旧精華小学校

2013-02-28 19:02:01 |  大阪府


 大阪市立精華小学校は大阪2大繁華街のひとつ、ミナミの中心に位置し、平成7(1995)年に児童数の減少に伴い閉校となりました。 昭和4(1929)年に完成したモダンな校舎は残され閉校後は精華学習ルーム・精華小劇場として利用されていましたが、なんばエリア一帯の活性化へと向けた再開発により敷地は不動産会社に売却される事が決定、この校舎は解体撤去されその跡地には複合的商業施設が建設される予定のようです。  大阪府大阪市中央区難波3-2-4  08年01月上旬他

 ※参考『関西の近代建築 ウォートルスから村野藤吾まで』 1996
    『ヒロシマの被爆建造物は語る 未来への記録』 1996
    『ヒロシマを探そう 原爆を見た建物』 2006
    『大大阪モダン建築』 2007



 戎橋筋に面した商店街のど真ん中に学校への入り口があります。


 遠近感・立体感を駆使して視覚的に奥へと誘(いざな)う。 訪問した時はこの扉の前にある鉄の門が閉まっていて中には入れませんでした。
 

 設計者の増田清(1888~1977)は福島県桑折町の出身、耐震構造学の基礎を築いた佐野利器(1880~1956)門下として東京帝国大学工学部建築学科を大正2(1913)年に卒業、安藤組大阪支店を経て同6年に大阪府土木課建築技師となり、さらに同13年には自らの事務所(増田建築事務所)を大阪に開設しています。 彼は鉄筋コンクリート造の普及に熱心で特にその構造設計に優れた手腕を発揮しました。 


 大阪を拠点に活動していた増田ですが本川小学校や広島市役所(共に昭和3年築・1928)の設計で広島市との関わりも深く、彼の地にも作品を残しています。


 増田の設計した建物は耐震強度に特に優れ、それは原子爆弾にも耐えるものでした。 彼が広島市内に設計した4つの建物は原爆の全壊全焼地域の中で大きな被害を受けながらも全て生き残り戦後の復興を支えました。 現在でもその内の2つ(平和記念公園レストハウスと本川小学校平和資料館)の姿を見る事が可能です。


 小学校に附属している幼稚園に残る装飾。


 ここは芝居街として栄えた道頓堀の近くという事もあり、出演中の子役が公演期間中だけ転校してくる事もあったそう。 地元有志の出資により設立されたという小学校が今、その役割を完全に終える時が来たようです。

東玉大正館

2013-02-26 19:55:53 | 埼玉・千葉


 かつての城下町であり現在は人形の町として知られる岩槻に残るこの建物は、大正時代に中井銀行岩槻支店として建てられたもの。 正確な建築時期については不明ですが、基礎部分が誤って隣家の敷地にはみ出し、それを了承した隣家に感謝する大正10(1921)年の書状が残されており、その中で既に竣工している事を示す一文がある事から遅くともその時までには完成していたようです。  埼玉県さいたま市岩槻区本町3-13-9  11年02月上旬他

 ※参考『続・首都圏 名建築に逢う』 2009
    『建築家 保岡勝也の軌跡と川越』 2012

  


 木造かと思いましたが実はレンガ造。


 中井銀行は東京にあった地方銀行で日本橋に建てられていた大正6(1917)年築の本店は保岡勝也の設計でした。 浦和支店(1914?)も保岡の作品でしたが、この岩槻支店の設計者は不明のようです。


 直線的な建物ですが入口上部のみ半円アーチ。


 岩槻は日光御成街道の宿場町でした。 日光東照宮の造営に関わった工匠達がここに留まり、周辺に数多く植えられていた桐を使って箪笥を作ったり、桐の粉を糊で練り固めて人形作りを始めたのが現在の「人形の町」へと続いているそう。




 赤茶色のタイルが良いアクセントです。


 ショーウインドウに飾られた古写真には昭和銀行の文字。 中井銀行は昭和3(1928)年に昭和銀行に買収され、度重なる銀行の合併の後にこの建物は昭和35(1960)年から人形店の東玉(とうぎょく)の所有となっています。


 腰部分は石貼。




 ちょうど今、岩槻では「まちかど雛めぐり」を開催中(3月17日まで)。 人形職人の多くの作品や各商店に伝わる古い人形等が街を飾って観光客の目を楽しませているようです。

