旧周防銀行本店

2013-07-11 07:23:45 | 岡山・広島・山口


 明治32(1899)年に柳井・岩国の実業家ら33名によって資本金30万円で設立された周防銀行の本店社屋として明治40(1907)年に建設。 銀行建築を数多く手がけた長野宇平治の事務所所員でもあった佐藤節雄が設計を行っています。 周防銀行は周防貯蓄銀行と日韓産業銀行を吸収合併して明治41(1908)年には資本金125万円を誇り県下最大の銀行となりますが、大正3(1914)年に起こった取付け騒動により休業に追い込まれ、昭和2(1927)年に同行は解散となり営業免許取消命令も受けました。 その後この建物は他行の支店として使われた後に市立図書館に転用、昭和62(1987)年からは町並み資料館兼観光案内所として使われるに至っています。  山口県柳井市柳井津442  09年9月中旬

 ※参考『山口県の近代化遺産』 1998



 木造2階建て。 2階中央にはバルコニーがあります。
 



 当初の出入口は中央ではなく向かって右側にあり、玄関ポーチの上にはチャップリンの山高帽のような形状のドームが載っていました。


 1階の旧営業室。




 金庫が残っていました。


 熊平金庫製。 明治31(1898)年に広島市に設立された会社で現在まで続いている企業です。








 2階へ上がってきました。 2階は会議室や頭取室になっていたとの事。


 こちらが頭取室でしょうか。






 カーテンボックスの装飾。




 1階へ戻ってきました。


 佐藤節雄は工手学校建築学科を明治34(1901)年に卒業、日銀京都出張所の工事概要に名が残り、長野宇平治の建築事務所を経て昭和期に独立し関西で設計事務所を構えていた人物という。


 道路拡幅により曳家され、その際に復元工事も受けているよう。 但し古写真と見比べると窓周りの装飾は大部分が失われ、屋根の正面中央にあった破風状の飾り(パラペット)も無くなっているのが分かります。

翁座

2012-10-18 18:48:00 | 岡山・広島・山口







 広島県上下町は山陰(石見銀山)と山陽(瀬戸内海)を結んだ石州街道の宿場町。 江戸幕府の天領として代官所も置かれ、いち早く中央の文化も伝わるなど大変に栄えた町だったそうです。 大正14(1925)年に本格的な歌舞伎劇場(芝居小屋)として建てられた翁座は京都の南座を模した設計とされ、その杮落し(こけらおとし)には長谷川一夫が公演したともいわれる歴史ある建物。 戦後には映画館として改装され活況を呈した時期もありましたが、映画産業の斜陽化と共に閉館されキャバレーや工場として使用される事もあったそうです。 平成5(1993)年にタレント・萩本欽一氏の「映画を掛けよう」の呼び掛けによりボランティア約500人が掃除と改修作業を行い、翌年には花道や桟敷が復元され満場の客と共に欽ちゃんの映画が上映されました。 以後も翁座主催の芸術祭や公演、観光客向けの内部公開なども行われていましたが平成22(2010)年3月末を持って閉館に至っているよう。 所有者の高齢化と建物の老朽化による修理費用が莫大になった事が大きな理由なのだそうです。  広島県府中市上下町  08年05月上旬



 

定金家住宅

2012-09-01 15:38:52 | 岡山・広島・山口

 
 町名の由来ともなっている金光教本部のある町に建つ白壁、スティックスタイル風の洋風建築。 歯科医院兼住宅として大正6(1917)年頃に建設されたもののようです。  岡山県浅口市金光町大谷  11年01月上旬

 ※個人邸ですので見学の際は充分にご配慮願います。



 シンメトリーな外観に対して門の位置は少し南側にオフセット。






 ハンマービームトラスを模したといわれる妻飾り。




 正面(東側)は洋風、西側は和風住宅が繋がります。


 男尊女卑の時代にも金光教の教えには「女は神に近い」という万人平等、女性尊重という人間観があったそう。 平塚らいてうの「原始、女性は実に太陽であった…」というフレーズが思い浮かぶ(良く知らないケド)。。


