創業明治11(1878)年の第八十五国立銀行は、明治31(1898)年に私立銀行の第八十五銀行となって大正7(1918)年にこの建物を本店として建設。 SRC造(鉄骨鉄筋コンクリート造)の建物は正面にあたる北西の隅部にドーム屋根を載せた3階建て、地面からその塔屋の先までの高さは約25メートルにもなり当時の川越の建築では一番の高さを誇りました。 設計の保岡勝也(1877~1942)は東京帝国大学で辰野金吾に師事し、卒業後は三菱に入社してコンドル~曾禰達蔵と続いた丸の内オフィスビル街の構築に技師長として多大な貢献をして独立、地方銀行など商業建築の設計を皮切りに我が国最初期の住宅作家へと転身を遂げていく事になります。 埼玉県川越市幸町4-1 07年3月上旬他
※参考『埼玉県大正建造物緊急調査報告書』 1985
『近代埼玉の建築探訪』 2006
『一丁倫敦と丸の内スタイル』 2009
『建築家 保岡勝也の軌跡と川越』 2012
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川越といえば黒漆喰の土蔵造りの町屋が建ち並ぶ。 その中でこの白タイル貼りの洋風建築は今以上に衝撃的な存在だったでしょう。
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川越と保岡を結びつけたのは川越の豪商で和菓子屋・亀屋を経営する山崎嘉七。
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嘉七は当時、川越貯蓄銀行と八十五銀行の取締役を務め両銀行の本店設計を保岡に依頼。 後に自身の隠居所(旧山崎家別邸として現存・大正14年)も保岡の手により完成しています。
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平滑な建物で明治期の銀行建築のような仰々しい装飾はありません。
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窓と窓の間に縞模様の控え壁。
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増築部も同様の意匠で連続させて違和感の低減に注意を払っています。
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保岡は八十五銀行の支店も5行(本庄・志木・小川・松山・上尾)設計してますが現存するのは松山支店の倉庫のみ。 川越での保岡の作品は川越貯蓄銀行本店(大正4年及び昭和5年の計2棟)が取り壊されていますが、他に旧山吉デパート(現・保刈歯科医院 昭和11年)が現存しています。