坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

抑圧された魂の反動

2006年12月16日 | 坊主の家計簿
 12月16日

 雑費  缶コーヒー          120円
 外食  茶粥きんぴらかき揚げ     347円
 食類  餃子             200円
     れんこん薄切り2       116円
     味噌汁の具5         390円
     こんにゃく3         114円
     昆布巻き            97円
     発泡酒            175円
     焼きシャケ          100円
     海のサラダ           50円
     豚ミンチ           254円
     サッポロ一番味噌3      177円
     サッポロ一番塩3       117円
     バナナ             90円
     うどん玉            18円
     白菜              98円
     大根              98円

 合計                2624円
 12月累計            57529円

 坊さんは黒衣の下には白衣を着ている。で、法事等で白衣になって着替える事もある。よって、色パン、柄パンでは白衣から透けて見えてしまう可能性がある。
 よって坊さんパンツは純白でっせ。
 で、この白のトランクスがなかなか売ってなくて、いや、グンゼでもあるのだが、結構大きなスーパーとかに行かないと売ってないのだ。。。で、私はチャリなら20分ぐらいで行ける大きなスーパーで買っているのだが、最近寒くてねんな。。。
 っちゅう事で、パンツのゴム交換。今日はゆるゆるだった6枚。
 んが、この前に買ったパンツのゴムの幅が狭かったのか、「今履いてるパンツも治しとこ」と治したのはエエのだが、非常な不快感がやな。。。
 
 と、パンツを履き替える。

 いや、パンツのゴムなんて知らんかったので、パンツのゴム売ってる所に行って『男性パンツ』とか書いてあったのを選んで来たのだが、いざ、交換にかかると出て来たゴムが結構幅広で、「まあ、ええか」で修理してたのだが、履くとやっぱりゴム幅が細くなった分だけ違和感が凄くあってイヤ。
 よって、近日中に幅広ゴムでやり直しやな、これは。まあ、まだまだ枚数はあるし、今度や、今度。


 昨日はある人と飲み。話してる中で色々刺激もあり、楽しかったのだが、その中で「反動の反動」というのを云ってはってすかさず同意した。

 太田龍と云う人がいる。先日買った『日本の右翼と左翼』にも載ってるぐらいの『元左翼の大物』。
 私が18ぐらいの時に、太田龍がエコロジーに関わって居た時に動物実験反対か何かの集会のゲストで来られてた。
 その後にユダヤ・フリーメーソンの陰謀等の本でも有名になってしまってやな、これが。。。
 まあ、「解りやすい」と云えば「解りやすい」。
 「国家の陰謀だ!」
 「公安の陰謀だ!」
 が、変わっただけやしなぁ。。。
 左翼系の、特に『過激』と呼ばれる人達は、結構、そういう陰謀っちゅうか、妄想っちゅうか、好きやしなぁ。。。今なら笑える話なんだが。。。

 武力闘争でも、結局、大した武力はない。ライフルで、自衛隊に勝てるわけがない。自家製ロケット砲で自衛隊に勝てるわけがない。それはある意味、竹槍で米軍と戦おうとしていたのと同じ気がするのだが。。。
 同時に、刑務所の中で反省しているらしいが、東アジア反日武装戦線のテロも『殺人』やろ。革命という『正義』の為とは云え。

 のちに『反動』が来た。
 その反動をさらに拡大したのが特にネット右翼なのか?

 最近、2ちゃんねるをマメに観てる。まあ、ネットを開く時間が限定されているのだが、幾つかのスレッドを注意深く読んでいる。
 論理性、っちゅうか、読み込みが足らん、っちゅうか、「お前等、どうでもエエねんやろ!」やな。その場しのぎ。その場で騒いでいるだけ。
 2ちゃんの反動は『管理』だろう。管理に対する反動が2ちゃんであったのかも知れないが、結局、『管理されたよゐこの息抜き』にしかなっていない感じが、幾つかのスレッドに対して感じる。当然、膨大な他のスレッドは知らない。
 だが、『名無し』で象徴される様に『個人』がない。

 昨日一緒に飲んでた人が云う意味での「反動の反動」は市民運動的なものの復活でもあった。まあ、市民運動もよく解らんように成っている現状があるが。。。まあ、いわゆる『左翼的』なもの。
 当然、左翼も変わる。
 森達也氏が「私はマルクスを読んだ事はありません。ですが私ですら左翼と呼ばれます」と語って居られたが、まあ、そんな様なものだろう。
 しっかりとした『個人』としての立脚点からの発言が『左翼的』と呼ばれる。森達也氏なら、オウムの内側に入り込む。境界線を『個人』という一点で打破する。まあ、森達也氏は森達也氏なんだし、あくまでも個人として動けばエエわけであって、言語突破でんな。
 
 当然『森達也氏』をカリスマにしてしまったら、そこで個人は死ぬ終わる。

 「ロックは死んだ」とジョンライドンは云った。
 当然、死んでなんかいやしない。ただ、ロック=ロックンロールは「止まったら死ぬ」んだ。
 それは『働き』であって、決して固定化された言葉ではない。活き活きとした『出会った言葉』は働き続ける。

 『民主主義』と云う、たまに岩波文庫に土下座したくなる言葉。これが『当たり前』に成っている。当たり前になって、本来の精神が『当たり前』になる事によって死に、ワケが解らんようになっている。
 当然、そんなものは本来ではない。本来でないものが永遠に続くとは思えない。
 鎮護国家の仏教に堕落した中から法然・親鸞という本来的な意味合いでの『反動』が出て来たように、個人として生きながら、個人を無視する、幻想の奴隷化する現在の『反動』が長く続くとは思えないし、それが私個人としての『仕事」だな。

 当然、それは一直線に被差別者に通じる。
 結局、幻想としての国家等の『公』が先に立つならば、そのしわ寄せは『小さくされたもの』に来る。
 『小さくされた私個人の気持ち』
 『観たくない、見つめたくない心の醜い部分』
 等々。
 だから、綺麗な部分ばかり観たくなるんだよ。

 そして、それは『僧侶の聖者化』にも繋がり、「仏教徒のくせして、お参りばかりして何もしないヤツ」になり、「この様な有意義な社会的問題に関して参加する僧侶が少ない」になる。エリート意識になる。また、(様々な意味での)エリート奴隷になる。