ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

謹賀新年。

2020-01-01 | プリキュア・シリーズ

 あけましておめでとうございます。
 新年早々お詫びというのもどんなものかと思うんだけど、これだけは書いておかねばなりますまい。
 前回の記事にて、「あるブログにコメントを投稿したのに、削除されてしまった。」という愚痴をマクラに振ったんですけども、これは完全なるぼくの早とちりでした。
 ブログの仕様はサービス会社ごとに異なっていて、そちらのばあいは、このgooブログとは異なり、コメントを送った直後に一時的に全文が表示されるんですね。そして、いったんページを閉じると、情報が更新される。
 それで、次にページを開いた際には、送ったコメントが見えなくなっている。
 ブログ主さんからの承認を受けると、再び全文が表示されるんだけど、ぼくはそれまでの間に当該ページをみて、「削除されちゃった。」と勘違いしたわけです。
 ぼくみたいにそそっかしい人は滅多にいないだろうけど、同じような勘違いが起きることが皆無とは言えないと思うので、ひとつの事例として書いておきます。
 昨日、そのブログ主さんから直接コメントをいただきました。eminusというハンドルネームからここを探し当ててくださったそうで、丁重なお詫びの言葉に重ねて、ぼくの記事についての感想まで書かれてあり、「こちらこそ失礼なことを」と、たいへん痛み入った次第です。
 すぐにこちらからもブログを訪ねたところ、ぼくのコメントは再表示され、ていねいな返信コメントも添えてありました。
 「大みそかのお忙しい時に、お手間とご心労をおかけして申し訳ありません。」と再度コメントを投稿しておきましたが、この場を借りて、あらためてお詫びいたします。申し訳ありませんでした。
 akiさんからは、『「この人なら……」と見込んだ人が予想外の人でがっかりするより、自分の想い違いだった方がずっといいと思います。』と慰めのコメントをいただき、そのとおりなんだけど、今回のばあいは、早とちりそのもの以上に、その旨をブログに書いてアップしちゃったことが最大の反省材料ですね。私的な日記に綴ったんならまだしも……。
 なんにせよ、最低でも1週間くらいは待ってみて然るべきところでした。いかにブログの仕様に不案内だとはいえ、いろいろな可能性があるわけだから。
 というわけで、今年のモットーは「自重」です。「癇性」ともいうべき根っからの性急さを戒め、軽挙妄動を慎むことに努めたいと思います。
 前回の記事は、前半部分を削って、村上春樹さんにかんするところだけ残しました。なんか『1984年』の話が取ってつけたみたいになってますけど、これはまた、直せるときに直しときます。
(このあと、晩になってから、『1984年』のくだりを削って全面的に改稿しました。)

 それで、まあ、こんなことの後では、なんとなく気が引けるんだけど、ほんとに素敵なんで、そのブログをご紹介させていただきましょう。
 「金色の昼下がり」さんです。『不思議の国のアリス』の巻頭を飾る詩篇から取られているのでしょうか。
 アドレスは、

 とかく「メロドラマ」だの「影(シャドウ)」だのと、物語論の枠組みに当てはめがちなぼくとは違って、プリキュアシリーズそのものへの愛に満ちた緻密で楽しい考察が繰り広げられています。
 ぼくが見つけたのは、たしか12月の半ばくらいだったけど、「こんなブログがあるんなら、ぼかぁもうスタプリのこと書かなくていいかな。」と思いましたね正直なところ。だけど、いちおうそこは、自分には自分なりの書き方もあるか……と思い直して、あと一ヶ月、最終話まで付き合ってみることに致します。


☆☆☆☆


 akiさんからは昨日2本のコメントをいただき、それぞれ、漢籍からの引用がキーになってました。
 ひとつは、「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。」
 これはさすがにわかります。『論語』ですね。でもそれ以上はわからないので(昔いちおう通読したけど、ほぼ忘れている)、調べてみると、
「子罕(しかん)第九」が出典でした。金谷治・訳注の岩波文庫版では「三十」、貝塚茂樹・訳注の中公文庫版では「二十九」になってますけども。
 こうやって、頂いたコメントをきっかけに、腐海の底に沈んだ書物を引っ張り出して、いわば知識の「煤払い」ができる。これもまたコメントの功徳の一つかなあと。
 もうひとつが、周の武王(殷の紂王を討って王朝を開いた中国古代の聖王)が、殷との最終決戦となった「牧野の戦い」で、左手に黄鉞(こうえつ)を杖として臨んだ、という半ば伝説のような故事。
 これは私、まったく知らなかったので、ネットで検索してみると、『史記』が出典なんですね。
 鉞(えつ)とは斧の大きなもので、天子が将軍に征討を命ずる時そのしるしとして授ける。天子が自ら征討に赴くときは、黄金で飾った鉞を用いる。それがすなわち黄鉞とのこと。
 『史記』は8冊セットの全訳がちくま学芸文庫で出てますが、あいにく書店で手に取ったこともない。横山光輝氏のものをはじめ、古代中国を舞台にしたエンタメは数あれど、そちらのほうにも疎い。あ。ひとつだけ例外があった。『蒼天航路』。これはもうほとんど座右の書で、何度読み返したかわからぬほどだけど、三国志なんで、ずっと時代は新しくなります。
 『スタートゥインクル☆プリキュア』のキュアスターこと星奈ひかるが、つねに決め技の「スターパンチ」を利き腕ならざる左手で打ち、両膝をついたカッパードには右手を差し伸べる……というくだりから、先の武王の「左手に黄鉞」の故事を連想した、との趣旨のコメントだったんですが、このように、現代サブカルの粋を尽くした児童向けファンタジーアニメと、遥か古代の異国の故事とが、その本質において通底してしまうところが、「物語」の醍醐味であり、ひいては人類の「文化」の豊かさだなあ……と思いました。
 本年も「物語」や「文学」を軸に、思いつくまま綴っていきます。よろしくお願いいたします。











