安積疏水事務所貴賓館

2013-02-22 19:57:23 | 南とうほく (宮城・山形・福島)


 福島県郡山市は北に仙台・南に宇都宮、東にいわき・西に会津といった都市と結ばれた交通の要所であり県内一の商都として賑わいを見せています。 しかし近代以前の郡山は宿場町とはいえ一寒村に過ぎず、現在の発展を築いたのは明治初期以降に始められた安積疏水の開削事業による所が大きかったものといわれています。 安積疏水とは日本海へと流れていた猪苗代湖の水を荒涼としていた安積原野に引いて土地を開拓する為のもので、その疏水の管理を引き継いだのが現在の安積疏水土地改良区事務所にあたります。 この建物は事務所の新館(貴賓館)として昭和12(1937)年に建てられたもので木造2階建て、1階部分に茶色いスクラッチタイルを張り2階部分は白壁としながらも付け柱に合わせて縦方向にスクラッチタイルを張って垂直線を強調しています。  福島県郡山市開成2-22-2  07年11月上旬ほか

 ※参考 『ふくしまの西洋造』 1977
     『近代建築ガイドブック 北海道・東北編』 1985
     『光の街 影の街 モダン建築の旅』 1987
     『福島県の近代化遺産』 2010

 ※現存せず(東日本大震災による)。



 建物の設計者は渡辺恒雄。 勿論あのナベツネではなく、郡山の東南に位置する田村郡の出身で東京で建築家になった人物であるという。




 安積原野の開拓に尽力したのは旧米沢藩士で当時は福島県の典事(課長職)であった中條政恒。 前回の山形・吉池医院で紹介した中條精一郎の実父です。


 

 中條は当時の郡山の資産家ら25人から成る開成社を結成させ県と共同して安積開拓をスタート、これが後に国営の安積開拓と疏水開削へと繋がっていく事になりました。


 裏へ回ります。


 この貴賓館の隣りにあった旧の事務所は中條精一郎の設計で昭和6(1931)年に建ったものでした。 どうやら80年代初め頃に建て替えられたようです。
 

 中條精一郎の娘・百合子(後の宮本百合子 1899~1951)は祖母の家のあったこの辺りで毎夏を過ごしており、17歳の時に『貧しき人々の群』で当時のこの開成の情景を描いている。 農村のあまりの貧しさを見、祖父の率いた疏水事業が本当にこの地の人々に幸せをもたらしたのかを疑問に感じていたようです。




 水平線よりは垂直線、『福島県の近代化遺産』では「ライト風ではない」とわざわざ書いてありました。。


 震災から3か月が過ぎた2011年6月18日に訪問した時の姿。


 無残にも壁の一部が崩れ落ち、人が近づかないように建物の周囲にはロープが張られていました。


 タイル張りで重量のある建物だったから揺れの被害が大きかったのでしょうか。 もうこの建物を見る事も出来なくなってしまいました。

吉池医院

2013-02-20 20:31:05 | 南とうほく (宮城・山形・福島)


 中條精一郎(1868~1936)の設計により大正元(1912)年に完成した個人医院。 今なお医院として現役の建物です。 当時の吉池家の当主が山形県米沢市出身であり、中條とは同郷の同級生だった事から設計依頼をしたものだったと伝わっています。  山形県山形市十日町  08年08月中旬ほか

 ※現役の医院です。 敷地内での撮影・立ち入りは不可とのお話でしたので見学の際はご配慮願います。



 中條は先輩の曾禰達蔵(1853~1937)と共に「曾禰中條建築事務所」を開設するなど主に中央で活躍した建築家。 しかし山形出身という事もあり、後に(旧)山形県庁舎と(旧)山形県会議事堂の建設にも設計顧問として参加しています。 この建物とは窓や屋根、天窓といった所に共通点があるそうです。


