旧第五十九銀行本店

2012-11-08 19:10:57 | きた東北 (青森・秋田・岩手)


 明治12(1879)年に弘前市本町に設置された第五十九国立銀行が、株式会社に改組した後、同37(1904)年に現在地に移転した時に新築した建物。 昭和18(1943)年に県内5行の合併により青森銀行が誕生するとその弘前支店として使用され、その後、支店店舗改築に際して取り壊される予定でしたが地元からの保存要請もあり、同40(1965)年に建物を90度回転して西側に50メートル曳家、青森銀行記念館として保存・公開されるに至りました。  青森県弘前市元長町26  07年04月下旬他

 ※参考『総覧 日本の建築 第1巻/北海道・東北』 1986
    『青森県の暮らしと建築の近代化に寄与した人々』 2007
    『棟梁 堀江佐吉伝』 1997



 総工費6万7千7百余円(当時)、設計・施工は堀江佐吉(1845~1907)によるルネッサンス様式の木造建築。 柱などは全て県内産のケヤキ材を使い、建具にはヒバ材を使用しているという。


 平面はL字型、窓に土を漆喰で固めた引戸を二重に取り付けるなど防火対策にも余念がない。 堀江佐吉59歳、若かりし頃に函館へ出稼ぎし西洋建築の基礎を学んだ彼の晩年の集大成ともいうべき代表作品。


 展望台を兼ねた屋根窓。






 カウンターで仕切られた客溜り部分へ。


 昭和60(1985)年に修復・復元工事が行われているので内外とも綺麗です。


 1階展示室。


 シャンデリアは旧偕行社に取り付けてあった器具を参考にした複製品。


 背面には小さな庭園もあります。




 この金庫は旧第五十九銀行三本木支店で大正7(1918)年から使われていたもの。


 

 丸柱の柱頭デザインはアカンサスみたい。 客溜り(白)と営業室(ラクダ色)で室内が塗り分けられているのも面白い。




 特徴的な折曲がり階段。 復元されたもののようです。


 

 振り返り。


 踊り場からの風景。


 

 右下の色が違う部分が復元された箇所なんでしょうか?
 

 最初の小部屋に入ってみる。


 フランスから輸入したという応接セットがありました。


 こちらは隣りの小会議室。


 天井には金唐革紙が貼られています。


 大会議室は14.5メートル四方という文字通りの大空間で間に柱が一本も立っていない。 佐吉の腕の見せ所のひとつ。 


 ここにも金唐革紙。


 ほのかな光に照らされて。




 屋根裏への階段もありました。


 こちらは公開されてません。


 順路に従って大会議室を出ます。




 

 

 足元へと視線を落す。


 美しい。


 室内なのに青空が広がっていた。


 隣りの展示室には棟札も飾られています。


 棟梁・堀江佐吉の銘が入るこの棟札も建物と同じく重要文化財指定。


 そろそろと降りていく。




 頭取室(非公開)へと続く廊下にはアーチが用いられている。




 正面からの全景。


 屋根には雪止めを兼ねて手すり壁が廻っている。


 

 夜だと屋根が「消えて」また違った建物のようにも見えます。


 工事中に日露戦争(1904~05)が勃発、戦時下の軍都・弘前で堀江家(堀江組)あげての一大工事であったという。

旧盛岡貯蓄銀行本店

2012-08-22 19:04:58 | きた東北 (青森・秋田・岩手)


 大正10(1921)年に設立された盛岡貯蓄銀行の新社屋として昭和2(1927)年に完成。 設計は地元・盛岡出身の葛西萬司(葛西建築事務所)が担当しました。 盛岡貯蓄銀行は昭和10(1935)年に岩手貯蓄銀行と改称、同・18(1943)年には一切を岩手殖産銀行(現在の岩手銀行)に譲渡解散し、建物は昭和33(1958)年に盛岡信用金庫が購入しその本店として使用され現在に至っています。  岩手県盛岡市中ノ橋通1-4-6  11年08月中旬他



