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布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

平家落人伝説の里、日光市湯西川

2008-05-30 | 歴史
新緑の候、日光市の一部となった栃木県の山間の旧栗山村の平家伝説を巡る小さな旅を先般してきました。前回は、6月上旬に開催される平家大祭を中心とした紹介でしたが、今回は、平家落人伝説の里を構成する神社、寺院、資料館等を巡る簡単な湯西川の紹介です。
文治元年(1185年)、壇ノ浦の合戦に敗れた平家の一部が、日本海側を落ち延びて、安住の地を求め、山深い奥地へと入り、源氏の追討の手から逃れ、身を隠したという、いわゆる落人の里は、能登半島はじめ、栃木県の那須塩原やここ湯西川にもあります。
源頼朝が、平家のなさけで生きながらえたからこそ、平家追討が出来た訳ですが、頼朝はこの平家の二の舞を踏まないため、徹底した平家一門の男子狩りを実施し、平家一門の根絶やしを試みました。ただ、女性に関してはゆるやかで、例えば、安徳天皇の母であり、高倉天皇の后であった、平清盛の娘、建礼門院徳子は、生き延びさせております。
だから、鎌倉時代以降の多くの武将や為政者は、その先祖に、藤原若しくは源氏を名乗り、先祖を平家と名乗るものは殆どいません。ここに、平家伝説を訪ねる旅というのは、訪ねるものにとって、実にせつなく、もの悲しいものとなってしまうのです。そういう関係からかでしょうか、落人には後世に伝えられるべき平家自体に関する歴史的遺産が多くはないと言えるのではないでしょうか?
今回の湯西川の旅についても、言い伝えはあるが、史実としてきちんと確認できる文化財的歴史遺物というのは正直、あまり見受けられなかったとしかいいようがない。多くは、伝説や言い伝えとしてであり、残されている遺物も壮大で、かつ、豪華なものは全く見受けられない。ここに平家落人伝説の里のもの悲しさがあるが、これが、全国の平家落人伝説の里の魅力でもあり、定めかもしれない。私も訪れたことがある能登の上と下の時国家みたく、脈々と残された家系と建物がきちんと残り、公開されているのは、珍しいと言えるかもしれない。
ここ湯西川や川俣では、残念ながら殆ど歴史の中に埋れてしまったようで、平家塚、七盛塚なんかは、その典型でしょう。
平家落人民俗資料館には、落人の末裔といわれる村の家々に長い間眠っていた平家ゆかりの鎧兜、太刀など貴重な資料品々が集められ展示してあるが、源平の戦いを描いた「平治物語絵巻」にしても本物なら国宝であろうがーーー。『平治物語』にもとづいてつくられた絵巻であるこの「平治物語絵詞」は、十数巻あったらしいが,現存するのは,「三条殿夜討の巻」(ボストン美術館蔵),「信西の巻」(静嘉堂文庫蔵),「六波羅行幸の巻」(東京国立博物館蔵)の完本3巻と,諸家に分蔵される「六波羅合戦の巻」の断巻,および少数の模本のみとのこと。
また、12世紀末の創建といわれ、湯西川平家一門の守護神と言われている高房(忠実のこと?)神社もあることはあります。この神社は、湯西川の上流と下流にそれぞれありますが、私も訪れてみましたが、いつの年代からあるかは史実的には定かではありません。 さらに、平家落人の菩提寺という仏照山慈光寺とて、江戸初期に建てられた京都知恩院の末寺といわれています。
先般紹介した平家大祭が行なわれる平家の里は、1985年に建てられた9棟の復元建物で、歴史的価値のあるものは、見受けられませんでした。確かに、往時の落人の生活を忍ぶようには、いろいろ復元して作られてはいますが。一番奥には、赤間神社がありましたが、これとて昔から会ったものでなく、この平家の里開設に伴い祀られた神社です。
この地には、平重盛の六男平忠実をルーツとする系統が続いていると言われますが、忠実直系は、先に述べたような理由であり得ないでしょうね。しょせん、この世の中は、盛者必衰を理をあらわす世界なのですから、心の中で、往時を忍び、栄華盛衰に涙する以外に、ある意味で落人伝説を巡る旅は、ないのかもしれませんね。
とはいえ、新緑の中、いにしえの昔よりとうとうと流れる湯西川を眺めながら、温泉にとっぷりとつかり、山間のもてましの食事に舌鼓した時間はなんとも言えない桃源郷の境地だったのはいうまでもありません。そういう意味では、大変楽しい癒しのちいさな旅でしたが、夕食を食べに行く時に渡った宿泊した伴久萬久旅館のかずら橋もいつまでも心に残るでしょう。
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