 木造2階建てで塔屋付き。




 堂々とした立派な門構え。 緊張感が走りますね。 


 以前はこちら側の敷地に別の建物が建っていました。 それが解体され駐車場になったので現在は南面も見えるようになっています。 


 大正5(1916)年完成の旧山形県庁舎(現・文翔館)。 中條の下で実施設計は東京出身の山形県工師・田原新之助(1876~1916)が担当しています。


 田原は鹿鳴館の設計でも知られるお雇い外国人・コンドルの内弟子として13歳で設計を学び始め、曾禰中條建築事務所にも入所していた時期があるようです。


 こちらは旧県庁舎と共に建てられた旧山形県会議事堂。 やはり中條・田原のコンビによる作品になります。


 田原は県庁舎と県会議事堂が完成した2か月後に山形で病没。 まるで建物の完成を見届けたような散り際です。 コンドル~曾禰中條と当時の建築界の王道を歩んだ才能の早過ぎる死が惜しまれてなりません。

金透記念館

2012-12-16 18:40:38 | 南とうほく (宮城・山形・福島)


 明治6(1873)年に盛隆舎として開校した郡山小学校が、増大する児童を収容する為に明治9(1876)年におよそ1年の歳月をかけて完成させた和洋折衷校舎。 当初は正面2階建て・桁行31間の本館の両端に平屋の袖校舎が附属する「コ」の字型の平面プランを持った建物で、棟梁は増子儀三郎・宗形彦八の2名、建築費は4964円(当時)ほどでありました。 完成直後の明治9年6月には明治天皇の東北巡幸に際して2階東端の礼法室が休息所として使用され、昭和8(1933)年の校舎改築の時にはこの礼法室を含む東側10間が切り離されて曳家、解体された正面玄関・ポーチ部分が中央に取り付けられ建物としての体裁を整えられました。 その後、老朽化により解体され昭和53(1978)年に鉄筋コンクリートで復元、正面上下の玄関だけが原型のごく一部として残されているようです。  福島県郡山市堂前町5-21  07年11月上旬ほか

 ※参考『ふくしまの西洋造』 1977
    『明治初期の擬洋風建築の研究』 1999



 棟梁の増子儀三郎は学校建築掛(係)の一人であった柏木喜兵衛に伴われ京浜方面の洋風建築を見学して建設に当たった。 明治9年当時、福島県内にはこれほど洋風の建築は学校建築を問わず1棟も存在していなかったという。


 多角形のベランダに入母屋の屋根を載せたので角の部分が三角形に突き出しています。


 和風建築に見られる懸魚も付く。


 柱頭の野暮ったいデザインも逆に微笑ましい。


 昭和7(1932)年頃の姿。 『ふくしまの西洋造』より。

旧笑門館写真館~岡田劇場

2012-03-13 20:26:35 | 南とうほく (宮城・山形・福島)


 昭和6(1931)年に建てられたかつての写真館。 古写真を見ると以前は屋根にパラペットが廻っており、その中央には微笑む大黒様の大きな顔と、右から左に「寫眞」という浮き彫りの文字。 まさに「笑う門には福来る」を形にしたような縁起の良い楽しい建物でした。 しかし東日本大震災による津波により建物の右半分は抉(えぐ)られるように大破、もうこの建物は残っていないのかも知れません。  宮城県石巻市八幡町1-4  08年11月上旬

 ※現存せず?



 女川街道の一本西の裏通り、旧北上川に向かって入口が開いていました。


 海野弘著『光の街 影の街 モダン建築の旅』(1987)にパラペット部分を写した写真が掲載されています。








 ストリートビューに無残な姿が…。




 旧北上川の中州に架かる橋の袂にあった岡田劇場(昭和22年築?・1947?)。 元は芝居小屋(岡田座)だったものを映画館として改修したのだそう。 こちらも津波により建物は姿を消しました。  石巻市中瀬3-2

 ※現存せず。





 水に浮かぶ大きな屋形船という例えは、まさに的を射た表現。






 すべてが記憶の彼方に。




 震災により今も休館中の石ノ森萬画館(震災前)。


 津波による流失から奇跡的に免れた旧石巻ハリストス正教会教会堂(明治13年)。 いつかまたその美しい姿が甦るのを楽しみに待ちたいと思います。 

旧若柳公会堂

2012-03-12 18:46:09 | 南とうほく (宮城・山形・福島)

 
 昭和3(1928)年頃に公会堂として建設。 後に映画館に転用されましたが昭和38(1963)年に閉館し、以後は自動車整備工場として使われていました。 東日本大震災で被災し2011年04月に解体。  宮城県栗原市(若柳町)川北古川5  08年04月中旬