旧金石警察署

2013-02-23 19:22:34 |  石川県


 金沢駅から県道17号(通称・金石街道)に沿って北西に進むと左手に見えてくるこの建物は昭和3(1928)年に金石警察署として建てられたもの。 警察署の後は「銭五遺品館」として江戸時代後期の加賀の豪商・銭屋五兵衛と家族の遺品を展示する施設として長く使われていました。 平成9(1997)年に遺品館が移転してしまった後は使われていなかったそうですが、近年になって地元青年団や有志らにより「かないわ銭五」と命名されてバーなどとして活用が始まっているみたいです。  石川県金沢市金石西1-6-18  10年07月中旬

 ※参考『石川県の近代化遺産』 2008



 玄関部。 両脇はガラスブロック。


 柱頭飾りが庇を突き破って上に出てしまっています。


 

 コーナーに丸みを持たせてまるで歌舞伎の隈取りのように不思議な形状の装飾を纏う。 アール・デコとか表現派風の建築意匠が混じっているような感じです。




 窓は小さめ。


 早朝の訪問でしたから営業はしていませんでしたが確かにバーという雰囲気です。




 RC造で予算2万円(当時)の建築。 平面はL字型をしています。 裏には平屋の留置場(こちらもRC造)があったようですが今は取り壊されて駐車場です。


 バスターミナルの前に建っています。

安積疏水事務所貴賓館

2013-02-22 19:57:23 | 南とうほく (宮城・山形・福島)


 福島県郡山市は北に仙台・南に宇都宮、東にいわき・西に会津といった都市と結ばれた交通の要所であり県内一の商都として賑わいを見せています。 しかし近代以前の郡山は宿場町とはいえ一寒村に過ぎず、現在の発展を築いたのは明治初期以降に始められた安積疏水の開削事業による所が大きかったものといわれています。 安積疏水とは日本海へと流れていた猪苗代湖の水を荒涼としていた安積原野に引いて土地を開拓する為のもので、その疏水の管理を引き継いだのが現在の安積疏水土地改良区事務所にあたります。 この建物は事務所の新館(貴賓館)として昭和12(1937)年に建てられたもので木造2階建て、1階部分に茶色いスクラッチタイルを張り2階部分は白壁としながらも付け柱に合わせて縦方向にスクラッチタイルを張って垂直線を強調しています。  福島県郡山市開成2-22-2  07年11月上旬ほか

 ※参考 『ふくしまの西洋造』 1977
     『近代建築ガイドブック 北海道・東北編』 1985
     『光の街 影の街 モダン建築の旅』 1987
     『福島県の近代化遺産』 2010

 ※現存せず(東日本大震災による)。



 建物の設計者は渡辺恒雄。 勿論あのナベツネではなく、郡山の東南に位置する田村郡の出身で東京で建築家になった人物であるという。




 安積原野の開拓に尽力したのは旧米沢藩士で当時は福島県の典事(課長職)であった中條政恒。 前回の山形・吉池医院で紹介した中條精一郎の実父です。


 

 中條は当時の郡山の資産家ら25人から成る開成社を結成させ県と共同して安積開拓をスタート、これが後に国営の安積開拓と疏水開削へと繋がっていく事になりました。


 裏へ回ります。


 この貴賓館の隣りにあった旧の事務所は中條精一郎の設計で昭和6(1931)年に建ったものでした。 どうやら80年代初め頃に建て替えられたようです。
 

 中條精一郎の娘・百合子(後の宮本百合子 1899~1951)は祖母の家のあったこの辺りで毎夏を過ごしており、17歳の時に『貧しき人々の群』で当時のこの開成の情景を描いている。 農村のあまりの貧しさを見、祖父の率いた疏水事業が本当にこの地の人々に幸せをもたらしたのかを疑問に感じていたようです。




 水平線よりは垂直線、『福島県の近代化遺産』では「ライト風ではない」とわざわざ書いてありました。。


 震災から3か月が過ぎた2011年6月18日に訪問した時の姿。


 無残にも壁の一部が崩れ落ち、人が近づかないように建物の周囲にはロープが張られていました。


 タイル張りで重量のある建物だったから揺れの被害が大きかったのでしょうか。 もうこの建物を見る事も出来なくなってしまいました。

吉池医院

2013-02-20 20:31:05 | 南とうほく (宮城・山形・福島)


