今や東映アニメーションの看板コンテンツとなったプリキュアシリーズ。その最新作(もうすぐ終わるが)『HUGっと!プリキュア』は、15年に及ぶ歴史のなかで初めて「いじめ」を取り上げた。
ぼくはテレビを見ないんだけど、このアニメだけは気に入って欠かさず付き合っていた。主人公の野乃はなは、明るくて優しい中2の娘さんだが、かつてクラスで「ハブられ」て、転校を余儀なくされた辛い過去をもつ。
そのはなが、新天地で得た朋友たちと共に、自分を転校に追い込んだ面々と再会するエピソードがあった。そのとき彼女は、いっさい、怒りの感情を表さなかった。終始笑顔で応接していた。4人の朋友の中には、かなり義侠心の強い子もいたのだが、当人がそんななのに自分がでしゃばるのはおかしいってことなのか、やっぱりずっとにこにこしていた。
見ていて納得いかなかった。相手の連中は詫びるどころか、後ろめたそうな素振りさえ見せない。どうも、自分たちのせいではなが転校したことすら自覚してないようなのである。これはちょっと、子ども向けアニメの描き方としてどうなんだろう、と思った。
「HUGプリ」のテーマは「時間を止めるな。つねに前を向き、前を目指せ」であって、いじめに対する糾弾が目的ではない。はなが本当の友達を得て、「過去」と訣別し、「前へと進む」力を獲得したのならそれでいい。そういう趣旨だ。
しかしこれでは、向こうの「罪」があやふやになったままではないか。
とはいえ「赦し」なんてのは、それ自体がものすごく深い「物語」を必要とするテーマである。片手間に扱えるものではない。だからHUGプリの制作陣(はっきりと名前を出せば坪田文さんだが)は、そこのところを回避した。そんな言い方もできる。
「だったら初めから『いじめ』なんて重たい題材を導入するな。」という厳しい意見もネットで見た。ぼく自身は、プロの脚本家に対してそこまでいうほどの自信はないが、釈然としなかったのは事実である。
だいたい、そんなに物分かりよく笑ってばかりで、本当に「過去」と訣別できるのだろうか。どこかでいちど、感情を迸らせる必要があるんじゃないか。
プリキュアはまあ、児童向けコンテンツだから仕方ないとして、もっとこう、すかっとする作品はないものか。
そんな折、「HUGプリ」と『宇宙よりも遠い場所』とを比較した意見をネットで見つけた。それが「よりもい」との出会いであった。昨年(2018年)9月末のことだ。プライムビデオで見て夢中になり、ディスクも買った。それで今ではこのありさまである。
視聴対象年齢層が違うにもかかわらず、「HUGプリ」と「よりもい」には少なからぬ共通点がある。友情。向日性。未来志向。これはまあ、どちらも平成ニホンの生んだ「王道のティーンエイジャー物語」ってことで、べつに不思議じゃない。はっきりいって、物語なんてみな根本のところは同一なのだ。
ただ、主人公キャラの「前髪ぱっつん切りすぎた系」ヘアスタイルなど、偶然の一致による共通点も多い。「いじめ」問題もそのひとつだが、これに対して「よりもい」は、まるで正反対といえる回答を示した。それが11話のこのシーンだ。これをみてようやくぼくは溜飲を下げた。これが見たかったのだ、と思った。
シーンがかわって大晦日。いよいよ中継当日である。弓子と敏夫の、年越しソバ作りをめぐる夫婦漫才(?)を軽くはさんで、カメラは臨時の特設中継ルームへ。ま、そんなたいそうなもんじゃない。今話の冒頭ででたあの部屋だ。
モニターの向こうから、「じゃあ、あと10分で本番です」とアナウンサーの声がきこえ、「わかりましたー」と結月が答える。「結局日焼け治らなかった……」とキマリが泣きを入れ、結月が「南極エンジョイしてる証ですよ」と慰める。司会進行役ということだろう、この2人は奥のテーブルにいる。
手前では、日向と報瀬が並んで壁際に立つ。
「なあ……」
「ん?」
「許したらさ、楽になると思うか?」
