坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

子供解放同盟

2009年01月14日 | 坊主の家計簿
 1月14日

 雑費  缶ミルクティー      120円
 食類  薩摩白波        1580円
     唐揚げ弁当        575円
     諸々           655円

 合計              2930円
 1月累計           58206円

 今日は飲みに行くつもりだったのだが、夕寝の爆睡で断念。
 目覚めるとテレビで安田講堂のドラマをやってた。
 え~。。。後半からしか見てないのだが、テレビを見ながら「そんなにデッカイ石あるか!」と思わずツッコミ。学生が30センチぐらいのデカイ石とかコンクリートをバンバン落としていたのだが、ドラマの演出とはいえ、あれはちょっと酷いぞ。実際の映像ではあんなにデカイ石は殆どない。あんなにデカイ石を搬入しようとしたら大変やろ(笑)

 安田講堂。
 私が産まれたのは1968年で、安田講堂が69年。故に当然憶えていないのだが、学生運動には高校の時から興味があったし、その後に観た小川紳介の『パルチザン前史』で、実際に東大紛争内部、安田講堂の内側から撮影されたドキュメント映画の影響もあってか、なんとなく安田講堂には思い入れがある。

 当然、ガキがやった事である。東大を封鎖して立て篭っても、まあ、大学側も彼らが云う『権力』なんぞはたいして困らない。困るのは東大に通っている学生である。単純に授業が出来ない状況なんだろうし、授業を受けれなくて困るのは学生側である。自主授業なんぞの方法もあったと思うが、んなもん単なる『自習』にしか過ぎず、大学に行く必要がない。困るのは学生側なのだ。あんなもん、放っときゃ学生の支持もどんどん離れていってしまうだろうし、内部分裂をするに決まっている。放っときゃエエのだ。

 とはいえ、ああいう反抗する精神、っちゅうのは好きである。別にガキの特権だとは思わない。

 当時語られていた様な『権力』はない。単なるワガママなガキの妄想にしか過ぎない。当時も選挙制度があったのだ。限界があろうが、選挙制度がある。その選挙で当選した人たちを『権力』と呼ぶのなら、あるいは、多くの議員が属する政党を『権力』と云うのならそれはそれで構わない。
 常に『反権力』である、どんな『権力』に対しても、例え、この国で革新政党が権力を握っても、常に反抗して行くのなら別に構わない。固定化させない為、常に批判精神は大切である。
 んが、まあ、昔に学生運動をやっていた人たちも今は『爺ちゃん婆ちゃん』という年齢になり、見事に今のガキの云う事に耳を傾けられない頑固な権力者になっているのだろうが(笑)

 当然、ガキの云う事に耳を傾けなければならない筋合いは一切ない。
 今のガキは『保守化している』だの『体制化している』だのと聞くが、それは見事に自分達が保守化、体制化している証明でもあるのだが、つまり当時の大人も、今の大人も時代が変わっただけの話であり、中身は一切変わっていないのだし。基本的には「最近の若いヤツ等は。。。」という、あれでしかない。だから、成人式で暴れる人間に苦言をヌカしたりしているのだろうし。
 成人式で暴れるのも、学生運動で暴れるのも、暴走族で暴れるのも、夜の街をフラつくのも何ら変わりはない。自分を縛る『権力』に反抗している事について、何ら変わりはない。

 しゃて、40歳という見事な『オッさん』の年齢に達し、かつ『僧侶』という権力の権化の仕事をしている私も若いガキに苦言を吐き散らそう。ただ、あくもでも個々の人間を無視した上である。『日本人』という人がいない、『女性・男性』という人はいない、『大人』という人はいないのと同じく『ガキ』という人もいない。居るのは一人一人の人間でしかないのだから。
 しかーし!最近のガキよ。テメー等は『権力』に魂を売り渡そうとしてないか?
 1人1人を無視するのが権力である。それを権力と呼ぶ。国家なんぞはその典型であるが、別に国家だけでなくファッション雑誌だって権力にしか過ぎない。『流行』も『権力』なのだ。
 まあ、なんちゅうんですか?『長いものには巻かれろ』ですか?あれでっせ、あれ。
 『常識』だの、『普通』だの、『流行』だのに惑わされるのはボンクラにしか過ぎない。

