京品ホテル

2013-07-30 19:27:48 |  東京都


 一日平均で33万人もの乗車人数(2012年度・JR)を誇る品川駅前にかつて存在していたレトロホテル。 早稲田大学教授であった吉田享二(1887~1951)の設計、清水組の施行により昭和5(1930)年に建てられたもので、当初の客室は畳敷きで旅館形式の宿泊施設であったそうです。 戦後は米軍により接収され、その後に室内を和風から洋風へと衣替えして近年までホテルとして営業を続けていました。  東京都港区高輪4-10-20  09年03月中旬

 ※参考『東京 建築懐古録Ⅰ』 1988
    『港区の歴史的建造物』 2006

 ※現存せず。



 第一京浜(国道15号)を挟んで京急・JR両品川駅のほぼ正面という抜群の立地条件にありました。


 吉田享二は戦後に建築学会会長(1949-50)も務めた建築材料学の権威。
 

 内・外観とも度重なる改修を受けており、特に昭和63(1988)年には外壁タイルを含めて室内にも大改装が行われ当初の面影を残すのは階段ホールくらいだったともいわれます。


 平成20(2008)年10月の廃業決定後も従業員達が自主的に営業を続けるという異常事態に発展、従業員達に対する建物明け渡しの強制執行が行われたニュースは記憶にまだ新しい。


 建物は完全に解体され、現在は跡地にパチンコ屋が建つ。
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野村証券本店(旧日本橋野村ビル)

2013-07-02 07:08:05 |  東京都

 
 野村財閥の二代目・野村徳七(1878~1945)によって大正7(1918)年に設立された大阪野村銀行(現・りそな銀行)の証券部が同14(1925)年に独立し、その東京進出の足掛かりとして日本橋の袂に建築された建物(昭和5年築・1930)。 大阪を中心に活躍した建築家・安井武雄(1884~1955)の東京における第一作にあたります。 SRC(鉄骨鉄筋コンクリート)造地上7階地下2階、1階を五島産の砂岩貼りとし2~6階までをタイル貼りとした建物は量感に溢れ、預金証書や有価証券を保管するという使命を全うするに相応しい頑強さを見た目にも表しています。  東京都中央区日本橋1-9-1  09年03月中旬他

 ※参考『総覧 日本の建築3 東京』 1987
    『東京 建築懐古録Ⅲ』 1991
    『関西の近代建築 ウォートルスから村野藤吾まで』 1996
    『日本建築家山脈』(復刻版) 2005



 安井武雄は千葉県佐倉市の生まれ、東京帝国大学の建築学科を卒業(明治43年・1910)後は南満州鉄道建築課技師となり大陸へと渡る。


 同期14人の中で上から3番目と成績の悪くなかった安井が満州まで下らなければならなかったのは、不文律の伝統に反して卒業設計に木造の和風住宅というテーマを取り上げた為、教授達から反感を買ってしまったからだといわれています。


 大正8(1919)年、安井はかつての級友・波江悌夫の誘いを受けて大阪の片岡建築事務所へと転じ5年間在籍。 その間に手掛けた野村財閥の仕事から創始者・野村徳七の信頼を勝ち得て大正13(1924)年に安井武雄建築事務所を開設して独立します。


 様式に従う事を否定し「自由様式」という独自の作風を追求した安井ですが、この野村証券本店の設計に於いては施主側から変更案の逆提示を受けたもののそれを突っぱね、最終的には野村徳七の指示により安井の原案が通ったという逸話も残っているそう。 
 



 敗戦後の昭和21(1946)年から同28(1953)年まではGHQに接収され、「リバービューホテル」という名前で士官などの宿舎にあてられる。


 関東大震災後の着工、しかも地盤の弱い橋詰めでの工事という事もあり水漏れなど建設には幾多の難関にも直面する。 支柱には1本18トンという巨大な鉄骨を使用し、その見た目の逞しさから「軍艦」と称されるほどでありました。
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旧前田利為侯爵邸洋館②

