旧濱野医院

2012-04-25 19:44:57 | 埼玉・千葉


 濱野医院は浦安における西洋医学の医院としては一番早く、明治20(1887)年頃に堀江で開業したといわれます。 同40(1907)年に医院は子息に引き継がれて現在地に移転、昭和に入ってからは初代のお孫さんにあたる方が診療を続け、それは平成8(1996)年まで続きました。 建物は昭和4(1929)年築の医院併用住宅、2階建ての洋館(医院)に平屋の和風住宅を組み合わせたもの。 この建物も浦安では一番最初の洋風建築であったそうです。  千葉県浦安市堀江3-1-8  09年12月中旬



 公開されている建物に入るのは左の平屋部分から。


 医院部の玄関は閉じられています。


 ヤツデと看板。 子供の頃、家の近所にあった小さな個人医院にも玄関先にヤツデが植えてあったのを思い出しました。


 鋭角な切妻屋根が少しトンガった印象を与えますが、妻面の伸びやかな装飾がその印象を和らげています。
 

 医院部の裏手にある客座敷。 ちょっとピンボケ(汗)。


 「つどいの広場」として乳幼児と保護者達の交流の場所としても使われています。 こういう活用はいいですね。 


 医院と住宅を分ける中廊下。


 2階は和室が2間あるようですが非公開(非活用)です。


 診察室へ。


 今すぐにでも診察が始められそう。




 先生はもう来ません。




 薬局部分の壁には懐かしい感じの医薬品。


 ラシックスというのは聞いたことがありますが、それ以外は分からないや。。




 

 履き物を脱いでお待ちください。


 待合室。




 本日休診です。


 裏手を流れる境川。 市街地整備と境川の護岸改修工事により、来年(2013年)の3月一杯まで2年間の閉館に入っているそうです。

旧第一合同銀行倉敷支店

2012-04-23 18:59:10 | 岡山・広島・山口


 大正8(1919)年に倉敷銀行・天満屋銀行・倉敷商業銀行・鴨方倉庫銀行・茶屋町銀行・日笠銀行の6行合併により創設された第一合同銀行(初代頭取・大原孫三郎)の倉敷支店として大正11(1922)年に建設。 構造は混構造になっていて主要な部分はRC造、一部2階の東側部分は木造で壁はレンガと石で出来ています。 設計の薬師寺主計(やくしじ・かずえ 1884~1965)は現在の岡山県総社市で生まれ東京帝国大学の建築科を卒業、大学の先輩であった河合浩蔵(1856~1934)の建築事務所に1年弱ほど勤めたのち陸軍省に建築技師として入省し、この建物を設計した時は大原家の建築顧問も兼任してました。  岡山県倉敷市本町3-1  11年10月上旬他

 ※参考『アールデコの建築家 薬師寺主計』 2003
    『岡山県の近代化遺産』 2005
    『都市の記憶 美しいまちへ』 2002



 現在の有隣荘(大原家別宅)の裏側、かつては倉敷銀行の本店があった場所に契約金9万2千円(当時)で発注され10ヶ月の工期で完成。 大原孫三郎が度々訪れては現場監督(施工・藤木工務店)に直接の指示を与え、異例の短期間で完成したという。


 正面にはドリス式オーダーを簡略化したといわれる柱が6本並び、銀行建築らしさを出しています。


 半円窓にはステンドグラス。 木内真太郎の作品。






 ドーマー(屋根窓)は開閉出来ないので意匠的な側面が強いものと思われます。








 外壁は洗い出し仕上げで腰の部分は北木島(岡山県笠間市)産の御影石を貼っているようです。






 先細りの煙突。


 北東側から撮影。


 有隣荘の向かいには大原美術館本館(昭和5年築)。 こちらも大原・薬師寺・藤木正一(藤木工務店創設者)の3人の連携により完成したもの。 町の発展を考えて資金を出す人、それを形として表す人、そして実際に建物を作り上げる人。 倉敷のまちづくりはこの3人により進められた事が大きな特徴になっています。

