椎原医院

2012-10-05 07:43:33 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島


 椎原医院は明治40(1907)年頃に初代院長がこの地に眼科医院を開業したのが始まりといわれ、この建物は昭和3(1928)年に建てられ同時に内科も診療科目に加わえられました。 昭和9(1934)年に御子息に代替わりした際に建物北側に病室と点滴室棟を増築、以後、平成8(1996)年6月に院長が亡くなるまで約60年間にも渡って医療活動が行われました。 現在は医療法人椎原会・椎原医院となって診療も再開されているようです。  鹿児島県南九州市川辺町中山田1888  12年01月上旬

 ※参考『鹿児島県の近代化遺産』  2004  



 左右対称の木造2階建て、半円のブロークン・ペディメントが目を引く。 門構えも立派ですね。


 軒下の装飾。


 ファンライトも半円型。


 玄関横のガラスブロックは後年の改造でしょうか。




 現在は引違い窓ですが当初は上げ下げ窓だったという。 内部は北へ向けて廊下が延びる中廊下型。




 雨雲の切れ間から新年最初の太陽が建物を照らし出す。 1月元旦の訪問でした。 

旧永井医院

2012-09-04 18:25:38 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島


 国道270号に面して建つ木造平屋のこの建物は、大学を卒業後にこの地で開業した施主により大正初期に建てられたものと伝わります。 その後、御子息が跡を継ぎましたが平成12(2000)年に閉院し、以来内部はそのままに残されて今日に至っているそうです。  鹿児島県日置市東市来町伊作田  12年01月上旬

 ※参考『鹿児島県の近代化遺産』 2004 



 積年の風雨に晒され表札の文字もかすむ。


 窓枠や扉が変更されているのも已む無しです。




 内部は和風の造りになってるよう。 さすがに敷地内に立ち入って中を覗くのは憚られます。




 大正元年は1912年。 一世紀にも渡る時の重みが建物にまつわりつく。

熊本地方裁判所資料館

2012-08-03 07:19:01 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島


 明治41(1908)年完成の旧熊本地方裁判所本館の中央部分のみを保存したもの。 当初建物は両翼に平屋建ての部分が続き平面はコの字型をしていました。 建物の施行は岩崎組、設計者は不明ですが明治30(1897)年に最初の司法技師になった山下啓次郎が有力な候補の一人としてあげられるそうです。  熊本県熊本市京町1-7  10年01月上旬他



 

 1階の開口部は3連アーチ。 


 2階の窓も3連アーチにして1・2階でイメージを統一しています。


 正面玄関。 団体による事前予約と憲法週間(5月最初の一週間)などの際に内部公開しているようです。


 昭和53(1978)年の新庁舎建て替えに際し、当時の保存運動によって正面主塔のみが残される。 


 

 正面部分のレンガは小口積み。


 

 レイトンブルーな屋根飾り。 屋根は反り屋根になっています。 


 

 両翼の跡。 古写真を見ると平屋の部分は縦長窓が並んでいました。




 背面にあった中庭からは熊本市内を一望出来るほど眺めが良かったそうです。

旧大崎報公義會舘

2012-06-25 18:42:37 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島


 地元の大崎青年団(報公義会)によって建てられた会館建築。 青年団は地引網漁で得た利益で勧業銀行の債券を買い、当選した特等1000円で石造平屋建ての会館を建設(明治末期)。 さらに大正末、当時の会長であった吉峯喜八郎が多額の寄付金を集め旧会堂の前にこの2階建ての洋風建築を増築したものだと伝わります。  鹿児島県南さつま市加世田唐仁原6078-2  12年01月上旬



 国道226号に面す。 


 この門も登録文化財。 増築部と同時期(大正末)に建てられたもの。


 萬世町は大正14(1925)年から昭和29(1954)年まで存在していた町。 加世田町と合併して加世田市になり、平成17(2005)年に近隣の4つの町と合併して南さつま市になっています。 




 解説文によるとこのレリーフは龍だそう。 バリとか東南アジアの方のお面にも見えます。






 柱型にあるこの渦巻きはイオニア式オーダーのつもりでしょうか?




