関西日仏学館

2013-07-27 18:53:53 | 京都・兵庫


 昭和2(1927)年に京都・東山の九条山に日仏の文化交流とフランス語教育の為に設立された関西日仏学館が、昭和11(1936)年に現在地に移転してきた時に建てた2代目の建物。 基本的な設計はフランス人のレイモン・メストラレが担当し、大阪に設計事務所を開設していた木子七郎が京都の気候風土に合わせて実施設計を行っています。 正面中央の2階部分に曲面をつけて張り出させ、同じく曲面のついた柱型を配して直線と曲線を上手くミックスさせるなど、古典的な秩序の中にモダニズムを織り込む手法は現在においても古さを感じさせない建物とする事に成功しています。  京都府京都市左京区吉田泉殿町8  12年10月下旬他


 ※参考『京都の近代化遺産』 2007ほか



 東大路通を挟んで京都大学の吉田キャンパス(本部)と相対する。




 RC造地上3階、地下1階建て。




 四隅も丸い。


 12月に入って木々が落葉した時に撮りました。


 クリスマスツリーも飾られている。


 1・2階は主として教室や図書室などの学校施設、3階は館長の居住空間でした。




 現在は1階にはカフェがあってフレンチも気軽に楽しめるようです。


 玄関入って直ぐの床に敷かれていたモザイクタイル。 色使いがお洒落~。


 壁には何やらプレートが。


 建設にあたっては大阪商工会議所会頭や貴族院議員も務めた稲畑勝太郎(1862~1949)の存在が大きく、彼の呼び掛けで多額の寄付金を集めたようです。


 竣工当初は木子の友人であったレオナール・フジタ(藤田嗣治 1886~1968)が絵画『ノルマンディーの四季』を描き寄贈し、1階に飾られていたともいう。


 木子七郎の家系は元来、京都御所出入りの棟梁の家柄。 彼はこの建物や日本赤十字社の支部建物の設計などにより昭和12(1937)年にフランス政府からレジオンドヌール勲章を授与されました。

松山大学温山記念会館

2013-07-23 19:29:58 | 京都・兵庫


 松山高等商業学校(現・松山大学)の創設者・新田長次郎(1857~1936)が嫡孫である利國の為に昭和3(1928)年に建設。 長次郎の長女カツの娘婿である建築家・木子七郎(1884~1955)に設計を依頼して建てさせたスパニッシュと和風を組み合わせた瀟洒な洋館です。 長年に渡って新田邸として用いられてきましたが平成元(1989)年に松山大学に寄贈され、現在は学生の研究活動の場などとして活用されています。 ちなみに「温山」(おんざん)とは長次郎の雅号から命名されたものになるようです。  兵庫県西宮市甲子園口1-12-31  09年1月下旬ほか

 ※参考『歴史遺産 日本の洋館 第五巻 昭和篇Ⅰ』 2003
    『銀座八丁目の75年 新田ビルの建築記録』 2007
    『日本のステンドグラス 宇野澤辰雄の世界』 2010
    『萬翠荘物語』 2012



 JR甲子園口から歩いて5分、閑静な住宅地の小川沿いに建物が見えてくる。


 長次郎の長男であった利一は若くして亡くなり、その息子である利國も体が弱かった為、気候温暖で空気の良いこの地を選んで建てられたという。


 玄関脇の小窓にはビン底のように見えるクラウンガラス。


 イスラム風のタイルが玄関周りに貼られています。


 見学会に参加して内部へ。
 



 こちらの足元にもイスラム風タイル。


 ペンダント照明です。


 まずは1階のセミナー室へ。


 

 

 床の模様が立体的に見えてくる。




 各部屋や廊下にはセントラルヒーティングが設置されグリルにも手の込んだ装飾が施されていました。


 門の外からも見えていた玄関横の3連アーチ窓の部屋。


 半円のステンドグラス。




 鹿の頭の剥製がある造り付け(?)の家具。


 こちらのタイルもイスラム風ですね。




 隣りの部屋は元のダイニングルーム。


 重厚。
 

 暖炉風のセントラルヒーティングになるのでしょうか。


 左が新田長次郎。 長次郎は現在の松山市山西町の生まれ、二十歳を機に大阪に出て製革所に勤めた後に独立、安価で質の高い伝動用革ベルトの製造に成功したのを皮切りに事業を拡大して一代で巨万の富を築いた立志伝中の人物。 郷里を慕い、松山高等商業学校の設立の際には必要な費用を全額負担し、それは現在の金額に直すとおよそ30億円にもなるという途方も無い金額であったという。


 

 外套掛け?