 一部にレンガや鉄骨を使っていますが基本構造はRC造。 関東大震災以後の銀行建築ではスタンダードな構造であり、現存する大正末~昭和戦前期の銀行建築は外壁に花崗岩を使用した「白い」建物が非常に多い印象です。
 

 フェスツーン(花綱飾り)のような装飾。 中央の文字は信用の「信」に読めます。




 軒蛇腹の装飾。


 昭和の初めは金融恐慌・昭和恐慌など不穏な経済情勢を反映し、金融機関には経営の安定性を表現する為に適した古典様式の建物が好まれました。


 正面の6本の円柱は古典的、それでも柱頭は古典様式の範疇に含まれない新たなデザインが施されています。


 窓越しに内部が見えました。 中2階・中3階の小室があるようです。


 背面は立法体を積み上げたような形。


 行員通用門の扉。


 2階の応接室や扉のガラスなどにはアールデコ風の装飾もあるという。


 斜向かいの辺りにある(旧)岩手銀行中ノ橋支店(旧盛岡銀行本店 明治44年築・1911)。 葛西が恩師の辰野金吾と共同経営した辰野葛西事務所の作品。


 支店は既に移転し建物は閉鎖、今後は改装・調査された上で記念館として一般公開(約2年後?)される予定になっています。

旧藤田家別邸洋館

2012-08-21 19:49:38 | きた東北 (青森・秋田・岩手)

 
 生涯に60以上もの会社の社長や取締役を歴任、日本商工会議所の初代会頭も務め貴族院議員にまで登りつめた弘前出身の実業家・藤田謙一(1873~1946)の別邸として大正10(1921)年に建設されたもの。 最盛期には38ヶ所もの別邸を持っていたと伝わる藤田ですが、現代にその姿を見る事が出来るのはこの洋館を含む藤田記念庭園内の建物のみとなっています。  青森県弘前市上白銀町8-1(藤田記念庭園)  11年08月中旬他

 ※参考『別冊太陽 日本の別荘・別邸』 2004ほか



 正面全景。 赤い8角塔屋と玄関上まで葺き下ろした大きな反り屋根が特徴。 


 煙突は煉瓦で出来ています。


 建物の設計は名棟梁・堀江佐吉の六男である堀江金蔵、施工は同じく長男の堀江彦三郎。


 北面の張り出し。


 東面から。 1階の張り出した部分には全て赤い屋根が載っていて可愛らしい。


 玄関を入ると出迎えてくれるステンドグラス。


 靴を脱いで上がった玄関ホールには暖炉が設えてあります。


 

 天井を見上げる。


 2階は貸室なので通常は上がれません。


 階段を横から。


 建築資材は輸入材を使用ともいわれます。


 大広間。


 こちらの暖炉の前は小部屋になっていて冬場の来客を暖かく持て成します。 








 両側の背もたれの後ろには鳥をモチーフとした青紫色のステンドグラス。


 何の鳥でしょうか。


 展示室になってる部屋。


 照明器具。


 この部屋にも暖炉があります。


 

 もう一度、大広間へ。


 大広間に隣接するこの部屋と南側のサンルームは喫茶室として使われていて客足が絶えません。


 室内の壁にある装飾。


 こちらも同様。


 有料区間になっている庭園側へ。


 南面は趣が少々異なる。 写真を撮っていると喫茶室の客人達に好奇の目でガン見されるのが恥ずかしいです。。


 昭和12(1937)年築の和館。 昭和36(1961)年に板柳町にあった藤田謙一の本宅を移築したもの。


 







 大正10(1921)年築の倉庫。 現在は考古館という名称の資料展示室になっています。


 庭園は別邸建築の為に大正8(1919)年に東京から庭師を招いて造らせたもの。


 洋館や和館などのある東の高台から西の低地部を見下ろす。 見えてる景色はほんの一部に過ぎず、かなり広大な庭園になっています。


 藤田は大病を患った事もあり、50歳を境に実業を減らし社会への貢献活動をしたかったよう。 多くの寄付行為や育英事業(藤田育英社の創設)により後進を世に送り出すも、実際は実業から退く事はままならず、藤田がこの別邸で過ごした記録はほとんどなかったと伝わります。

