旧網干銀行本店

2012-11-29 19:20:42 | 京都・兵庫


 商店街の破けたアーケードから円筒状の塔屋を覗かせているこの建物は、大正末期(大正10~12年頃・1921~23頃)に網干銀行の本店として建設されたもの。 網干銀行は明治27(1894)年に設立された銀行ですが昭和5(1930)年に三十八銀行に買収され消滅、同行も昭和11(1936)年の7行合併により新たに神戸銀行となりました。 この建物は昭和45(1970)年以降は洋装店に改装され現在まで同じ用途で活用されています。   兵庫県姫路市網干区新在家640-3  11年09月下旬

 ※参考『兵庫県の近代化遺産』 2006



 商店街の入り口に建つ。


 

 現在は女性向けの服飾店。


 レンガ造ですが赤茶のタイルが貼られRC造のようにも見せています。


 基礎の部分は花崗岩。




 櫛形のペディメントも見える。


 看板で隠れていますが玄関脇には円柱も備わっています。


 昭和5年に買収され消滅したという事は、網干銀行は昭和恐慌のあおりを大きく食らってしまったのでしょうか。




 ハーシーのキスチョコを少し扁平にしたような形のドーム屋根。


 装飾は抽象化されている感じ。




 網干銀行創設者・山本真蔵の大正10年の日記から設計施工は神戸の田中組と思われるそう。 担当・若松初三郎となっていますがどのような人物・仕事をしていたのかは分からないみたいです。

新田ビル

2012-11-27 20:40:49 |  東京都


 新田帯革製造所の東京出張所として昭和5(1930)年に建設され、平成17(2005)年に姿を消したオフィスビル。 地上五階・地下一階、新田帯革(ベルト)製造所及びベニヤ製造所の事務所、工場兼倉庫として使用され、当初は建物の正面にあたる北西角屋上にはアーチをめぐらした塔屋(鐘楼)が備わっていました(昭和60年・1985に撤去)。 また外からでは分かりませんが建物の平面はロの字型をしており、中央部分は1階から最上階まで吹き抜けで天井はガラス屋根になっていました。 しかし後に1階の吹き抜けは部屋に改造され、この部分と搬入スペースの上には中2階が増築されたようです。 吹き抜けは現代のような照明器具・換気設備が無かった時代に採光と通風を確保する為のアイデアであり、それによって良好な室内環境を実現していました。   東京都中央区銀座8-2-1  05年04月上旬

 ※参考『銀座八丁目の75年 新田ビルの建築記録』 2007
    『東京&横浜の長寿建築』 2004



 訪問・撮影したのは2005年の4月2日。 惜別会(見学会)も終了し解体着手の寸前に滑り込みで間に合いました。 写真歴、実質2か月未満、手振れ補正無しのカメラでしたのでボケまくっています。。


 1階部分には11の大きなアーチが並ぶ。 当初は一番左がベニヤ部のショーウィンドウで中央(北西角)がベルト部のショーウインドウでした。


 裏手(東口)にあった通用口。


 設計の木子七郎((1884~1954)は新田帯革製造所の創業者・新田長次郎(1857~1936)の娘婿にあたる。 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、大林組を経て大阪に自身の建築事務所を開設し新田家の建築顧問としても活躍した。


 塔屋があった頃の姿(『銀座八丁目の75年』より)。 明治5(1872)年の銀座大火により生まれた「銀座煉瓦街」は大正12(1923)年の関東大震災により壊滅、バラック建築を経て震災復興期には耐震耐火建築が競うように建てられた。 更には関西資本のカフェーやキャバレー、割烹が銀座に進出、煉瓦街とは趣を異にするモダンな街並みが現れる事になります。

旧武藤山治邸(旧鐘紡舞子倶楽部)

2012-11-23 17:21:35 | 京都・兵庫


 明治40(1907)年に実業家・武藤山治(1867~1934)の邸宅として建設。 当初は洋館の西側に和館が並立して建っていましたが、平成7(1995)年に明石海峡大橋建設に伴う国道2号の拡幅工事により洋館のみ保存され垂水区狩口台7丁目へと移築されました。 平成19(2007)年に当時の所有者であったカネボウより兵庫県に寄贈され、当初建っていた場所に近い現在地に再移築、同22(2010)年より一般に公開されています。  兵庫県垂水区東舞子町  12年10月上旬

 ※参考『神戸市内の近代洋風建築』 1984
    『神戸の近代洋風建築』 1990 ほか



 左に見切れている建物は管理棟。 当初洋館に附属していた撞球室を参考にして今回新たに建設したもの。


 屋根勾配は結構きつめ。


 風雨の強い海岸べりにあって建物の痛みが激しかった事、そして2度の移築により構造材や外装材の多くは新しい物に変わっています。
 

 

 正面に回ります。




 こちらからは入れません。 建物入口は管理棟からになります。




 円形の大きなバルコニーが特徴的ですが、これは昭和57(1982)年頃(?)に撤去されていたものを最初の移築時に復元したようです。


 

