坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

青草粥

2009年01月07日 | 坊主の家計簿
 1月7日

 食類  海鮮惣菜       300円
 雑費  缶ミルクティー    120円

 合計             420円
 1月累計         43385円

 今日は仕事始め。
 平日だし油断してたらいきなり朝から法事。
 駐車場が心配だったので早めに行って「駐車場ないですか?」と聞いたら、「ない」との事。「うぅぅぅぅ。。。」と思いつつ、少し離れた駐車場に停める。
 いきなりの法事だったし、駐車場の事もあり、その後の御参りを考えると法話ヌキで早めに終わらそうと心が動く。「何、考えとるねん、ボケ!」と、心の中でツッコム。と云う事で、ちゃんと法話もしてくる。「偉い、偉い」と自画自賛なんだが、当り前や、っちゅうねん。

 しゃて、今日は七草粥の日である。別に伝統うんたらかんたらより以前に野草系が好きなので七草パックを買いに行こうと思いつつ、仕事が終わって爆睡する。。。ああ。。。

 我が母校・大谷専修学院にも『青草粥』というのがある。

 @青草粥の作り方。
 まず、フライパンに油を入れ、豚ミンチを炒める。塩胡椒で軽く味付けして、溶き卵を投入してさらに炒める。
 卵が炒まったら、刻んだ高菜の漬け物を入れて、更に炒める。適当に炒めたら、緑豆春雨を投入して、更に炒めて、味覇(中華ダシの素)と塩胡椒で味付けする。
 別に作っておいた粥に投入して完成。

 え~。。。嘘である。確か、専修学院はまだ冬休みのような気がするし、冬休み早々に後期修練(本山監禁)があるのでそんな名物はない。
 あるのは『高菜炒め』と云う、上記『青草粥』の粥以外のもの。ちなみに専修学院の朝飯の定番メニューであり、専修学院名物である。だって、専修学院以外では食べた事がないし。

 この『高菜炒め』は多分、いまだに受け継がれている事だと思う。
 毎年別科生(2年目のクラス)の人たちを中心に別科職員と朝食を作るのだが、その味は次年度別科生になる人たちに受け継がれている。
 簡単で、安く、かつ美味である。
 多分、だが、専修学院卒業生の家庭に受け継がれ『家庭の味』が『高菜炒め』である家庭も多いのではないかと、勝手に想像する。
 専修学院卒業生(青草びと)の中では『信国先生』『竹中先生』『児玉先生』『中川先生』『狐野先生』等と匹敵するぐらいに『裏の定番』だったりする。

 大谷専修学院と云うのは『道場』である。
 昔に日蓮宗・丸山照雄氏が著書の中で確か自分の所にやってきた「僧侶になりたい」という人たちに「専修学院に行って来い」と勧められていた。当然、丸山照雄氏の所に相談に来る人たちだから日蓮宗で僧侶に成りたい事だと思う。だが、丸山照雄氏は「僧侶になる為には仏弟子にならなければならない。仏弟子になるには専修学院に行くのが一番である」と、確か書かれていた。
 図書館で読んだ本なので記憶が定かではないが、『日本人の心をダメにした名僧・悪僧・愚僧』やったかな?検索したらアマゾンで150円(送料込み490円)で売ってので思い出しゲット。
 
 確か『日本人の心をダメにした名僧・悪僧・愚僧』の信国先生の所。
 「専修学院には信国淳が居る。そして彼に育てられた人たちが居る」
 そんな感じだったと記憶している。

 私自身は日蓮宗の事を知らない。だが、日蓮宗の教学研究所(?)に居られた丸山照雄氏が他宗の道場に対して「仏弟子になるのならば専修学院に行って来い」と云われたらしい。

 信国先生は亡くなられたが、専修学院には信国先生の教えを直接聞かれた方々が居られ、かつ、その流れ、伝統がある。
 私自身も信国先生の事は直接知らず、今の専修学院の職員の人たちの殆ども直接の面識はないと思う。だが、その伝統が消えているとは思えない。絶対に思えない。私にとっては最高の道場である事は間違いなかったから。

 【仏道をならふといふは、自己をならふなり。】(道元禅師)

 と云う言葉がある。

 仏教を学ぶと云っても特殊な事ではない。単に自分を学ぶだけの話である。

【自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗託して任運に法爾に、此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。
 只だ夫れ絶対無限に乗託す。故に死生のこと憂ふるに足らず。死生尚ほ且つ憂ふるに足らず、如何にいわんや之より而下なる事項においてをや。追放可なり。獄牢甘んずべし。誹謗擯斥許多の陵辱あに意に介すべきものあらんや。我等は寧ろ、只管絶対無限の我等に賦与せるものを楽しまんかな。】(清沢満之「絶対他力の大道」より)

 である。


 以上が今日の書き込みなんだが、え~。。。思い出して清沢満之「絶対他力の大道」を読んでたら、こんな言葉にぶつかる。

【而して若し妻子眷属あるものは、先ず彼等の衣食を先とすべし。即ち我が有る所のものは我を措いて先づ彼等に給与せよ。その残る所を以って我を被養すべきなり。】(清沢満之「絶対他力の大道」より)

 眷属は家族や親族。だが、真宗仏教の伝統では『眷属無量』である。

【同一に念仏して別の道なきがゆえに。遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり。 眷属無量なり。】(曇鸞)

 である。
 当然、私は眷属よりも私の生活が『先ず』でしかない。
 今の大谷派にとって清沢満之は大先生である。というか、今の大谷派は清沢満之が居てくれた御陰である。ほぼ、清沢満之の法脈である。信国先生も清沢満之の流れである。真宗同朋会運動も清沢満之が居なければ始まってなかった。

【而して若し妻子眷属あるものは、先ず彼等の衣食を先とすべし。即ち我が有る所のものは我を措いて先づ彼等に給与せよ。その残る所を以って我を被養すべきなり。】(清沢満之「絶対他力の大道」より)

 日本の中だけでも、今までよりも多くの方々が『衣食』どころか『住』すらの危機に犯されている現在、清沢満之のこの言葉が重く響く。