吉浜の旧郵便局

2012-08-19 13:35:00 | きた東北 (青森・秋田・岩手)


 大船渡市三陸町、吉浜地区の旧道沿いで見つけたかつての郵便局舎(詳細不明)。 一見すると2階建てのようにも見えますが、恐らく内部は平屋建てで天井を高くとった建物と思われます。 お盆の時期を迎え西隣りのお寺には大勢の墓参客、眼下には以前と変わらぬ穏やかな表情をたたえた海がただただ広がっているばかりでした。  岩手県大船渡市三陸町吉浜上野  12年08月中旬























 

日本基督教団 秋田楢山教会

2012-07-27 07:19:01 | きた東北 (青森・秋田・岩手)


 青森県弘前市・和徳出身のクリスチャン棟梁、桜庭駒五郎の手になる教会堂(昭和2年築・1927)。 駒五郎は当初、牧師になるつもりで東京英和学校(青山学院の前身校)に入学するも卒業はせず、郷里の斎藤伊三郎(名棟梁・堀江佐吉の四男)の指導の下で大阪土木や大倉組(現・大成建設)で修行して建築の腕を磨きました。 青森や東京、岡山などでキリスト教関係の建築をいくつも手がけましたが、現存するものの中では本建築が一番新しいものになるかと思われます。  秋田県秋田市南通亀の町12-19  12年07月下旬

 ※参考『青森県の暮らしと建築の近代化に寄与した人々』 2007



 北東面。 こちらが正規の出入り口のようです。


 裾広がりの形状。






 東側に開いた出入り口。


 こちらから内部を見学させて頂きました。


 教壇上のアーチは駒五郎独特の意匠だそうです。


 天井の高い開放的な空間。


 昭和15(1940)年に施行された宗教団体法によりプロテスタント諸教派が合同し、翌年に日本基督教団が成立しています。 この教会が建てられた時は日本メソヂスト秋田教会と呼ばれていたようです。


 青森県内に無名の駒五郎作品がもうひとつ現存しているのを知りました。 今度訪ねてみようと思います。

広泰寺・不識塔

2011-08-29 20:14:33 | きた東北 (青森・秋田・岩手)


 斎藤主(さいとう・つかさ 1860~1919)は弘前に生まれ、全国各地で土木事業に従事し、晩年には凶作救済の為に西目屋奥地の開発事業を起こした事で知られる実業家。 旧弘前市立図書館の建設費用を寄附した篤志家5名のうちの一人としても知られています。 彼は横浜市鶴見にある總持寺管長・西有穆山(にしあり・ぼくざん)の下で参禅・修行を行っており、その西有管長から山形県米沢にある広泰寺が住職無住になっていて誠に惜しいという話を聞かされます。 広泰寺は元々は戦国武将・上杉謙信が開基したもので寺格は非常に高く、上杉家では代々寺領を与えて保護していましたが、主が米沢に出向いた時には既に荒れ果てて修復出来ない程の状態になっていました。 そんな中で主は寺格をそのまま譲り受けて寺を移転させようと考え、自ら住職の資格を得て広泰寺を西目屋村に再建する事になりました。  青森県西目屋村川原平大川添89-3  10年10月上旬