「許したい?」
「それで私が楽になるならな。けど、それでホッとしてるあいつらの顔を想像すると腹は立つな」
ルンドボークスヘッタでのことがなかったら、日向もこの場でここまで内面を吐露することはなかったろう。おそらくこのまま「謝罪」を受けて、「……いいよもう、済んだことだし……」などと作り笑顔で答える羽目になったはずだ。それではだめなのだ。「過去」と訣別できない。この先もずっと、ずるずると引きずることになってしまう
モニターの向こうの3人。カメラ映りを気にしている。どうみても本気で詫びる態度ではない(あの朝のめぐっちゃんと比べてみれば明らかだ)。日向が有名になったので、自分たちに箔をつけるために今回の件をもちかけてきたとしか思えない。この映像は日向の目にも報瀬の目にも入っている。このことは大きかったと思う
「ざけんな?(って言いたい?)」
「あ……」
「……だな。ちっちゃいなー私も」
スイッチОN
いっぽう、この人はこの時点ではまだぜんぜんノンキである
「こちら午前9時です。ニッポンとの時差6時間……」
つかつか、と、モニターの前に歩み寄り、「始まる前に一つだけいいですか」
キマリ「報瀬ちゃん?」
3人「んー?」
「悪いけど、三宅日向にもう関わらないでくれませんか」
「あ……報瀬」
♬挿入歌「宇宙(そら)を見上げて」
「あなたたちは、日向が学校やめて、辛くて、苦しくて、あなたたちのこと恨んでると思っていたかもしれない。毎日部活のこと思い出して、泣いてると思っていたかもしれない」
あっけにとられる大人たち
「けど、けど……」
ここで報瀬が口ごもってしまうのは、口下手だとか上がり症だからってことじゃない。彼女じしんがまだ「過去」に囚われており、「闇」の側に半ば身を置いているからだ。
だからここは、つねに日向の「日向」だけを見てきた「コンパサー」が立ち上がらねばならない。この人の胸の中には、明るくて元気いっぱいで、いつも笑っている日向の姿だけがあるのだから。
(だん!机を叩いて立ち上がる音)
「けど、そんなことないから! 日向ちゃんは今、私たちとサイックォーに楽しくて、チョー充実した、そこにいたら絶対できないような旅をしてるの!」
これに勇気づけられて自らも前を向き
「日向は、もうとっくに前を向いて、もうとっくに歩き出しているから。私たちと一緒に踏み出しているから!」
「おい報瀬……」
「いいじゃないですか! 友情じゃないですか!」
報瀬が敢然と立ち向かい(ただし初めは俯きながら)、しかし口ごもり、キマリが報瀬のやろうとしていることを瞬時に理解して援護射撃をし、報瀬が顔を上げて前を向き、結月が飛びついて日向を抱きしめる(日向が4人のなかでいちばん小柄という設定が効いている)。運動論的というか、記号論的というか、この一連の流れはどんな活劇映画のアクションシーンよりスリリングで、何回みても見飽きることがない。
そして。
「私は日向と違って性格わるいからはっきり言う。あなたたちはそのままモヤモヤした気持ちを引きずって生きていきなよ。ひとを傷つけて苦しめたんだよ。そのくらい抱えて生きていきなよ。それが人を傷つけた代償だよ」
「私の友達を傷つけた代償だよ!」
「報瀬ぇ……」
子供のように泣きじゃくる。決壊し、解放され、走り出す。澱んだ水が一気に流れ出していく
「いまさら何よ……ざけんなよ」
このかん、モニターの向こうの3人はいっさい映らない。表情も態度もみえない。ひょっとしたら、モニターの前で立ちすくんでいるのはぼくたち自身なのかもしれない。そんなことを思ったりもする。「汝らのうち、罪なき者まず石をなげうて。」というキリストのことばを思い出したりしてしまうのである。けれど、もしそうだったとしても、これくらい爽快で胸のすくシークエンスってものを、ぼくはよそで見た記憶がない。ぼくにとってはここが、全編を通じてのベスト2シーンになる。