 線が細いというか繊細なタッチの建物です。

旧玉津郵便局

2012-07-26 18:00:42 | 岡山・広島・山口


 現局の北側、一本裏通りに北面して建つ旧局舎。 詳細な建築データは見つかりませんでしたが昭和の時代に入ってからの建物と思われます。  岡山県瀬戸内市邑久町尻海  12年01月上旬



 局舎全景。 正面2階の窓はトタン板で塞がれていて少し異様な雰囲気。


 車社会の到来前はこれだけの道幅でも充分だったでしょう。


 こちらは住人や職員用の通用口でしょうか。 アーチ型の窓の縁取りが洒落ています。


 窓の内側には頑丈そうな柵が見える。


 意外にアッサリとした郵便マーク。


 古い郵便局舎に付き物の横開きの小窓。 用途が良く分かりません。 




 少し焦げ目の入った豆腐のような壁面をしています。 貼ってあったタイルでも剥がした跡でしょうか?


 パステルカラー。
 





 現在は空き家の可能性が高そうです。

旧住友銀行尾道支店

2012-06-22 19:43:02 | 岡山・広島・山口


 野口孫市(1869~1915)が率いていた住友臨時建築部の設計により明治37(1904)年に建設。 木造ですがモルタルの壁面に目地を切って石造風の厳めしい建物に仕上げています。 明治42(1909)年に増築が行われ、同時に入口上部にドーム屋根と3連の屋根窓が追加されましたが現在は屋根の付加物は取り除かれてしまっています。 昭和13(1938)年の銀行移転後はカフェーに転用、昭和20年代に海運局となり昭和50(1975)年頃からは尾道市の分庁舎として使用されています。  広島県尾道市久保1-10-3  10年12月下旬他

 ※参考『広島県の近代化遺産』  1998



 アーチ部分の旭日風の意匠に目が行きます。






 明治42年の増築後の姿を見ると、いかにも明治建築らしい古典的な様式の装飾に飾られていましたが、現在は外観的な特徴は窓周りに残るだけになってしまいました。


 昔日の姿を知ってしまうと今の姿はあまりも寂しすぎます。
 

 裏面。 内部も改変が著しいそう。 このあたりは明治初期に埋め立てられた場所になるようです。


 尾道商業会議所記念館で紹介されていた古写真。 この姿に復元される事を願ってしまいます。

旧玉島信用組合事務所

2012-06-14 19:22:31 | 岡山・広島・山口


 静かな港町の風景に忽然と現れるこの建物は、大正3(1914)年に設立された玉島信用組合が昭和10(1935)年に現在地に移転した時に新築された建物だといわれます。 後に玉島信用金庫と改称されてもその本店として使用され、昭和29(1954)年に本店が別の場所に移転してからは商工会議所に寄付され使われていました。 商工会議所も移転した後は民間会社(モタエ)が入居、現在も建物を使用しているみたい(?)です。  岡山県倉敷市玉島阿賀崎1205  11年01月上旬

 ※参考 『岡山県の近代化遺産』 2005



 玄関の両脇にニッチのような“くぼみ”を設けたのは、金融機関らしい柱(オーダー)を従来と異なる手法で表現したかったのでしょうか。


 このアングルだと2本の角柱のようにも見える。


 中を覗くと足元にもタイルが張られていました。


 裏面はモルタルのみの簡素な仕上げ。


 近くにある息が切れるような急階段を少し上がってみましたが、良いアングルは見つかりませんでした。




 内部には大理石のカウンターも残っているようです。


 設計・施工等の建築データは不明。


 こんなような顔をした海洋生物がいたように思いますが名前が出てきません。。

旧第一合同銀行倉敷支店

2012-04-23 18:59:10 | 岡山・広島・山口


 大正8(1919)年に倉敷銀行・天満屋銀行・倉敷商業銀行・鴨方倉庫銀行・茶屋町銀行・日笠銀行の6行合併により創設された第一合同銀行(初代頭取・大原孫三郎)の倉敷支店として大正11(1922)年に建設。 構造は混構造になっていて主要な部分はRC造、一部2階の東側部分は木造で壁はレンガと石で出来ています。 設計の薬師寺主計(やくしじ・かずえ 1884~1965)は現在の岡山県総社市で生まれ東京帝国大学の建築科を卒業、大学の先輩であった河合浩蔵(1856~1934)の建築事務所に1年弱ほど勤めたのち陸軍省に建築技師として入省し、この建物を設計した時は大原家の建築顧問も兼任してました。  岡山県倉敷市本町3-1  11年10月上旬他

