任天堂正面営業所

2012-08-30 18:36:44 | 京都・兵庫


 任天堂は明治22(1889)年に花札のメーカーとして創業、明治末にはトランプの製造で大きな成功を収めました。 今に残るこの建築群は昭和8(1933)年に合名会社山内任天堂が設立された際に建てられたもので、正面(南側)から本店、本宅(社長宅)、倉庫(これのみ昭和5年築・1930)の3つの建物で構成されています。 本店に残されていた棟札などから建物の設計者は増岡建築事務所(担当・増岡熊三/田中義光)である事が判明していますが、この建築事務所に関する詳細は良くわかっていないようです。  京都府京都市下京区正面通西木屋町東入ル  09年01月上旬他

 ※参考『京都の近代化遺産』 2007
    『京都モダン建築の発見』 2002 ほか





 切妻屋根の本宅。




 玄関周りは特にデコラティブ。


 庇は円型をしています。




  

 玄関横を覗き込んだ所で見つけた40㎜四方ぐらい(?)のタイル。 色褪せぐあいがグッとくる。


 いかにもアール・デコといった装飾。


 本宅と倉庫を囲う塀の上部にはスクラッチタイル。


 2階の一部がベイウインドウ状に張り出しその上部はバルコニーになっているみたい。




 小動物に似た可愛さ(意味不明)。


 

 倉庫には吹き抜けの大きな空間があって建築当初のエレベーターも残されているようです。


 あちこちにある「福」の一文字はゲン担ぎなのでしょうか。 横の鳥さんみたいな図柄は他の建物でも見た記憶があります。 


 ゲームウォッチやファミコン、スーファミ世代のワタクシにはWiiやDSはサッパリ分かりません。 PS2でテレビゲームは卒業しています。。

旧村井銀行七条支店

2012-08-28 19:14:22 | 京都・兵庫


 煙草が民営だった時代に「煙草王」と呼ばれていたのが京都の村井吉兵衛(1864~1926)。 彼は日本初の両切り紙巻き煙草を製造・発売し、「サンライス」「ヒーロー」といった銘柄でヒットを飛ばして巨万の富を構築しました。 その後、煙草が専売制になると銀行経営に乗り出して村井銀行を設立、この建物はその七条支店として大正3(1914)年に完成したもので設計は米国帰りの吉武長一の手になるもの。 吉武はペンシルバニア大学へ留学していた建築家であり明治41(1908)年に米国より帰国、同43(1910)年から村井銀行の建築部長を務め、独立(大正2年・1913)後も一貫して村井銀行の仕事を受注していた“お抱え建築家”的な存在だったそうです。  京都府京都市下京区東中筋通七条上る文覚町402  09年01月上旬他



 現在はカフェ・レストランとしての活用。 この玄関ポーチ部は古写真には写っていないので飲食店への転用時に付け加えられたものと思います。


 

 良くも悪くも非常に印象的なドリス式オーダー。


  同じ村井銀行、同じ吉武の設計になる旧祗園支店や旧五条支店と比べてもオーダーの大きさが目に付きます。




 構造はレンガ造。


 側面の出入り口。 こちらはトスカナ式オーダーでしょうか。




 吹き抜けに床を張り1階のカウンターを撤去するなど内部はそれなりに改装を受けているとの事。


 村井吉兵衛は村井銀行の他に京都瓦斯、帝国製糸など次々と事業を興し村井財閥を形成しました。 しかし大正15(1926)年に村井は没し、翌昭和2(1927)年に村井銀行も破産して村井の時代は完全に終わりを迎える事になります。 

行橋赤レンガ館

2012-08-27 19:28:55 | 福岡・長崎・佐賀


 この赤レンガ造の建物は大正3(1914)年に百三十銀行(本店・大阪市)の行橋支店として建てられたもの。 設計は清水組の本店技術部になりますが、辰野片岡事務所が設計監督をしているという事もあり所謂「辰野式」にも通ずるデザインを纏っています。 平成9(1997)年まで各種銀行や信用組合の店舗として使用されていましたが現在は行橋市が土地と建物を買収、復元改修工事を行って市民ギャラリーとして活用されています。  福岡県行橋市大橋3-7-14  09年04月下旬



 1年後に建てられた百三十銀行の八幡支店(北九州市)は鉄筋コンクリート造。 大正期の銀行建築はレンガから鉄筋コンクリートへと建築構造が変わっていく転換期にあたります。


 この百三十銀行行橋支店は明治11(1878)年開業の第八十七国立銀行を前身とする銀行。 明治35(1902)年に八十七銀行(第八十七国立銀行から改称)は百三十銀行に吸収合併されたようです。