 だから、反抗するのだ。
 
 反抗するのも昔のボンクラが云っていたような「われわれは!」ではない。「異議なし!」ではない。セクト主義ではない。体制主義ではない。国家主義ではない。権力主義ではない。
 あくまでも『個』として立ち上がるのだ。

 当然、云われるであろう。「あくまでも方法論として」だの、「あくまでも運動論として」だのと云って誤摩化されるであろう。それを云うのが『権力側』である。思いっきり『権力側』である。
 
 反抗はあくまでも、『個』に立つべきものである。『個』を殺すものを『権力』というのだ。
 故に、最大の権力は『常識』であり、『普通』であり、『世間』なのだ。実際にそれで『個』を殺されとるやろうが。『ホームレス』問題に取り組んでいる人たちの多くは「あんな大人になっちゃいけません」と何ら変わりないぞ。マイホーム幻想に縛られているだけの人が多いぞ。あくまでも『権力側』からの発言にしか過ぎないぞ。
 
 あくまでも『個』である。『個』からの反抗である。
 『世間』と云っても『個の連合体』にしか過ぎない。故に『個』と『世間』と云っても、あくまでも『サシ』対『サシ』の関係にしか過ぎない。あ、1対1の関係にしか過ぎない。

 国家だけでなく、『世間』も『常識』も個を無視する。

 個を無視する思想に自分を売り渡す人を奴隷と呼ぶ。

 『子供』は『大人』によって教育される。『大人の奴隷としての子供』である。それが『子供』という差別用語なのだ。『天皇の赤子』が『親の赤子』に変わっただけの話である。
 しかし、『子』は『子』として独立した1人の全く対等な人間である。だが、奴隷として育てられる。故に『反抗期』という大切な時がある。『子供』が「私は私だ!」と云う親との対等な人間関係を結ぶ大切な時である。

 反抗期は終わらない。『思春期』と呼ばれる一時期だけの事ではない。
 生涯を通して、反抗期であり、思春期である。『個』を無視されるのは』『親』からだけでなく、『天皇』が象徴的な国家であり、かつ、『常識』であり、『世間』である。

 『個』を回復する作業。奪われていた『個』を回復する作業。
 それが私にとっての念仏である。
 それが故に、『どんな人生であっても尊い』と。

 当然、『尊い』のは私だけではない。『個々』である。1人1人の人生である。
 故に、『敵』なんぞ居ない。
 『敵』だの、『悪い人』だの、「あんなヤツは殺してもイイ」という事は成り立たない。それは所詮、自分の都合にしか過ぎないのだから。
 『自分の都合』で自分を裁く。個を無視する。『自分の都合』は権力である。
 『自分の都合』というものに反抗するものを『仏性』と呼ぶ。エゴに染まらない、専門用語では『無漏の種子』と呼んだりするのだが、仏性こそが、個を回復して頂ける大切な働きである。

 仏法を聞くのは、抹香臭い話であり、仏教が権力である今日、非常に権力的である。
 だが、私にとっては、仏法こそが『個』を解放して頂いく道である。


 ♪広大無辺のみ教えに  永い迷いの世があけて
  静かに合わすこの両手  にじみいで来る称名は
  嬉し恥ずかし有難し  口にははっきり言えないが
  心の底からうなづける  明るい道が見えて来た
  これから先のひぐらしは  幸か不幸か知らねども
  どちらになっても宜しいと  確かな覚悟が出来ました
  雨も嵐もあるであろう  照る日曇る日それぞれに
  生きる道をば恵まれて  心はればれ生きて行く
  友よ来たれよ皆共に 六字の御名を称えつつ
  念仏無碍の大道を 強く進まん法の道
 (仏教讃歌『心はればれ』)