エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

ふきのとう

2015年03月15日 | グルメ
二年ほど前にブログに書いたことがあった。
「ふきのとう子どもに踏まれ固き土割りて目を出すうららかな日に」
小学校の2年生くらいの時に詠んだのである。

いま読み返すと、恥ずかしいけれど・・・。
我が家の庭の片隅の小川沿いに目を出した「ふきのとう」を詠んだのである。
その意味では、懐かしさがこみ上げてくるのである。

蕗の薹は、春の山野の香りである。
それも極めてレアな春である。







「かろき荷や民話の里の蕗の薹」







3日前に届いた「ふきのとう」である。
しかも「岩手県遠野」から届いたのである。

宅急便が届いたときの「かろやかな感覚」は何だっただろうか?
きっと、遠野市の大気を感じたからであろうか・・・。

二箱の上に「遠野桜」と称するお菓子が一箱、載っていた。
けれども「ふきのとう」がとてつもなく嬉しかった。

おりしも、東日本大震災のその日であった。



早速、天麩羅にしていただいた。
岩手県遠野市の「苦み」が舌に沁みる。
春の味わいである。

三分の一は「ふきみそ」にした。



生のふきのとうは、向こう3軒両隣におすそ分けした。
一人暮らしの三軒には天麩羅にして、おすそ分けしたのであった。

あつあつのご飯に「蕗味噌」を載せる。
「はふはふ」とかき込む。



春の気配を逃してはならないのである。
急いで呑み込む。

そのようにして「食べ」なければならない。
それが春の食べ物の、作法である。



       荒 野人