 キッチンは現代的なものに変えられています。


 使用人用と思われる階段。 この建物には利國夫妻の他には女中が3人と男衆が1人の計6人が暮らしていたそう。


 1階の東南にある和室。




 和室にいると庭園を間近に感じます。
 

 

 

 玄関ホールに戻ってきました。


 ここに主階段があります。 写真には全く写っていませんが他にも見学者が多くて苦心しながら撮っています。。


 45度ねじれて立つ階段親柱。


 階段部分にはダイヤ柄のアーチ窓が並ぶ。


 2階の会議室。










 アール・デコのステンドグラス。 この邸宅のステンドグラスは大正12(1923)年に大阪に設立されたベニス工房によるものらしい。 日本のステンドグラスの歴史を開いた宇野澤辰雄(1867~1911)の流れを汲む工房です。


 南西の部屋。






 床の模様は一風変わったデザイン。


 先程の会議室の東隣りの部屋。




 廊下側にステンドグラスがあります。


 槲(柏・かしわ)の葉と実をデザインしてあるようですが…?




 くぐり抜けた先は和室になっています。




 

 丸窓と一枚板で作られた違い棚のバランス感覚が美しい。


 2階のトイレもチェック。


 

 

 ビリヤードルーム。 利國は外ではほとんど遊ばず、友人を家に呼んではビリヤードをするのが好きだったそうです。


 談話室も兼ねる。


 上流社会の嗜み。
 

 扉は市松模様。




 トップライトの照明のガラス板にも装飾がありました。


 小扉を開けると階段室。


 ささやかな仕掛けが楽しい。




 楽しい時間はあっという間に過ぎ去る。


 



 内部見学の時間は終了、外に出てきました。


 南面の様子。 複雑な造形を何とか収めたような印象です。


 

 壁泉がありました。


 雄羊の吐出し口。
 

 お庭を回って東面へ。


 

 建物完成の翌年に造られたという防空壕がありました。


 中へ入ってみます。


 



 お別れの時。 庭園と一体になったその姿は訪れる人々を今も魅了して止まない。

京都のA邸

2013-06-30 18:57:40 | 京都・兵庫


 京都御所に接した烏丸通から少し西へと入った住宅地にあるこの邸宅は大正11(1922)年の建築。 京都帝国大学の電気工学科教授であったA氏が、同僚の建築学科教授・武田五一に設計を依頼して建てたものだそうです。 台所には「万能電気料理台」なるものが設置され玄関にはラッパ型のドアホンが装備されるなど、電化住宅を試みた実験的で野心的な住宅でありました。  京都府京都市上京区  13年04月中旬

