ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

NHKドラマ「火の魚」と、室生犀星「火の魚」との違い。

2016-06-18 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽


初出 2015年10月24日


 講談社文芸文庫から、『蜜のあわれ/われはうたえどもやぶれかぶれ』という室生犀星最晩年の傑作選が出ており、「火の魚」はその中に収録されている。渡辺あや脚本のドラマ「火の魚」を念頭において読むと、小説とテレビドラマ、二つのメディアのそれぞれの特質が浮き彫りになって、興味ぶかい。

 ドラマ版「火の魚」と原作との違いを生み出している根源は、村田省三(原田芳雄)が書きとばしているポルノ「蜜の罠」と、名作の誉れ高い室生犀星の「蜜のあわれ」との違いであろう。ここからすべての相違が始まっている。「蜜の罠」は、折見とち子(尾野真千子)からさんざんこきおろされるような駄作なのだが、「蜜のあわれ」は室生犀星の代表作と言われるほどの作品なのだ。だから、「蜜の罠」に対する村田省三の思い入れと、「蜜のあわれ」に対する犀星さんの思い入れとの度合いはまったく違う。

 「蜜のあわれ」には、「後記」として「炎の金魚」というエッセイが附されている。以下、そのエッセイの冒頭を書き写してみよう。

 「『蜜のあわれ』の終わりに、燃えながら一きれの彩雲に似たものが、燃え切って光芒だけになり、水平線の彼方にゆっくりと沈下して往くのを私は折々ながめた。こういう嘘自体が沢山の言葉を私に生みつけ、ついに崩れて消えるはれがましさを、払い退けられずにいたのである。……(後略)……」

 犀星さん独特のわかりにくい表現だけど、この《一きれの彩雲》というのがすなわち一匹の金魚のイメージであり、そのイメージを中核として「蜜のあわれ」という小説が生まれた、と犀星さんは書いているわけだ。

 そして、その「炎の金魚」というエッセイだけでは収まらず、さらに後日談のような形で書き継がれたのが「火の魚」だった。そこでは《燃え切って水平線の彼方に沈下して往く金魚》のイメージが、より深く、切実なものへと発展している。

 「尾も鰭も翼のような張り方を見せ、口を閉じながら一文字に何物かに突入してゆくさまが、瞬間に燃え切った炎のように、ジリジリという火花を撥(はじ)いて往く」

 さらに、

 「一尾の金魚が燃え尽きて海に突っ込んで、自ら死に果てるところ」……そのような絵を描いて欲しいと、犀星自身と思しき語り手の作家は、「有名な西洋画家」に依頼して断られてしまう。

 その依頼は、「蜜のあわれ」の表紙に使うためだったのだが、断られたあと、たまたま出向いた行きつけの花屋で金魚の死骸を見たことから、(絵ではなく、魚拓のほうがよいのではないか。)と思い直して、その死骸を譲り受け、自分であれこれ工夫をしてみる。しかし、それは自分でも嫌気がさすほど酷い出来だった。そこで次に旧知の「折見とち子」に頼み込むことになる。

 折見とち子のモデルとなった栃折久美子は、『モロッコ革の本』という著作も持つ高名な装丁家だが、仮名が用いられているからには、かなり潤色が加えられているのだろう。いずれにしても、尾野真千子演じるドラマ版の折見とち子に負けず劣らず、原作においても魅力的な女性に描かれている。

 「火の魚」は講談社文芸文庫版で全18ページ半の短編ながら、その内のほぼ7ページ分が、折見とち子から送られてきた手紙の文面に当てられている。この手紙がドラマ版の折見のキャラクターを凝縮したかのごとき鬼気迫る名文なのだ。
 
 そこでわれわれ読者は、折見が大病を患って「肋骨を四本」切り取られ、ずっとギプスを付けていることを知らされる。あなた(犀星)はかんたんに金魚の魚拓とおっしゃいますが、魚拓を取るには一匹の金魚が死なねばならず、「わたくし自身がこのような患者であるのに、朱いさかなの死をねがっていたことは何といっても、罪の深いことに思われます。」と、折見は依頼主たる作家を詰るのである。

 されど手紙の末尾は、「いまは併しさかなはもう一度生き直ることが出来ると、わたくしはこの小包を作りながらたすかったような気になって居ります。では又いずれ。」と結ばれていた。その「小包」には金魚の魚拓が納められていたわけだけど、それは作家のみならず、関係者すべてを唸らせずにはおかない素晴らしい出来栄えだった。

