ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

純文学とエンタメ小説24.07.05

2024-07-05 | 純文学って何?
 純文学とエンタメ小説(娯楽小説/大衆小説/通俗小説など、ほかにいくつか呼称はあるが、「エンタメ小説」というのがぼくの語感にしっくりくる)との違いは那辺にあるか……というのは当ブログのメインテーマなので、これまでにも何度か書いてきた。
 西欧・中国・日本それぞれの文化圏における文学史的な定義とか、物語論からのアプローチとか、けっこうあれこれ試みた気がするのだが(めんどうなので過去記事を読み返していない)、今回はもっと実感に即して考えてみたい。
 ようするに、
 波瀾万丈のストーリー展開やすっきりと立ったキャラの魅力でぐいぐいと読ませるのがエンタメ小説で、いっぽう、内容そのものは別にそれほど面白いことが書かれてるわけでもなく、登場人物もなんだか卑近でちまちましていて冴えないけれど、文章がきれいだったり心理描写が緻密だったり、あるいは主人公がなぜか自分の分身としか思えないような気がしたりして、ついつい最後まで読み耽ってしまい、読後にはいくらか自己が更新されたように感じる……ようなものが純文学……という言い方はどうであろうか。
 それは約めていえば「リアル」ということであり、たとえば家族間の葛藤とか、恋愛とか、生活苦とか、自分自身や近親者の病気とか、職場での軋轢とか、就職難とか、仕事がハードすぎるとか、商売がうまくいかないとか、ふつうに生活していれば誰しもが必ず出会うであろう人生の課題を題材にとる。とはいえ、それだけを綿々と書き綴っていたらただの愚痴なので、〝作家〟たるものそこは腕に縒(よ)りをかけて、たんなる愚痴を「作品」に昇華すべく芸を凝らす。昔の「私小説」と呼ばれたジャンルがこの典型で、温故知新というか、それをほとんどそのまま平成の御代に蘇らせたのが西村賢太氏だったが。
 そのさいに命となるのが文体で、考えてみれば落語なんかでもおっそろしくくだらない、どうでもいい話を大のオトナが高座にかけて、それをまた大のオトナが2時間も3時間も座って「あはははは」などと笑いながら聴いている。そのままだったら聴くに値しないただの与太話を「噺」へと昇華するのが落語家の「語り」の芸であり、それに当たるのが作家にとっての文体といえる。
 しかしひとくちに文体といっても、たとえば古井由吉さんまでいくと、ぼくはこのひとの文章を「日本語散文の極北」と考えているのだけれど、これはもう、「なになにを記述している」というよりも、もはや言葉(現代日本語)そのものが記紀神話やら万葉集、源氏物語あたりの色濃い翳(かげ)を纏って立ち上がり、さらには外つ国の宗教者や詩人や作家たちやらのエクリチュールとも響きあいつつ、それ自体で生々しく増殖しながらうごめいている……といった按配になってくる。〝純〟文学というならば、これぞまさしく純粋な文学だろうとは思うけれども、いかなプロ作家とて、こういうものは容易に書けるものではないし、もちろん、みながみな古井さんを目指す必要もない。
 ところで、ぼくは長らく作家としての大江健三郎さんの信奉者で、「作家としての」とわざわざ断ったのは、その政治的立場についてはおおいに疑念を抱いていたからだが、ともあれ、あの方の作品をあらかた読み、大江文学を自身の拠り所としてきた。そのせいもあって「エンタメ小説」はずっと敬して遠ざけてきた。ほぼ10代後半から40代半ばくらいまでのことだ。けっこう長い。
 これもさんざん当ブログで書いたと思うが(あくまで断片的に、だし、しかも書くたび微妙に細部が変わっているような気もするが)、ぼくは他のことはまるでダメだが言葉に関してのみ早熟で、小学校の低学年くらいで漱石の『吾輩は猫である』を愛読していた。何が書いてあるんだか隅々まで理解していたわけではなかろうが、それこそ落語を聴くようなもので、とにかく楽しいから何度となく繰り返し読んでたんである。
