坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

自分ヌキ

2009年01月04日 | 坊主の家計簿
 1月4日

 雑費  スーパー銭湯         600円
 外食  めし             698円
 食類  インスタントラーメン10   556円
     豪州純米6          630円
     無添加ワイン         398円
     発泡酒            185円
     諸々             228円

 合計                3295円
 1月累計             14805円

 明日、明後日と、プチ旅行に行く予定なので、起きて速攻溜まっていた家事を済ます。
 その後、「銭湯、銭湯」と、御近所のスーパー銭湯へ。スチームサウナ三昧でんな。

 正月のせいか、日曜日のせいか知らんが、スーパー銭湯、大混み。いつもはガラガラのスチームサウナも、今日はほぼ満員。
 「この貧乏人め!温泉に行け、温泉に!」と思ったりもするのだが、その貧乏人の中に私も入っていたりするので困ったものだ。きっと、私みたいな性格の持ち主は、私と同じく「この貧乏人どもめ。正月には温泉旅行でも行きやがれ!」と思ったりしているのだろう。

 こういう事は多々あるのではないかと思う。人気のラーメン屋の行列で「なんでこんなに並んでるねん」とか。そら、自分が並んでるから行列が出来てるのだが。自分がその場に身を置きながら、自分ヌキで考えてしまう。

 迷惑。
 「ああ、あいつさえ居なければ。。。」
 等々。
 これも自分ヌキ。
 こんな時に必ず相手を悪者にする。
 「この貧乏人め!温泉に行け!」でも、「なんでこんなに並んでるねん」でも、自分が同じ立場にも関わらず。
 そうなのだ、自分は特別なのだ。

 『私は特別』と、『私も特別』とでは意味が全然違って来る。
 『私は特別』なら単なるエリート意識。選民思想を作り出す意識。
 『私も特別』なら、「みんな同じ」の愚民。

 放っとくとだいたいは『私は特別』になるのではないだろうか?エゴがあるし。エゴはオプションでなく、標準セットやし。
 だから、『私だけ』を特別扱いして呉れる人に弱い。
 「私だけを褒めたたえて!」みたいなもんである。
 そんな特別な意識があるから、逆に他の多くの人たちと共にしながらも自分ヌキになる。

 『私は特別』だけならば、他人は私の都合の道具にしか過ぎない。孤独の再生産にしか過ぎない。
 『この人エエ人(意訳「この人は私にとって都合のエエ人である」)』
 『この人悪い人(意訳「この人は私にとって都合の悪い人である」)』
 と、分ける。選び、キライ、見捨てる作業。
 だから、
 「なあなあ、あの人って、エエ人やんか」
 「なあなあ、あの人って、悪い人やんか」
 と同意を求める。
 自分が裁かれる事はイヤ。でも、他人は裁く。
 いや、エゴの都合によって『都合のエエ私』『都合の悪い私』と分け、一喜一憂する。
 
 都合が良ければ近づき、都合が悪ければ離れる。そうやって、『自分』を狭くする。自分の無限の可能性を絶つ。
 『ひきこもり』とは、別に部屋に閉じ篭って居るから『ひきこもり』ではない。自分の都合に引き蘢っているのだ。
 当然、『私は』そうである。私は、全く自分の都合によってしか生きていない。解放されずに引き蘢ったまんまである。
 常に自分ヌキで考える。

 自分ヌキの話を『世間話し』と云う。
 決して、自分が主人公でない世界の話である。
 都合がエエ、都合が悪いも引っ括めての『私』であり、『私が生きている世界』である。
 
 そういう世界に『私も』生きている。
 故に、自分ヌキで裁く事は間違っている。

 決して『正しい』というエゴ肯定、煩悩肯定の世界ではない。
 『間違っている』。

 「みんな間違ってるなら別にエエやん」
 も、自分ヌキである。
 『私は』間違っているのだから。