2 コメント

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あけましておめでとうございます (金色)
2020-01-02 16:02:46
あけましておめでとうございます。拙ブログをご紹介頂き、誠にありがとうございます。お褒めの言葉まで頂きまして、大変嬉しく思います。先日の件につきましては、元々私が曖昧な記憶に基づき書いてしまったことが原因ですので、どうかお気になさらないでください。私も猛省です。

ところで、キュアスターがスターパンチを繰り出す際に左手を用いることについてeminusさんの「決め技は左手」「差し伸べるのは右手」、そしてakiさんの「左手に黄鉞」の故事を関連させた考察を拝見しました。「左手に黄鉞」の故事は知らなかったので、正月から稲妻に打たれたような衝撃を覚えています。とても素敵な解釈だと感じました。

純文学や物語の視点からスタプリを視聴されているeminusさんにとっては、「物語外」である裏設定やインタビュー等は蛇足かもしれませんが、実はスターパンチを左手で出す理由については『アニメージュ 2020年1月スタプリ増刊号』のスタッフインタビュー記事でも一部語られており、そちらでは「子ども達がスターパンチの真似をするとき、スターカラーペンを握った右手で星を描き、そのまま左手でパンチできる方がペンを持ち替えずに済んで真似しやすい」という趣旨の内容が書かれておりました。それを読んだとき、スタプリはどこまでも子ども達のことを考えて作られているアニメなんだな、と改めて痛感したことを覚えています。

雑誌には上記のように書いていましたが、「左手に黄鉞」としての解釈も十分妥当性があり、スタプリらしさのある、とても好きな考察でしたので、思わずコメントさせて頂きました。それから、ご想像されているとおり、金色の昼下がりというブログ名は『不思議の国のアリス』からのネーミングです。私の大好きな作品なので、気付いて下さる方がいて、とても嬉しく思います。
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あけましておめでとうございます。 (eminus)
2020-01-02 19:15:10

 あけましておめでとうございます。
 こちらからブログにお伺いしてご挨拶すべきか……と迷ってもいたのですが、どうも気が引けまして……。お越し頂いてほっとしました。
 ご承知のとおり、ブログってのは楽しみながら書くものだから、あまり考証だの校閲だのと堅苦しいこと考えてると、筆が走らなくなりますよね。どうか本当にお気になさらず……というか、ぼくだって、ちょっとしたミスなら一杯やらかしてると思うし、そもそも、金色さんのプリキュア愛あふれる緻密な考察を読んで、「いや自分がスタプリのこと語っていいのかな?」と年末から心配になってるところです。
 なにしろ35話までは(もちろん、姫ノ城さんとの選挙戦の回です)さほど真剣に見ていなかったし、ビデオに録ってもいなかったので、全編を通して考察するには細部がおぼろげなんですよ。だから序盤や中盤を振り返る際には、記事のバックナンバーを参考にさせて頂いております。
 このたびは情報をご提供いただいて……なるほど。そのような理由だったのですか。これは子どもさんと身近に接していないとなかなか思い至らぬことですね。
 そうですね。ぼくは何かにつけては「物語」「物語」てなことを言っておりまして、これはまあ、一種の予防線(笑)かもしれませんけれど、裏設定とかスタッフの方々へのインタビューはあまり気にしないようにはしています。「蛇足」と思っているわけでは毛頭ありませんが、金色さんにはお分かりのとおり、できるだけ自由に解釈したいので……。
 もちろん、あまりに強引な深読みの類いは慎まなければなりませんが、「決め技は左手」「差し伸べるのは右手」、そしてakiさんの「左手に黄鉞」の故事への連想を、「素敵な解釈」と言って頂けるのであれば、これはもうお墨付き(笑)をもらったようなものと……いや笑い事ではなしに、本当にそう思います。ありがとうございます。
 それにしても、読みの濃やかさに感じ入った……ということならば、第45話の考察のなかで、ひかるが星形のクレーターから歩み出て、変身の解けた生身のままでカッパード氏のほうに近づいていくくだりの解釈には「うーん。なるほど」と声が出ました。むろん、他にも枚挙に暇がありません。バックナンバーを1話から順に読んでいった時は、全編をあらためてアタマから(より深く濃密に)見返したような感覚になりました。
 第45話の記事はまだ続きがあるので、楽しみです。さらにあと1ヶ月、番組本編については言うまでもなく、金色さんの考察も、とても楽しみにしております。ただ問題は、先にそちらを読んでしまうと、自分の記事が書きづらくなることですが……。しかしまあ、ぼくの記事や、akiさんのコメントが良き刺激になりうることがわかりましたので、あと4話、自分なりに書いてみようと思います。
 今後ともよろしくお願いいたします。

頂いたコメントに貼ってあったアドレスがなぜか反映されないので、こちらに貼り直しておきます。

「金色の昼下がり」さん
https://www.konjikiblog.com/


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