 銀行建築らしく内部は吹き抜け。




 耐震の為の鉄骨と歩廊が廻る。 歩廊は建築当初の設計図を元に復元したもの。


 歩廊へと上がる螺旋階段も復元したもののようです。






 竹内金庫製。 古建築の金庫としては良く聞く名前ですが詳しい事は分かりません。。




 展示物を避けて写真を撮ったので似たようなアングルばかり(汗)。


 イギリス積み。


 裏手には金庫室が附属。




 屋根の四方にはドーマー。


旧盛岡貯蓄銀行本店

2012-08-22 19:04:58 | きた東北 (青森・秋田・岩手)


 大正10(1921)年に設立された盛岡貯蓄銀行の新社屋として昭和2(1927)年に完成。 設計は地元・盛岡出身の葛西萬司(葛西建築事務所)が担当しました。 盛岡貯蓄銀行は昭和10(1935)年に岩手貯蓄銀行と改称、同・18(1943)年には一切を岩手殖産銀行(現在の岩手銀行)に譲渡解散し、建物は昭和33(1958)年に盛岡信用金庫が購入しその本店として使用され現在に至っています。  岩手県盛岡市中ノ橋通1-4-6  11年08月中旬他



 一部にレンガや鉄骨を使っていますが基本構造はRC造。 関東大震災以後の銀行建築ではスタンダードな構造であり、現存する大正末~昭和戦前期の銀行建築は外壁に花崗岩を使用した「白い」建物が非常に多い印象です。
 

 フェスツーン(花綱飾り)のような装飾。 中央の文字は信用の「信」に読めます。




 軒蛇腹の装飾。


 昭和の初めは金融恐慌・昭和恐慌など不穏な経済情勢を反映し、金融機関には経営の安定性を表現する為に適した古典様式の建物が好まれました。


 正面の6本の円柱は古典的、それでも柱頭は古典様式の範疇に含まれない新たなデザインが施されています。


 窓越しに内部が見えました。 中2階・中3階の小室があるようです。


 背面は立法体を積み上げたような形。


 行員通用門の扉。


 2階の応接室や扉のガラスなどにはアールデコ風の装飾もあるという。


 斜向かいの辺りにある(旧)岩手銀行中ノ橋支店(旧盛岡銀行本店 明治44年築・1911)。 葛西が恩師の辰野金吾と共同経営した辰野葛西事務所の作品。


 支店は既に移転し建物は閉鎖、今後は改装・調査された上で記念館として一般公開(約2年後?)される予定になっています。

旧藤田家別邸洋館

2012-08-21 19:49:38 | きた東北 (青森・秋田・岩手)

 
 生涯に60以上もの会社の社長や取締役を歴任、日本商工会議所の初代会頭も務め貴族院議員にまで登りつめた弘前出身の実業家・藤田謙一(1873~1946)の別邸として大正10(1921)年に建設されたもの。 最盛期には38ヶ所もの別邸を持っていたと伝わる藤田ですが、現代にその姿を見る事が出来るのはこの洋館を含む藤田記念庭園内の建物のみとなっています。  青森県弘前市上白銀町8-1(藤田記念庭園)  11年08月中旬他

 ※参考『別冊太陽 日本の別荘・別邸』 2004ほか



 正面全景。 赤い8角塔屋と玄関上まで葺き下ろした大きな反り屋根が特徴。 


 煙突は煉瓦で出来ています。


 建物の設計は名棟梁・堀江佐吉の六男である堀江金蔵、施工は同じく長男の堀江彦三郎。


 北面の張り出し。


 東面から。 1階の張り出した部分には全て赤い屋根が載っていて可愛らしい。


 玄関を入ると出迎えてくれるステンドグラス。


 靴を脱いで上がった玄関ホールには暖炉が設えてあります。


 

 天井を見上げる。


 2階は貸室なので通常は上がれません。


 階段を横から。


 建築資材は輸入材を使用ともいわれます。


 大広間。


 こちらの暖炉の前は小部屋になっていて冬場の来客を暖かく持て成します。 








 両側の背もたれの後ろには鳥をモチーフとした青紫色のステンドグラス。


 何の鳥でしょうか。


 展示室になってる部屋。


 照明器具。


 この部屋にも暖炉があります。


 

 もう一度、大広間へ。


 大広間に隣接するこの部屋と南側のサンルームは喫茶室として使われていて客足が絶えません。


 室内の壁にある装飾。


 こちらも同様。


 有料区間になっている庭園側へ。


 南面は趣が少々異なる。 写真を撮っていると喫茶室の客人達に好奇の目でガン見されるのが恥ずかしいです。。


 昭和12(1937)年築の和館。 昭和36(1961)年に板柳町にあった藤田謙一の本宅を移築したもの。


 