 ※現存せず。



 外壁は新建材で覆われていましたが印象的なファサード上部は昔のままに残されていました。


 顔に例えるならば両目にあたるアーチ窓は塞がれた状態。


 訪問したのは朝の8時過ぎ。 仕事が始まるまでの穏やかなひととき。


 裏側を写しのはこの一枚だけ。 ちゃんとした写真を残せなかった事が悔やまれます。


 震災後の写真では1階部分が押し潰れたようになっていました。 建物の遍歴から考えると大きな空間を稼ぐ為に壁や間仕切りなどが少なかった事が予想されます。

旧粟野郵便局

2011-11-29 20:04:08 | 南とうほく (宮城・山形・福島)

 
 国会議事堂が完成したのと同じ昭和11(1936)年の建築。 福島県の近代化遺産リストを見るとRC造となっている事に少し驚かされますが、合併前の旧梁川町は養蚕が盛んで幕末から昭和の初め頃までは蚕都として隆盛を誇り、全国から買い付け人が訪れるなど商業的にも盛んだったそうなので、そう考えれば木造ではない立派な局舎がこの場所に建てられた訳も分かるような気がします。   福島県伊達市梁川町粟野  11年09月中旬



 現局の西隣り。


 マイナスのネジで留まっているので昔の古いプレートでしょう。






 山形のパラペットに〒マーク。 パラペットを廻らした旧郵便局って意外に珍しいかも。




 斜めになった梯子の形状から推測すると附属屋があったと思われます。 


 現在も郵政公社の所有となっています。

山形七日町二郵便局

2011-10-21 07:05:05 | 南とうほく (宮城・山形・福島)

 
 現在郵便局として使用されているこの建物は、丁子屋(丁字屋?)洋品店として大正14(1925)年に建てられたもの。 東北地方の建築事務所としては草分け的な存在である秦・伊藤設計事務所の伊藤高蔵の設計で建てられました。 洋品店としての営業を続けながらも終戦後は店舗の2階をダンスホールとビリヤード場に改装、しかし昭和47(1973)年に西隣りにあった地元資本の丸久(百貨店)に松坂屋百貨店が資本締結する形で進出したのを機に廃業し、1・2階を全面改装し郵便局へと転用して今日に至っています。  山形県山形市七日町2-7-20  11年09月中旬



 木造かと思っていましたが建物の案内板を読むと鉄筋コンクリート(RC)造になっています。 同じ七日町にある旧市島銃砲火薬店(昭和2年・1927)が市内初のRC造といわれていましたが、こちらの方が2年ほど古いのかも知れません。














 現代の街並みにもすんなりと溶け込んでいて古さを感じさせない。


 建物案内板に添えらえた洋品店時代の古写真。 1階中央部分がショーウインドウでその両脇が出入り口になっているようで現在とは正反対の形。 窓など開口部を除けば改変された点は少ないように思えます。


旧宮宿郵便局

2011-09-01 19:00:28 | 南とうほく (宮城・山形・福島)


 大正13(1924)年に建てられた郵便局舎(大正15年という情報もあり)。 設計は東北地方初の建築事務所である秦・伊藤建築設計事務所によるもので、大正13年に設立された同事務所にとっては最初期の作品となるものです。  山形県朝日町宮宿1173-2  09年08月中旬


 


 レンガ色のドイツ壁に上げ下げ窓が残る。


 窓間に柱型のように白い縦線が入り、妻面の化粧材と共に壁面との陰影を強調しています。


 玄関の風除室は後年の増設。 当初は正面の破風と似たような形状の庇があったそうです。 

矢吹~郡山の建物たち

2011-06-20 20:43:54 | 南とうほく (宮城・山形・福島)
 震災発生から初めて訪れた福島県。 期待と不安の中、矢吹町と郡山市の建物を見てきました。



 まずは矢吹の総合衣料実践堂(旧東邦銀行矢吹支店 昭和2年)。 道路の路面のうねりが地震のエネルギーの大きさを物語っていましたが、この建物は被害はほとんど無さそうに見えます。 但し、向かいの奥にあった洋風意匠の住宅は跡形もなく消えていました。