 ※参考『青森県の近代化遺産』 2000
    『青森県近代和風建築総合調査報告書』 2004
    『青森県の暮らしと建築の近代化に寄与した人々』 2007



 明治44(1911)年築の総煉瓦造り。 平成11(1999)年に修復をしたようで古さはあまり感じさせません。 




 半地下2階建の建物のようです。




 住宅を兼ねている為、階下には押し入れや床の間のついた部屋があって2階には風呂もあるという。






 主はここで生活している時に不識塔の建設を思いつく。


 不識塔へと続く坂道。 雨の降った後は泥道にはまる覚悟が必要。 


 不識塔(大正元年築・1912)。 別名・主(つかさ)の塔。 現在は補強の為の鉄骨が取り巻き姿は良く見えません。
 

 現地解説板。  


 6ヶ月程の工期で塔は竣工し最下段は祭壇、右回りの螺旋階段が最上階まで続いているという。


 これが本来の塔の姿。 主は自分の死後に遺体を永久保存の処置をして塔の地下に埋葬するよう家族に遺言している。 大正8(1919)年12月23日、弘前出身の医学博士・今裕(こん・ゆたか)の手により遺言通りに永久保存の処置がなされ、主の亡骸は塔の地下に埋葬された。 ちなみに今裕は明治天皇が崩御した際の遺体の処理も行っており、後に北海道帝国大学の総長にもなっている人物。 主の遺体を処置した際の今博士の証明書も残っており、それを以下に記す。

 1、ホルマリン1ポンド、酒精3ポンド、グリセリン1ポンドを遺体股動脈より全身に注入。

 2、遺体は亜鉛引厚鉄板製経口1尺6寸(およそ48センチ)、高さ3尺(およそ91センチ)の円筒に蔵め93パーセント酒精を以て密閉す。

 その後、昭和55(1980)年に遺体は地下から取り出され火葬、親族の墓に納め直された。

旧池田氏庭園洋館

2011-06-08 21:00:42 | きた東北 (青森・秋田・岩手)


 明治中期から戦前まで3代に渡って高梨村長を務めた大地主・池田氏により建てられたルネサンス様式の私設図書館(大正11年築 1922)。 秋田県内で初めての鉄筋コンクリート(RC)造りの建物といわれ、室内の壁紙には金唐革紙が貼られるなど、東北三大地主の一人に数えられた池田氏の名に恥じない煌びやかな建物になっています。  秋田県大仙市高梨大嶋1  11年06月上旬



 平成18年から22年にかけて行われた大規模復元工事により甦った塔屋ドーム。 モルタル洗い出し仕上げ。


 御影石の基壇が廻る。


 外壁タイルは復元工事により約2割が貼り替えられたもの。  


 窓ガラスは約7割が創建当時のものが残っているという。


 建物の設計者は秋田出身で建設当時は東京在住だった建築家・今村敬輔。 どのような経歴を持つ人物だったのでしょう。  (※追記 今村敬輔は秋田工業学校建築科を卒業した後、矢留建築事務所~東京市土木局建築課第二営繕係)


 玄関ポーチを支える柱はイオニア式。


 イタリアから取り寄せたという白色大理石が使われる。


 玄関の足元に貼られたタイル。


 先日の大地震により庭園内の灯籠がズレるなどの被害があったそう。 この亀裂もその時のものでしょうか。


 建物に足を踏み入れる。 正面は食堂兼音楽室。


 左手は閲覧室。 2階には書庫を設け、村民にも建物を開放し地域の教育向上に寄与したという。


 右手は階段室。 残念ながら2階は非公開。


 階段親柱。 セセッション風?


 見上げてみる。


 一歩前へ。




 



 館内には6種類もの金唐革紙が使われる。 2階食堂の物は国会議事堂の執務室で使われていたものと同一柄という(写真は1階の食堂兼音楽室のもので今回復元されたもの)。


 食堂兼音楽室の隣りには玉突室(ビリヤード台は参考展示)。 来客をもてなす為の迎賓館的機能も持ち合わせた建物でした。


 団体客が押し寄せてきたので外へ出ます。






 玉突室の上はバルコニー。 晴天時には鳥海山の遠景も望めるそうです。




 2011年は春(終了)・夏・秋の3回の特別公開でしか庭園内には入れません。


 水辺に咲くカキツバタ。 調べるまでずっとアヤメだと思っていました。。。

旧殖産銀行

2010-11-15 07:13:59 | きた東北 (青森・秋田・岩手)