軽井沢ユニオンチャーチ

2012-04-20 20:01:12 |  長野県


 宿場町としての役割を終えて衰退していた軽井沢を、外国人向けの避暑地として紹介し開発の基礎を築いたのがA・C・ショー(1846~1902)ならば、まちづくりの基礎を築いたのがカナダ・メソジスト教会の宣教師であったダニエル・ノルマン(1864~1940)という事になります。 彼は軽井沢を清潔な保健的静養地としてまとめ上げ、布教活動の傍ら町の環境衛生や自然保護、文化活動に尽力したと伝わります。 このユニオン教会もノルマンがカナダ・メソジスト教会からの資金援助を得て、キリスト教各派合同の礼拝所としてウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)の設計により完成させたものです。 以来、今日まで礼拝のみならず各種の集会や音楽会が開かれるど、軽井沢の夏を記憶する代表的な存在となっています。  長野県軽井沢町軽井沢  07年9月上旬他 



 ここではヴォーリズ設計で大正7(1918)年完成という説を取りますが、、ユニオンチャーチのHPを見ると官営鉄道の高級技師用クラブハウスを買い取り改装、明治39(1906)年から教会として使用と書かれています。 真相はどちらなんでしょう?


 外観だけ見ると近年復元された新しい建物みたい。 改修に改修を重ねて現在に至っているようです。 




 優しい心遣い。


 白色のペンキで塗られていて清潔感があります。


 大きな空間が広がる。


 小屋組みも見えて解放的ですね。








 2階へはこの階段から。


 ちょうど玄関の真上の部屋にあたります。


 1階だけで200人位は軽く座れそう。




 派手さはありませんが木の温もりを強く感じる癒しの空間です。
 

 外へ。




 こんな張り出しもあります。


 木漏れ日の中を歩いていく。



 こちらは日本聖公会 軽井沢教会の司祭館(昭和初期築)。 今まで気付きませんでしたが長野の近代化遺産調査ではヴォーリズの設計となっています。


 1階のガラス部は後の増築でしょうか。 側面に窓が少ないようにも感じます。


 隣接するショーハウス記念館の2階から。

石炭会館

2012-04-19 18:59:02 | 福岡・長崎・佐賀


 明治34(1901)年に設立された若松石炭商同業組合の事務所として明治38(1905)年に建設。 木造ですが外壁にモルタルを塗って目地を切り、石造風の仕上げを施しています。 石炭関係者の公私の社交場やクラブ、迎賓館として使われるなど、石炭の積出港として栄えた若松の歴史を端的に表す建物です。  福岡県北九州市若松区本町1-13-15  09年04月下旬

 ※参考『北九州の近代化遺産』 2006



 古写真を見ると屋根の正面中央に飾り窓が一つとパラペットが廻らされていて、現在の姿よりもかなり荘厳な雰囲気を持った建物でした。


 昭和19(1944)年に社団法人 若松石炭協会となり同48(1973)年からは現在の株式会社 石炭会館となっています。


 中に入ると目の前に階段。 途中で左右へと分かれるタイプのものです。 


 上がりたいけど「立入禁止」の立札。。


 天井です。




 1階にはクロワッサンで有名のお店が入っていて客足が止まらないほどの盛況でした。 扉の上の装飾も目を引きますね。




 外に出ます。 かつては目の前はすぐ船着き場のようになっていましたが、埋立てによって海岸線はほんの少しだけ遠ざかっています。

埼玉りそな銀行川越支店

2012-04-18 20:10:12 | 埼玉・千葉


 創業明治11(1878)年の第八十五国立銀行は、明治31(1898)年に私立銀行の第八十五銀行となって大正7(1918)年にこの建物を本店として建設。 SRC造(鉄骨鉄筋コンクリート造)の建物は正面にあたる北西の隅部にドーム屋根を載せた3階建て、地面からその塔屋の先までの高さは約25メートルにもなり当時の川越の建築では一番の高さを誇りました。 設計の保岡勝也(1877~1942)は東京帝国大学で辰野金吾に師事し、卒業後は三菱に入社してコンドル~曾禰達蔵と続いた丸の内オフィスビル街の構築に技師長として多大な貢献をして独立、地方銀行など商業建築の設計を皮切りに我が国最初期の住宅作家へと転身を遂げていく事になります。  埼玉県川越市幸町4-1  07年3月上旬他