 ※参考『フランク・ロイド・ライトと武田五一 日本趣味と近代建築』 2007

 ※個人邸ですので見学の際はご配慮願います。



 粗く仕上げたモルタル壁で木造住宅の様に見えますが、実は鉄筋コンクリート(RC)造の住宅。 RC造の個人住宅としてはかなり初期のものになります。


 家主のA氏は武田と仲が大変良かったと伝わっています。




 設備の中には自動ドアという記録もあるそうですが、現代のいわゆる自動ドアとは意味が少し違いリビングで玄関の施錠が出来るという程度の物だったらしい。


 「電化住宅 大正時代」でググると日本の電化住宅の先駆けと名前が出てくる芦屋の旧山邑邸(大正13年・1924)。


 同じく名前が挙がる名古屋の旧川上貞奴邸(大正9年・1920)。 日本初の女優といわれる川上貞奴が電力王・福沢桃介と暮らした邸宅です。

旧武田五一邸離れ

2013-06-26 19:21:50 | 京都・兵庫


 京都を代表する建築家・武田五一(1872~1938)の自邸の離れとして昭和4(1929)年に建てられ、武田没後は武田未亡人の終の棲家となった建物。 母屋は昭和30(1955)年頃に現在のこの建物の持ち主であるS家が購入しましたが同37(1962)年の火災で焼失、その後に武田夫人が亡くなった為にこの離れもS家が購入しました。 昭和47(1972)年に大規模改修が行われ内部は旧情を留めていないそうです。  京都府京都市北区  13年04月中旬

 ※参考『京都市の近代化遺産』 2006
    『関西の近代建築 ウォートルスから村野藤吾まで』 1996

 ※個人邸ですので見学の際は十分にご配慮願います。



 東面から。 この離れは元は製図室であったという。


 西面に回ると窓には幾何学模様のステンドグラスがありました。


 壁には青紫色の装飾タイル。


 武田五一は包容力があって人間的にも優れ、建物の実施設計を弟子達に任せて自由にやらせる事も多かったという。 中でも松本儀八(1888~1973)に対しては一際信頼が厚く、武田自邸の実施設計も松本に委ねているそうです(焼失した母屋部分、この離れへの関与は不明)。 松本は武田が教授を務めた京都高等工芸学校時代の教え子であり、大正14(1925)年に開設された大林組住宅部の部長でもありました。

革島医院

2013-06-25 18:35:48 | 京都・兵庫


 蔦の絡まるトンガリ屋根のこの建物は昭和11(1936)年に建てられた個人医院。 建築が趣味であった施主(初代院長)が留学先で見たドイツの城郭をモデルとして半年間をかけて自ら図面を引き、引き直す事30回の後に「京都あめりか屋」に発注し、その案を元に図面の修正が行われ完成したのだそうです。 平面は中庭のあるロの字型で円筒のある北側(写真向かって左側)は住居で南が病院部分、その病院部分の2階は入院患者用の病室になっているようです。  京都府京都市中京区麩屋町通六角下る坂井町470  13年05月中旬

 ※参考 『京都の洋館』 2004
     『京都の近代化遺産』 2007



 北西から見た外観。 木造2階建て(一部3階)で円筒部分の1階は応接室に充てられています。 右隣に新しい建物があるのでここはもう住居だけの使用かも。


 

 玄関扉は新しそうですが菱形デザインのステンドグラスは建築当初の物でしょうね。


 ブラケットも古そう。


 診察室には初代院長がドイツから取り寄せた医療器具もあったという。 今もあるのでしょうか。
 

 避雷針はアールデコ風。


 三角の切妻を見せるこの部分は階段室になっています。


 京都あめりか屋の設計担当は首藤重吉という人物。


 蔦の葉が風にざわめく姿はまるで建物に生命が宿っているかのような錯覚を抱かせる。

京都大学 文学部陳列館

2013-06-05 20:25:14 | 京都・兵庫


 京都帝国大学の拡張期(大正3~11年頃)を代表するネオバロック風の建物で、国史・考古・地理・美学等に関する分野で収集した資料を収蔵・管理する為の建物(大正3年築・1914)。 当初はL字型の平面プランを持つ建物でしたが大正12(1923)、同14(1925)年及び昭和4(1929)年と3度の増築を重ねて全館完成し、ロの字型の平面プランへと変わりました。 しかし建物の狭隘化や老朽化により資料の活用に次第に困難をきたすようになり、昭和61(1986)年に新たな博物館が完成すると資料はそちらへと移転され、その際にこの建物も背面側が半分ほど撤去され再びL字型の平面プラン(但し当初とは逆向き)へと変わりました。  京都府京都市左京区吉田本町(京都大学吉田キャンパス内)  12年12月上旬他