2013-03-13 18:47:46 |  東京都

 …前回からの続き
 

 階段途中にある装飾。


 2階ホールに上がってきました。 普通の邸宅では有り得ない広さです。


 赤紫色の絨毯が格調高い。


 まずは南東側の部屋から時計回りに見ていきます。


 庭園に面した南東の部屋は利為夫妻の寝室でした。


 前田家時代の家具や調度品は残っていなかったようなのでベッド等は全て再現品と思われます。




 絨毯が敷かれている部分は最初からその厚み分だけ低く作られていて床との段差を無くしています。


 暖炉は丸みを強調した柔らかなデザイン。


 

 西隣りは旧婦人室。


 

 葡萄唐草のレリーフだそうです。


 グリルのデザインは小菊。


 こちらも花柄に見えますね。


 

 緻密。


 窓の外はベランダになっていますが出る事は出来ません。


 隣りに移動して旧次女居室。


 前の2部屋に比べると随分狭く感じてしまいます。




 存在感タップリ。 ちなみにグリルに描かれた梅(梅鉢)は加賀前田家の家紋だそう。


 台座の天井レリーフは八芒星。


 一番南西の部屋は書斎でした。 ここはその前室にあたります。




 壁は床の間風。


 利為候の旧書斎。


 主の部屋に相応しい設えです。




 玉を抱いた龍の姿がありました。






 書斎の北側は旧長女居室。 ちょうど正面の車寄せの上の部屋にあたります。








 長女居室の隣りの部屋。 見るからに寒々しいこの部屋は物置か何かでしょうか。


 旧三男居室。




 廊下の窓から見ると建物の平面は中庭のあるロの字型をしているのが良く分かります。

 


 

 三男居室の北側は階段を挟んでフロアが半階低くなっています。 床の高い南側が家族の個室で、低い方の北側が主に使用人の部屋になっているようです。




 階段下の1階部分は非公開エリア。


 主階段よりは遥かに質素です。 


 一番北西にあたる部屋は旧会議室。


 お隣りのこの和室は旧女中部屋でした。


 中庭を通して向こうに見える縦長窓は主階段室の窓。


 この部分です。


 北東にもう一つ女中用の和室がありました。 この邸宅で暮らした前田家の家族は6人でしたが、使用人は住込みと通いを合わせて140人いたそうです。 想像していたのとは桁が一つ違いました。


 3階へ上がれる階段も通行禁止。


 この下も非公開エリア。


 イガイガしてる。


 旧三女居室。


 大食堂の上の部屋なのでラウンディッシュ。


 最後の部屋は旧浴室。 2階で一番最初に見た夫妻寝室と三女居室の間です。




 バスタブも何も無い部屋でした。


 左に見える階段上の透かし窓は仏教的なモチーフである宝相華唐草。




 階段を下ります。


 

 室内用のスリッパから靴に履き替える時に見つけた天井装飾。
 

 

 外に出て北面を見てみます。


 使用人用の裏玄関が二つ。
 

 

 厨房などのある地下部分。


 見上げた図。




 今度は南に回ってきました。


 当初は本郷に構えていた加賀藩前田家の上屋敷(大名屋敷)ですが、明治4(1871)年の廃藩置県により敷地の大半が収公(没収)されて文部省用地となり、そこに東京大学のキャンパスが整備されました。 それでもなお前田家は敷地の一角に屋敷を構えていましたが、関東大震災(大正12年・1923)の発生により東大本郷キャンパスの建物が壊滅的な打撃を受け、その復興計画の為に更なる敷地の必要性があった事から大正15(1926)年に敷地交換が行われこの駒場に移ってきたのでした。






 

 素朴な風合い。
 

 翼のあるライオンが上から睨みを利かしていました。


 利為の戦死後は土地・建物は人手に渡り、敗戦後は連合軍に接収され司令官官邸として使われました。 利為がこの立派な邸宅で家族と暮らしたのは十数年に過ぎなかった計算になります。
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旧前田利為侯爵邸洋館①

