パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

大晦日雑感

2006-12-31 21:50:42 | Weblog
 大晦日。珈琲館でパン、茹で卵、食べ放題のモーニング。
 大晦日で、早々と休みのお店が多いせいか、店内満員で、いつもは全国紙、スポーツ紙合わせて15、6種類の新聞が用意されているのだが、ほとんどお客さんが自分の席にもっていってしまって、二、三紙しかない。
 そこで、たいして見たくもないスポーツ紙を一つゲットして読んでいると、やがてラックには一つもなくなってしまった。しょうがないなーと思いながら、スポーツ紙に視線を戻して、再度読みはじめると、一人のお客さんがレジに向かい、ついでに新聞紙をラックの所定の位置に戻した。しかし、それもスポーツ紙らしかったのでそのまま見過ごしていると、私の隣に座っていた60過ぎの爺さんがパッと立ち上がり、それをとって自分の席に戻った。見ると自分の席にはすでに新聞がひろげてある。では、その新聞を戻すかなと思ったら、この爺いは、新しい新聞を脇に挟んだまま、すでに置いてある新聞を読みはじめた。ラックに一つでも残っているのなら、この勝手な振る舞いもまあまあ許してやってもよいが、一つもないのだ。

 なんだ、このエゴイスト爺いは! こんなやつは、家に帰って息子とチャンネル争いをして刺し殺されてしまえばいいのだ、と心底、嫌になった。こういうやつに限って、今時の若い者はモラルがなってない、とか言うのだろう。(何故って、状況が見えていないからだ。)

 一昨日だが、クリント・イーストウッド主演兼監督の『センチメンタル・アドベンチャー』を見た。例によって、後半からしか見ていないのだが、カウボーイハットをかぶった中年男がギターをひきながら、ぼそぼそとカントリーを歌っている。クリント・イーストウッドによく似ているなと思ったが、彼が歌を歌う映画なんて知らなかったので、クリント・イーストウッドに似ている誰かだろうと思っていたが、話す声もクリント・イーストウッドによく似ている。
 半信半疑で見ていると、男は突然咳き込みだし、歌うのをやめてしまった。

 男は、幼い甥と二人で旅をしながら、オーディションを受けるために、やってきたのだが、結核にかかっていて、今回のオーディションが最後のチャンスだったのだ。
 安宿に戻って失意に沈んでいるところに、レコード会社の男が契約したいと言ってくる。もちろん、わずかの金でしかない。脇で聞いていた甥が、医者が無理だと言っていたではないかと制するが、男は死を覚悟で、それを受ける。
 レコーディング当日、男は20曲ほど歌い続けたが、最後に血を吐いてしまい、バックボーカルでハーモニーをつけていた一人が男の後を継いでレコーディングを終える。
 男は、その日、甥とかつての恋人(らしいが、最初から見てないのでよくわからない)に看取られて、安宿のベッドの上で死ぬ。

 という映画なのだが、最後のエンディングロールで、主演・監督がクリント・イーストウッドであることがわかった。

 しかし、見終わってから、タイトルがわからなくなってしまった。(『センチメンタルアドベンチャー』なんて阿呆なタイトル、誰が覚えられるかっての。)
 そこで、あちこち、「クリント・イーストウッド」をキーワードに探して、それが『センチメンタル……』であることが分かったのだが、これに言及していたとあるブログに、「これを中途半端なメルヘンと見るか、それとも悲劇と見るかで変わってくると思うが」と書いて、星一つ提供していた。
 バカヤロー、星一つはないだろう、と突っ込みつつ、でも、「メルヘン」という言葉は当たっていると思った。メルヘン、必ずしもハッピーエンドにあらず、というか、そうでない方が多いかもしれない。アンデルセンの『鈴の兵隊』なんか、涙なしでは読むことのできぬ、メルヘンだ。

 「鈴の兵隊さんは、炎にあかあかと照らされて、おそろしく熱くなったのを感じました。けれどもそれがほんとの火のせいなのか、それとも自分の胸に燃えている愛のためなのか、よくわかりませんでした……」

 こうして、暖炉の火の中でハート形の錫の塊になってしまう錫の兵隊さんは、たしかにアンデルセンの異常な程に肥大したナルシシズムの象徴かもしれないし、溶けた錫の塊がハート形だったりするところなんか、甘っちょろ過ぎるかもしれない。あるいは、ディケンズの『クリスマスキャロル』にしても、守銭奴のスクルージが最後に隣人愛にあっさり目覚めてしまうところなんか、読んでいて拍子抜けするくらいである。
 かく考えてくると、空っぽのラックには知らんぷりで、自分の手許に新聞紙を二つも三つも抱え込む爺いの「醜さ」が「公徳心」の原点にあるべきものはなんであるか、なんとなく見えてくるような気がする。
 それは、「美」である。「美」に対する観念が、「公徳心」の根っこにあるべきであること、それが大事なのだ。珈琲館の爺いが醜いのは、爺いの一生において、「美」に、遂に出会うことがなかったからである。「醜い」というのは、文字通りの意味なのだ。スクルージが最後に「愛」に目覚めたのは、彼の心が、かつて「美」を知っていたからだ。