 ベランダは立ち入り禁止。
 

 天井の中心に飾りがありました。


 2階の隅にはちっちゃなベランダ。


 管理棟から一気に中に入ります。 




 入って直ぐ左は洗面所とトイレ。


 右の部屋は食堂です。


 暖炉も昔のまま。




 食堂から玄関ホールを見ています。


 食堂の隣りは広間。




 家具なども当時のものがほとんど残っているそう。




 天井隅の装飾。




 窓の外に見えているのは明石海峡大橋です。


 広間の北隣りの部屋は応接室。








 応接室から見たホールはこんな感じ。


 ここが玄関の内側になります。 靴を脱ぐ場所が無いので土足で出入りしていたのでしょうか。


 すりガラスと面格子の調和が美しい。


 植物模様。




 外から見て気になっていたステンドグラスはここ。


 アールヌーヴォー風のデザインです。


 …メフィラス星人? 


 



 2階にやってきました。 壁にかかる絵画なども昔からのもののよう。


 食堂の上の部屋は貴賓室。




 ひとりぼっち用。 もとい、2人ぐらいならいけるか。


 照明吊りの中心飾りも各部屋違っていて見所のひとつ。


 隣りの部屋へ移動しています。

 





 この部屋からは円形のバルコニーへと出られますが、現在は出入り禁止です。


 肖像画の一枚は建て主の武藤山治でした。 彼は三井銀行を経て鐘紡紡績に入社、鐘紡株買い占め事件により一時的に退社するも直ぐに復帰し、後に社長に就任するなど優れた経営手腕によって鐘紡における中興の祖であるといわれます。 


 応接室の上は書斎。 この部屋も立入り禁止になっています。


 山治の読書のスピードは人一倍早く、書棚には和洋合わせて1750冊もの本が並んでいたという。 




 この絨毯は古そうです。


 全ての部屋を見終わったので下へ戻ります。






 管理棟へと通ずる扉。 当初は和館と繋がっていたのでしょうか。


 こんな所にも。


 見学料100円は良心的。 また見に行きたくなります。


 手前には孫文記念館(移情閣)。 奥に今回の主役が建っています。

旧第五十九銀行本店

2012-11-08 19:10:57 | きた東北 (青森・秋田・岩手)


 明治12(1879)年に弘前市本町に設置された第五十九国立銀行が、株式会社に改組した後、同37(1904)年に現在地に移転した時に新築した建物。 昭和18(1943)年に県内5行の合併により青森銀行が誕生するとその弘前支店として使用され、その後、支店店舗改築に際して取り壊される予定でしたが地元からの保存要請もあり、同40(1965)年に建物を90度回転して西側に50メートル曳家、青森銀行記念館として保存・公開されるに至りました。  青森県弘前市元長町26  07年04月下旬他

 ※参考『総覧 日本の建築 第1巻/北海道・東北』 1986
    『青森県の暮らしと建築の近代化に寄与した人々』 2007
    『棟梁 堀江佐吉伝』 1997



 総工費6万7千7百余円(当時)、設計・施工は堀江佐吉(1845~1907)によるルネッサンス様式の木造建築。 柱などは全て県内産のケヤキ材を使い、建具にはヒバ材を使用しているという。


 平面はL字型、窓に土を漆喰で固めた引戸を二重に取り付けるなど防火対策にも余念がない。 堀江佐吉59歳、若かりし頃に函館へ出稼ぎし西洋建築の基礎を学んだ彼の晩年の集大成ともいうべき代表作品。


 展望台を兼ねた屋根窓。






 カウンターで仕切られた客溜り部分へ。


 昭和60(1985)年に修復・復元工事が行われているので内外とも綺麗です。


 1階展示室。


 シャンデリアは旧偕行社に取り付けてあった器具を参考にした複製品。


 背面には小さな庭園もあります。




 この金庫は旧第五十九銀行三本木支店で大正7(1918)年から使われていたもの。


 

 丸柱の柱頭デザインはアカンサスみたい。 客溜り(白)と営業室(ラクダ色)で室内が塗り分けられているのも面白い。




 特徴的な折曲がり階段。 復元されたもののようです。


 

 振り返り。


 踊り場からの風景。


 

 右下の色が違う部分が復元された箇所なんでしょうか?
 

 最初の小部屋に入ってみる。


 フランスから輸入したという応接セットがありました。


 こちらは隣りの小会議室。


 天井には金唐革紙が貼られています。


 大会議室は14.5メートル四方という文字通りの大空間で間に柱が一本も立っていない。 佐吉の腕の見せ所のひとつ。 


 ここにも金唐革紙。


 ほのかな光に照らされて。




 屋根裏への階段もありました。


 こちらは公開されてません。


 順路に従って大会議室を出ます。




 

 

 足元へと視線を落す。


 美しい。


 室内なのに青空が広がっていた。


 隣りの展示室には棟札も飾られています。


 棟梁・堀江佐吉の銘が入るこの棟札も建物と同じく重要文化財指定。


 そろそろと降りていく。




 頭取室(非公開)へと続く廊下にはアーチが用いられている。




 正面からの全景。


 屋根には雪止めを兼ねて手すり壁が廻っている。


 