2013-03-06 08:00:00 |  東京都

 
 昭和4(1929)年に旧加賀藩主・前田家16代当主の利為(としなり)の本邸として建設された洋館。 裏手に和館を配した和洋並立型の住宅となっています。 洋館はイギリスの中世後期ゴシック様式を簡略化したチューダー様式といわれる建築スタイルで、建てられた当時は東洋一の大邸宅と謳われました。  東京都目黒区駒場4-3-55  06年09月上旬他

 ※参考『お屋敷拝見』 2003



 敷地は現在、目黒区立の駒場公園となっています。


 正門の脇には門衛所。


 門衛所の脇の非公開エリアの奥には、前田育徳会事務棟(図書閲覧所 昭和3年築・1928)など3棟の建物も残ります。


 前田利為(1885~1942)は学習院から陸軍士官学校を経て昭和11(1936)年には陸軍中将、同17(1942)年にボルネオ守備軍司令官となるが搭乗機の墜落により帰らぬ人に。




 利為はイギリスでの生活を長く経験し、新邸の建設にあたっては外国人客をもてなすのにも相応しい建物を希望、洋館の設計を東京帝国大学教授の塚本靖(1869~1937)に依頼しました。


 建物の実際の設計は塚本の愛弟子で大正5(1916)年に東京帝国大学の建築学科を首席で卒業した高橋貞太郎(1892~1970)が担当しています。


 車寄せの天井照明。


 中へ入ってみます。


 主灯には唐草模様。


 右手の部屋は旧応接室。


 暖炉の上の大きな鏡が部屋を一層広く見せています。


 

 応接室の奥にはもう一つ小さな応接室がありました。


 

 この楕円の円柱状のものは暖房用のラジエーターカバー。


 女性的な繊細さ。






 

 柱頭はアカンサスをモチーフとしたコリント式。 イタリア産の大理石で出来てるそうです。


 旧応接室の隣りには小サロン。


 各部屋で意匠も全て異なります。






 大サロンが続いています。 境目の引き込み戸で客の数に合わせて部屋の広さを調節したようです。


 今度は大サロンから小サロンを見ています。




 

 グリルのデザインは唐草に梅? 和風チックですね。


 外はテラスになっています。


 葡萄と蔦の葉。


 

 どちらに行こうか。


 運命の分かれ道。
 

 右の扉から旧大食堂へ。


 鋳鉄製のフードが付いた白大理石の暖炉。




 ここだけ何故か近付けません。




 立入禁止の訳はこの暖炉の両脇のブラケットのある部分には金唐紙が貼られていたのでした。 金唐紙というと主に明治期の壁紙(技術)という認識でしたので、まさかここに貼ってあるとは思いもしませんでした。 ブログを書くのに調べていたら知った事なので肝心な部分の写真を撮っていません。。 


 暖炉の向かいの窓は緩くカーブしています。


 外から見るとこの部分。


 光のプリズム。




 この部屋は壁に木パネルを高い位置まで廻らせていて厳かな雰囲気です。




 大食堂の隣りは小食堂。 家族の日常的な食事はここで行われていました。






 造り付けの食器戸棚。 この戸棚の中には地下の厨房から料理を運ぶリフトが設けられています。


 ここにも葡萄の彫り物がありました。


 小食堂の外には裏の和館への渡り廊下があります。


 フェンスで遮られた空間なので外から見えるのはこれくらい(南面)。


 北側から見た渡り廊下。


 渡り廊下部分。 通常は非公開エリアで立入り出来ません。


 瓦屋根の和館が見えています。


 この階段を下りていけば和館。


 洋館の翌年に完成した和館。 こちらの設計は帝室技芸員であった佐々木岩次郎が担当しました。 和館は日常的な生活の場では無く、外国人の接待や雛祭り・端午の節句といった家族の伝統的行事を行う際に使われたそうです。 写真の量が多くなりすぎてしまうので今回は割愛。