 中條精一郎(1868~1936)の設計により大正元(1912)年に完成した個人医院。 今なお医院として現役の建物です。 当時の吉池家の当主が山形県米沢市出身であり、中條とは同郷の同級生だった事から設計依頼をしたものだったと伝わっています。  山形県山形市十日町  08年08月中旬ほか

 ※現役の医院です。 敷地内での撮影・立ち入りは不可とのお話でしたので見学の際はご配慮願います。



 中條は先輩の曾禰達蔵(1853~1937)と共に「曾禰中條建築事務所」を開設するなど主に中央で活躍した建築家。 しかし山形出身という事もあり、後に(旧)山形県庁舎と(旧)山形県会議事堂の建設にも設計顧問として参加しています。 この建物とは窓や屋根、天窓といった所に共通点があるそうです。


 木造2階建てで塔屋付き。




 堂々とした立派な門構え。 緊張感が走りますね。 


 以前はこちら側の敷地に別の建物が建っていました。 それが解体され駐車場になったので現在は南面も見えるようになっています。 


 大正5(1916)年完成の旧山形県庁舎(現・文翔館)。 中條の下で実施設計は東京出身の山形県工師・田原新之助(1876~1916)が担当しています。


 田原は鹿鳴館の設計でも知られるお雇い外国人・コンドルの内弟子として13歳で設計を学び始め、曾禰中條建築事務所にも入所していた時期があるようです。


 こちらは旧県庁舎と共に建てられた旧山形県会議事堂。 やはり中條・田原のコンビによる作品になります。


 田原は県庁舎と県会議事堂が完成した2か月後に山形で病没。 まるで建物の完成を見届けたような散り際です。 コンドル~曾禰中條と当時の建築界の王道を歩んだ才能の早過ぎる死が惜しまれてなりません。

東京大学医学部2号館(本館)

2013-02-18 20:04:35 |  東京都


 「この解剖台はわが病理学教室を創設し東京帝国大学の病理学の教授の椅子に初めて就かれつる三浦先生 その後を継ぎて癌に関する世界的業績を挙げられつる山極先生 教室を拡大し完備しわが国病理学の光輝を内外に発揚せられつる長與先生の三先生が多年傍に立ちて親しく後進の研究を指導振奨せられし所のものなり 且つ三浦山極両先生は身を斯学の為に献ぐべくその最期をこの台上に横たへられきかくも尊き台なるをもて三先生の偉大なる功績を伝へまく不朽の記念として茲に之を保存す わが教室に入らむ者は朝に夕に恩徳を仰慕すべきなり  昭和十六年十二月 病理学教室」  東京都文京区本郷7-3-1  07年02月上旬他

 ※参考『東京大学 本郷キャンパス案内』 2005



 東京大学・本郷キャンパスの敷地の大半は元の加賀藩・前田家の上屋敷の跡地。 ここに東大の前身校のひとつである東京医学校が移転してきたのは明治9(1876)年の事になります。 この東京医学校と神田にあった東京開成学校という二つの官立専門学校が合併して東京大学が誕生したのは明治10年の事でした。


 東大のシンボルでもある赤門(国重要文化財)を抜け、ほぼ真っ直ぐに歩を進めると今回の主役が見えてきます。 前庭がある建物はキャンパス内でも限られた特別な建物だけ。


 医学部2号館(本館)、昭和12(1937)年築。 後に東京帝国大学の総長を務める事になる内田祥三(1885~1972、当時は東京帝国大学営繕課長)の設計になります。