 ※参考『京都大学建築八十年のあゆみ』  1977
    『近代名建築 京都写真館』 1996



 レンガ造ですが外壁にモルタルを塗り、目地を切って石造風の仕上げとしています。


 鍵がかかっていて中には入れず。


 軽やかで華麗な装飾です。




 玄関頂部のキーストーン(要石)風装飾。


 玄関ポーチの照明台座を真下から見上げる。






 建物の両端には三角形のブロークンペディメント。


 ぺディメントの中央には楕円窓。


 植物の緑と上手く調和していてお洒落上手です。




 正面の櫛形のペディメントでは丸窓になっていて変化を加えています。


 建物の設計は京都大学建築部創設(明治39年・1906)と同時に初代建築部長に任命された山本治兵衛と、山本没後に建築部長を引き継ぐ事になる永瀬狂三の手によるものです。

旧鳴尾競馬場本館

2013-01-30 20:43:13 | 京都・兵庫


 武庫川女子大学附属中学・高校の「芸術館」として使用されているこの建物は、昭和10(1935)年に鳴尾競馬場本館として建てられたものの一部を保存・復元した施設。

 鳴尾競馬場は明治40(1907)年に関西競馬倶楽部により「関西競馬場」として創設され、同43(1910)年に同じ鳴尾浜にあった「鳴尾速歩競馬場」(主催・鳴尾速歩競馬会)と合同し「鳴尾競馬場」と改称されます。 この時に「倶楽部」と「競馬会」が合併して誕生した阪神競馬倶楽部により昭和10年に現在の建物が完成、2年後に阪神競馬倶楽部が日本競馬会に統合された際には競馬場も「阪神競馬場」へと名称変更されました。 昭和18(1943)年には太平洋戦争の拡大に伴って競馬場は軍に接収され本館は飛行場(鳴尾飛行場)の管制塔に転用、戦後は米軍がキャンプ基地として使用し昭和32(1957)年からは国が管理するようになりました。 昭和35(1960)年に武庫川女子大学がこの地の払下げを受け、以降は校舎建設の中にこの本館も取り入れられ現在までその姿を残す事になっています。  兵庫県西宮市枝川町4-16  12年12月上旬