 渡り廊下の途中にあった造り付けのベンチ。 夏場はヒンヤリして気持ち良さそうです。




 洋館の2階から見るとこんな感じ。 先程のベンチがあった所です。


 こちらも普段は非公開の壁泉。


 羊の口から水が出るのでしょうね。




 小食堂に戻ってきました。


 

 玄関ホールと一体となった階段広間。


 階段下はイングル・ヌックと呼ばれる暖炉とベンチのある小さな空間。


 淡い黄色のステンドグラス。








 



 次回は2階を紹介します。
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東京大学医学部2号館(本館)

2013-02-18 20:04:35 |  東京都


 「この解剖台はわが病理学教室を創設し東京帝国大学の病理学の教授の椅子に初めて就かれつる三浦先生 その後を継ぎて癌に関する世界的業績を挙げられつる山極先生 教室を拡大し完備しわが国病理学の光輝を内外に発揚せられつる長與先生の三先生が多年傍に立ちて親しく後進の研究を指導振奨せられし所のものなり 且つ三浦山極両先生は身を斯学の為に献ぐべくその最期をこの台上に横たへられきかくも尊き台なるをもて三先生の偉大なる功績を伝へまく不朽の記念として茲に之を保存す わが教室に入らむ者は朝に夕に恩徳を仰慕すべきなり  昭和十六年十二月 病理学教室」  東京都文京区本郷7-3-1  07年02月上旬他

 ※参考『東京大学 本郷キャンパス案内』 2005



 東京大学・本郷キャンパスの敷地の大半は元の加賀藩・前田家の上屋敷の跡地。 ここに東大の前身校のひとつである東京医学校が移転してきたのは明治9(1876)年の事になります。 この東京医学校と神田にあった東京開成学校という二つの官立専門学校が合併して東京大学が誕生したのは明治10年の事でした。


 東大のシンボルでもある赤門(国重要文化財)を抜け、ほぼ真っ直ぐに歩を進めると今回の主役が見えてきます。 前庭がある建物はキャンパス内でも限られた特別な建物だけ。


 医学部2号館(本館)、昭和12(1937)年築。 後に東京帝国大学の総長を務める事になる内田祥三(1885~1972、当時は東京帝国大学営繕課長)の設計になります。


 白い玄関アーチがリズミカル。


 現在の建物は医学部にとっては2代目の本館。 初代の建物は小石川植物園に移築されたコチラ




 タイルの微妙な色ムラがグラデーションとなって建物の表情を変化させている。


 南面を通って東側に回ってみます。


 背面の様子。 この建物は未完成のまま今日まで来ているそう。






 冒頭に紹介した解剖台の記念碑はここにあります。 この写真は6年前のものなので3枚上の写真には写っているバリアフリー対応のスロープはまだ設置されていません。


 表面に刻まれた放射状の溝は血を流す為のもの。 中央の穴から下に血を落とす仕組みになっていました。


 この解剖台は長與名誉教授の設計によるもので、大正4(1915)年5月から昭和13(1938)年5月まで23年間使用された4台のうちの1台である…。


 医学の進歩は先人達の自己犠牲的精神の元に築かれている。 その事実を噛み締めると胸が熱くなっていく。


 三浦守治(1857~1916)。 福島県生まれ。ドイツに留学し病理学を専攻、帰国後に病理学教室の初代教授となった。

 山極勝三郎(1863~1930)。 長野県生まれ。ドイツに留学し病理解剖学を専攻。 特に癌の研究で大きな功績を挙げた。

 長與又郎(1878~1941)。 東京神田の生まれ。幕末・明治期の著名な医者であった長與專齋の三男。 やはりドイツに留学し、帰国後に東京帝国大学の病理学教授。 癌研究の世界的権威であった。
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新田ビル