 玄関ポーチの足元。


 ナスカの地上絵に見えてしまった…。


 旧会館。


 正面部分はRC造。 建てられた時期や場所を考えると町の自慢の建物であった事が容易に想像できます。


 青空が良く似合う。

熊本大学YMCA花陵会館

2012-06-15 20:02:25 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島


 花陵会は旧制第五高等学校のキリスト教信者7名による相互協力や聖書に基づく真理の探究、社会への貢献などを固く誓って明治29(1896)年に結ばれた団体。 翌年には貸家を借りての共同生活を始め、自炊寮を苦心しながらも経営しました。 この建物は北米YMCA同盟、花陵会OBや熊本の有志の寄付を得て昭和6(1931)年に建てられた2代目の会館で、設計はOBの大倉三郎(1900~1983)によるものだそうです。 終戦後、第五高等学校は熊本大学へと引き継がれ花陵会も熊本大学YMCAへと継承、現在も聖書を中心とした共同生活を行って活動を展開しています。   熊本県熊本市黒髪2-27-21  12年01月上旬



 建物はRC造2階建て、南東の隅に八角塔屋を載せたモダンな造り。


 テラスの屋根を支える5連のアーチが自由な気風を感じさせます。


 大倉三郎は京都帝国大学建築学科で武田五一に薫陶を受け、卒業後直ぐに大阪の宗建築事務所に入所。 昭和3(1928)年から同・15(1940)年までは京都帝国大学の営繕課に勤めていました。 彼の作風はセセッション・表現派的なものからドイツ・クラシシズム、近代主義的なものなど幅広く完成度も高かったという。


 窓から内部を拝見。 今も聖書研究会などの活動が週に1回行われているそう。


 北東面。 写真の撮影日は一緒ですが時間に1時間ほどのズレがあるので天気が違っています。


 ポーチの開口部は尖頭アーチ。


 花陵会の沿革は銀色のプレートに書かれている内容を参考にさせてもらいました。




 

 建物の性質上、皇紀ではなく西紀となっているのがポイントですね。


 この窓枠のグリーンが好き。


 こちらが寮の建物で、花陵会のHPを見ると築79年となっているので会館とほぼ同じ時代に竣工したものと思われます。 ちなみに寮生は熊本大学の男子学生に限られています。


 帰り際に再び立ち寄ったら晴れてきた。

鹿児島県立博物館

2012-05-22 19:25:52 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島


 昭和56(1981)年1月に新規会館したこの博物館は旧県立図書館を転用・改装した建物。 それまであった木造の図書館の老朽化と利用者の増大、及び事務量の増加などにより昭和2(1927)年に建て替えられた建物にあたります。 設計は当時、鹿児島県の建築課に勤めていた岩下松雄で総工費は22万2200円、蔵書数は42、691冊にもなり規模と設備において九州で随一を誇る立派な図書館であったそうです。  鹿児島県鹿児島市城山町1-1  09年05月上旬

 ※参考 『鹿児島県の近代化遺産』 2004



 正面入口部分を円筒形に立ち上げ、左手の階段室部分にも曲面を取り入れる。


 金環日食で一喜一憂したばかりですが、この時は日本の陸地では46年振りに見られる皆既日食で沸いていました。


 庇のカーブが美しい。 支える柱頭も独特です。


 規律正しく並んだ縦長窓。




 隅部に曲面を用いるのは岩下の作品の大きな特徴になっています。  


 昭和9(1934)年築の鹿児島気象台(現存せず)。 鹿児島県政記念館の写真パネルより。


 昭和10(1935)年築の鹿児島中央高校。

旧勝目郵便局

2012-01-29 17:53:18 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島


 年が明けて新年最初に訪れたこの建物は、明治22(1889)年に中山田郵便取扱所として開設されたのを起源とするかつての郵便局。 勝目村中山田に居を構えていた椎原氏が当初は自分の茅葺き住宅の一部を郵便業務の為に充てていたものの、常務拡大に伴って大正15(1926)年に役場跡地に局舎を新築移転し、さらにその局舎も昭和12(1937)年に取り壊し同年中に新しく完成させたのがこの建物だったそうです。  鹿児島県南九州市河辺町中山田1134-3  12年1月上旬