 エントランス。


 大きな庇があります。


 中に入ると正面に大階段。




 この建物を文化財として残すにあたり内部は忠実な復元が行われているそうです。


 玄関を入って右側の部屋は現在は応接室。




 左側の部屋へ。


 こちらは展示室。


 2階へ進みます。


 大階段は2階までで終わり。


 上がり着いた先は多目的ホール3。 奥にも小室が見えます。


 払下げを受けた時には建物は廃墟のようになっていました。 現在の姿はやはり復元の力が大きいと思います。




 小室は多目的ホール2。


 天井の漆喰装飾は2段になっていて可憐。


 3階へは脇にある階段を使って上がります。


 3階の梁の装飾。




 3階のホール。 左に開いている扉は増築された後背部へ出入りする為のもの。


 多目的ホール4。


 この部屋は気品があります。




 美しい。








 また階段を上がって4階のホールに来ました。




 振り返ると窓があって外の景色が床に映り込む。 一気に開放感に包まれます。


 この階段を上がれば…


 そこは屋上。








 校庭が見えています。 かつては大スタンドと1週1800メートルの馬場がありました。


 古写真を見たら競馬場は平坦コースのような感じ。 大掛かりな造成工事を必要とする事も無く飛行場に転用するには都合が良かったかも知れません。


 反対側はこんな景色。 庶民の平和な生活が営まれています。






 先ほど通り過ぎた4階の一室でコーヒーブレイク。 西宮市主催の見学会に参加したのでした。 


 3階の増築部。 右手が美術教室になります。


 「芸術館」という使われ方。




 館内はスリッパ着用。
 



 戦争の悲惨さを忘れ、幸せな結末。

京都大学工学部 建築学教室本館

2012-12-15 16:51:54 | 京都・兵庫


 京都大学は明治30(1897)年に第三高等学校の敷地であった現在の本部構内に、京都帝国大学理工科大学(後の理学部・工学部)として設置されたのが一般的な始まりとされます。 その後、法科大学・医学大学、文科大学が順次設置され、分科大学制が学部制に変わった後は経済学部の設置と続けられました。 工学部に建築学科が開設されるのは大正9(1920)年の事、創設委員で学科主任教授であった武田五一(1872~1938)は自ら建築設計顧問に就任し、セセッションに代表される新しい建築意匠の建物をキャンパス内に設計していく事になります。 写真の建築学教室本館は大正11(1922)年に竣工したもので、京都大学における最初のRC造建築であり初めて瓦屋根を持たない建築の出現でもありました。  京都府京都市左京区吉田本町36-1  12年12月上旬

 ※参考『京都大学建築八十年のあゆみ 京都大学歴史的建造物調査報告』 1977 



 玄関上部の湾曲した壁面とバルコニー。




 小豆色のタイルとチョコレート色のタイルで模様を描いています。


 玄関を縁取る卍。


 バルコニーは両端にもありました。






 貼り紙を読むと通常は閉鎖されているようです。




 中を覗くと緩やかにカーブした階段が。


 上がってみたい衝動に駆られます。


 

 裏に回ってみました。




 この半円にさっき表から見た階段が収まっています。


 窓にはクローバーをデザインしたようなステンドグラスも嵌まっていますね。


 こちらも同じく。






 

 東側に渡り廊下で繋がった建物があります。


 建築学教室東別館(昭和12年築・1937 設計・大倉三郎)になるのでしょうか。


 昭和7(1932)年、還暦を機に武田五一は京大教授を退官。 以後は愛弟子であった大倉三郎などが跡を引き継いでキャンパスの拡充が図られていく事になります。

無鄰菴

2012-12-02 20:01:28 | 京都・兵庫


 無鄰菴は明治の元勲・山縣有朋(1838~1922)が京都に築いた別荘の名称。 敷地の大半を占める池泉回遊式庭園には木造2階建ての母屋と茶室、そしてレンガ造の洋館の3つの建物が設えてあり、現在は京都市の管理の下、一般に公開されています。  京都府京都市左京区南禅寺草川町31  12年10月下旬

 ※参考『京都府の近代和風建築』 2009
    『京都モダン建築の発見』 2002
    『近代京都の名建築』 1994  ほか



 山縣有朋は「無鄰菴」と呼ばれる別邸を生涯に渡って3度建設している。 郷里・長州の下関、京都の木屋町二条、そして南禅寺に近いこの場所に建設したのが明治27~29(1894~96)年といわれます。


 表門をくぐって受付へ。


 庭園に入って直ぐ右側にある洋館は明治31(1898)年の築。 設計者の新家孝正は旧川崎銀行水戸支店旧学習院初等科正堂等を手掛けた建築家。


 階段部分。






 レンガ造とは思えぬ土蔵風の建物。 山縣は洋館を防寒室として建てたとしており、また外観も庭園と不調和である為、植栽で隠すと発言しています。 


 洋館の入口へ。


 蔵の扉といった感じです。


 

 展示室になっている1階は煉瓦むき出しのまま。 




 洋館の造り。




 階段室は外から見ると意匠が微妙に異なっているのが特徴的。 増築か改築部分のような気もしますがそういう資料は見当たりませんでした。


 突き当りが主室で左が控えの間になります。




 主室。 金碧花鳥図障壁画で飾られたこの部屋で明治36(1903)年4月21日、午後4時から2時間に渡って日露開戦を決めた「無鄰菴会議」が開かれた。 出席者は山縣の他に伊藤博文・桂太郎・小村寿太郎の3人。




 折上げ格天井からシャンデリアが吊り下がる。


 この部屋は薄暗い上にフラッシュ撮影も禁止。 私が使っている名刺サイズのコンデジで手持ち撮影だとこれが限界です。


 一つだけソファの色が違うのは何故でしょう?