2012-11-27 20:40:49 |  東京都


 新田帯革製造所の東京出張所として昭和5(1930)年に建設され、平成17(2005)年に姿を消したオフィスビル。 地上五階・地下一階、新田帯革(ベルト)製造所及びベニヤ製造所の事務所、工場兼倉庫として使用され、当初は建物の正面にあたる北西角屋上にはアーチをめぐらした塔屋(鐘楼)が備わっていました(昭和60年・1985に撤去)。 また外からでは分かりませんが建物の平面はロの字型をしており、中央部分は1階から最上階まで吹き抜けで天井はガラス屋根になっていました。 しかし後に1階の吹き抜けは部屋に改造され、この部分と搬入スペースの上には中2階が増築されたようです。 吹き抜けは現代のような照明器具・換気設備が無かった時代に採光と通風を確保する為のアイデアであり、それによって良好な室内環境を実現していました。   東京都中央区銀座8-2-1  05年04月上旬

 ※参考『銀座八丁目の75年 新田ビルの建築記録』 2007
    『東京&横浜の長寿建築』 2004



 訪問・撮影したのは2005年の4月2日。 惜別会(見学会)も終了し解体着手の寸前に滑り込みで間に合いました。 写真歴、実質2か月未満、手振れ補正無しのカメラでしたのでボケまくっています。。


 1階部分には11の大きなアーチが並ぶ。 当初は一番左がベニヤ部のショーウィンドウで中央(北西角)がベルト部のショーウインドウでした。


 裏手(東口)にあった通用口。


 設計の木子七郎((1884~1954)は新田帯革製造所の創業者・新田長次郎(1857~1936)の娘婿にあたる。 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、大林組を経て大阪に自身の建築事務所を開設し新田家の建築顧問としても活躍した。


 塔屋があった頃の姿(『銀座八丁目の75年』より)。 明治5(1872)年の銀座大火により生まれた「銀座煉瓦街」は大正12(1923)年の関東大震災により壊滅、バラック建築を経て震災復興期には耐震耐火建築が競うように建てられた。 更には関西資本のカフェーやキャバレー、割烹が銀座に進出、煉瓦街とは趣を異にするモダンな街並みが現れる事になります。
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旧東京医学校本館

2012-11-06 19:00:52 |  東京都


 東京大学医学部の前身校である東京医学校の本館として明治9(1876)年に建設。 当初は現在の東大医学部附属病院の南端辺りに建っていましたが、明治44(1911)年に赤門の脇に建物の規模を縮小して移築されました。 昭和3(1928)年以降は大学の営繕課や施設部の事務棟として使われ、昭和40(1965)年に解体された後、昭和44(1969)年に現在地に再建。 平成13(2001)年に東京大学総合研究博物館小石川分館となって広く一般にも公開されるようになりました。  東京都文京区白山3-7-1 10年01月下旬

 ※参考『総覧 日本の建築 第3巻/東京』 1987
    『出会いたい東京の名建築 歴史ある建物編』 2007
    『続 首都圏 名建築に逢う』 2009
    『東京建築物語』 2008



 小石川植物園の北西側、日本庭園の池越えに紅白の建物が見えてくる。


 換気塔。 当初は四面に時計を配した大きな時計塔がありましたが明治44年の移築時に改変されました。


 古写真を見るとこの扉の上には楕円状のファンライトが設置されていた事が分かります。
 

 手すりに擬宝珠が付け加えられたのも移築時の事。


 当初は白一色の外壁でしたが赤門脇に移築された時に景観を揃える為に(?)2階部分が赤く塗られたという。


 中に入るには植物園を一回出なければなりません。 再入場不可なので要注意。




 ジョサイア・コンドルがお雇い外国人として英国から来日し、工部大学校造家科(のちの東大工学部建築学科)で教鞭を執るようになるのは明治10(1877)年。 来日1年前に竣工したこの建物は東京医学校営繕係の設計による擬洋風建築と呼ばれるものです。 


