間続ける。 戦後の代表作である『新・平家物語』の執筆を始めたのは昭和25(1950)年、英治の本当の再出発はそこから始まっていく事になります。
志賀直哉の勧めもあってやがて熱海へと居を移す事になりますが、村人(当時は吉野村)たちとの親交も厚く、一家が村を去る時には300人を超える村民が庭に集まり別れを惜しんだという。