あらためておさらいするならば、結月の抱える課題とは、「友達がほしい」ということだった。
コトバにすればまことに単純ながら、そもそも「友達」ってのがどういうものか実感できないんだからこの人のばあい厄介なのだ。
最初にファミレスで話した時はまだ、キマリたち3人だって、「ただ、同じところに向かおうとしているだけ。今のところは。……ねー」「ね」「ねー」などと言い合っていた。
しかしそのあと、「4人で南極に行く」と心を決め、まあ、わちゃわちゃしながら、荒波を越えてここまで来た。ふつうはまあ、これはもう「友達」というか「親友」であろう。
ところがそれがわからない。あげく「友達誓約書」なんてのを持ち出してきて、これはちょっとシャレにならんぞということで、キマリも泣いた。
しかし、あらかじめ準備していたバースデーケーキを渡して、みんなでお祝いしたことで、カチコチだった心の一部がようやく溶けた。
いまの自分を取り巻いてるもの……キマリ、報瀬、日向と4人でいるときのあたたかさ、ときめき、わちゃわちゃ感……といったものこそが「友情」であり、そんな体感をもたらしてくれる相手こそが「友達」なんだってことがわかったわけだ。
子どもの頃からきょうだいと共に育った人や、根っから外向的な人には「なんのこっちゃ」という感じかもしれぬが、結月みたいな事例はじっさいにある。発達心理学からみても、けして絵空事ではない。
ともあれ結月は、「友達って何ですか?」という問いの答を得た。
ただ、「わかった」ってことと、それを「表現できる」ってこととはまた別だ。
第10話「パーシャル友情」のラストパートは、友達ってものを体得した結月が、それをキマリたちに向けて表現するくだりだ。時間にすれば1分ちょっとだけれど、「出会い回」である第3話と連動して、「南極友情物語(結月編)」をしめくくる秀逸なエピソードである。
翌朝。
屋外で作業する隊員たちに、おやつの差し入れをもっていく結月(氷見は直立不動で受け取り、恭しく正座して食す。たいへん純情な人だ)。
腰かけてキマリにラインで文を打つ。「おはようござ」まで打って消し、「ありがとうございます」と打ってまた消す。
そこで場面がかわって、屋内でゴミ処理作業をする3人。
日向「でもさあ、ああやって突き詰めて考えるとよくわからないよな」
報瀬「友達?」
キマリ「わあー、焼却するとこんなに少なくなるんだね」
報瀬「これでも1年分のゴミを持って帰ると山のようになるらしいけど」
キマリのスマホに、ぴろりん、と着信音がして、
すぐにまた、ぽこ、と音がして、
「わかった! 友達ってたぶん、ひらがな一文字だ!」
「焼却すると(凝縮すると)こんなに少なくなる」「でも1年分(長い時間)積み重ねれば山のようになる」……南極での生活のもようを織り込みながら、例によって的確な「暗喩」になっている。
はたして結月は、初めてファミレスでみんなと話したあの時のことを思い出していたのだろうか。あるいは、意識の底に沈む「ね」の記憶がうっすらと働きかけたんだろうか。
キマリがすぐに返事をかえし、
すぐにまた結月から返事が。
「ね」「ね」「ね」と、3つ並んだこの即レス画面が、第10話「パーシャル友情」のラストカットになる。