 欄間の透かし彫りは和テイスト。




 内部はすっかり改装されています。


 1階の展示室。


 この柱は古材を利用しているのでしょうね。


 



 見上げると小屋組みも露わになっています。


 グロ注意。。






 展示品には解説が殆んどありません。 学術的な解説を読む事に満腹感を覚えるよりも、自分の目でつぶさに観察し何かを考える事に重きを置いた展示になってるようでした。 


 太平洋戦争以前にベルギーから寄贈されたという地球儀。 


 赤門脇に半分ほどに縮小移築された際、残り半分の建物は学士会館(千代田区)へと移築されたそう。 しかしそれも後年に焼失してしまったようです。
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博報堂旧本館

2012-06-27 19:22:18 |  東京都


 創業は明治28(1895)年という老舗広告代理店の本社屋として昭和5(1930)年に完成。 3階部分にまで伸びた4本の円柱と南東の隅に聳えるアールデコ風の塔屋が印象的です。 設計の岡田信一郎(1883~1932)は東京帝国大学を卒業後は西洋建築史、特に古典主義の研究に取り組み、建築家としてよりも研究者を目指していたといわれます。 しかし病弱なため憧れであった渡欧の夢は叶わず、また元芸妓で「日本一の美人」と謳われた萬龍(田向静)との結婚により周囲から批判を受け、希望していた東大での研究職のポストは断念して建築家として本格的に歩み始める事になったそうです。 昭和7(1932)年に早すぎる死を迎える事になる岡田にとって晩年の作品であったこの建物は、平成22(2010)年、残念ながら取り壊されてしまいました。  東京都千代田区神田錦町3-22  06年03月中旬他

 ※参考『近代日本の異色建築家』  1984
 ※現存せず。























 ネットを被る前の姿が2006年03月に撮影したもの。 
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吉川英治旧宅・草思堂

2012-06-16 13:36:06 |  東京都


 『宮本武蔵』『三國志』などの執筆で多くの読者を集め国民文学作家として親しまれた吉川英治(1892~1962)が、疎開の為に昭和19(1944)年から同・28(1953)年まで家族と共に暮らしていた邸宅。 元は地元の養蚕農家であった野村氏が弘化4(1847)年に建てたものでしたが幕末に土台を残して焼失、現在の建物は明治初期に建て替えられたものになるそうです。  東京都青梅市柚木町1-101-1  11年02月上旬

 ※参考『東京建築懐古録Ⅲ』 1991
    『昭和史の住宅』 1989



 受付を済ませ門をくぐると正面にあるこの建物が「草思堂」。 草紙(書物などの意)をもじって英治が命名しました。 


 玄関の敷居を跨いで中へ。


 建物内には上がれないのでここからガラス戸越しに見学する事になります。












 草思堂の東側にある井戸。 丸太で組んだあずま屋を被せたのは英治の時代。


 英治がこの屋敷を買い取ったのは昭和15(1940)年ころ。 昭和13年という資料もあります。




 新聞広告でこの建物が売りに出されているのを知って文子夫人が一人で見に行き、梅の木が沢山ある事を話しただけで英治も気に入り購入したという。 敷地は観梅で有名な吉野梅郷の西端に位置しています。


 庭園を含めた敷地はおよそ1700坪。 少年時代に不遇をかこった英治は自分の子供達は田舎でのびのび育てたいと願っていたようです。


 樹齢500年を超えるシイの木の下は英治のお気に入りの場所のひとつ。


 明治中期に建てられた洋間の離れ。 野村氏の時代のものです。








 足元には瀬戸で焼かれた本業タイル。










 洋間には書斎が復元され愛用していた文具類などが当時のままのように置かれています。
















 日本の敗戦による衝撃から断筆し、夫人と共に晴耕雨読の生活を2年間続ける。 戦後の代表作である『新・平家物語』の執筆を始めたのは昭和25(1950)年、英治の本当の再出発はそこから始まっていく事になります。