 ※参考『アールデコの建築家 薬師寺主計』 2003
    『岡山県の近代化遺産』 2005
    『都市の記憶 美しいまちへ』 2002



 現在の有隣荘(大原家別宅)の裏側、かつては倉敷銀行の本店があった場所に契約金9万2千円(当時)で発注され10ヶ月の工期で完成。 大原孫三郎が度々訪れては現場監督(施工・藤木工務店)に直接の指示を与え、異例の短期間で完成したという。


 正面にはドリス式オーダーを簡略化したといわれる柱が6本並び、銀行建築らしさを出しています。


 半円窓にはステンドグラス。 木内真太郎の作品。






 ドーマー(屋根窓)は開閉出来ないので意匠的な側面が強いものと思われます。








 外壁は洗い出し仕上げで腰の部分は北木島(岡山県笠間市)産の御影石を貼っているようです。






 先細りの煙突。


 北東側から撮影。


 有隣荘の向かいには大原美術館本館(昭和5年築)。 こちらも大原・薬師寺・藤木正一(藤木工務店創設者)の3人の連携により完成したもの。 町の発展を考えて資金を出す人、それを形として表す人、そして実際に建物を作り上げる人。 倉敷のまちづくりはこの3人により進められた事が大きな特徴になっています。

旧山陽ホテル

2011-10-30 19:50:22 | 岡山・広島・山口


 明治34(1901)年に神戸と下関を結んだ鉄道(山陽鉄道)が全線開通した翌年、その山陽鉄道により馬関駅(後の下関駅)前に建てられたのが山陽ホテル。 下関と釜山を結んだ関釜連絡船の定期運航が開始されると下関は大陸への玄関口として賑わいをみせ、大陸渡航の皇族や政府高官は必ずこのホテルを利用するといった格式高いホテルでありました。 明治39(1906)年の鉄道国有法の発布によりホテルは国鉄が買収する事になり、更に大正11(1922)年には火災により初代の建物は焼失。 写真の建物は大正13(1924)年に2代目のホテルとして再建されたもので設計は辰野葛西事務所、しかし既に大正8(1919)年に没している辰野には設計への関与は無かったものとみられています。 昭和17(1942)年に下関駅が現在の竹崎町に移った事と、敗戦により釜山との連絡船が廃止になった事により客足が途絶え、ホテルは営業を停止して建物は国鉄広島鉄道管理局の出張所や建設会社の社屋として使われてきました。 しかし近年は老朽化と耐震不足などを理由として建物は閉鎖され、今年(2011年)ついに解体されてしまいました。  山口県下関市細江町3-2-7  09年9月下旬他  ※現存せず。

 ※参考『山口県の近代化遺産』 1998
    『近代建築ガイドブック 西日本編』 1984
    『やまぐち建築ノート』 1979




 正面玄関と車寄せ。
 

 車寄せの大きな庇を支える鉄柱はコリント式。




 さびさび~




 軒下の飾り。


 建物はRC造3階建て地下1階。 初代の建物は木造2階建てで3棟から成り、客室34室の瀟洒な建物であったという。
 



 2・3階の窓間の装飾パネル。


 西日本随一の本格ホテルであり、当時の新聞には宿泊者の名前と職業が連日掲載されていたほど。 




 ホテルで働くメイド達の採用に当たっては家柄まで考慮されていたといい、紫の袴(はかま)姿で甲斐甲斐しく働く彼女たちは市民から「紫の君」と呼ばれるアイドル的な存在だったそうです。