 折見とち子ならぬ栃折久美子の手になるその「魚拓」は、昭和34年に新潮社から出版された『蜜のあはれ』の表紙(函)をじっさいに飾った(画像参照)。「……ただ一尾のさかなだけが白紙から抜け出してさらに天上降下を往くところもなく続けている。あなたは妙な人だ、さらに折見とち子という女の人はさらに妙な人ではないか、と係の記者は言い、私はこれで宣かった、と思った。」というのが、小説「火の魚」の結びである。

 この原作においては、「金魚の魚拓」=「火の魚」は紛れもなく「生命」ないし「生」の象徴であろう。依頼を受けた頃には作家の傲慢さによる悪趣味にすぎないと思われた「金魚の魚拓」なるものが、実際に精魂を込めて作成してみると、「折見とち子」自身の命にも再び火を点けることになった。それはまた、作家が「蜜のあはれ」という作品に込めた思いを共有する行為でもあった。小説家と装丁家、いわば二人の芸術家の内なる炎が、共鳴し合って燃え上がった、といったところか。そして、その炎は他のひとの目にはけっして見えることはない。

 いっぽう、ドラマ版における魚拓の意味は、これとはずいぶん異なっている。作中で村田省三がいう台詞は次のとおり。

 「おんなじ魚だろ? じゃ何かい? この世には死んでいい魚と死んじゃいけない魚があって、金魚は死んじゃいけない魚だと、おまえそう思ってんのか。それで人間誰しも、自分が金魚だと思いたい。鯛や鰯のように、死に値する存在じゃない。……え? だけどね、齢とりゃ分かるよ。人生なんてのァ、かつて自分が金魚だった、それを魚拓にされるまでの物語だってことをな。じつに意外で、ひどく残酷なんだよ。耐え切れるもんじゃないよそりゃ。」

 ここで村田は、明らかに、「魚拓」という概念をせいぜい「ミイラ」くらいの意味で使っている。かつて自分は東京で「文壇のプレスリー」などと呼ばれ、酒タバコ女に明け暮れて、人生を心ゆくまで謳歌していた。その頃のオレは金魚だった、と。しかし今は、こんな島に引き篭って周りから孤立し、愚にもつかないポルノなんぞを書き殴って、死んでるかのように生きている。そんな自分を「魚拓」と自嘲しているわけだ。

 そしてまた、村田が折見を「金魚」と二重映しにしていることも、彼が折見のために用意したマグカップの絵柄などからも明らかだ。この台詞を発した時点での村田は彼女の病のことなどまったく知らず、この若くて綺麗で鼻っ柱の強い娘が、なんの屈託もなく生を謳歌していると思っている。まるでかつての自分のように。それで、金魚の魚拓を取るよう強要する。それは幼稚な嫌がらせだけど、たんに酷いことをさせるってだけではなく、「金魚」として生の盛りを謳歌する者に、「魚拓」の悲しみを思い知らせようとする意図でもある。それが分かったからこそ、折見もつらさを堪えて村田の要求に従うのだった。

 だから、ここまでの所ではドラマ版の「村田省三」と原作の「小説家」とはまるで違うし、これら二人の作家と「折見とち子」との関係性もまったく違う。また、「魚拓」というものに込めた二人の作家の思いもぜんぜん異なる。じっさい、原作においては「金魚の魚拓」=「火の魚」のイメージが最後まで作品の根幹を成しているのに対し、ドラマのほうでは途中から魚拓のことは(少なくともドラマの表層からは)退いている。そもそもドラマの折見は編集者であって、装丁家(芸術家)ではない。

 原作とドラマ版とに通低している最大のテーマは、「ふたりの人間の心(もっと言うなら魂)が、生の極限において通じ合う。」ところであろう。その意味では、ドラマ「火の魚」が原作と重なり合うのはようやく後半になってからである。

 村田が前任の編集者(岩松了)から折見の病を知らされてうろたえ、店のおかみさんに諭されて、都会へと出て彼女を病院に見舞う。そこで折見の口からさまざまな事実が明かされて、初めて彼女の真意に気づく。尾野真千子さんはもちろんだが、ここでの原田芳雄の演技がやはり素晴らしい。ネットでは、「素敵な大人の恋物語」との評も見えるが、失礼ながら、ちょっとその見方は浅いのではないか。村田に向ける折見の思いは、「大人の恋」なんて紋切型から連想されるよりもっとずっと厳しいものだし、その思いを悟ってからの村田の気持も、ただの「恋心」よりも遥かに深いものだから。