 そのいっぽう、中学生くらいでSFを知り(近所の図書館はなぜかSFがむやみと充実していた)、その流れで筒井康隆、平井和正、大藪晴彦といった作家たちにハマった(筒井さんはそのあと前衛小説に芸域を広げて押しも押されもせぬ大家となったが、当時は大体こういう並びの扱いだった)。
 同時に笹沢佐保さんの「紋次郎」シリーズもほとんど読んだが(これも図書館に揃ってたのである)、いうまでもなくこれらの方々は「エンタメ小説」の書き手である。
 すなわち「物語」として面白い。筒井さんだけはやや異質だが、冒頭で述べた、「波瀾万丈のストーリー展開やすっきりと立ったキャラの魅力」は、他のお三方の作品には当てはまるだろう。ウルフガイ犬神明も伊達邦彦も木枯し紋次郎もそれぞれにカッコよかった。今のぼくなら物語論の見地から「英雄」の概念を引き合いに出してあれこれ論じたくなるところだが、むろん中学生はそんなこと考えない。面白いから読んでただけだ。
 しかし、ただ「面白かった」で済ませずに、あらためて立ち止まって内省してみると、その「面白さ」はたんにストーリーやキャラによるものだけではなかった。あけすけにいってしまうなら、つまりはエロス&バイオレンス。ようするにヒトの原初の「ワニ脳」の部分に直截にぶっ刺さってくるからこその「面白さ」であったと、いま思えば得心がいくわけである。
 これはエンタメ小説の通奏低音とでもいうべきもので、それこそ中学生あたりがこういうものを読んでいるさいに、「もうちょっとちゃんとしたものを読みなさい。」と分別のある大人から窘められるのは、やはりそういった要素のはらむ危険性を憂慮してのことだろう。
 ここで「危険性」といったのは必ずしも大仰な物言いではなく、「エロス&バイオレンス」が隠し味として使われてるていどならいいのだけれど、そうではなしに、作品の拠って立つ「世界観」そのものがそれ一色に染め上げられているとなると、これは中坊なんかにはじゅうぶん「毒」になりうるのである。
 だからもともとそういうものは大人が文字どおり「娯楽」のために読むものであって、思春期の子どもにはその年齢にふさわしい読み物がちゃんと用意されている。だが、「そういうものを読んでみたい」という欲望もまた、それくらいの年頃の子ども(の一部)には止みがたくある、というのも事実だ。
 例によってついつい話が長くなり、しかも昔話に傾いてしまうのだが、とにかくぼくは中学の頃には読書は好きだが別に文学少年でも何でもなかったし、将来は理系に進むつもりでいた。それが大きく転回するのが高2の夏の高校の図書館における『死者の奢り・飼育』(新潮文庫)との出会いであった……という話はこれまでにも(自分でもちょっとうんざりするほど)当ブログでやってきた。
 前回の記事でご紹介したような小説を読むようになったのは、それからのことである。
 それ以降はストイックなまでに「エンタメ小説」とは距離を置き、例外といえば20代で読んだ『羊たちの沈黙』くらいか。それが40になってケン・フォレットの『大聖堂』(新潮文庫→ソフトバンク文庫)を知り、山田風太郎の「明治もの」(ほぼ全作がちくま文庫で網羅されている)を読み、そこに又吉直樹の火花ショックが加わって(あれは佳作ではあるが芥川賞に値するほどのものではない。文藝春秋社の仕掛けた商業主義というよりない)、自分の中で「純文学ばなれ」が起こった。
 「純文学」から、広い意味での「物語」へと、関心が移っていったのである。
 あ、そうそう。皆川博子さんを忘れちゃいけない。自分にとってあまりにも重要だからかえって書き落とすところだった。大江さんのいくつかの作品は今も座右にあるけれど、いまの私の教科書は皆川さんの『海賊女王』と『聖餐城』の2作である。
 ともあれそういった変遷はこのブログにも反映されていると思う。2014年にOCNブログから引っ越してきたとき、よもや「プリキュア」や「まどマギ」について論じることになろうとは夢にも思わなかった。
 それらの作品は「物語論」のための題材として格好だと思って選んだわけだが、しかし題材に選ぶのがなぜアニメないしマンガばかりなのか、「小説」のほうはどうなってるのか、というわだかまりは、自分でも、つねに頭の隅にあったのである。
