ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

『スタートゥインクル☆プリキュア』第48話「想いを重ねて!闇を照らす希望の星☆」①最終バトル

2020-01-19 | プリキュア・シリーズ

 このところのスタプリがむやみに面白いんで、手元にあるジョーゼフ・キャンベルの『神話の力』(ハヤカワ文庫)を久方ぶりに読み返してるんだけど、いかに自分が、当ブログにおいて「神話」という用語(概念)を軽率に濫用していたか……をあらためて思い知って粛然たる気分になりましたね。やはり何だかんだいっても「近代文学」が沁みついた人間だから、「神話」をどっかで侮ってる面があったんだろうね。あきまへんなあ。


 「神話とはけっして絵空事でも、たんなる古いお話でもなく、ひとが成長するために不可欠な、いわば内面の儀式のようなもの。だから現代人にとっても……いや現代人にとってこそ重要なのだ。」とキャンベルさんは強調する。若い頃は「そりゃ神話学者なんだからそれくらい言うわな。」くらいの感じで読み流してたけど、今はつくづく「あーほんとにそうだなー。」と思いますね。


 あと、「神話」と「民話」とは違うんだよ、ということもキャンベルさんは言っている。「民話」は娯楽のために語られるが、「神話」はじっさいに精神的な教化を目的としている。裏返していうと、それが語られること/それを聞くことによってぼくたちが深いところで教化されるほどのものでなければ、「神話」と呼ぶに値しないわけ。いま世間にはファンタジーが溢れかえってて、映画もアニメも「むしろファンタジーしかない。」といいたいほどの状況だけど、そのなかで、たんに娯楽ではない真の意味での「神話」と呼べるレベルに達してるのがどれくらいあるのかはギモンですよね。


 そういう意味では、『スタートゥインクル☆プリキュア』だって、「神話」と呼べるまでの水準に届いてるかどうかは難しい。とはいえそれが、「神話的なファンタジー」なのは確かだし、とても優れた作品であることも間違いないでしょう。


 『神話の力』の中でも、「12という数字は調和がとれているが、そこに1が加わって13になることで世界が再創造へと動き出す。」とか、「女神はよく蛇を伴った姿で描かれる。」とか、示唆に富むフレーズがいくつもあってね。本作のシリーズ構成・メイン脚本の村山功さんがこの本に目を通してるかどうかは知らないし、読んでてもちっともフシギじゃないけど、もし読んでおられなかったとしても、それはそれで驚きませんね。そこがすなわち「物語の力」ってもんなんだ。そもそも「星座」をモチーフにした時点で、否も応もなくユング的なイメージは全編に瀰漫してるわけでさ。




☆☆☆☆☆




 へびつかい姫の闇の力が解放され、全宇宙が暗黒に呑まれて、四囲に何もない虚無のただなかに5人で放り出されたあと、「プリンセスたちから貸し与えられたものではない」自分たちのイマジネーションの力で再変身を果たすのは予想どおりだったけど、そこでひかるが歌いだし、ララ、ついでえれな、まどか、ユニが唱和してハーモニーを奏でるっていう演出までは読めませんでした。シリーズで初めて変身シーンに歌を導入したのはこの時のためだったのかな、と思えるくらいの名シーンになりましたね。




トゥインクル・ブック。思えばすべては、(幼い日に遼じいから貰った)この一冊のノートに詰まったひかるの「イマジネーションの力」から始まったのだ


フワはちゃんとここにいる






 「歌」は大事だよね。たんに演出ってだけで済ませちゃいけないのかな。歌はメロディーとリズムとを伴っていて、ここではさらにハーモニーも重なる。それは世界を震わせるもので、「生命」そのものの胎動にかかわっているのかもしれない。


☆☆☆☆☆


 さて。プリキュアシリーズはバトルアクションであると同時に対話劇でもある。つまり物理バトルの裏では観念論争が繰り広げられてる。とぼくは以前に書いたけど、とうぜん今話もプリキュア勢は、ラスボスたるへびつかい姫と(物理で激しくやりあいながら)対話を交わします。ここでは5人の思いがひとつになってるんで、ひとつの台詞を5人がそれぞれの言葉で繋いでいくわけだけど……。