 志賀直哉の勧めもあってやがて熱海へと居を移す事になりますが、村人(当時は吉野村)たちとの親交も厚く、一家が村を去る時には300人を超える村民が庭に集まり別れを惜しんだという。
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旧大久野郵便局

2012-04-10 18:53:42 |  東京都


 昭和10(1935)年に大久野郵便局が開局した当時の建物。 平成3(1991)年から「おおぷなあ」という店名で組み木絵などを展示するギャラリー&喫茶になっていましたが平成22(2010)年の11月をもって閉店、訪問時は空き家になっていました。  東京都日の出町大久野1177  11年02月上旬



 木造2階建て(一部平屋)の下見板白ペンキ仕上げで屋根は方形。 地方などで良く見られるタイプの局舎です。 


 「郵便」「電信」「為替」…そういった単語が書かれたプレートがここに吊るされていたのでしょうね。






 言葉に救われる。


 扉は今も閉ざされたままなのでしょうか。 今後が気になります。

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旧第一金庫本店

2011-08-30 07:02:46 |  東京都


 「市谷柳町」交差点の窪地の底から大久保通りを少し東に上がった所にあるこの建物は、大正14(1925)年に第一金庫(後の帝都信用金庫)の本店として建てられたもの。 戦後は現在は向かいにある柳町病院が病院として使用し、平成元(1989)年に飲食店になるにあたって改修されました。 資料によると木造2階建てで1階部分には大谷石が用いられているそうです。  東京都新宿区市谷柳町1  11年03月上旬




 正面上部にある装飾。 古写真を見ると社章のようなレリーフがありました。


 現在は洋菓子店とレストランとして使用。




 正面西側、この上の部分にはドームがあったという。




 設計者は不詳ですが寸法がインチで計画されていて英国人の設計と伝えられています。

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エチソウビル

2011-07-30 18:50:48 |  東京都


 本郷通りと春日通りが交差する「本郷三丁目」の交差点の少し南側に位置するこのビルは、糸屋・越前屋の店舗として大正13(1924)年に建設されたもの。 大正13年という事は関東大震災の翌年という事でもあり、創業者・越前屋惣兵衛からエチソウビルと名付けたのはゼロからの出発に先立って初心を忘れぬ為の決意の表れのようにも思えます。 毛糸類の卸から小売りまでを行い、東京でも屈指の有名な糸屋であったそうですが戦争によって店は閉業、戦後はテナントビルとなって現在に至っています。  東京都文京区本郷2-39-7  11年01月中旬

 ※参考 『文京・まち再発見 近代建築からのアプローチ』(特別展図録)  1998
 



 本郷通りに東面。 落葉しきった冬場が絶好の鑑賞シーズン。 






 軒についてる歯型の飾り(デンティル)が特徴的。


 良く見ると看板は「ヱチソウ」。 「ヱ」は平仮名の「ゑ」、正確には「うぇちそう」ビルとでも発音するのでせうか。。
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松山ビル

2011-04-02 14:05:41 |  東京都


 昭和4(1929)年に清水組の設計施工により建てられた事務所ビル。 建物があるのは関東大震災(大正12年 1923)発生時に火災旋風(炎の竜巻)により4万人もの死者を出した旧陸軍被服廠跡地(現・横網町公園)から南に僅か500メートルほど行った辺り。 焦土と化した光景からの復興を願ったであろう建物内には未来へ向けた明るい空間が内包されていました。  東京都墨田区緑1-16-4  11年03月下旬



 建物全景。 不況のあおりで都内各所でも空白の広告看板を目にする事が多くなりました。


 遠目にこのステンドグラスらしきものに気付いたのが中に入ってみようと思ったきっかけ。


 近くに取引先があるのでずっと前から気になっていた建物でしたが、訪問するのはこの時が初めて。


 床のモザイクタイル、階段の親柱から手すりへと続くデザインが期待感を高めます。


 外からはステンドグラスに見えましたが、実際はガラスに直接色を塗っているみたい(あるいはセロファン?)。 所々で膜が剥がれているのも味があります。




 窓絵の図案はアールデコ。 階段部分との取り合いを考えると創建当初から描かれていたものなのでしょうか? 