 狩野派といわれる障壁画。 これ以上ズームにすると手振れが酷くて寄れません。。


 こちらは控えの間。


 当時の椅子でしょうか。




 洋館を出ます。


 茶室は明治28年に移築してきたものらしいです。




 庭園を歩く。


 10月末の京都の空。






 明治28年築の主屋。 明治31年と大正期に改造されているようです。




 庭園は山縣が自ら設計・監督したもので、造園家・7代目小川治兵衛(1860~1933)が作庭したもの。 東山を借景にし疎水の水を取り入れた美しい庭園です。


 

旧網干銀行本店

2012-11-29 19:20:42 | 京都・兵庫


 商店街の破けたアーケードから円筒状の塔屋を覗かせているこの建物は、大正末期(大正10~12年頃・1921~23頃)に網干銀行の本店として建設されたもの。 網干銀行は明治27(1894)年に設立された銀行ですが昭和5(1930)年に三十八銀行に買収され消滅、同行も昭和11(1936)年の7行合併により新たに神戸銀行となりました。 この建物は昭和45(1970)年以降は洋装店に改装され現在まで同じ用途で活用されています。   兵庫県姫路市網干区新在家640-3  11年09月下旬

 ※参考『兵庫県の近代化遺産』 2006



 商店街の入り口に建つ。


 

 現在は女性向けの服飾店。


 レンガ造ですが赤茶のタイルが貼られRC造のようにも見せています。


 基礎の部分は花崗岩。




 櫛形のペディメントも見える。


 看板で隠れていますが玄関脇には円柱も備わっています。


 昭和5年に買収され消滅したという事は、網干銀行は昭和恐慌のあおりを大きく食らってしまったのでしょうか。




 ハーシーのキスチョコを少し扁平にしたような形のドーム屋根。


 装飾は抽象化されている感じ。




 網干銀行創設者・山本真蔵の大正10年の日記から設計施工は神戸の田中組と思われるそう。 担当・若松初三郎となっていますがどのような人物・仕事をしていたのかは分からないみたいです。

旧武藤山治邸(旧鐘紡舞子倶楽部)

2012-11-23 17:21:35 | 京都・兵庫


 明治40(1907)年に実業家・武藤山治(1867~1934)の邸宅として建設。 当初は洋館の西側に和館が並立して建っていましたが、平成7(1995)年に明石海峡大橋建設に伴う国道2号の拡幅工事により洋館のみ保存され垂水区狩口台7丁目へと移築されました。 平成19(2007)年に当時の所有者であったカネボウより兵庫県に寄贈され、当初建っていた場所に近い現在地に再移築、同22(2010)年より一般に公開されています。  兵庫県垂水区東舞子町  12年10月上旬

 ※参考『神戸市内の近代洋風建築』 1984
    『神戸の近代洋風建築』 1990 ほか



 左に見切れている建物は管理棟。 当初洋館に附属していた撞球室を参考にして今回新たに建設したもの。


 屋根勾配は結構きつめ。


 風雨の強い海岸べりにあって建物の痛みが激しかった事、そして2度の移築により構造材や外装材の多くは新しい物に変わっています。
 

 

 正面に回ります。




 こちらからは入れません。 建物入口は管理棟からになります。




 円形の大きなバルコニーが特徴的ですが、これは昭和57(1982)年頃(?)に撤去されていたものを最初の移築時に復元したようです。


 

 ベランダは立ち入り禁止。
 

 天井の中心に飾りがありました。


 2階の隅にはちっちゃなベランダ。


 管理棟から一気に中に入ります。 




 入って直ぐ左は洗面所とトイレ。


 右の部屋は食堂です。


 暖炉も昔のまま。




 食堂から玄関ホールを見ています。


 食堂の隣りは広間。




 家具なども当時のものがほとんど残っているそう。




 天井隅の装飾。




 窓の外に見えているのは明石海峡大橋です。


 広間の北隣りの部屋は応接室。








 応接室から見たホールはこんな感じ。


 ここが玄関の内側になります。 靴を脱ぐ場所が無いので土足で出入りしていたのでしょうか。


 すりガラスと面格子の調和が美しい。


 植物模様。




 外から見て気になっていたステンドグラスはここ。


 アールヌーヴォー風のデザインです。


 …メフィラス星人? 