 煉瓦の建物があると知って訪れた旧東和町土沢。 目的の建物は花巻市役所の東和総合支所に向き合う形で建っていました。 いくつかの資料をあたりましたがこの建物に関する情報は見つけられず、外観デザインなどから大正末から昭和初期頃に建てられたものではないかと思います。 折りしも「アート&クラフト フリーマーケット土澤」というイベントが商店街で開催されており、そのイベント会場のひとつにもなっていた建物の内部を見学する事が出来ました。 中はガランとしていてパイプ椅子が置かれるだけでしたが、左の奥の方の大きな味噌樽の後ろに「篠原金庫株式会社製造」とエンブレムの入った金庫を発見。 こぢんまりとした建物とはいえ銀行の金庫としてはちょっと小さ過ぎるような気もしますが、果たしてこれは昔から使われてきたものなのでしょうか。  岩手県花巻市東和町土沢  10年10月上旬

 ※現存せず。


菊池捍邸

2010-10-03 18:39:49 | きた東北 (青森・秋田・岩手)



 宮沢賢治(1896~1933)の寓話『黒ぶだう』に出てくるベチュラ公爵の別荘のモデルになったといわれる住宅(大正15年築 1926)。 家主の菊池氏は札幌農学校の助教授や長野・岩手・山形の各県で農業試験場の場長を歴任し、新渡戸稲造や後藤新平との交流から日本の農業の近代化と台湾の産業の確立に貢献したと伝わる人物。 建設当時は明治製糖の十勝清水工場長だったという氏はそれまで歴任した仕事の流れから北海道開拓の中で培われた北米・コロニアル様式の洋風建築を導入し、東京の設計士に依頼して建てたのがこの住宅だったそうです。 昭和の初めには秩父宮の花巻行啓時の宿泊所になったともいわれ、こげ茶の下見板に薄いピンクの縁取り、主/副2つの玄関や2階の窓の手摺りなどが印象的な建物ですが、保存問題があるようで今後の状況が気になる建物の一つです。  岩手県花巻市御田屋町  08年08月中旬

 ※参考 『岩手県の近代和風建築』  2007

旧八戸商業銀行小中野支店

2010-06-20 18:47:39 | きた東北 (青森・秋田・岩手)



 大正8(1919)年以前に建てられたという銀行建築。 400戸を焼失したという大正14(1925)年の小中野大火を焼け残り、昭和5(1930)年頃にはカフェバー「ハトバ」に転身。 その際に銀行のカウンターは取り外され居室部分が増築されました。 昭和24(1949)年に燃料販売会社の旭商会の事務所となって1階の道路側部分を増築、現在は「ひまわり食堂」という明るく元気そうな名前の食堂になっています。 角地を上手く利用して半八角塔をこさえ、屋根のドームとコウモリ傘みたいな玄関部分の3連アーチが道行く人の目を引く存在になっていますね。  青森県八戸市小中野8-13-1  05年08月中旬他

 ※参考 『青森県の近代化遺産』  2000

佐瀧別邸

2010-02-05 07:09:36 | きた東北 (青森・秋田・岩手)



 名工・堀江佐吉(1845~1907)の興した堀江組の手に成る住宅建築(大正14年築 1925)。 八角形の望楼と変化に富んだ屋根の形が何とも目映い建物です。 様式的には20世紀初頭にドイツで流行したユーゲント・シュティールの流れを汲んだスタイルだといわれています。  青森県三戸町八日町  05年08月中旬他

 ※個人邸ですので見学の際はご配慮願います。

 ※おまけ 別邸と同じ敷地、表道路に面して建っているのが県内最古のRC造である佐瀧本店(大正13年築)。 塔屋状になった部分のデザインが一風変わっていて目を引きます。 


 こちらは佐瀧別邸の近くにあった個人邸(?)。 空家みたいでちょっぴり荒れていますが、玄関ポーチの仰々しさがタダものではない感じ。


 看板建築の小井田金物店。

旧気仙銀行盛支店

2009-10-07 07:08:20 | きた東北 (青森・秋田・岩手)