 夜だと屋根が「消えて」また違った建物のようにも見えます。


 工事中に日露戦争(1904~05)が勃発、戦時下の軍都・弘前で堀江家(堀江組)あげての一大工事であったという。

旧東京医学校本館

2012-11-06 19:00:52 |  東京都


 東京大学医学部の前身校である東京医学校の本館として明治9(1876)年に建設。 当初は現在の東大医学部附属病院の南端辺りに建っていましたが、明治44(1911)年に赤門の脇に建物の規模を縮小して移築されました。 昭和3(1928)年以降は大学の営繕課や施設部の事務棟として使われ、昭和40(1965)年に解体された後、昭和44(1969)年に現在地に再建。 平成13(2001)年に東京大学総合研究博物館小石川分館となって広く一般にも公開されるようになりました。  東京都文京区白山3-7-1 10年01月下旬

 ※参考『総覧 日本の建築 第3巻/東京』 1987
    『出会いたい東京の名建築 歴史ある建物編』 2007
    『続 首都圏 名建築に逢う』 2009
    『東京建築物語』 2008



 小石川植物園の北西側、日本庭園の池越えに紅白の建物が見えてくる。


 換気塔。 当初は四面に時計を配した大きな時計塔がありましたが明治44年の移築時に改変されました。


 古写真を見るとこの扉の上には楕円状のファンライトが設置されていた事が分かります。
 

 手すりに擬宝珠が付け加えられたのも移築時の事。


 当初は白一色の外壁でしたが赤門脇に移築された時に景観を揃える為に(?)2階部分が赤く塗られたという。


 中に入るには植物園を一回出なければなりません。 再入場不可なので要注意。




 ジョサイア・コンドルがお雇い外国人として英国から来日し、工部大学校造家科(のちの東大工学部建築学科)で教鞭を執るようになるのは明治10(1877)年。 来日1年前に竣工したこの建物は東京医学校営繕係の設計による擬洋風建築と呼ばれるものです。 


 欄間の透かし彫りは和テイスト。




 内部はすっかり改装されています。


 1階の展示室。


 この柱は古材を利用しているのでしょうね。


 



 見上げると小屋組みも露わになっています。


 グロ注意。。






 展示品には解説が殆んどありません。 学術的な解説を読む事に満腹感を覚えるよりも、自分の目でつぶさに観察し何かを考える事に重きを置いた展示になってるようでした。 


 太平洋戦争以前にベルギーから寄贈されたという地球儀。 


 赤門脇に半分ほどに縮小移築された際、残り半分の建物は学士会館(千代田区)へと移築されたそう。 しかしそれも後年に焼失してしまったようです。

カトリック富岡教会

2012-11-01 18:44:14 | 北海道主要部 (札幌・小樽・函館)


 安政2(1855)年の箱館(函館)の開港(外国船への食糧・薪水の供給)に伴って蝦夷地(北海道)に伝来してきたカトリック教は、フォーリー宣教師による札幌での布教を経て明治15(1882)年に小樽でも伝道が開始されます。 明治24(1891)年に永井町に建てられた聖堂が5年後に焼失すると、同35(1902)年に量徳町に仮聖堂が再建されたりしましたが、昭和4(1929)年に富岡町の約1100坪の敷地にこの聖堂が新たに献堂されました。 建物は中世ロマネスクとゴシック様式を混在させた外観とされ、RC造の柱と木造を組み合わせた構造で1階は集会所、2階が単廊式の聖堂となっています。  北海道小樽市富岡1-21-25  11年05月上旬

 ※参考『小樽市の歴史的建造物 歴史的建造物の実態調査(1992年)から』 1994
    『最新版 小樽歴史探訪』 1999
    『小樽の建築探訪』 1995



 切妻屋根の中央正面に十字架を掲げた尖塔が載る。


 現在の稲穂・富岡といった辺りは明治半ばまでは北垣国道と榎本武揚の所有地で丘陵と畑地が続く起伏の激しい土地でした。 それでも明治28(1895)年には富岡1丁目の大部分は宅地としての体裁は整っていたといいます。






 1階の柱の間にはレンガが積まれています。


 重厚な玄関ポーチの開口部は尖頭アーチ。


 玄関ポーチの左右にあるステンドグラスは平成18(2006)年に新たに設置されたもの。 この他にも多くのステンドグラスが同時に設置されたようです。


 入口見返し。


 2階の聖堂に向けて階段を上がります。 踊り場にある蔦のステンドグラスも平成18年の設置。 「蔦のからまるチャペル」と呼ばれていた時代を思い起こして製作されたものだそうです。






 聖堂内へ。


 柔らかな光に灯される。








 聖堂を出ます。


 地獄坂と呼ばれる急な坂道を上って辿り着いたのがウソみたいに穏やかな景色が広がっていました。






 階段を降りていく。


 東側の側面。


 聖堂の裏には同時期に竣工したといわれる司祭館。


 資料によると木造で外壁はスレート張りとなっています。


 教会の鐘は竣工と同時に主任司祭として着任したソラノ神父のドイツに住む父親から寄贈されたものだったという。