 



 2階にやってきました。 壁にかかる絵画なども昔からのもののよう。


 食堂の上の部屋は貴賓室。




 ひとりぼっち用。 もとい、2人ぐらいならいけるか。


 照明吊りの中心飾りも各部屋違っていて見所のひとつ。


 隣りの部屋へ移動しています。

 





 この部屋からは円形のバルコニーへと出られますが、現在は出入り禁止です。


 肖像画の一枚は建て主の武藤山治でした。 彼は三井銀行を経て鐘紡紡績に入社、鐘紡株買い占め事件により一時的に退社するも直ぐに復帰し、後に社長に就任するなど優れた経営手腕によって鐘紡における中興の祖であるといわれます。 


 応接室の上は書斎。 この部屋も立入り禁止になっています。


 山治の読書のスピードは人一倍早く、書棚には和洋合わせて1750冊もの本が並んでいたという。 




 この絨毯は古そうです。


 全ての部屋を見終わったので下へ戻ります。






 管理棟へと通ずる扉。 当初は和館と繋がっていたのでしょうか。


 こんな所にも。


 見学料100円は良心的。 また見に行きたくなります。


 手前には孫文記念館(移情閣)。 奥に今回の主役が建っています。

旧教業小学校

2012-09-26 19:10:09 | 京都・兵庫


 明治2(1869)年1月の町組(町単位で集まった地域的な住民自治組織)の改組により進められた京都の小学校の創設は、年内に64校もの小学校(いわゆる番組小学校)の開校へと繋がります。 教業小学校もその時に開校した歴史ある学校で、写真の建物は昭和7(1932)年に建て替えられた鉄筋コンクリート造のものにあたります。  京都府京都市中京区三坊大宮町  12年09月下旬



 敷地の南側一杯に建てられた校舎。 児童の減少による小学校の統廃合により現在は廃校になっていますが、地域のコミュニティ施設のような使われ方をしていると思われます。


 国による学制の施行は明治5(1872)年の事。 京都の番組小学校はそれに先立つ日本最初の近代的学校教育制度でした。




 ちょっとだけ中を拝見。








 建物の外観上の見所はこの玄関部。 三角出窓はアールデコというかキュビズム風とでもいうのでしょうか。 設計は京都市営繕課によるものです。


 この日時計は昭和28(1953)年3月の卒業記念。 この時の卒業生はもう70歳を超えていますね。 


 …トーテムポール?




 奥には戦後に建てられたと思しき色白校舎。


 北側のグラウンドから。 右手には体育館も見えます。


 近くの住宅には校内清掃の日付と参加を呼び掛けるビラも貼りだされていました。 校舎建設・整備の財源の一部は町衆など学区民も調達していたと聞くので、小学校校舎は地域の誇りや歴史の象徴として慕われるような存在なのかも知れません。

任天堂正面営業所

2012-08-30 18:36:44 | 京都・兵庫


 任天堂は明治22(1889)年に花札のメーカーとして創業、明治末にはトランプの製造で大きな成功を収めました。 今に残るこの建築群は昭和8(1933)年に合名会社山内任天堂が設立された際に建てられたもので、正面(南側)から本店、本宅(社長宅)、倉庫(これのみ昭和5年築・1930)の3つの建物で構成されています。 本店に残されていた棟札などから建物の設計者は増岡建築事務所(担当・増岡熊三/田中義光)である事が判明していますが、この建築事務所に関する詳細は良くわかっていないようです。  京都府京都市下京区正面通西木屋町東入ル  09年01月上旬他

 ※参考『京都の近代化遺産』 2007
    『京都モダン建築の発見』 2002 ほか





 切妻屋根の本宅。




 玄関周りは特にデコラティブ。


 庇は円型をしています。




  