 大正10(1921)年築の倉庫。 現在は考古館という名称の資料展示室になっています。


 庭園は別邸建築の為に大正8(1919)年に東京から庭師を招いて造らせたもの。


 洋館や和館などのある東の高台から西の低地部を見下ろす。 見えてる景色はほんの一部に過ぎず、かなり広大な庭園になっています。


 藤田は大病を患った事もあり、50歳を境に実業を減らし社会への貢献活動をしたかったよう。 多くの寄付行為や育英事業(藤田育英社の創設)により後進を世に送り出すも、実際は実業から退く事はままならず、藤田がこの別邸で過ごした記録はほとんどなかったと伝わります。

吉浜の旧郵便局

2012-08-19 13:35:00 | きた東北 (青森・秋田・岩手)


 大船渡市三陸町、吉浜地区の旧道沿いで見つけたかつての郵便局舎(詳細不明)。 一見すると2階建てのようにも見えますが、恐らく内部は平屋建てで天井を高くとった建物と思われます。 お盆の時期を迎え西隣りのお寺には大勢の墓参客、眼下には以前と変わらぬ穏やかな表情をたたえた海がただただ広がっているばかりでした。  岩手県大船渡市三陸町吉浜上野  12年08月中旬























 

旧加治田駐在所

2012-08-09 19:44:53 | 愛知・岐阜


 富加城下の町場であり旧街道の要衝として栄えた加治田に残る明治時代の駐在所跡。 創建時の記録は不明ですが、明治6(1873)年に第二十三番取締所が加治田に設置された当時の建物だと伝えられています。 翌年に第二十三番屯所と改称され、明治10(1877)年には上有知警察署加治田分署、その後も交番所や巡査派出所と改称され、戦後になった昭和25(1950)年に駐在所の移転により理髪店(井戸理髪店)へと建物は受け継がれました。  岐阜県富加町加治田  10年08月下旬

 ※参考『改訂 東海の明治建築』 1976
    『東海の近代建築』 1981

 ※現存せず。



 1階正面はタイル貼りに変わっていますが、2階部分は建築当初の姿が残る。 アーチ型の出入口に扉は両引き戸。


 瓦には・・・ウサちゃん! 何故こんな所にウサギがいるのでしょうか?




 理髪店(現在は廃業)として内部は大きく改変されてしまっています。 当初は1階が巡査詰所と控室、2階は宿直室あるいは取調室になっていたようです。


 漆喰が剥がれ土壁が覗く。 隅石も漆喰をグレーに着色して塗り表したものと分かります。


 屋根は方形(ほうぎょう)、ベランダの屋根は起くりがついて懸魚も備わる。


 ヨレヨレの状態。 県内最古の擬洋風建築のようですが…。


 昭和25(1950)年まで地域の安全を守りました。 今度は誰がこの建物を守ってくれるのでしょうか。

愛知県庁大津橋分室

2012-08-08 19:02:53 | 愛知・岐阜


 官庁街へと向かう大津通りに東面するこの建物は、愛知県信用組合連合会が昭和8(1933)年に地元・名古屋の北川組の施工により建てたもの。 旧制の信用組合は中小商工業者の金融機関で、愛知県信用組合連合会は愛知県下の各種信用組合の連合組織であったと考えられるそうです。 2・3階にスクラッチタイルを貼ったシックな建物の設計は愛知県の営繕課、担当は黒川巳喜と土田幸三郎といわれます。  愛知県名古屋市中区丸の内3-4-13  10年02月中旬

 ※参考『愛知県の近代化遺産』 2005ほか



 階段室の東面と北面には3本のピラスター(付け柱)。


 当初は2階に食堂、3階は講堂とその控室になっていました。 現在はどのようになっているかは不明です。


 パラペットのテラコッタはグリフォン(グリフィン)でしょうか? グリフォンは黄金の守護と知られているので金融関係の建物としては相応しいものとなります。 


 3本のピラスターの下には3つの丸窓。 


 松明(たいまつ)飾り。




 現在は塞がれていますがここが本来の正面玄関でした。




 左から太陽、月、雲(?)。 何やら暗示的ですね。


 3階のバルコニーに嵌め込まれたテラコッタ。


 黒川巳喜はあの黒川紀章の父親だそう。


 施工した北川組のデータによると建物竣工は昭和7年になっています。


 

 昭和32(1957)年から愛知県の所有へと変わる。


 隣りの伊勢久は昭和5(1930)年の築。 2棟で昭和初期の大津通りの表情を今に伝えます。


 当時の愛知県営繕課は表現主義的意匠を多用していたという。

松任明治洋風館

2012-08-07 19:25:35 |  石川県


 開業は明治7(1874)年、この地で代々産婦人科を営んだ竹田家が明治40(1907)年に建てた洋館医院。 平成9(1997)年に土地建物は寄付をされ、現在はギャラリーや集会所として整備され公開されています。  石川県白山市(旧・松任市)四日市町7-1  10年07月中旬



