坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

疑城胎宮

2010年01月11日 | 坊主の家計簿
 晩飯食って仮眠しようとしてたらママが「おいおい」と。「今から恵里ちゃん(娘です)を風呂に入れるから、寝るのは待て」と。
 パパ、不貞腐れて「そんなんやったら飲みに行く!」とは言えずに、ママと娘が一緒にお風呂に入っているのを待って、ママから娘を受け取って、体を拭いて、髪の毛にドライヤー。今日は、髪の毛を立ててみました。「おお!パンクやパンク。木村カエラちゃんみたいでかわゆいぞ」とパパは喜ぶがママには不評。
 で、パパ、寝る。少しだけのつもりだったんだが、結構寝る。ママと娘も寝てたみたい。起きたパパ。時計を見てママに「1時やぞ、おい」と。ママは用事が残っていたらしく、ママが用事している間、娘とテレビでプロレスを見る。素晴らしい。。。変わらずのプロ根性である。
 プロ根性は当然、プロレスラーだけではない。お笑い芸人だって、デブキャラを作り出す為に太ったりして大変なのだ。そして、私も『プロの仏事専門家』である。よって、衣を着なければならず、衣が似合うように太鼓腹になってみました。ああ、素晴らしいプロ根性である。「太鼓腹でジーンズは似合わない」とか、そんな事はプライベートな事である。プロならプロとして堂々と太鼓腹で勝負である。メタボ?はあ?「デブキャラを見習え!」である。プロとしての自覚があればメタボなんぞ恐るに足りずである。プロとして、和服・衣姿が似合う太鼓腹の為には多少のウエストアップ、体重増加なんぞ恐るに足りずである。。。
 万国の僧侶諸君よ、メタボ万歳!太鼓腹万歳!中性脂肪万歳!

 っちゅう事で、プロ根性である。
 何やら、シー・シェパードがオーストラリアでも反感を買っているらしい。

 http://news.nifty.com/cs/world/worldalldetail/yomiuri-20100110-00757/1.htm

 まあ、あの映像はアカンやろ、ついでにいうと、日本側もブツかってからも放水攻撃したらアカンやろ。まあ、ブツかる元々を作ったのはシー・シェパード側やろうけど、負けた相手に放水攻撃してどないしまんねん。思いっきり近距離から狙ってやってまんがな。まあ、余程腹を立ててんやろうけど。
 そして、シー・シェパードのプロ根性である。まず、あの船がカッチョエエ。無茶苦茶カッチョエエ。多分、別にあんな形でなくともあの形状の船は作れるねんやろうけど、まあ、マッハゴーゴーみたいな感じ、スターウォーズみたいな感じでカッチョエエ。あの寒い中、「お仕事、御苦労さまで御座います」である。思わず出川を思い出してもうたやんけ。きっとあの後母船に戻って「熱い!熱い!」と熱湯風呂に入らされたり、おでんを口に入れられたりしているのだろう。素晴らしい。労働者はああでなくては。

 プロ根性。私は『僧侶』である。門徒の中で「んじゃ、あんた僧侶ね」である。仏事を『仕事』として任される。行としては共に『ただ念仏』であるが、『僧侶』として勤行でソロパート(?)を任されるし、キン(鐘)を任される。

 社会運動は『プロの僧侶』でなくともする。言い方が変やな。つまり『プロの僧侶だからしなければならない』事ではない。
 大阪では捕鯨に関して『徳屋』(http://www.tokuya.jp/next.html)というクジラ料理のオバちゃん(失敬)が有名である。そりゃ、プロだし。クジラ料理屋の女将が捕鯨運動に関わる事はプロ根性である。反捕鯨の集会に行ってクジラを喰わすとか、プロ根性バリバリである。
 反捕鯨でもシー・シェパードはプロ根性である。専従の運動家かどうか知らんが、あれだけの活動の日程をさけるのならば、専従の活動家だと勝手に想像する。

 「僧侶として積極的に社会問題に関わるべきである」とは変である。「真宗門徒として」でも変である。「人間として」でも変である。関わるか、関わらないかは個人の選びでしかない。
 当然、『関われない人』も居るのだ。出来ない人も居るのだ。出来ない人を無視する論理ならば、出来ない人は僧侶でも、真宗門徒でも、人間でもなくなる。
 これは単なる差別である。
 社会問題を差別問題に限定するならば、『差別問題に取り組まない人』は差別される論理になる。非常におかしな論理になる。そして、悲しいかな、煩悩(欲望・差別意識)を元々持っている凡夫(ただの人)、つまり私(たち)は、必ずやってしまうのだ。
 そして、だからこその御念仏なのだ。罪悪深重煩悩具足の凡夫、つまり差別者としての自覚なのだ。

 恐らく、誰しもが差別者に成りたい。つまり天人に成りたい。差別される側、つまり地獄の側には成りたくない。そして、有頂天に成りたい。しかし、それは迷いでしかない。
 迷いの存在、罪悪深重煩悩具足の凡夫としての平等しか認めないのが真宗仏教の人間観ではなかったのか?親鸞が、法然が、差別問題を根拠として相手を見下す差別を容認したのか?

【慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々】(歎異抄第4章)

 共に罪悪深重煩悩具足の凡夫である。天皇だろうが、どんなに差別される状況下の人であろうが。
 そして『共に』である。一切衆生、つまり、全ての人々である。
 あとは、個人の能力差である。色々な活動を出来る人も居れば、そうでない人も居るだけの話である。そして、御縁の問題である。そんな事を無視する事は、人生を無視する事である。歴史を無視する事である。様々な先人や、自分自身の人生に大して無礼極まりない。だからこそ、念仏申して『共に』である。それの繰り返しでしかないのではないのか?そういう自分に責任を持つしかないのではないのか?