ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

村上春樹がもっとも影響を受けた3冊。

2019-12-31 | 純文学って何?










 自らが翻訳した中央公論新社版のフィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(2006年)のあとがきで、村上さんはこう書いている。


「もし『これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ』と言われたら、考えるまでもなく答えは決まっている。この『グレート・ギャツビー』と、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』と、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』である。」(333ページ)


 ノーベル賞を取りざたされるほどの作家がここまで手の内を明かすのは珍しくて、げんに大江健三郎さんにせよ、川端康成にせよ、こんなに明快に影響関係を語ってはいない。村上春樹の研究者は恵まれている。かもしれない。
 名翻訳家でもある春樹さんはこのあとチャンドラー『ロング・グッドバイ』も訳して、ハヤカワ文庫から出ている。さすがにロシア語まではアレなんで、『カラマーゾフの兄弟』には手を付けてはおられぬが(ハルキ訳の「カラマーゾフ」や『悪霊』を読んでみたい。という妙な欲望が正直ぼくにはあるのだけども)。
 もちろん、誰であろうと3冊の本だけで作品を書くことはできない。まして作家になることはできない。ざっと思い巡らせても、すぐにカート・ヴォネガット、リチャード・ブローティガンの名が浮かぶ。『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』という初期の2作はこの2人の影響下で書かれた。ことにヴォネガットは大きい。
 さらにはフランツ・カフカという巨人もいる。偉くなってからはあまり公言されなくなったが、一時はエッセイの中でスティーブン・キングの名前もよく見かけた。あのユニークな不条理感とホラーテイストは、「カフカとキングの幸福(?)なマリアージュ」と呼んでみたい気もする。
 そんななかで、ことさら「ギャツビー」「グッドバイ」「カラマーゾフ」を挙げるんだから、これはたんなる好みや趣味の問題じゃないのだ。ハルキ文学の根源にかかわる話なのである。

 『もういちど村上春樹にご用心』(文春文庫)というハルキ論をもつ内田樹さんはこう書く。


村上春樹の系譜と構造
http://blog.tatsuru.com/2017/05/14_1806.html


(一部を抜粋して引用)


 『羊をめぐる冒険』を書いた時に、村上春樹はある「共通の基層」に触れた。それは世界文学の水脈のようなものだったのではないかと僕は思います。時代を超え、国境を越えて、滔々と流れている地下水流がある。それがさまざまな時代の、さまざまな作家たちを駆り立てて、物語を書かせてきた。それと同じ「水脈」を『羊をめぐる冒険』を書きつつある作家の鑿(のみ)は掘り当てた。

 『羊をめぐる冒険』の「本歌」は『ロング・グッドバイ』です。勘違いして欲しくないのですが、それは村上春樹がレイモンド・チャンドラーを「模倣した」ということではありません。物語を書いているうちに、登場人物たちがそのつどの状況で語るべき言葉を語り、なすべきことをなすという物語の必然性に従っていたら「そういう話」になってしまった。それだけこの物語構造は強い指南力を持っていたということです。


 『ロング・グッドバイ』の「訳者あとがき」で、この二作品(「グッドバイ」と「ギャツビー」)の相似について村上春樹は言及しています。
「僕はある時期から、この『ロング・グッドバイ』という作品は、ひょっとしてスコット・フィッツジェラルドの『グレード・ギャツビー』を下敷きにしているのではあるまいかという考えを抱き始めた。」(レイモンド・チャンドラー、『ロング・グッドバイ』、村上春樹訳、早川書房、2007年、547頁)

 村上はこの二人の作家の共通点として、アイルランド系であること、アルコールの問題を抱えていたこと、生計を立てるために映画ビジネスにかかわったこと、「どちらも自らの確かな文体を持った、優れた文章家だった。何はなくとも文章を書かずにはいられないというタイプの、生来の文筆家だった。いくぶん破滅的で、いくぶん感傷的な、そしてある場合には自己愛に向かいがちな傾向も持ち合わせており、どちらもやたらたくさん手紙を書き残した。そして何よりも、彼らはロマンスというものの力を信じていた。」(同書、547-548頁)といった気質的なものを列挙していますが、もちろんそれだけのはずがない。二つの物語には共通の構造があることも指摘しています。