 ※参考『鹿児島県の近代化遺産』 2004 
 ※登録文化財としては昭和16(1941)年の建築となっています。



 昭和54(1979)年に国道沿いに新局舎が出来てからは使用される事が無くなり、現在はこの地域の倉庫として祭り道具などを保管しているという。


 〒マークは半ば消えかかる。


 字を書くのがヘタな者としては物凄く共感出来る字体。。


 色を失った世界で見つけた赤い郵便マーク。 『シンドラーのリスト』の赤い服の女の子を思い出しました。


 バリアフリーなんて程遠い。 でもこういう所も好きなんです。


 正面側の3面だけが下見板張りみたい。

大分銀行赤レンガ館

2011-10-28 18:22:41 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島

 
 辰野金吾(1854~1919)と片岡安(1876~1946)が大阪に設立した辰野片岡建築事務所の作品で、二十三銀行本店として明治43(1910)年に着工し、大正2(1913)年に完成した建物。 煉瓦造に見えますが骨組みは鉄筋コンクリートで煉瓦の壁面仕上げとしたもので、昭和20(1945)年7月の大分空襲により外壁を残して内部消失し、昭和24(1949)年に再度鉄筋コンクリートの梁や柱で内部を補強される形で復元されました。   大分県大分市府内町2-2-1  09年05月上旬他



 赤煉瓦に白い花崗岩を要所に配したデザイン。




 1階の窓の上に丸窓を配したのは神戸の旧第一銀行神戸支店(明治41年 設計・辰野葛西事務所)を少し意識したようなデザイン。 あちらは戦災後の修復で(2階部分の)丸窓はアーチ窓に改められ、さらに阪神・淡路大震災で壊滅的なダメージを受けて現在は地下鉄の駅の出入口として壁面のみが残されています。


 設計担当は辰野片岡建築事務所の佐伯與之吉(1880~1958)。 施工はその佐伯組(現在の佐伯建設)による直営の工事。 昭和24年の復元工事も佐伯建設が行っています。


 総工費は当時の金額で17万円。




 この部分は当初からのものなのでしょうか??




 換気用のドーマーは丸型。


 正面のサブ玄関も少し丸みを用いたデザイン。


 二十三銀行本店~大分合同銀行本店~大分銀行本店~府内会館と変遷してきました。

旧鹿児島興業館

2011-03-17 07:08:52 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島


 明治16(1883)年に鹿児島で開催された九州沖縄連合共進会の物産陳列所として建設されたという石造建物。 設計者不詳ですが英国人か仏人技師によるものとも云われます。 県商工奨励館や県立博物館、考古資料館などと用途を変えて使用されてきましたが、現在は建物老朽化を理由にして内部は閉鎖されています。  鹿児島県鹿児島市城山町1-1  09年05月上旬



 建物入口へと伸びる階段。 


 良く見ると階段の下半分は埋まっているように思えます。 かつて建物正面には庭園と池があり、もっと下から見上げるような権威付けされた建物だったのでしょうか。


 「東…」の下の字も読み取れません。


 バルコニーの手すりは菱形と半円を組み合わせたようなデザイン。






 角張っていますが擬宝珠のようです。


 アーチ部分の造形もシャープ。 九州各地で育まれた石造文化もここに極まれり。




 

 装飾と補強を目的とした隅石。


 戦災で外壁を残して内部焼失しているので、この寄せ棟屋根も戦後の再建と思われます。 当初は2階バルコニーの手すりと同じような意匠の屋根回りだったそうです。

東郷医院

2010-08-27 07:13:41 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島


 大正7(1918)年完成という木造洋館医院。 正面側をモルタルで仕上げて目地を切り石造風の堂々とした佇まいを見せています。 裏手に新しい病院があるのでここでの診察はもうしていないものと思われますが、資料によると1階が診療室、2階には14畳の座敷があって折上格天井になっているそうです。  鹿児島県志布志市志布志町志布志1-5(目が痛くなる住所。。。)  09年05月上旬





 窓の上にキーストーン風の装飾。




 玄関の開口部分を赤と緑がかった石材(?)で縁取り。






 ペディメントに子供の顔の装飾。 産婦人科らしいアイデア。 


 裏から見るとこの建物の本質が見えてきます。


 地域の遺産としても大切に残して欲しい建物です。

聴潮閣(旧高橋欽哉別邸)

2010-05-20 18:31:01 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島


 大分県の政財界の第一人者であり別府町の初代助役でもあった高橋欽哉が住居兼迎賓館として昭和4(1929)年に建設。 「潮」の音を「聴」くという名前の通り、当初は別府湾を望む浜脇の朝見川沿いに建てられたものですが、平成元(1989)年に現在地に移築されています。  大分県別府市青山町9-45  09年 05月上旬