 このあたりのことは、2年前「火の魚」関連の記事にたくさんのコメントを寄せて下さった「えみ」さんとぼくとのやり取りを写したほうが手っ取り早いかも知れない。参考として附しておきます。





2010年9月23日 えみさんからのコメント



 マグカップ、村田が折見の事を気に入り買ってやるものの、折見に惹かれていく自分に戸惑いを感じて戸棚にしまってしまう。
 それでも後日、折見が原稿を読んでいる時にはそのマグカップが置かれている。
 そこに村田のかわいさを感じてしまいました。
 酒タバコ女をスッパリ諦めて死んだ様に生きて来た村田にとっては、折見は怖い存在だった。
 かつての大作家と編集者と、立場的には村田の方が数段上なのに、折見は村田に全然負けてない。
 むしろ村田より上の立場の様。
 村田は、折見の酷評に当て付けて(今の中高年の男性読者には人気があるらしい)『金魚娘』を殺して連載を終了させてしまうが、折見は満足顔。
 村田はガキみたいに意地悪をして折見を泣かせる訳だけど、料理屋で魚を黙々と食べる折見は完全に村田を負かしていた。
 ところが、病院で村田が折見の本気を受け止めた時=村田が花束を渡した時には、村田は大作家の威厳を取り戻し、折見はか弱い女性に戻る。
 この力関係が変わる瞬間も面白い。
 折見は多分、「先生、素晴らしい作品を書いて下さいね」等と言おうとして、村田は彼女の望みが何かを分かっていて「何も言うな」と彼女を制する。
 また面白いのは、折見がガチンコで村田にぶつかり発破をかけても、まだ村田の本気には火がつかず、(本人は隠したがっていたが)折見の病気を知る事でそれは完成するのだ。
 初めてこのドラマを見た時は、前半はちょっと退屈な感じがしました。
 冥土カフェとか、ところどころで笑わせてくれているし、村田がオロオロする姿も愛着があるけど。
 再放送であらためてよく見ると、淡々と描かれているのに1つも無駄がなく、「生きること」「死について」というテーマが終始一貫している。
 テーマを絞るという大切さにもあらためて気付かされました。
 多分、飽きもせず繰り返し見る事でしょう。
 渡辺あやさんという脚本家から目が離せません。



 ぼくからの返信。



 そうなんですよね。あのマグカップ、こまやかで心憎い演出ですよね。しかも金魚の絵柄だし。
 一回目に観たときは、折見が敢然と村田を諌めるシーンで、「ことばづかいは丁寧なのに、鼻っ柱の強いひとだなあ。」と感じたけれど、二度目に観ると、それは彼女がすでに「死」を覚悟しているゆえの強さと分かります。
 つまり、「死」を覚悟しているがゆえに、「生」に対してひたむきであろうとしているのだと。
 いっぽうの村田は、病院で彼女と再会するまで、ずっと「生」と「死」との境を中途半端に彷徨ってるような。
 「冥土カフェ」も、一見するとユーモラスですが、やはりここにも、村田の「死」への偏りが出ている。
 今回のえみさんのコメントで、いちばん有り難かったのは、
「折見がガチンコで村田にぶつかり発破をかけても、まだ村田の本気には火がつかず、(本人は隠したがっていたが)折見の病気を知る事でそれは完成するのだ。」
 というところですね。ここはぼくも指摘したかったけど、本文中では書ききれなかったのです。
 「俺は連載の構想を練り始めていた。性懲りもなく、担当を折見に指名しようと思っていた。」というモノローグがあるので、「金魚娘」(蜜の罠)のあと、作品を書こうとしていることは確かなのですが、それが折見を満足させるくらいに熱の篭もったものになったどうかは微妙です。
 やはり病院で折見と再会し、あれだけの会話を交わして初めて、本当に村田の「生」に火が点いたのでしょう。
 (「タバコを吸う」ためには、もちろん、「火を点け」なくてはいけないわけで、その意味からも、ラストの台詞はあれしかないと思います。)
 花束をもらった折見が、「わたしいま、もてている気分でございます。」と言って涙にくれるのは、最後の最後に、やっと村田と心が通じたからですね。
 それは金魚のシーンで流した涙と鮮やかな好対照をなし、船上での村田の叫びを導いて、この見事なドラマを締め括るのでした。



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