 同じ通りに面する旧屋形医院(大正10年頃)。


 他ブログで写真は見て知っていましたが、門柱と玄関ポーチが崩れてしまっています。
  

 基礎の部分もダメージを受けていて今後が不安な状況。  


 国道4号線を北上して郡山へ。 金透小学校にある金透記念館(明治9年)は曳家・復元などによって昭和53年に現在の姿になったもの。
 

 ロープが張られ近づけませんが屋根瓦が落下して散乱しています。


 道路から見ると高台にあるのですが、建物の亀裂や軒周りの部材の落下が一目瞭然です。 下の歩道も危険な為、通行禁止になっていました。


 本町通りの吉田薬局(昭和8年)は無事。


 看板建築たる所以。


 同じ通りの東邦銀行郡山中町支店(昭和13年)。 タイルの割れや欠落が見受けられます。 側面には足場も掛かって補修工事が始まっていました。 


 小野美工堂。 初見です。


 近江屋。 これも初めて見ました。 川柳会館のプレートがあります。


 一階部分が潰れ鉄筋が剥き出しになった建物。


 准看護師高等専修学校の建物(昭和12年)も以前と変わり無し。


 日本基督教団郡山教会の牧師館は屋根にダメージを受けブルーシートが被せられていました。


 建物の被害はまちまち。 このような状況の建物が点在しています。


 営業出来る状態ではありません。


 これも初めて見つけた建物。


 この雰囲気からするとかなり古そうです。 


 日本基督教団郡山細沼教会礼拝堂(昭和4年)。


 壁面に大きな亀裂が何本も入っています。


 塀も倒れてしまっていました。


 郡山合同庁舎(昭和5年) 傾いて見えるのは写真がヘタだから。。。


 郡山市公会堂(大正13年)も大丈夫そう。 むしろ隣の中央公民館が被災して立ち入り禁止になっていました。 

 通行止めの原因はこれ。 解体作業も進んでいないようです。 


 はやま通り、水道局前の路面の亀裂。 縦横それぞれ10センチくらいの幅で、子どもの足ならすっぽり嵌ってしまいそう。


 はやま通りをそのまま西に歩いていたら気になる建物を発見。


 正体はこれでした。 昭和5年に鎌倉に建てられた久米正雄の住宅を平成12年に移築してきたそう(久米正雄記念館)。 残念ながら被災して暫らく内部は見られないとの事。


 聖ペテロ聖パウロ教会(昭和6年)。


 深沢にある旧後藤家住宅(明治19年以降?)。


 庭木で良く見えませんが灯籠が倒れ窓もあちこちベニヤで塞がれています。


 安積疏水事務所貴賓館(昭和12年)は意外にも大きな被害を受けていました。  


 地震から3か月経っていますが何も手当てされていないようにも思えます…。


 開成館(明治7年)も大きなダメージを受け休館中。


 壁という壁、至る所に亀裂が入っていて復旧までには相当な時間がかかりそうです。


 安積歴史博物館(旧福島尋常中学校 明治22年)も被災により休館中でしたが見た限りでは大きな被害は無し(諸事情により撮影せず)。 最後にその福島尋常中学校の一部だったという建物を見にいきます。 


 安積歴史博物館のHPに一行だけ紹介されているハリハツクスの家とはこれの事でしょうか。 それとハリハツクスとはハリファックス(明治22年当時赴任してきた外国人教師)の事なのでしょうか? 


 関連する資料が無くて2棟の建物とも詳細は不明です。 手持ちの資料にはハリファックスの住宅(住居)も移築されたとありますが、その建物の写真とこの2棟も違うもので謎がまたひとつ残ってしまいました。


 ※本文に加筆修正を加えました。

旧四倉銀行

2011-06-13 19:17:56 | 南とうほく (宮城・山形・福島)

  
 四倉銀行は大正5(1916)年、四倉港築港第一期工事の開始に伴って漁業振興の為に設立された金融機関。 この建物は大正15(1926)年に3万8千円(当時)をかけて地元の堀江工業により建てられました。 設計者は不詳となっていますが、その設計手法などからある程度の近代的建築教育を受けた者による設計といわれています。 昭和4(1929)年の金融恐慌で四倉銀行は閉鎖、以後この建物は平商工信用組合四ツ倉支店や個人医院、学習塾として使われてきたそうです。  福島県いわき市四倉町東4-28  10年04月中旬

