坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

礼状

2009年08月25日 | 坊主の家計簿
 京都へお買い物。せっかくなのでショート・ツーリングも兼ねて原チャリで行く。よって、帰り道は遠回り、遠回り。「この峠のトンネルって危ないからキライ」っちゅう道を通って帰宅する。
 帰り道の気分では「よっしゃ、風呂に入って、ママが風呂に入っている間だけ娘の面倒をみて、深夜に海まで車でGOだぜ!」なんぞと勝手に盛り上がっていたのだが、「産まれて間もない娘と、出産間もないママを残して1人車で海に行くのは鬼畜の所行である」なんぞと勝手に思い、断念。明後日の午後まで仕事関連の予定ないねんけど、家庭の予定は常にあるしのぉ。。。

 京都へは白衣に使う『半襟』っちゅうもんを買いに行くのがメイン。いや、白衣って洗濯してると襟の部分が痛んできまんねん。金がありゃ、買い替えたらエエだけの話なんやろうけど、金もないし、ケチだし、ついでにエコでもある。
 
 そうさ~、私は地球にやさしいエコ人間♪

 ん?まあ、半襟を買ったついでにマジックテープの腹帯(どこがエコやねん)と、専修学院で使ってた輪袈裟を購入。学生時代に使ってたのはかなり痛んでるし。んでもって『安い!』し、やっぱし一番愛着があるし。

 すっかり冷えきった体を銭湯で暖めて、帰宅して出産祝いの礼状用に一文を書く。


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 本年八月八日夜、恵里(えり)が産まれました。
 私たち夫婦を縁にして産まれて来た娘は、『私たち夫婦の子』でも、『犬伏家の子』でも、『円覚寺の子』でもなく、あくまでも如来様より御預かりした『如来の子』であります。

 【生後三ヶ月の陽子を抱いて、私たち夫婦の仲人をしてくださった先生のお寺を訪ねたときのことでした。
 「この娘は女の子だから、私は何も期待しないわ。ただ、心やさしく、明るく、素直に、誰からも好かれてスクスク伸びやかに育ってもらいたいの」
 そう言ったとたん、隣に座っていた年長の法友は、「まあ、そんなにたくさん期待して」と、言下に言い放ったのです。】(渡辺尚子『あなたは、あなたに成ればいい』より)

 私たちは『愛情』という言葉を借りて自分のエゴ(わがまま)を相手に押し付けます。あるいは「あなたの為を思って」等という表現でもってエゴを押し付けます。一体、私たちは何時から「相手の為」を判断出来る様な『御偉い人間』になったのでしょうか?『人の為と書いて偽りと読む』との言葉通りです。私たちにはそんな判断は出来ません。凡夫である以上、絶対に不可能であります。
 しかしながら私たちはつい『愛情』とか「あなたの為を思って」等という美名に酔いしれ、己が煩悩を抱えた凡夫であるという身の事実を忘却し、それが故に愛情が通らなかったり、相手が自分の思い通りにならなければ相手を恨んだり、相手を見放したりしてしまいます。そして相手のせいにして、自分の身を守ります。自己愛に固執して、その自己愛を満たす為の道具として相手を利用しているだけにしか過ぎません。それが悲しいかな、生身の人間の『愛情』の正体です。
 また、渡辺尚子さんの文中にもあるように、『女の子だから期待しない』などと平気で性差別をしてしまったりするのです。
 娘・恵里はそういう私たちのエゴを告発して下さる、大切な如来様の子です。

 『里に恵まれ、里を恵む。』恵里はこれから私たち夫婦や皆様を筆頭とする多くの里の人たちに恵み育てられる事でしょう。それと同時に、恵里には里に迎合して『生きる屍』として生きて行くのではなく、一人の人間として私たちや皆様を筆頭とする里の仲間たちに対して「あなたは人間である事を忘れてませんか?人間は対等なものです。決して何かの条件を得たから貴いとかいうものではありません。人間は人間以上でも以下でもなく、それだけで貴い存在なのですよ」と、里を恵む人間に育って頂きたいという『願い』に名を借りた『親のエゴ』で『恵里』という名前を付けさせて頂きました。
 これからも恵里を宜しく御願い致します。

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