 大正7(1918)年完成の鉄筋コンクリート造の建物。 当時はRC造の建物を施工できる建設業者が地元には無く、水沢の業者に依頼して建てられました。 その際、一軒では採算が合わないので三軒同時での発注を業者に要望され、町の経済人が残り二軒を追加発注したそうです。 その三軒の内、この建物と次に紹介する佐々木医院の洋風蔵が今でも現存しています。  岩手県大船渡市盛町木町9-13  05年10月上旬他

 ※参考 『いわて未来への遺産 近代化遺構を歩く 明治~昭和初期』 2003
     『岩手県の近代化遺産』 1997

 こちらが佐々木医院の洋風蔵。 渡り廊下で繋がる下見板の洋風建物は大正元(1926)年築。 空家のようですがきちんと管理されているらしく、建物の状態は悪くありません。





 
 ※おまけ  立根町田谷にある大船渡自動車学校。 大正14(1925)年に建てられた旧立根(たっこん)小学校を転用したもの。



 こちらは赤崎町にある旧菊地(菊池?)医院(昭和初期築)。 こういう建物を見るとゾワゾワしてきます。。。



 最後に旧盛ハリストス正教会(明治42年築 1909)。

旧塩乃湯

2009-08-30 07:08:30 | きた東北 (青森・秋田・岩手)



 看板建築の旧銭湯(昭和期)。 1階部分はかなり改変されてしまっていますが、2階部分に残るドイツ壁や赤と緑の色ガラスといったものが往時の姿を伝えています。 秋田市周辺には黒川、八橋といった油田があり戦前には国内産油量の多くを占めていました。 かつての北前船の寄港地であり大規模な製油所が立ち並ぶ土崎は賑わう事になりましたが、太平洋戦争末期の米軍の空襲により数多くの死傷者を出す事にもなったそうです。  秋田県秋田市土崎港南  08年08月中旬

 ※現在は個人住宅として使われています。 見学の際はご配慮願います。
  写真が一部大きくなります。


 ※おまけ  塩乃湯の近くで見つけた個人邸。 詳細不明ですがギャンブレル屋根(マンサードとは違うみたい)と妻面の装飾が個性的です。

旧弘前市立図書館

2009-06-23 07:09:21 | きた東北 (青森・秋田・岩手)










 堀江佐吉・斎藤主(つかさ)など、弘前(ひろさき)市内の建設請負業者ら5名の寄付金をもとに建設され、市に寄贈された図書館建築(旧日露戦捷記念弘前図書館 明治39年築 1906)。 赤の双塔ドームが洋館ムードを高め、前面に整然と並べられた窓が開放的で明るいイメージを作り上げています。 平面図がL字型(廊下もL字型)になっているせいなのか、建物出入り口が正面中央ではなく左の塔側に設けられているのも面白いですね。 昭和6(1931)年まで図書館として使用され、その後は市内・富野町に移築され喫茶店兼私営アパート等となっていました。 平成2(1990)年、弘前の市制施工百周年の記念事業として現在地に再移築・復元されました。    青森県弘前市下白銀町2-1  05年08月中旬他

 ※参考 『西洋館漫歩 建築スケッチの旅』  1984
  写真が一部大きくなります。 

旧日新館(旧チャンプリン邸)

2009-03-27 07:16:32 | きた東北 (青森・秋田・岩手)











 横手で旅館業を営んでいた小松亀吉が、旧制横手中学校の英語教師として赴任してきた米国人、チャールス・チャンプリンの為の住居として明治35(1902)年に建てたもの。 大工棟梁は藤村初五郎ですが、建物の基本設計はチャンプリン自身と云われます。
 
 ペンキも塗られていない下見板の外観は非常に素朴に見え、玄関上の半円アーチに使われているオレンジの色ガラスがアクセントとして映えています。 現在も居住者がいるので公開部分は限られていますが、この家で半生を過ごし教師・宣教師として活動した米国人スマイザーの遺品が多数残されていました。  秋田県横手市城南町7-1  08年08月中旬

 ※現在は個人邸となっており住んでいらっしゃる方がいます。 建物公開は水曜日のみですので見学の際は十分なご配慮をお願い致します。