 ※参考『埼玉県大正建造物緊急調査報告書』 1985
    『近代埼玉の建築探訪』 2006
    『一丁倫敦と丸の内スタイル』 2009
    『建築家 保岡勝也の軌跡と川越』 2012



 川越といえば黒漆喰の土蔵造りの町屋が建ち並ぶ。 その中でこの白タイル貼りの洋風建築は今以上に衝撃的な存在だったでしょう。




 川越と保岡を結びつけたのは川越の豪商で和菓子屋・亀屋を経営する山崎嘉七。


 嘉七は当時、川越貯蓄銀行と八十五銀行の取締役を務め両銀行の本店設計を保岡に依頼。 後に自身の隠居所(旧山崎家別邸として現存・大正14年)も保岡の手により完成しています。




 平滑な建物で明治期の銀行建築のような仰々しい装飾はありません。




 窓と窓の間に縞模様の控え壁。




 増築部も同様の意匠で連続させて違和感の低減に注意を払っています。


 保岡は八十五銀行の支店も5行(本庄・志木・小川・松山・上尾)設計してますが現存するのは松山支店の倉庫のみ。 川越での保岡の作品は川越貯蓄銀行本店(大正4年及び昭和5年の計2棟)が取り壊されていますが、他に旧山吉デパート(現・保刈歯科医院 昭和11年)が現存しています。

箱根病院(旧傷兵院本館)

2012-04-17 19:59:23 |  神奈川県

 
 箱根病院は小田原から箱根湯本に向かうとちょうど中間地点、風祭駅北側の緑あふれる山並みを背にした場所に広がっています。 病院は明治39(1906)年の廃兵院法の公布によって設置された廃兵院を起源とし、東京は巣鴨にあった廃兵院が手狭になった事に伴って昭和9(1934)年頃から風祭に移転、途中で傷兵院と改称された施設は昭和11(1936)年に完成を見ました。 昭和15(1940)年には傷痍軍人箱根療養所を併設。 国内唯一の戦傷脊椎療養所となって兵士の治療にあたるなど、戦後の改称・組織変更等で国立病院機構 箱根病院となった現在も脊椎損傷や筋ジストロフィー患者達を主体とした治療やリハビリに取り組んでいるようです。  神奈川県小田原市風祭412  11年12月上旬

 ※参考『残照 神奈川の近代建築』 1982
     箱根病院HP



 昭和11年築の旧本館。 トンガリ屋根は望楼でしょうか。 明り取りの可能性もありそうです。




 移転当初、施設には湯本から引いていた良質の温泉がありましたがそれも既に枯渇。 裏山にはミカン畑もあって職員が収穫し出荷した事もあったという。


 旧本館の現在の用途は不明ですが、会議室や看護婦のロッカールームとして使用されてきました。




 車寄せの天井にあった換気口。


 向かいには平屋の講堂がありましたが既に取り壊されて駐車場に変わっています。


 「廃兵」と聞くと、「不要」とか「使えない」といったネガティブなニュアンスを感じます。 「傷兵」と改められたのは必然だったのかも知れません。




 病棟など全部で33棟もの建物がありましたが昭和37(1962)年頃から取り壊され始め、今ではこの建物くらいしか残っていません。


 旧本館の裏手にあったこちらは奉安殿(奉安所)? 