 その理由はきわめてシンプルで、ぼくのばあい、「純文学」から「物語」へと関心は移っても、それがそのまま「純文学」から「エンタメ小説」へ、とはならなかった、ということだ。つまり、活字で書かれた「物語」よりも、アニメやらマンガのほうがまだまだ面白かった。
 これについては今でもさほど考えがかわったわけではなく、じっさい、マンガであれば『ブラックラグーン』『蒼天航路』『鋼の錬金術師』『ナニワ金融道』『子連れ狼』『のたり松太郎』『MASTERキートン』『ガラスの仮面』など、アニメだったら『風の谷のナウシカ』『ヨルムンガンド』『攻殻機動隊』『ミチコとハッチン』などから受けた影響は、ほかのどんな「小説」から受けたものと比べてもいささかも遜色がない。
 そういう意味では、「小説」と「マンガ」「アニメ」とのあいだに懸隔はない……と、わりと本気で考えている。
 だが、しかし、たしか本年4月の記事でも述べたとおり、このところ小説を書いており(たぶん10年ぶりくらいである)、しかもそれが、自分としては異例のことに(おそらく初めてだと思う)「純文学」ではなく「物語」……というか、おおよそのところ「エンタメ小説」なのだった。
 なんだか奥歯に物が挟まったようで、きっぱり「エンタメ小説です!」と言い切れないのは、書いている本人、つまり私はものすごく面白いのだが、これを万人が……いや万人でなくてもいいが、それなりの数の方々が読んで「面白い」と思うかどうか、いまひとつ自信がないからだ。
 そのことはまあ、いいとして、そうなると、というのはつまり「いざ自分でじっさいに小説を書いていると」ということだが、小説(コトバ)を書くうえで頼れるものは、やはり小説(コトバ)しかないのである。そのことが痛感される。
 たとえば、映画なりアニメで観た(と脳内で記憶している)ワンシーンを、言葉を用いて自分なりに加工しながらディスプレイ上に表現しようという際に、いくら映像を思い浮かべても仕方がないので、結局は自分のなかの言葉のストックを引っ張り出したり組み替えたりしつつ書き進めていくしかないわけだ。
 現金なもので、ここに至ってようやく、私は自分に「エンタメ小説」の素養がはなはだ乏しいことを自覚し、「これはちょっと真面目にエンタメ小説を読まなきゃいかんのではないか?」と思ったのだった(真面目にエンタメ、という言い方は少し矛盾を含む気もするが)。
 たとえば、これも4月の記事に書いたと思うが、『鬼平犯科帳』をここにきて初めてきちんと読んだ次第である(6巻までだが)。
 エンタメ小説といっても、謎解きに重きをおいたミステリをはじめ、ふつうの企業・経済小説も今やそれなりに裾野を広げているし、かと思えばSFというマニアックだが最先端をいくジャンルもある。若い人の書く風俗小説も侮れない。さらに昔の名作で未読のものや、海外作品まで含めれば、とても一個人にカバーしきれるものではない。当ブログ内の「これは面白いと思った小説100」(この企画も例によって中断しているが)で取り上げたものなど、大半が評価の定まった名作ぞろいだとは思うけれども、それでも氷山の一角だろう。
 とにかく、我ながら欠落だらけであって、たとえば今になって『池袋ウエストゲートパーク』の第1巻を読み、「へええええー」と感心したりしている。また、2009年に34歳で逝去された伊藤計劃というとてつもない才能をあらためて読み(お名前だけは知っていたが、これまできちんと読んだことがなかった)、丸1日くらい自作の続きに手を付ける気が起きなくなった……くらいのショックを受けたりもしている。
 ともあれ、現状、あいた時間はほぼすべて「書きつつ読み、読みつつ書く」という按配になっているのだが、考えてみれば、エンタメみたいに面白く、かつ純文学のようにコクのある小説があったらそれに越したことはないわけで、自分の書いているのがそういうものになっているかどうかはわからないけれど、なにしろ自分にとっては何にもまして面白く「このキャラたちは一体この先どうなるのか?」が気になって仕方がないので、そう思っていられるうちはとりあえず書き続けていくのであろう。