 雪国ですが玄関ポーチの上はバルコニーになっています。


 

 可憐な装飾の中央には医院名を記した扁額でもかかっていたのでしょうか。


 現建物は東京医学専門学校済生学舎を卒業した2代目の時代に建てられたもの。


 復元されたものと思います。




 歴史を考えれば親子3代、あるいはそれ以上に渡ってここで生を受けた人達もいるのでしょうね。


 1階部分には竹田医院の歴史紹介の展示もありました。


 背面はこんな感じ。




 昭和63(1988)年、初代から数えて4代目の時に竹田医院廃業。 百十数年にも及ぶ医療活動にピリオドが打たれる。

函館市文学館

2012-08-06 21:15:36 | 北海道主要部 (札幌・小樽・函館)


 函館の電車通りに建つこの文学館は、大正10(1921)年完成の旧第一銀行函館支店を補強改修・転用した施設。 設計の西村好時(1886~1961)は後に『銀行建築』という本も著す(昭和8年・1933)ことになる銀行建築のスペシャリストだった人物になります。 彼は東京帝国大学を卒業後に曾禰中條建築事務所を経て清水組(現・清水建設)に入社、この建物は第一銀行建築課長に移籍・就任した直後に手掛けたものになるようです。  北海道函館市末広町22-5  12年07月下旬



 

 玄関ポーチは当初、2間(約3.6メートル)前方に突出していましたが、大火後の歩道拡張に伴って昭和9(1934)年頃に現在の形に改められたもの。


 構造は鉄筋コンクリートの骨組みに壁が煉瓦積みの混構造。 西村が函館支店の2年前に手掛けた第一銀行の熊本支店と全く同じ構造になります。


 共同設計者の八木憲一は清水組の技師で、新宿伊勢丹百貨店(昭和8年)などの設計にも携わっています。


 復刻された箱館ハイカラ號が建物前を横切る。 旅愁をかきたてる光景が函館の日常風景。


 こちらが大正8(1919)年築の旧第一銀行熊本支店。 白い花崗岩と茶色の化粧煉瓦の配色は函館支店と共通するものです。 

下高瀬簡易郵便局

2012-08-05 17:55:38 | 愛媛・香川


 昭和10(1935)年に建てられた旧丸岡呉服店を昭和25(1950)年に郵便局として転用したもの。 設計・施工とも不明ですが京都の近代建築を模して建てられたものだと伝わります。  香川県三豊市三野町下高瀬533-2  10年08月中旬



 周りの家屋とは趣を異にする圧倒的な存在感。


 パラペットには屋号の「ヤマヤ」の文字。




 正面向かって右側が郵便局、左は住居として(?)使用している雰囲気です。


 右から左に書かれているので建築当初のものかも知れません。




 南の側面にある通用口。




 ファサード中央を凹ませているので両端は塔が建ちあがったようにも見えます。




 床に残るタイル。


 内部の中央は吹き抜けになっていて天窓がついているそう。


 山形の七日町二郵便局は洋品店を郵便局に転用したもの。 旧郵便局を商業店舗に転用する例は比較的多いのですが、その逆は非常に少ない印象があります。


 接する路地は古くからの商店街という感じではなく、それだけにこの建物の異質さだけが際立っています。

熊本地方裁判所資料館

2012-08-03 07:19:01 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島


 明治41(1908)年完成の旧熊本地方裁判所本館の中央部分のみを保存したもの。 当初建物は両翼に平屋建ての部分が続き平面はコの字型をしていました。 建物の施行は岩崎組、設計者は不明ですが明治30(1897)年に最初の司法技師になった山下啓次郎が有力な候補の一人としてあげられるそうです。  熊本県熊本市京町1-7  10年01月上旬他



 

 1階の開口部は3連アーチ。 


 2階の窓も3連アーチにして1・2階でイメージを統一しています。


 正面玄関。 団体による事前予約と憲法週間(5月最初の一週間)などの際に内部公開しているようです。


 昭和53(1978)年の新庁舎建て替えに際し、当時の保存運動によって正面主塔のみが残される。 


 

 正面部分のレンガは小口積み。


 

 レイトンブルーな屋根飾り。 屋根は反り屋根になっています。 


 

 両翼の跡。 古写真を見ると平屋の部分は縦長窓が並んでいました。




 背面にあった中庭からは熊本市内を一望出来るほど眺めが良かったそうです。