親子3人で生活雑貨のお買い物。楽し♪
帰宅後、疲れて『「今日の作業は終わり」宣言。』
よって、あ、娘、寝返りが表裏(?)だけでなく表裏表と出来るようになりました。ついに「コロコロ」と転がれるようになりました。数日前も『まぐれ』で出来たんですが、今日はなんと3回連続で『置いては寝返り』『置いては寝返り』と、3回連続でコロコロと。んが、疲れたのか、腹が減ったのか、その後に「腹減ったよ~」と泣きじゃくってましたが。
っちゅう事で、今日は(『も』か?)娘と遊ぶ。
娘と遊ぶ事は楽し♪である。んが、色んな事が出来ない。っちゅうか、ママなんぞ年賀状もまだ書けないから、娘と遊んでいる時間の圧倒的差を思い知らされるのだが。。。
しっかし、寝返りがようやく出来た娘は『生き物』として圧倒的に弱い。キライな言葉だが『保護』なくしては生きていけない。んが、『保護』する側、つまりパパとママも娘が泣いてたりすると、「どうしたん、どうしたん」である。
【お前にはこれがわかるかい、まだ自分がどんな目に合わされているか、よく理解することもできない小さな子供が、凍るような寒さの暗い便所の中で、その小さな手で悲しみに張り裂ける小さな胸を叩いたり、血の出るような、悪気のない、無邪気な涙を流しながら、「神ちゃま」どうぞお助けくださいと祈ったりしているんだぜ。】(ドストエフスキー『カラマーゾフ兄弟』より)
【ぼくの家庭の平安、ぼくの村の平安、その平安のどれにでも誰かがいつも泣いている。そんな涙を犠牲にしながらようやく成り立つような平安なんて一体何だろう。(中略)
形ばかりの中身のない自分勝手な平安は本当は決して求めてはならないものであるに違いない。それなのに私たちはいつもそんな形ばかりの平安を求めてしまう。そんな私たちをまさしく問いただしてくるものは、悲しいけれども唯一「幼な児の涙」という被抑圧的な被支配的な被差別的な現実である。(中略)
ともかく、生きていることが苦しくてやりきれない現代のただなかで、そういう現実を無視してうちたてられようとする人間的主体(自己)の確立の思想を拒絶するところから、私たちの新しい信仰生活が始まるのではないかと思うことしきりの今日このごろである。】(尾畑文正『親鸞への旅』P104~105より)
家内安全。
10年程前に働いていた共同作業所の若チーフがバリバリのクリスチャンだった。なんせ、その作業所で働くようになったのも釜ヶ崎の某教会でしばらく居て、その縁でやって来たぐらいに。若チーフが云う「神父ってよく出来た制度ですね」と。「だって、結婚して子どもが出来たりしたら活動出来ないし」と。
元々のチーフはバリバリの運動家。でも、結婚して子どもも出来て、活動が以前に比べて出来難くなっている。仕事も「子どもが熱を出したから」とかになってしまう。そういう状況を見てられたから、多分、そういう話になったんだと思う。
真宗仏教の真宗門徒は肉食妻帯である。ガキが居てる中で『家内安全』だけを平安を拒否する、それが故に「あいつは自分の家庭を顧みずに」等と批判を受けられる方々も居られる。
でも、私にとって、娘はムッチャ大切。当然、イライラしてたり、疲れて寝てる時に泣かれたりすると「テメー!」という感情になったりするが、それは「ごめんね」である。
私に先立つ多くの念仏者達が、そういう『家内安全』にぶつかりながらも、『家内安全』だけに留まらなかった『重さ』を問われる。
帰宅後、疲れて『「今日の作業は終わり」宣言。』
よって、あ、娘、寝返りが表裏(?)だけでなく表裏表と出来るようになりました。ついに「コロコロ」と転がれるようになりました。数日前も『まぐれ』で出来たんですが、今日はなんと3回連続で『置いては寝返り』『置いては寝返り』と、3回連続でコロコロと。んが、疲れたのか、腹が減ったのか、その後に「腹減ったよ~」と泣きじゃくってましたが。
っちゅう事で、今日は(『も』か?)娘と遊ぶ。
娘と遊ぶ事は楽し♪である。んが、色んな事が出来ない。っちゅうか、ママなんぞ年賀状もまだ書けないから、娘と遊んでいる時間の圧倒的差を思い知らされるのだが。。。
しっかし、寝返りがようやく出来た娘は『生き物』として圧倒的に弱い。キライな言葉だが『保護』なくしては生きていけない。んが、『保護』する側、つまりパパとママも娘が泣いてたりすると、「どうしたん、どうしたん」である。
【お前にはこれがわかるかい、まだ自分がどんな目に合わされているか、よく理解することもできない小さな子供が、凍るような寒さの暗い便所の中で、その小さな手で悲しみに張り裂ける小さな胸を叩いたり、血の出るような、悪気のない、無邪気な涙を流しながら、「神ちゃま」どうぞお助けくださいと祈ったりしているんだぜ。】(ドストエフスキー『カラマーゾフ兄弟』より)
【ぼくの家庭の平安、ぼくの村の平安、その平安のどれにでも誰かがいつも泣いている。そんな涙を犠牲にしながらようやく成り立つような平安なんて一体何だろう。(中略)
形ばかりの中身のない自分勝手な平安は本当は決して求めてはならないものであるに違いない。それなのに私たちはいつもそんな形ばかりの平安を求めてしまう。そんな私たちをまさしく問いただしてくるものは、悲しいけれども唯一「幼な児の涙」という被抑圧的な被支配的な被差別的な現実である。(中略)
ともかく、生きていることが苦しくてやりきれない現代のただなかで、そういう現実を無視してうちたてられようとする人間的主体(自己)の確立の思想を拒絶するところから、私たちの新しい信仰生活が始まるのではないかと思うことしきりの今日このごろである。】(尾畑文正『親鸞への旅』P104~105より)
家内安全。
10年程前に働いていた共同作業所の若チーフがバリバリのクリスチャンだった。なんせ、その作業所で働くようになったのも釜ヶ崎の某教会でしばらく居て、その縁でやって来たぐらいに。若チーフが云う「神父ってよく出来た制度ですね」と。「だって、結婚して子どもが出来たりしたら活動出来ないし」と。
元々のチーフはバリバリの運動家。でも、結婚して子どもも出来て、活動が以前に比べて出来難くなっている。仕事も「子どもが熱を出したから」とかになってしまう。そういう状況を見てられたから、多分、そういう話になったんだと思う。
真宗仏教の真宗門徒は肉食妻帯である。ガキが居てる中で『家内安全』だけを平安を拒否する、それが故に「あいつは自分の家庭を顧みずに」等と批判を受けられる方々も居られる。
でも、私にとって、娘はムッチャ大切。当然、イライラしてたり、疲れて寝てる時に泣かれたりすると「テメー!」という感情になったりするが、それは「ごめんね」である。
私に先立つ多くの念仏者達が、そういう『家内安全』にぶつかりながらも、『家内安全』だけに留まらなかった『重さ』を問われる。