 なんか、いきなり「美」が出てきてしまって自分でも戸惑っているが、大晦日ならではかも。以上大晦日雑感。

昨日と今日の報告

2006-12-29 21:37:05 | Weblog
 「月光」は、定期購読されている方々には、すべてお送りしました。(三年前のデータなので、どこまで有効か、いまいち不安が残るが)

 本屋さんについては、今のところ、新宿の模索舎だけです。(中野のトリオにも連絡したが、明日から正月三日まで休みなのだそうで、店頭に並ぶのはそれからになります)
 あと、新宿のジュンク堂と紀伊国屋、それから、アマゾンにももっていったけれど、いろいろ手続があるので、こちらも来年早々から並ぶことになりそう、というか、そうなる。

 アマゾンは「e託」というやつで、すべてウェブ経由で進み、担当者と名刺交換というようなこともなく、登録も終わったのだけれど、HPを見てもまだアップはされていないようだ。いまいち、e託とマーケットプレイスとの違いがよくわからず。(しかし、「e託」って(笑)……かの「E電」は案外先見の明のあった命名だったのだろうか)

 ジュンク堂や紀伊国屋へは、昨日、2時過ぎ頃から行ったのだが、担当者を探したり、いろいろあちこち回されたりして、ハッと気がついたら、夜7時を過ぎていた。以前、出版の営業は、どんなに頑張っても一日に5店くらいが限度だと聞いた事がある。その時は、取次口座があって、なおかつ書店の担当さんとも顔見知りだったら、もう少しこなせるのではないかと思っていたが、いや、たしかに、一日5軒が限度だ。(しかし、もう少し合理的な配本方法はないのだろうか……。)

 全日本フィギュアを見る。

 浅田真央はすごいとしか言い様がない。ショートにおける完璧さがフリーの4分間でも実現したら、とてつもないことになりそうだ。安藤も肩の痛みをこらえての演技で女をあげた(?)し、見ごたえ満点。
 しかし、国分太一はすっかりポジションが決まってしまったみたいだ。「メントレ」でも、何故か、国分のみが美味しい思いをしているし、不思議である。(別に、だから嫌いだとかそういうことはないけれど)

 とりあえず、明日も又発送作業だ。今度は、すっかり迷惑をかけた著者関係なので、言い訳の文章を考えなければならない。

姉歯裁判について

2006-12-27 22:37:20 | Weblog
 「耐震偽装疑惑」の真相は、結局、姉歯がバブル後の収入減を補うために、違法設計を編み出し、それを工事会社、マンション販売業者が違法を承知で受け入れた、故に姉歯の単独犯行である、ということらしいが、ホントかね~。姉歯が、そんなに弁が立つとも思えないのだが……と思って新聞記事を探したら、朝日新聞の社会面で、法定での裁判官とのやりとりが一部、書かれていて、施工者側からの、「建築費用をを下げたい」というプレッシャーがあったという姉歯の言い分に裁判官は、「業者がコストを下げたいと思うのは当然である」と言ったそうだ。
 なんじゃ、こりゃー!である。「小泉改革」以降の2chの質の低下ははなはだしいものがあるが、この裁判官の発言は昨今の2chに巣食う「改革厨」発言と同レベルではないか。(この判事は、姉歯が、「生活が苦しくて……」と言ったことに対し、「ベンツを乗り回しているではないか」と指摘したらしい。これに姉歯は、「いや、ローンです」と答えたとか。いやはや、これが「法廷」の言葉とは情けなくて涙が出る。この裁判官は本当に2chに書き込みしてる可能性は高いぞ、とか思いたくなる)

 後、いわゆる「姉歯物件」の実際の耐震強度なのだが、姉歯は、法廷で「震度5まで耐えた」と発言したそうだ。どうやら、このような「抗弁」が裁判官の逆鱗に触れたらしい。

 いや、もちろん、震度5まで耐えたからといって、法律に違反していた事は事実なのだから、罪が減じられるという筋の話ではないが、しかし、「姉歯物件」が実際にどのような状況にあるかを、いわば一種の証拠調べとして、裁判官は、被告人、検事、弁護士ともども、実地検分くらいしてもよかったのではないか。
 というのは、今、現実に問題になっているのは、「姉歯物件」の資産価値がゼロになってしまったことだろう。ゼロになったから、建て替えなければならないとなったわけだが、もし、少々の地震ならば、倒壊するということはないということが法廷で明らかになれば、「ゼロ」なんてことにはならないだろう。