 ※参考 『福島県の近代化遺産』 2010
 ※現存せず(震災による)。



 庇(ひさし)は直線的ですが、その上には丸みを持たせた装飾を施す。


 四倉の「Y」をモチーフとしたレリーフとはこれの事? かなり抽象化されたデザインです。


 玄関脇にはドリス式のオーダー。




 パラペット付近の処理の仕方が表現派の影響を感じさせます。






 アーチ窓の彫りの深さも印象的。

日本基督教団 郡山細沼教会礼拝堂

2010-11-09 07:11:24 | 南とうほく (宮城・山形・福島)




 クリストファ・ノッス宣教師を工事主として昭和4(1929)年に建てられた礼拝堂。 昭和31(1956)年に2階からの出火で半焼し内外とも復旧工事を受けています。 現在の建物の外壁は白色で平滑なものになっていますが、古写真を見てみると濃淡のある立体的な壁面で大変趣深い建物であった事が見てとれました(白黒写真なので色までは判別出来ず)。 設計者は不明ですが同一教区内の建物設計は同一人物に任せるのが慣例で、県内の日本基督教団の教会を担当したのがヴォーリズであった事からこの建物も彼の設計である可能性があるそうです。  福島県郡山市細沼町8-12  07年11月上旬

 ※現役の教会です。 見学の際はご配慮願います。
  参考 『福島県の近代化遺産』  2010

市島銃砲火薬店

2010-08-24 07:09:31 | 南とうほく (宮城・山形・福島)



 山形市に初めて常備消防を組織してその初代消防長となった市嶋虎吉によって建てられたもので、市内初のRC造建築とも云われます(昭和2年築 1927)。 虎吉が東京から連れてきた渡辺某という職人が工事を担当し、危険物を取り扱う事から防犯と堅牢さを主として派手さを抑えた仕上げにしたそうですが、柱型には柱頭飾りを施すなど様式的な手法も交えて建物に品格を与えています。 雨じまいが悪かったからでしょうか、屋上の切妻屋根は昭和20(1945)年頃に追加したものだそうです。  山形県山形市七日町5-10  07年09月中旬

 ※参考 『山形県の近代化遺産』  2001

 ※追記 七日町にある山形七日町二郵便局(旧丁子屋洋品店)が大正14(1925)年築のRC造という情報もあるので、こちらは山形市内初のRC造ではないかも知れません。

大和田医院

2010-04-15 07:12:42 | 南とうほく (宮城・山形・福島)


 昭和初期築の個人医院。 既に営業はしてないようです。 いわき駅前の刷新されつつある街並みの中では、この建物もいずれは駆逐されていくのでしょうか。  福島県いわき市平南町  10年04月上旬


 エントランス。 上部には波頭のような模様が。


 古典的な装飾ですが端々に自由な表現を感じさせるデザイン。 設計・施工は三森己代松という人物。




 緑青色と灰色の対比が美しい。




 診察はもうお終い。 


 

 隣のビジネスホテルの無機質な壁面が覆い被さる。

旧大越娯楽場

2010-04-14 07:14:43 | 南とうほく (宮城・山形・福島)





 大正15(1926)年築。 現地説明板によると施主は繭生産組合、主に繭や煙草の共同集出荷場に使用され、農閑期には村民の為の娯楽施設として映画や演劇等に使用されたとあります。 両サイドの切妻屋根と真ん中の破風が織りなす3つの三角形が、記憶の中にその印象的な姿を克明に焼き付けてくるように感じます。 設計・今和次郎。  福島県田村市大越町上大越町1  10年04月中旬

旧三凾座

2010-04-13 07:06:58 | 南とうほく (宮城・山形・福島)





 明治30年代に建てられたという芝居小屋。 三凾と書いて「みはこ」と読みます。 戦後は主に映画館として使われてきましたが昭和57(1982)年に閉館し、今は小さな路地の奥に大きな体を窮屈そうに押し屈めてひっそりとしています。  福島県いわき市常磐湯本町三函(さはこ)164-1  10年04月中旬