旧大浜警察署

2012-04-12 19:29:36 | 愛知・岐阜


 明治20(1887)年に完成した木造の安城警察署大浜分署の老朽化により大正13(1924)年3月にRC造で建て替えられたもの。 同年8月に大浜警察署と改称・独立し昭和36(1961)年まで周辺地域の安全を見守り続けました。 その後は県土木出張所や公民館、市教育委員会の民俗資料保管庫となっていたそうです。  愛知県碧南市錦町1-7  10年01月下旬

 ※参考 『わが街 ビルヂング物語』 2004
     『愛知県の近代化遺産』  2005



 中央の2階建て(一部3階)部分が建築当初のもの。 木造平屋で昭和2(1927)年・同12年・同15年と3度増築されていましたが、平成21(2009)年に完了した外観整備事業により増築部の一部が撤去されています。


 正面玄関。 直線的なデザインです。




 火事や暴動・自然災害に対し、治安を守る立場にある警察署の建物は安全でなければならぬという考えから、中央・地方に関わらず警察署の建物はRC造が積極的に採用されるような時代背景があったという。






 印象的な八角塔屋。 中世ヨーロッパのお城風。


 窓の下には赤茶のラインが入ります。


 建物の裏側。


 2階は武道場。 塔の屋上にはその昔、半鐘があって火の見も兼ねていたそうです。


 設計者は不明ですが設計手法や時代、地域などを考慮すると大中肇の可能性があるという。

旧大久野郵便局

2012-04-10 18:53:42 |  東京都


 昭和10(1935)年に大久野郵便局が開局した当時の建物。 平成3(1991)年から「おおぷなあ」という店名で組み木絵などを展示するギャラリー&喫茶になっていましたが平成22(2010)年の11月をもって閉店、訪問時は空き家になっていました。  東京都日の出町大久野1177  11年02月上旬



 木造2階建て(一部平屋)の下見板白ペンキ仕上げで屋根は方形。 地方などで良く見られるタイプの局舎です。 


 「郵便」「電信」「為替」…そういった単語が書かれたプレートがここに吊るされていたのでしょうね。






 言葉に救われる。


 扉は今も閉ざされたままなのでしょうか。 今後が気になります。


旧志賀村役場

2012-04-03 18:15:37 |  長野県


 明治34(1901)年築。 正面中央部を凹ませて入母屋屋根を載せた玄関ポーチを設置し、前に突き出した両翼部分は階段室に充てています。 志賀村は昭和30(1955)年に三井村と合併して東村となり、さらに昭和36(1961)年には4町村合併により佐久市の発足へと続いているようです。  長野県佐久市志賀中宿  10年09月上旬



 左右対称の造りは庁舎建築の定番。






 中を覗くと内部は畳敷き。 転用されてからの改装でしょうね。


 「志賀老人連合会憩の場」・「志賀遺跡保存会事務所」という2つの看板がありました。


 破風には湧き上る雲をイメージしたような装飾。 擬洋風建築の延長線上にある建物という印象です。




 割れたガラスから階段の手摺部分が。。。


 建物横手の扉。


 


 付近には旧志賀村の面影が今も残るかのようでした。

旧茨城県畜産試験場庁舎

2012-04-02 19:57:27 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)


 茨城県畜産試験場の跡地、南北合わせて39haもの広大な敷地の北東隅に位置するこの建物は大正12(1923)年の建築。 元々は大正8(1919)年に兵庫県に設置された北条(條)種羊場(大正12年廃止)の建物を移築してきた可能性が高いのだそうです。 平成12(2000)年に試験場は八郷町(現・石岡市)に移転し、この建物はドラマや映画、CM等のロケに使用されていますが老朽化が進み内部の使用は出来なくなっているようです。  茨城県笠間市(友部町)平町  12年04月上旬

 ※参考 『茨城県の近代化遺産』 2007



 左右にスロープのついた車寄せ。




 丸電球はそっぽを向いたまま。




 玄関の窓越しに撮影。 傾斜の緩やかな優しい階段です。


 もぬけの殻状態。




 敷地の外からは見えなかった南西面。 この面は一際大きく窓がとられています。


 歯抜けになった窓。 ガラスの破片が地面にも散乱していました。


 良く見ると2階はベランダになっていて後から窓を入れた事が分かります。




 背面部。




 壁の亀裂と天井の漆喰が剥落しているのは震災の影響と思われます。


 この雰囲気が好き。


 「お薬出します」的な小窓もあります。


 純朴。


 北条種羊場―友部種羊場―茨城県種畜場(昭和36年に茨城県畜産試験場と改称)と移り変わってきたようです。