旧永井歯科医院

2011-09-30 19:11:22 | 岡山・広島・山口


 大正5(1916)年完成の洋館医院。 岡山県東備地区では2番目に古く開設された歯科診療所でしたが平成10(1998)年に閉院し、現在は住宅としてのみ使用されているようです。  岡山県和気町和気  10年04月下旬



 外壁はドイツ下見板張り、ライトブルーのペンキ仕上げ。 昔の写真を見ると淡い黄色のような色で塗られていました。








 塔屋部分には円形の(?)ドーマー窓が3面にありましたが雨漏り等の為に取り除かれ、約5メートルもあったという装飾付きの立派な避雷針も戦時中の金属供出で失われてしまったという。


 持ち送りもしっかり。




 前面道路のかさ上げで基礎の部分も何段か埋まってしまっています。


 1階部分が和室の住居で2階が診療室。 階段部分の写真を見ると螺旋状で急傾斜になっているので診察を受ける患者さんも2階に上がるのはちょっと大変だったかも知れません。

呼松郵便局

2011-06-02 19:00:55 | 岡山・広島・山口


 昭和10(1935)年に当時のお金で一万数千円で建てられた郵便局舎。 玄関周りに曲線を多用したフォルムは決して優美という訳ではありませんが、掃き溜めに鶴といった趣で道行く人々の視線を一身に集める存在感を発揮しています。  岡山県倉敷市呼松2-9-23  11年01月上旬



 丸ポストを配する演出が心憎い。


 エントランス上部にステンドグラス。


 色使いも茶目っ気たっぷりです。




 この建物の表情を司るボウウィンドウ。 設計は中村建築事務所となっています。


 吊り下げられた郵便マークは円盤状。


 ステップも曲線を描く。




 ボウウィンドウの上部にもステンドグラスがあります。


 いつまでも咲き誇れ。




 押したらどうなるの?


 建築当初からのものらしいスクラッチタイル。


 後ろは絶壁でした。

旧勝央町郷土美術館

2010-10-29 18:52:13 | 岡山・広島・山口


 旧出雲街道沿いにあるこのトンガリ屋根の建物は明治45(1912)年に勝田郡役所として新築されたもの。 郡役所の廃止後は勝田地方事務所などに転用され、昭和29(1954)年に1町4村合併により新しく勝央町が誕生した時にはその町役場として昭和57(1982)年まで使用されました。 庁舎の新築移転後は解体される計画もあったようですが、協議の結果により保存改修が決定し廃庁の翌年には郷土美術館として開館。 しかし平成16(2004)年に勝央美術文学館が新設されるとこの建物は廃止され、以来空き家のまま現在に至っているようです。  岡山県勝央町勝間田635  10年04月下旬







 カーテンは厚く閉ざされたまま。


 この裏に階段があるんですね。


 塔屋部分のブロークンペディメント。


 現在の窓は引違い窓ですが元々は上げ下げ窓だったようです。


 銅板葺きかと思いましたが緑青もふいていないし違うっぽい。 ちなみにかつては通気用のドーマー窓があったみたい。




 この部分は昭和18(1943)年の増築。




 煉瓦の基礎の上に建っています。


 玉虫色にも見えてしまう。


 裏にはナマコ壁の蔵がありました。


 まだまだ綺麗な建物なので上手く活用されれば良いのですが。

下関南部町郵便局

2010-09-01 07:11:03 | 岡山・広島・山口


 明治33(1900)年に約五万円の工事費で建設された煉瓦造りの郵便局。 創建当初の名称は赤間関郵便電信局といい、現役の郵便局舎としては国内最古のものとなっています。  山口県下関市南部町22-8  09年9月下旬