 ※参考文献 『日本の洋館 第五巻 昭和篇Ⅰ』  2003
       『別府 懐かし物語』  2004 



 いかにも格式の高そうな玄関。


 足を踏み入れる。


 廊下へ。


 移築により建物の構成が変わっていますが、このステンドグラスは男女浴室の間仕切り壁に設置されていたもの。 小川三知(1867~1928)の作品だという。

 ※画像クリックで拡大します。


 奥へと進む。




 案内してくれた女性の話だと、このトイレも珍しい物だそう。


 1階は家族の部屋。




 お隣の部屋。 2階(3間続きの客間)も見学出来ますが、展示物があったので未撮影。


 欄間は打ち出の小槌の図柄。


 洋間。 大理石で作られた暖炉がモダン。


 洋間にあったステンドグラス。

 ※画像クリックで拡大します。


 中庭の新緑が眩しく差し込む。


 左手が洋間。 建物の設計は荒金啓治、棟梁は平野介治という。

早野ビル

2010-02-02 07:16:08 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島


 熊本で最初の貸しビルと云われる建物(大正13年築 1924)。 施主の早野氏は塩の卸売りをしていたものの国による専売制への移行により塩の取り扱いが出来なくなり、その資本金をビルの建設費に宛てて貸し事務所業を始めました。 1階部分は少々改造されていますが2階から上はほとんど手付かずといった雰囲気、モルタルの外壁と柱型の取合わせが独特のオーラを放っていて存在感を感じさせています。 下からは良く見えませんが3階屋上には先祖堂が建てられ祀られているそうです。  熊本県熊本市練兵町45  10年1月上旬他



 塔屋の窓周りの装飾。














 平面図はL字型の建物っぽいですが、3階の屋上部分のみ裏から見るとこんな感じ。


 目の前は市電通り。

鳥居下公民館

2010-01-27 07:09:59 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島




 伊東氏5万石の城下町・飫肥(おび)の街角に建つ(旧鹿児島銀行 飫肥支店 大正2年築 1913)。 角地に設けられた玄関部分に緩くカーブをかけて突出させ、破風から下をモルタルで仕上げて一本調子になりがちな下見板の建物に変化を加えています。 一方、窓枠は仕方ないとしても何とも惜しいのは玄関扉が味気ない現代的な引き違い戸に変えられてしまっている点。 オリジナルの扉がどのような物だったかは分かりませんが、もう少し建物のイメージに合った物が誂えてあれば印象もずっと良くなると思うのですが。。。  宮崎県日南市飫肥3-2-25  09年05月上旬

池崎写真館

2010-01-13 19:23:36 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島


 昭和9(1934)年築の写真館。 シンガポールで写真を覚えた後、東京で修業をした施主が建てたものだと伝わります。 敷地は角地ではありませんが建物の北東部分にアールをつけ、縦長に割った窓とライオン(?)などのレリーフで正面性を強調していて面白い建物に仕上げています。 お手軽・廉価なカメラの家庭への普及により写真館を利用する事も少なくなりましたが、何かの記念事あるいは年に一度の家族写真といった大切な場面は今もこの建物に見えない記録として刻まれている事と思います。  熊本県天草市(旧・本渡市)大浜町11-5  10年01月上旬

 ※参考 『熊本県の近代化遺産』  1999






 円らな目をしたライオン?


 良く見るようなデザインですが何を象ったものでしょう。  鳥にも見えますが・・・






 軒周りにも手の込んだ装飾。


 設計不詳ですが鹿児島の大工に工事を依頼した事が分かっています。

日本瓦斯本社

2009-09-25 07:09:56 | 大分・熊本・宮崎・鹿児島




 鹿児島中央駅から東に延びる「ナポリ通り」に面するタイル貼りの建物(旧日本水電本社 昭和6年築 1931)。 窓の間に配された柱状の装飾が垂直線を強烈に印象付け、南国の太陽に負けない存在感を与えています。 かつては3階はビリヤード台を2台置いた娯楽室・碁・喫煙室になっていました。 設計・渡辺節。  鹿児島県鹿児島市中央町8-2  09年05月上旬