 「そのような仮説を頭に置いて『ロング・グッドバイ』を読んでいくと、その小説には『グレート・ギャツビー』と重なり合う部分が少なからず認められる。テリー・レノックスをジェイ・ギャツビーとすれば、マーロウは言うまでもなく語り手のニック・キャラウェイに相当する。(……)ギャツビーもレノックスも、どちらもすでに生命をなくした美しい純粋な夢を(それらの死は結果的に、大きな血なまぐさい戦争によってもたらされたものだ)自らの中に抱え込んでいる。彼らの人生はその重い喪失感によって支配され、本来の流れを変えられてしまっている。そして結局は女の身代わりとなって死んでいくことになる。あるいは疑似的な死を迎えることになる。

 マーロウはテリー・レノックスの人格的な弱さを、その奥にある闇と、徳義的退廃をじゅうぶん承知の上で、それでも彼と友情を結ぶ。そして知らず知らずのうちに、彼の心はテリー・レノックスの心と深いところで結びついてしまう。」(同書、550-551頁)

 「主人公(語り手)はとくに求めもしないまま、一種の偶然の蓄積によって、いやおうなく宿命的にその深みにからめとられていくのだ。それではなぜ彼らはそのような深い思いに行き着くことになったのだろう? 言うまでもなく、彼ら(語り手たち)はそれぞれの対象(ギャツビーとテリー・レノックス)の中に、自らの分身を見出しているからだ。まるで微妙に歪んだ鏡の中に映った自分の像を見つめるように。そこには身をねじられるような種類の同一化があり、激しい嫌悪があり、そしてまた抗しがたい憧憬がある。」(同書、553頁)

 この解釈に僕は付け加えることはありません。でも、村上春樹はこの「語り手」と「対象」の鏡像関係がそのまま『羊をめぐる冒険』の「僕」と「鼠」のそれであることについては言及していません。故意の言い落としなのか、それとも気づいていないのか。たぶん、気づいていないのだと思います。でも、どちらであれ、それは『羊をめぐる冒険』という作品が世界文学の鉱脈に連なるものであるという文学史的事実を揺がすことではありません。
むしろ重要なのは、なぜこの物語的原型がさまざまな作家たちに「同じ物語」を書かせるのかというより本質的な問いの方です。

 これについての僕の解釈は、これらはどれも「少年期との訣別」を扱っているというものです。

 男たちは誰も人生のある時点で少年期との訣別を経験します。「通過儀礼」と呼ばれるそのプロセスを通り過ぎたあとに、男たちは自分がもう「少年」ではないこと、自分の中にかつてあった無垢で純良なもの、傷つきやすさ、信じやすさ、優しさ、無思慮といった資質が決定的に失われたことを知ります。それを切り捨てないと「大人の男」になれない。そういう決まりなのです。けれども、それは確かに自分の中にあった自分の生命の一部分です。それを切除した傷口からは血が流れ続け、傷跡の痛みは長く消えることがありません。ですから、男子の通過儀礼を持つ社会集団は「アドレッセンスの喪失」がもたらす苦痛を癒すための物語を用意しなければならない。それは「もう一人の自分」との訣別の物語です。弱く、透明で、はかなく、無垢で、傷つきやすい「もう一人の自分」と過ごした短く、輝かしく、心ときめく「夏休み」の後に、不意に永遠の訣別のときが到来する。それは外形的には友情とその終わりの物語ですけれど、本質的にはおのれ自身の穏やかで満ち足りた少年期と訣別し、成熟への階梯を登り始めた「元少年」たちの悔いと喪失感を癒すための自分自身との訣別の物語なのです。