 アクションは文字に起こしきれぬので、台詞だけを抜き出しましょう。


へび「ふん。おまえたちのイマジネーションは、所詮プリンセスたちの借り物。……そんなものでは!我には勝てぬ。」
ひかる「違うよーっ!」
へび「なにが違う。」
ララ「もとは、プリンセスの力かもしれないルン。」
えれな「でも今は、あたしたちのイマジネーションなんだ!」
へび「たわけ!」
まどか「わたくしたちは、自分たちで考え、思いを巡らせ、」
ユニ「イマジネーションを、育てていったニャン!」
ひかる「だから、私たちのイマジネーションなんだ! (とびっきりのスターパンチを打つ)」
へび(さらに禍々しき形相に。もはや蛇遣いというより自身が蛇神と化した格好だ)「すべてのイマジネーションは、我の闇に消したはずなのに。…………私だけの、イマジネーション……だと? その独りよがりが、ノットレイダーを生んだのだ。不完全なイマジネーションなど、我の宇宙にはいらぬ。そんなものが蔓延るから、宇宙は歪むのだ。我の宇宙こそが美しい。我の宇宙こそが、完全なのだ!」
ひかる「……そんなの、つまんないじゃん!」
ララ「そうルン。みんな、違うイマジネーションを持ってる。だから、だから宇宙は……楽しいルン!」
ユニ「それがあるから、苦しむこともあるニャン!」
えれな「でも、だから、わかりあえた時の笑顔が輝く!」
まどか「イマジネーションがあるから、わたくしたちは未来を創造できるんです!」

  5人の力を合わせた総攻撃に、さすがの蛇姫も押されていく。

ひかる「私は知りたい、あなたの……イマジネーションも……。」
へび「なにを……戯れ言を……消え失せろーっ。」
ひかる「イマジネーションはさ、消すよりも、星みたく、たっくさん輝いていたほうが、……キラやば~、だよ。」
へび「(息を飲み)……なんだ……この……光は。」
 暗黒に呑まれたはずの宇宙に、これまで作中に出てきた人々の数多の輝きが「あまねく」満ちる。演劇用語でいうところの「コロス」(コーラスの語源)である。
コロス「プリキュア、プリキュア」
フワ(みんなの想い、重ねるフワ。)
ひかる「はっ。 フワ……うん!」
フワ(イマジネーションの輝き。)
5人「想いを重ねて。プリキュア、スタートゥインクル・イマジネーション!」


 いや迫力たっぷりのバトルシーンだったけど、へびつかいさん、やはり「唯一神」になる気でいたみたいですね。「多様性の尊重」の対極として措定されてるわけだ。わかりやすい。ただ、「蛇神」本来のありようから見ると、ずいぶん単純化・矮小化されちゃいましたね。そこは致し方ないか。


(中略)




 戦い済んで、宇宙全域に流星が降り注ぎ……。




へびつかい姫「なぜだ……なぜ、大いなる闇だけを消し、我を消さなかった?」
ひかる「(笑って)消すわけないじゃん。」
おうし座のプリンセス「彼女たちのイマジネーションは、われわれの想像をはるかに超えて育ちました。へびつかい座のプリンセス、私たちと共に、彼女たちを見守りませんか?」
へびつかい姫「今さら戻れぬ。プリキュア。では見せてみろ。キラやば、な世界とやらを。」
ひかる「うん。」
へびつかい姫「もしその世界が誤っていれば、我は再び現れよう。」


 創造主相手でもタメ口を通し、ついには「キラやば~」思想に染めてしまったひかるはほとほと立派だけども、ここで「もしその世界が誤っていれば、我は再び現れよう。」と宣言して去っていく蛇姫が好きだなあ。2015年の『Go! プリンセスプリキュア』でも、絶望の権化たるラスボスのクローズと、希望を体現するキュアフローラ・春野はるかとが、1年にわたる闘争および問答の果てに「希望と絶望とは表裏一体。すなわち自分たちは互いが互いの影。」であることに気づいて再会を約して別れた。あれがいまだにぼくは忘れられないんだけど、それを継ぐようなシーンとなりましたね。









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