 玄関横を覗き込んだ所で見つけた40㎜四方ぐらい(?)のタイル。 色褪せぐあいがグッとくる。


 いかにもアール・デコといった装飾。


 本宅と倉庫を囲う塀の上部にはスクラッチタイル。


 2階の一部がベイウインドウ状に張り出しその上部はバルコニーになっているみたい。




 小動物に似た可愛さ(意味不明)。


 

 倉庫には吹き抜けの大きな空間があって建築当初のエレベーターも残されているようです。


 あちこちにある「福」の一文字はゲン担ぎなのでしょうか。 横の鳥さんみたいな図柄は他の建物でも見た記憶があります。 


 ゲームウォッチやファミコン、スーファミ世代のワタクシにはWiiやDSはサッパリ分かりません。 PS2でテレビゲームは卒業しています。。

旧村井銀行七条支店

2012-08-28 19:14:22 | 京都・兵庫


 煙草が民営だった時代に「煙草王」と呼ばれていたのが京都の村井吉兵衛(1864~1926)。 彼は日本初の両切り紙巻き煙草を製造・発売し、「サンライス」「ヒーロー」といった銘柄でヒットを飛ばして巨万の富を構築しました。 その後、煙草が専売制になると銀行経営に乗り出して村井銀行を設立、この建物はその七条支店として大正3(1914)年に完成したもので設計は米国帰りの吉武長一の手になるもの。 吉武はペンシルバニア大学へ留学していた建築家であり明治41(1908)年に米国より帰国、同43(1910)年から村井銀行の建築部長を務め、独立(大正2年・1913)後も一貫して村井銀行の仕事を受注していた“お抱え建築家”的な存在だったそうです。  京都府京都市下京区東中筋通七条上る文覚町402  09年01月上旬他



 現在はカフェ・レストランとしての活用。 この玄関ポーチ部は古写真には写っていないので飲食店への転用時に付け加えられたものと思います。


 

 良くも悪くも非常に印象的なドリス式オーダー。


  同じ村井銀行、同じ吉武の設計になる旧祗園支店や旧五条支店と比べてもオーダーの大きさが目に付きます。




 構造はレンガ造。


 側面の出入り口。 こちらはトスカナ式オーダーでしょうか。




 吹き抜けに床を張り1階のカウンターを撤去するなど内部はそれなりに改装を受けているとの事。


 村井吉兵衛は村井銀行の他に京都瓦斯、帝国製糸など次々と事業を興し村井財閥を形成しました。 しかし大正15(1926)年に村井は没し、翌昭和2(1927)年に村井銀行も破産して村井の時代は完全に終わりを迎える事になります。 

芦屋市立図書館打出分室

2012-06-09 18:03:07 | 京都・兵庫


 大阪・淡路の金庫屋で仏教美術コレクターであった松山与兵衛の住宅の中の一つ、「松濤館」と名付けられていた美術品収蔵庫を芦屋市が敷地と共に買い取って図書館へと転用したもの。 元々は大阪の両替商であった逸身銀行の店舗として明治後期に建てられたもので、与兵衛が建物を購入して昭和5(1930)年に大阪から現在地に移築してきたものと伝わります。  兵庫県芦屋市打出小槌町15-9  09年01月下旬



 こちらが本来の正面玄関と思われますが現在は使用されておらず、増設された新しい建物から中に入るようになっています。
 

 窓が小さく壁も厚く、石造りという事もあって非常に堅牢な建物という印象が強い。 構造はRC造となっているので、移築された時か図書館へと転用された時に内部を補強されたものと思われます。


 中華風というか東洋趣味的なデザインですね。


 北・東面はルスティカ積み風の凸凹とした荒々しい仕上げ。


 調べていたら「逸見」と「逸身」がごっちゃになってしまいましたが、明治34(1901)年の金融恐慌で解散に追い込まれたという「逸身」銀行が正しいのでしょうか? 


 戦後は進駐軍や警察予備隊が建物に駐留し昭和27(1952)年に芦屋市が買い取って内部を改装、2年後に図書館として開館。 昭和24(1949)年から同・29年までは芦屋仏教会館内に市立図書館が置かれていました。