 引用ここまで。

 つまり、物語論的にも主題論的にも、ハルキ文学は『グレード・ギャツビー』≒『ロング・グッドバイ』の強い影響下にある、というか、「同じ水脈」を分かちもっている。と内田さんはいっている。ぼくもそう思う。
 『カラマーゾフの兄弟』が等閑視されているけれど、あれは「神」との絡みが大きいし、登場人物も多いし、「少年期との訣別」という括りにも収まらず、論旨にそぐわないから内田氏も外したんだろう。「カラマーゾフ」については、春樹さんも別の場所で幾度か言及しているが、ドストエフスキーと村上春樹とをきっちりと関連付けて論じたエッセイをぼくはまだ読んだことがなく、自分でしっかり考えたこともない(本音をいうと、どうみてもドスト氏のほうがハルキさんより深いよな……との思いが拭えず、なかなか真剣に考える気になれぬのだが)。
 これはあくまで1982(昭和57)年に出た『羊をめぐる冒険』をめぐる話であって、そのあともちろん村上文学はさらなる発展を遂げ、広がりと厚みを増してはいくんだけれど、「おのれ自身の穏やかで満ち足りた少年期と訣別し、成熟への階梯を登り始めた「元少年」たちの悔いと喪失感を癒すための自分自身との訣別の物語」という基幹のモチーフは変わっていないとぼく個人は思う。
 『海辺のカフカ』(2002年)『1Q84』(2009~2010年)においてはここに「父殺し」「《治癒者》としての母性(女性)」などのエディプス的なテーマが絡まり、世界文学の伝統へつながる普遍性がいっそう高まっていく(『騎士団長殺し』は未読です)のだけれど、それでもやっぱり、ハルキ文学の根底にあるのは「少年期との訣別」にまつわる透明で切ない哀しみであって、小説好きの中にも「ハルキだけはちょっとなあ……。」と仰る方が少なくないのはそのせいもあるんじゃないか。
 だからぼくとしては、「3冊」のうちで、20世紀アメリカを代表する2人の作家のものではなく、あの19世紀ロシアの大作家の作品による影響こそが、もっともっとハルキ文学に顕現してくれないものかと願う。春樹さんの訳した『カラマーゾフの兄弟』は読めずとも、「村上春樹の書いたカラマーゾフの兄弟」をこそ読んでみたいと願ってるのだ。


おまけ
 「WIRED」による最新インタビュー
2020.01.02 THU 18:00
村上春樹、井戸の底の世界を語る:The Underground Worlds of Haruki Murakami



2 コメント

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akiさんへのご返事 (eminus)
2019-12-31 23:37:29
 はい。たぶん……お呼びしました(笑)。
 知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。
 いい言葉ですね。胸に沁みます。
 じつは、akiさんからのコメントとほぼ同時に、当のブログをやっておられる方からコメントを頂きました。
 eminusというハンドルネームから、ここを探し当ててくださったそうです。
 結論から言いますと、「コメント削除」は完全なるぼくの勘違いで、ごていねいな返信コメントを付けて下さっていたのです。
 なんたるそそっかしさか!と、自分を叱りつけたい気分でおります。
 その方は、この記事を読んで、たいへん恐縮しておられました。「こちらこそ、大みそかの忙しい時に余計なお手間と心労をおかけして……」と、ひたすら恥じ入っているところです。
 そういう次第ですので、この記事の前半部分は取り急ぎ削りました。ですので、akiさんからのこのコメントも公開せず、その方からのコメントと共に、wordに移しておきます。今後とも、自戒を込めて末永く保存しておく所存です。
 今年もまた、惑って、憂いて、懼れてばかりの一年でしたが、みなさんからの温かいコメントに助けられました。
 その方のブログのアドレスを貼っておきましょう。あくまで「物語論」の一環としてやっているぼくとは異なり、「プリキュア愛」にあふれる緻密な考察が繰り広げられています。
 よいお年をお迎えください。

金色の昼下がり
https://www.konjikiblog.com/



 







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謹賀新年 (aki)
2020-01-01 00:44:21
 明けましておめでとうございます。
 ご返事を拝見して、eminuさんご自身はひたすら恥じ入っていらっしゃるでしょうが、私個人としては良かったな、と感じました。
 「この人なら・・・・」と見込んだ人が予想外の人でがっかりするより、自分の想い違いだった方がずっといいと思います。後で笑い話にできますからね。

 そんなわけでご返事のご主旨、了解しました。
 私も惑いまくり、憂えまくり、懼れまくりで失敗しまくりですが、eminusさんのご寛容に助けられております。次の記事も楽しみにお待ちしますね。

 それでは、改めまして。今年もよろしくお願いします。(^^)
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