喪の仕事。
死者を悼むこと。死者を弔うこと。まだ自分のなかで亡くなっていない死者を、きちんと葬ってあげること。
内田樹さんは、『街場の現代思想』(文春文庫)のなかでこういっている。
「人間の人類学的定義とは、『死者の声が聞こえる動物』ということなのである。そして、人間性にかかわるすべてはこの本性から派生している。」
物語を楽しむ、物語を欲する、物語をつくる。もちろんこれも「人間性にかかわるすべて」のひとつだ(しかもけっこうでかい比重を占めてると思う)。だとすれば、そもそも人類が「物語」をかたり=つくりはじめた始原から、「喪の仕事」はもっとも根源のテーマだったはずだ。
「物語の出で来はじめの祖(おや)」といわれる『竹取物語』。月に帰った(帰らされた)かぐや姫は、竹取の翁と媼にとっては、花の盛りで天に召された娘のようなものだろう。年老いて諦めていた頃にやっと授かった娘が、美しく成長したとたん、わけのわからぬ力によって、ふいに目の前から奪い去られてしまう。
翁・嫗(おうな)、血の涙を流して惑(まど)へど、かひ(甲斐)なし。あの書きおきし文を読みて聞かせけれど、「何せむにか命も惜(お)しからん。誰(た)がためにか何事も用なし。」とて、薬も食はず、やがて起きも上がらで、病み伏せり。
お爺さんとお婆さんは、血の涙を流すくらいに取り乱したが、どうしようもない。かぐや姫が残していった手紙を読み聞かせたが、「何をしたってしょうがない。もう命など惜しくもない。誰のために生きるというのか。何もいらん」と言って、薬も飲まず、やがて病み伏せって、起き上がらない。
悲しみにすっぽり呑み込まれてしまって、もはや生きる気力もない。気の毒なことだが、これは「喪の仕事」に失敗した……というか、「喪の仕事」に取り掛かることすら叶わなかった事例である。やはり高齢ということが大きいのだろう。
日本語で書かれた古いテキストをもうひとつ。『古事記』では、先立った愛妻イザナミを求めてイザナギが黄泉の国へと降りていく。いわゆる「冥界下り」のモティーフで、ギリシア神話ではオルフェウスが有名だが、オルフェウスは一介の吟遊詩人。イザナギは最初の神である。これほどの大物が自ら冥界へと下っていくのは世界の神話の中でも珍しいと思う。
冥界下りは、「喪の仕事」をわかりやすくストーリー化したものだとぼくは考えている。イザナギのばあい、そこで何が起こったのかはもうよくご存じであろう。あまりにも壮絶で、戦慄的といってもいい。「喪の仕事」は、時としてそれくらい大変な事なのだ。そして、イザナギが(単独で)主神アマテラスを生み落とすのは、黄泉の国から地上に逃げ帰ったあとである。
このように、日本語で書かれたもっとも古い「物語」においても、「喪の仕事」は大きな役割を果たす。それから現代に至るまで、世界中で星の数ほどの物語が生まれては消え、あるものは残り、あるものは後世に強い影響を与え、今もなお与えつづけてもいる。「物語」は根底のところに不変=普遍なるものを孕みつつ、人類とともに変容し、成長を続けてやまない何物かだと思う。
そして、そんな無数の物語のうち、多くの人の心を揺るがし、深い感銘を授けるものは、大なり小なり、なんらかのかたちで「喪の仕事」を扱っている。
だとしたら、もし仮に、ここにひとつの作品があって(それが小説であるかマンガであるか映画であるかドラマであるかアニメであるかは、もうほとんど関係ないとぼくは思っているのだが)、それが「喪の仕事」をもっとも「現代的な」スタイルで表現するのに成功したとするならば、そういえるだけの表現に達しえていたならば、やっぱりそれは、「現代」における最高の作品……少なくとも最高の作品のひとつとは呼べるはずだろう。
それは、まるで夢のようで
あれ? 醒めない、醒めないぞって思っていて……
それがいつまでも続いて……
……まだ……続いている