坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

切手シート

2010年01月26日 | 坊主の家計簿
 年賀状の当選番号確認。
 ああ、子どもの頃はあんなに楽しかったのに、今は全然楽しくない。『やらなければならない事』だけであり、決して『やりたい事』ではない。なんとなく「当たってたらもったいないやんけ。。。」である。
 切手のシートが当たる。これも楽しくない。子どもの頃は「やった!」だったのだが、まあ、私が子どもの頃に切手ブームがあって、私も切手集め少年だったので楽しかったのだろうが、今となっては「で、ナンボ分の切手やねん」である。検索してみると50円切手が1枚と80円切手が1枚らしい。合計130円。しかも『切手』という使い道が限定された商品。私が子どもの頃は、この切手シートが130円以上の商品価値があり、切手シートが宝物みたいな感じだったのだが、今となっては「切手はまだあるし、交換しに行くのが面倒やのぉ。。。」である。

 こういうのを『薄汚れた大人』というのかも知れない。ささやかな喜びが「ケ!」である。「なんや、あれだけの作業して130円の切手かい」である。「時給換算したらワリが合わんぞ」である。

 「ありがとう」は「有り難い」である。有る事難しである。当たり前でなく、奇跡みたいな出来事である。瞬間瞬間の生を感じる事が出来れば『些細な事』等なく、すべてが有り難い。経験すればする程『当たり前』になる。「ワリが合わん」になる。
 無くなった事を騒ぐが、「あった事」に対する感謝がない。

【「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々】(歎異抄第9条)

 か。
 「仏教は親鸞になって初めて人間学になった」とか、どっかの学者先生が書かれてたが、私にとっては「その通り」やな。