 古典的な様式をあしらったエントランス。 設計は明治31(1898)年から3年間、逓信省技師として勤めていた三橋四郎によるもの。


 床下換気口のデザイン。


 建物の平面プランはコの字型。 現在、中庭は局内に併設するカフェのテラス席になっています。 


 1階が郵便で2階は電信の業務を行っていたそう。 それぞれアーチ窓とペディメント付きの窓が並ぶ。


 この部分を見れば煉瓦造というのも納得。 そういえば旧函館郵便局(明治44年)も煉瓦造ですね。 


 建物の裏側。 扉をくぐれば中庭に繋がります。


 唐戸の交差点に架かる歩道橋の上から。 ファサードは古典的な装飾で賑やか。


 軒飾りは10年くらい前に復元された物。 古写真と比べると立体感が無く、表面的な復元にとどまっています。

中島病院旧本館

2010-05-28 07:15:00 | 岡山・広島・山口


 名医を故郷に引きとめる為に贈られた病院建築(大正6年築 1917)。 津山で医師の長男として生まれた中島琢之氏は、東京帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)を卒業し都内で内科医として活躍、その後『故郷に名医を』との熱望に応えて津山に帰り中島病院を開設しました。 この地域では大卒の医学士の病院は初めてであり多くの患者が詰めかけましたが、琢之氏は東京への未練(研究の為)が断ち切れず、また地元の医学界とも反りが合わなかった事から僅か1、2年後には『津山を出る』と周囲にもらすようになったといいます。 これに慌てた地元の名士達、特に友人であり銀行家であった妹尾順平氏(妹尾銀行頭取)は一計を案じ、自らが先頭に立って資金を調達し半ば強引に建ててしまったのがこの建物でした。 レントゲン室(撤去済)まで備えた最新鋭の病院を見ながら琢之氏は『これで東京へ帰れなくなった』と冗談交じりに嘆いたというエピソードが伝わっています。  岡山県津山市田町122  10年04月下旬
 
 

 ウロコ状のドーム屋根の上にはランタン。 この建物の見せ場の一つ。


 アーチ窓の上には要石のような装飾。


 建物の主、中島琢之先生の胸像。


 1階の窓。


 コリント式(?)のオーダー




 2階の窓上。 コーニスはアルファベットのHとOが連続するようなデザイン。 


 屋根には飾りの付いた煙突も載っています。




 現在の名称は「城西浪漫館」。 1階はカフェ、1・2階とも見学可能。 


 棟梁は旧妹尾銀行(津山洋学資料館)などを手掛けた池田豊太郎。 津山の民間人で最初に洋服を着たハイカラ棟梁だったという。


 ※参考 『岡山の明治洋風建築』 1977
     『岡山ハイカラ建築の旅』 1998
     『近代化遺産 ろまん紀行 西日本編』 2003
     『岡山県の近代化遺産』 2005

山口・嘉川の個人医院

2010-03-09 07:08:44 | 岡山・広島・山口




 昭和2(1927)年築の徳田医院。 ほぼ4年ぶりの訪問でしたが以前と変わらぬ佇まいで迎えてくれました。 小屋根の真ん中に描かれた装飾は月桂樹をリボンで結んだ様な美しいデザイン(フレッドペリー風)をしています。  山口県山口市嘉川  09年09月中旬他


 こちらは徳田医院からも近い所にある旧平川医院(昭和7年築 1932)。 同様に良好な状態を保っていました。 玄関ポーチのアーチの下にいる山羊にはどんな意味があるのでしょう。 



旧寺内文庫

2010-02-09 07:09:09 | 岡山・広島・山口





 陸軍軍人で内閣総理大臣も務めた寺内正毅(1852~1919)の遺志を引き継いで建てられた私設文庫(大正10年築 1921)。 階上には正毅の遺品を陳列し、階下には正毅が朝鮮総督時代に集めた朝鮮関係の古文書などが収められ一般公開されていたそうです。 建物はRC造で外壁はタイルとモルタル仕上げ、内部も床や階段、更には階段の親柱などもコンクリートで仕上げられた造りになっているといいます。 永らく空家のような雰囲気で扉は固く閉ざされ、窓も全て塞がれてしまっているので内部の様子は窺い知る事が出来ませんでしたが、直線でデザインされた建物に反抗するかのようにポッカリと開いた裏手の丸窓(?)の存在が妙に印象に残りました。  山口県山口市桜畠3-1  05年12月下旬他