坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

友引

2009年01月12日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 1月12日

 外食  ラーメン       580円
 雑費  缶ミルクティー    120円
     コピー        600円

 合計            1300円
 1月累計         48303円

 『平成結婚式縁起』(志田基与師)っちゅう本を一気読み。結構面白かった。
 で、衝撃の事実を初めて知った。
 『友引』って、結婚式の日としては人気があるのね。。。全然知らんかった。。。
 http://www.wedding-princess.net/yougo/to/11.html
 何やら葬式で『友を引く』のは良くないが、結婚式なんぞの慶事で『友を引く』のはエエ事らしい。だから結婚式には人気があるらしい。
 
 んがやなぁ。。。真宗の葬儀、っちゅうか、大谷派の葬儀では『今や往生の素懐を遂げて不退の楽土に至る』なんぞと云う言葉を『表白』として読み上げる。つまり往生成仏の慶事であったりする。
 親鸞も
【明法の御坊の御往生のことを、まのあたりにききそうろうもうれしくそうろう。】
 なんぞと、弟子(?)の往生成仏を『うれしくそうろう』とある。
 鎌倉時代に友引があり、今日のように多くのカレンダーに書かれている状況下であったかどうかは知らないが、もし、仮に同じ状況下であるのならば、友引は葬儀の人気ナンバーワンの日であったであろう。
 
 「おう、次の友引って何時や?え?4日後?爺ちゃんも悪い日に死んでもうたのぉ。。。」
 「大丈夫です。当社の最新技術でもって友引の日に葬儀をする事は可能です」
 「ほうけ。ほな、友引の日にやって貰おうやんけ。銭ならナンボでも出すぞ。最後の親孝行やし」

 という様な会話が行われたであろうと勝手に想像する。
 また、友引の日は葬儀業界にとって稼ぎ時であり、葬儀料金が通常の5割増しになっていたであろう。。。

 なんぞと勝手に想像したりするのだが、え~。。。『死』を『穢れ』とするのか、その人の人生の完成であり、かつ往生成仏の慶事とするのとでは全然違う。
 往生成仏であるのならば、友引はそれこそ、「ワシも必ず往生成仏させてや」と云う意味合いになるのだし。
 
 まあ、『大安』だの『友引』だのに迷わされて事が問題なんだが。。。

【『教行信証(化身土末巻)』において、聖人は多くの経・論・釈から引文して、仏教にあらざる外教として「鬼・神・魔」の俗信をあげておられます。それは禍福をえらばずにおれぬ人間の弱さにつけこんで人を脅かし、誑し、惑わせ、それによって人をして怖れしめ、へつらわせ、祭祀に奔命させて、ついに「生きる屍」と化してしまいます。】(和田先生『信の回復』124ページより)

 と云うのが、真宗仏教の伝統である。但し、この伝統は生きている。少なくとも私には生きている。決して形骸化した『しきたり』なんぞでなく、『教え』として生きている。

 伝統に関しては『平成結婚式縁起』に面白い意見が書いてあった。

【伝統が伝統として見えるのは、その起源やそれが始められたときの目的が忘れられて、詮索されることすらなくなったときです。つまり、伝統は歴史意識の欠如、あるいは空白のもとでだけ伝統でありえるわけです。(中略)
 だからすべてのことがらについて、その起源、その当初の意図、その変遷の歴史を明かにすること、つまりその伝統自体について知ることによって、伝統がわれわれにかけている催眠術はたちまちさめてしまいます。】(218~219ページより)

 六曜は仏教ではないので仏教徒の私には関係がない。そういう吉凶禍福を肯定する事は『生きる屍』になると『腐って死んでしまう』と教えられる。
 当然、そういう迷いを肯定する人たちの宗教もあるのだろう。六曜だって、あるいは大殺界やったっけ?そんなものや、毎日の占いで「牡牛座のあなたの今日の運勢は」なんぞと出て来るし。『ひこにゃん』が祀られている『遊瑠伽羅(ゆるきゃら)神社』にもおみくじはあったし。

 吉凶禍福は都合にしか過ぎない。ワガママにしか過ぎない。所詮はエゴを肯定するだけの話である。ワガママを肯定するだけの話である。
 ワガママに生きれる人は少ない。というか、居ないと思う。
 ワガママに老いる事は出来ず、ワガママに病気に成る事も出来ず、そしてワガママに死ぬ事は絶対に出来ない。
 「何時までも若くありたい」と云っても、「何時までも健康でありたい」と云っても無理である。絶対に不可能である。あれだけ健康管理されていた昭和天皇だって、老い、病、そして死んだのだし。絶対に無理である。
 ワガママに生きる事は無理なのだ。事実として無理なのだ。現実は夢で描いた妄想の都合には合わせてくれない。
 しかし、ワガママであり、妄想である。常に自分の都合を求める。そして苦しむ。

 苦が苦でなくなる事はあり得ない。『苦が苦でなくなる』と言い方をするが、苦を受け入れる。何故なら事実であるから。
 『好きな人と別れる苦しみ(愛別離苦)』
 『イヤな人と付き合って行かなければならない苦しみ(怨憎会苦)』 
 が事実である。

 『苦悩は如来の陣痛である』とかいう言葉がある。
 苦があるからこそ、苦を感じている人たちとの出会いが出来る。
 煩悩があるが故に苦がある。
 煩悩が課題になるが故に、『煩悩具足のわれら』と言い切る事が出来る。『ただの人』に成る事が出来る。

 六曜は吉凶禍福である。六曜に惑わされなくとも、他の吉凶禍福で惑わされている。都合のイイ事があれば「今日はエエ日や」であり、都合の悪い事があれば「今日は悪い日や」なんぞと。
 惑わされている事を他人の問題だけにする事も外道ではないのか?

 何かの問題意識、あるいは宗教・思想に凝り固まると、それ以外の人たちが愚かに見える。馬鹿にしたりする。
 六曜であるならば、「あんなの迷信やん。そんな迷信を信じている人って」として、その後に「古くさい」だの、「世間知らず」だの、「無知だの」なんだのかんだのと言葉をつける。六曜を強制される事がうっとうしいと感じたにも関わらず、『やられたら、やりかえせ』と、馬鹿にしたりする。

 愚かである。
 『愚かさの形』が違うだけで、愚かさの現われ方が違うだけで愚かである事には変わりがない。むしろ、『やりかえしている』分だけタチが悪い。
 保守に対する革新の悪い所である。
 輪廻の再生産である。
 苦の再生産である。
 その『苦の再生産』を続けて居るのは他でもなく私自身である。私自身でしかない。

 「帰って来なさい。待ってるから」と云う恩師の言葉を思い出す。


【皆さん起立して下さい。ちょっとしばらくの間、バカになってもらって、智者でなくてね、愚者になって下さい。バカになって下さい。私がひと言、ナンマンダブツという。皆さん方もひと言、ナンマンダブツとおっしゃって下さい。そして三声。……長くは要りません。三声、繰り返しましょう。
 
 ナンマンダブツ。
 ナンマンダブツ。
 ナンマンダブツ。】(信国先生『帰院のあいさつ』より)