坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

修正会

2009年01月02日 | 坊主の家計簿
 1月2日

 雑費  電車往復         420円
     ココア          120円
 外食  ラーメンライス      840円

 合計              1380円
 1月累計            8825円

 今年の春、私は何もなければ結婚する。『何もなければ』とは、死ぬかも知らんし、何があるか解らん。だが、一応、何もなければ結婚したりする。
 今日は、向こうの寺、つまり私の婿入り先の寺での修正会。ちなみに『修正会』とは、新年初の法要。ただ、名前の通り『修正』する機縁であれば、私たちは出来れば1年365日の毎日『修正』しなければならず、毎日が報恩講ならば毎日が修正会であるはずである。あ、来年はこれを喋ろ。

 今年は『初』である。初めて向こうの門徒さんたちと会う。少しだけ挨拶する。ホンマは結構ネタを繰って行ったのだが、場の感じで挨拶程度の方がエエと判断したので挨拶だけ。
 向こうの寺に行くのは2度目。乗り馴れない路線なので、うっかりしてたら電車を乗り過ごしてしまった。法要には当然余裕で間に合ったのだが、「もっと早く着きたかった」、という、現実にはありもしない欲望&見栄&カッコ付けの自分、煩悩具足の凡夫である私を正月早々に見出す事が出来た、とか、うんたらかんたらと挨拶交じりに気がついたら喋ってた。

 当然、元々話そうとしていた事とは全然違う。
 元々話そうとしていたのは、『仏弟子の結婚』まあ、

【現世の世を暮らすべき方法は、念仏がとなえられるように暮らしなさい。念仏のさまたげにきっとなりそうであるならば、どんなものでも、あらゆるものを嫌い捨てて、これをおやめなさい。いうなれば、聖の生活をしていて、念仏が申されないならば、妻をめとって申しなさい。妻をめとって申されないならば、聖の生活をして申しなさい。】(法然)
 
 を手がかりにしながら、親鸞が『慶』と云う漢字をどういう場面で使っているのか?なんぞを話そうとしていたわけなんだが、全て吹っ飛ぶ。
 吹っ飛んで、挨拶してたら、それでもなんか喋ってしまう。

 こういうのを『聞いて来た力』と呼ぶのかな?
 恩師や先輩たち、様々な人たちと一緒に学び、仏法を聞いて来た事が私の中に入り込んでいて、私自身が「え?」と思う感じで喋ってしまう。

 『あなたたちはここを卒業してから様々な場所で法話をする事があるでしょう。その時に、一番最初に聞くのは自分自身である事を忘れないで下さい』
 と、云う言葉を坊さん道場時代に寮でもあった岡崎別院の当時の輪番(住職みたいなもん)さんから聞かせて頂いた。

 喋った事を私の手柄にする。
 それは『伝統』を無視している。
 私は『伝統』の中に生きている。私は伝統の中に生きているが故に、その伝統の中で喋っているにしか過ぎない。
 
 『私』が残る。
 自覚であるが故に、私が残る。
 何故、私が残るのか?
 単純な話である。『仏』を忘却しているだけである。
 自覚とは『念仏する事』の自覚、つまり仏との関係があるが故に『煩悩具足の凡夫』としての自覚であり、それがないが故に偉そうな、「私を見て!」という自覚になってしまう。
 あくまでも、仏教を学んで来た伝統に参加させて頂いているだけの話なのに、私が教祖様になってしまって「私を見て!」になってしまう。

 『実るほど頭を垂れる稲穂かな』やったけな?そんな言葉がある。『言葉』というよりも『ことわざ』と云った方が正しいのか。
 
 岡崎別院の当時の輪番さんは、当然、私の大先輩。でも、『聞く』と云う事を大切にして居られるが故に、私に『聞く』という姿勢、つまり、どこまで行っても『仏の弟子』であり、『仏の弟子』である限りは、仏法を聞き続けて行かなければならない、完成なんぞ出来ない、仏になれない、生涯『仏の弟子』であると云う姿勢を教えて呉れたのだと今は思う。

 私は『聞く』と云う事がまだまだなっていない。
 でも、『解った事』として喋ったり、あるいはここに書いたりしているのだろう。

 『修正の会』恥ずかしい限りである。

 安田先生は生涯、『学生』である事を貫かれたらしい。
 私にとっては直接お会いした事はないが、『大先生』である。それでも、『いち学生』としての姿勢を貫かれたらしい。

 今年、私はなにもなければ住職になったりもする。
 いわば、世間的価値観、責任で云うと『偉そう』になる。『坊主』と云うだけでも『偉そう』なのに、それに増して『住職』である。

【我々は寺の住職というわけですが、その住職は正覚阿弥陀法王の善力住持というところからくるわけです。すなわち住持職です。よく大衆を住持することのできる者のことで、これは阿弥陀如来のことです。だから、我々が住職を名告るとか呼ばれるとかいうことは実は値しないものが、その名を名告りその名で呼ばれるということで、そこには深い懺悔があることです。】(竹中智秀先生『いのちの願いに聞く七章』142ページより)

 と、恩師・竹中先生ですら仰る。
 いや、永年仏教の伝統の中で仏教を聞き続けておられたが故に、こういう言葉を語る事が出来るのだと思う。

 修正会。
 「毎日が報恩講」なら、毎日が修正会である。
 仏との関係をイヤがり、仏との関係を避け続け、仏教を「私を見て!」の手段にしてしまう私、仏教徒であり、かつ『僧侶』であるにも関わらず、仏との関係を求めずに仏を利用する対象にしてしまう私、全く仏に救いを求めない私、私さえよければ構わない、私中心で、私がよければなんだって利用する、他人も仏も、私の煩悩の道具に、私のエゴを満足される為の『道具』『モノ』にしかしていない私は間違っている。

 修正会。
 私が私自身、つまり、エゴとしての『私』でなく、現実に様々な関係性の中で生きている『私』、『生かされている私』に気づく修正の会。
 罪悪深重煩悩具足の凡夫であるが故に、仏との関係を求めざる得ない。

【若い皆さん。いのちを粗末にしないで下さい。いのちを粗末にしてロクな事はない。そしてあなた達の青春をお念仏の上に華咲かせて下さい。】(和田先生。但し、靖国の特別講座中に聞いた聞き憶えの言葉)

 修正会。
 仏法を聞く、いや、『聞かざるを得ない』と云う自覚の法要。

【ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。】(真宗聖典149ページより)