 白い玄関アーチがリズミカル。


 現在の建物は医学部にとっては2代目の本館。 初代の建物は小石川植物園に移築されたコチラ




 タイルの微妙な色ムラがグラデーションとなって建物の表情を変化させている。


 南面を通って東側に回ってみます。


 背面の様子。 この建物は未完成のまま今日まで来ているそう。






 冒頭に紹介した解剖台の記念碑はここにあります。 この写真は6年前のものなので3枚上の写真には写っているバリアフリー対応のスロープはまだ設置されていません。


 表面に刻まれた放射状の溝は血を流す為のもの。 中央の穴から下に血を落とす仕組みになっていました。


 この解剖台は長與名誉教授の設計によるもので、大正4(1915)年5月から昭和13(1938)年5月まで23年間使用された4台のうちの1台である…。


 医学の進歩は先人達の自己犠牲的精神の元に築かれている。 その事実を噛み締めると胸が熱くなっていく。


 三浦守治(1857~1916)。 福島県生まれ。ドイツに留学し病理学を専攻、帰国後に病理学教室の初代教授となった。

 山極勝三郎(1863~1930)。 長野県生まれ。ドイツに留学し病理解剖学を専攻。 特に癌の研究で大きな功績を挙げた。

 長與又郎(1878~1941)。 東京神田の生まれ。幕末・明治期の著名な医者であった長與專齋の三男。 やはりドイツに留学し、帰国後に東京帝国大学の病理学教授。 癌研究の世界的権威であった。

旧生田医院

2013-02-07 19:55:47 | 徳島・高知


 三角屋根と黄色のモルタル壁が印象的なこの建物は昭和15(1940)年の建築。 戦時色が色濃くなり「贅沢は敵だ」という標語が国民に強く押し付けられた年に完成した建物になります。 今は薄汚れてしまっていますが、建った当時は暗い世相を振り払うかのように明るい色の建物であったろうと想像してしまいました。  徳島県板野町那東  13年01月中旬



 どっしりと落ち着きのある玄関ポーチ。




 ポーチの内側は白っぽく塗られています。 横の窓が板で塞がれていなければもっと明るいのに。


 誰も住んでいないような雰囲気です。




 屋根裏の明り取り用の窓。


 屋根の一部がめくれ上がっている造形。 ここに窓や換気口が無いという事は単純に室内の天井高を稼ぐ為の処理なのでしょうか。 


 僅かに見えた裏側はかなり草臥(くたび)れたもの。 行く末が心配されます。

原田産業大阪本社ビル

2013-02-05 19:21:18 |  大阪府


 創立は大正12(1923)年という貿易商社(当時は原田商事)の本社屋として昭和3(1928)年に完成。 2階建ての小規模な建物ですが非対称のファサードに手の込んだ細部意匠を取り入れて欲動感を演出しています。 設計者の小笠原祥光は明治8(1875)年生まれ(当初の名前は鈅・ますみ)で工手学校の建築科を卒業、鉄道院に長く勤めて東京駅(大正3年開業・1914)の建築工事には鉄道院側として参加しました。 大正4(1915)年に住友の技師に転じて同10(1921)年には住友を退職、小笠原建築事務所を開設して主に大阪で活躍した建築家であったようです。  大阪府大阪市中央区南船場2-10-14  08年01月上旬他

 ※参考 『関西の近代建築 ウォートルスから村野藤吾まで』 1996
     『大大阪モダン建築』 2007



 建物も永く使われていれば所有者や用途の変更はあるものですが、建設以来、同じ企業により同じ用途(本社ビル)として使われているのは珍しい事だそう。   






 一般には公開されていない建物ですが原田産業のHP内の「ギャラリー」に非常に美しい内部の様子が紹介されています。


 大きな縦長窓の内側は吹き抜けの階段室。 この空間を作り出したくて入口を正面ではなく右に寄せたのかも。


 小笠原祥光は渡辺節の事務所に短期間だけ在籍していた事もあり、村野藤吾とも仲が良かったと伝わります。


 こちらは大阪府池田市にある旧池田実業銀行本店(現・いけだピアまるセンター 大正14年築・1925)。 設計の小笠原鈅が小笠原祥光と同一人物である事に最近気が付きました。 名前が変わった時期・理由までは調べきれていません。




 こちらも同じく池田市にあるK家住宅(昭和5年築・1930)。 調べた文献には設計/施工・小笠原建築事務所と記載されており、事務所の作品リストにも条件がほぼ合致する件名があるので恐らく小笠原祥光の作品だろうと思います。


 この大邸宅を建てたのは酒蔵業者。 そちらの個人名で検索してみましたが情報は見つけられませんでした。


 ミステリー小説の舞台にでもなりそうな雰囲気を持っています。


 個人邸っぽい(?)ので控え目に観察。 人が住んでいるのかどうかも良く分かりませんが…。


 

 構造はRC造でスクラッチタイルを張っています。


 小笠原の作品は内部装飾の密度が高くダイナミックな造形で顧客からは好評だったよう。 この邸宅も内部は凄いのかもしれませんね。