 お約束の一枚。 郵便受けを見ると空室ばかりなのが少し心配です。
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カトリック泉町教会

2011-04-01 21:30:02 |  東京都

 
 明治10(1877)年に横浜のテストヴィード神父の洗礼を受けた信者により創設されたという泉町教会。 翌年に完成した会堂は明治25(1892)年に起きた村の大火で焼失、現在の物は昭和2(1927)年にテストヴィード神父宣教50年を記念して再建されたものになります。  東京都八王子市泉町1287  11年02月下旬





 1877―1927  この会堂が建った昭和の初め、村人の7~8割がカトリック教徒だったという。








 とても綺麗に改装されています。




 フランス革命の頃のものといわれた聖堂の鐘は戦時中の金属供出で失われる。


 この教会が建ったのはメイラン神父の時。 神父の設計により明治43(1910)年に建てられた入間宮寺教会(埼玉県入間市)と姿かたちが非常に良く似ていて、双子の教会という例えも素直に肯けます。
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慶應義塾大学図書館旧館

2011-03-27 18:14:41 |  東京都


 安政5(1858)年、福澤諭吉(1835~1901)により築地鉄砲洲(現・中央区明石町)に開かれた蘭学塾が慶應義塾の起源だそう。 塾は明治4(1871)年に三田に移転、この建物は慶應義塾創立50周年記念として計画され、曾禰中條建築事務所の設計により明治45(1912)年に完成したものです。  東京都港区三田2-15-45  11年03月下旬他  



 赤煉瓦に花崗岩を組み合わせたゴシック様式の建物。 現代の目から見ると古(いにしえ)の亡霊のような建築にも思えます。  


 ペンをクロスさせた慶應のロゴマーク。


 昭和57(1982)年に新図書館が完成したので現在は会議室等として使用されているみたい。


 玄関左上には塾創設年の1858。


 同じく右上には図書館が計画された1907の数字が刻まれる。


 蝶番を見ると屋根窓は横開き。


 南東側に聳える八角塔。 装飾豊富な建物なので目立つ存在ではありません。




 屋根には風見。 訪問日は風が強くてキィーキィーと音を立てていました。


 

 

 玄関上の尖頭アーチ部分。
 

 緊張感を持ったまま内部へ足を踏み入れる。
 

 その前に郵便受け。 これは古いかどうか?です。


 中へ入ると正面には黒大理石の3連尖頭アーチ。


 右手には地下へ通じる階段も。


 可憐な花びら。 春よ、来い。


 天井の換気口デザイン。


 階段を横から見た図。


 階段親柱。 これもゴシック?


 柱頭はコリント式。


 階段踊り場のステンドグラス。 下部にはラテン語で「ペンは剣よりも強し」。 馬を降りた古武士がペンを手にした自由の女神を迎え入れる図案で近代文明の夜明けを象徴的にあらわしたもの。 東京美術学校教授・和田英作の原画をもとに小川三知(1867~1928)が製作、しかし戦災により失われ、現在のものは昭和49(1974)年に小川派の大竹龍蔵により復元されたとの事。


 少し分かりにくい写真ですが、照明器具の下の部分は四つ葉をデザインしたものだそうです。
 

 節電の影響で暗いわけではありません。 希望の光が射し込んでいます。


 

 

 向こうには同じ曾禰中條建築事務所による塾監局(大正15年 1926)。


 玄関脇にある福澤諭吉像。


 薔薇窓のような時計の文字盤にはラテン語で「TEMPUS FUGIT」(光陰矢の如し)。


 開館当初から一般公開を前提としてきた建物。 扉は開かれています。 
コメント (5)
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