 それを、姉歯にしろ、小嶋社長にしろ、みんなよってたかってのバッシングに血道をあげて……いや、バッシングするのはいいけれど(というのは、違法を承知で商売していたのだから)、一方で、今、自分達が住んでいるマンションの資産価値がゼロにならないようにするにはどうしたらよいか、ということも、冷静になって考えなければならないだろう。しかし、実際には、そのような配慮はまったくなく、ひたすら感情的に叩くだけ叩いて、挙げ句のはてに、価値ゼロにもっていってしまった。

 私は問いたい。「姉歯物件」の価値がゼロになって、誰が得をしたのか? 
 マンションの住民たちは、姉歯や小嶋社長やを叩けば(あるいは、「国の管理責任」をつつくとか)、どこからか(まさか、姉歯と小嶋社長が金を出してくれるとは思っていないだろうが)建て替え費用が出るとでも思っていたのか? 

 モーニングショーに、コメンテーターとして出ていた弁護士は、「幸いにも、大きな地震がなかったからいいが、もし、あったら大量の死者が出かねなかった」とか言っていたが、「姉歯物件」が地震に直面したか否か、ちゃんと調べたのか? 姉歯は、「震度5(これは相当大きい)でも大丈夫だった」と言っている。前にも書いたが、工業規格(建築基準法もその一種)というものは、実際に必要な強度より数倍大きく値をとっているから、「震度5でも大丈夫」だった可能性はある。姉歯の発言が嘘だったとは思えない

 この事件については、「実害は出ていないが、日本中、大騒ぎ」とどこかの外信で皮肉られていたが、この弁護士は、「実害が出てからでは遅いのだ」とか言うのだろう。だったら、実際にちゃんと調べろ。いや、確かに調べてはいる。しかし、それは、建築基準法に違反しているかどうか、具体的には鉄筋の数が何本かとか、そういう形式的な調査ではなく、実際にどの程度脆いのかを調べたのかということだ。少なくとも、私はそれをやったということは知らない。(模型を作って、それを揺さぶって壊していたが……)

 ちょっとまともなことを言っていたのは、みのもんただった。みのは、銀行が住民のローンをちゃらにすることくらいできないのかと言っていた。これは正論だろう。みのは、決して好きではないが、マンション住民の恨み節(正直言って、「安物買いの銭失い」の典型だと思うけどねえ……)を煽るだけ煽って、何の提案も示さない他の連中に比べて、はるかにマシだ。

 えー、月光は、早い人は明日あたりに届くと思います。よろしく。

至福の時

2006-12-26 22:15:26 | Weblog
 2chの画面を眺めながら、発送作業中です。お知らせの紙、振替用紙、ハガキなどを挟み、住所を書いた紙を封筒に張り……こういうのを「マターリ」というのかな。至福の時である。

 今回から、郵便ではなく、メール便です。今や、メール便のほうが3種郵便より安くなってしまったのだ。だから、もう、表紙に「いついつ認可、いついつ発行」といった「法定文字」を入れる必要もないのだが、Mさんが、入れろというので、入れてあります。Mさんに理由を聞いたら、「かっこいいでしょ」と。いや、まあ、そういうこともあるな。

 明日中に、3分の2くらいは発送できると思います。
 よろしく。

シリアスか、コメディーか

2006-12-24 14:58:19 | Weblog
 今日の昼下がり、上野の町を歩いていたら、どこからか、「オレはまだ生きていたいんだ~!」という叫び声が聞こえた。なんだろうと思ってあたりを見回したら、四、五階建ての雑居ビルの屋上で男が青空に向かって仰け反り、それをビデオカメラが映している。自主映画を作っているらしいが、いったい、撮っている作品はコメディーなのか、シリアスなのか……コメディーならまだわかるが、日本映画はプロアマとわず、シリアスでもこれをやっちゃうからなー。

 しかし、真面目な話、いかなるストーリーのもとに、この男はビルの屋上に追い詰められ、まさに殺されんとしているのか(殺されねばならぬ程、悪い事をしたのか、それとも、全く濡れ衣で殺されようとしているのか)、それはまったくわからないが、いずれにせよ、人生最大のピンチに臨んで叫ばれる台詞が、「生きていたい」というものであることは、自分は虫けらに等しい存在であるが、その虫だって生きているんだから私も生きていたいんだ、と言っているに等しい。
 このような、お気楽人生の成れの果てとも言える台詞が、定型として(海に向かって「バカヤロー」と叫ぶような)定着したのは、島崎藤村の「自分のようなものでも生きていたい」が始まりらしい。
 と言っているのは伊藤整で、私もほぼ同感なのだが、それはともかく、もし仮に、その男がビルから突き落とされて死んだとしたら、どうなるか。ビルの下の道路に見い出される男の死体は、もはや、虫けらの死体と何ら変わるものではないという事実を人は受け入れる事になる。言い変えれば、「無」がすべてを覆ってしまう。その男が、「正しい人」であっても同じだ。その、絶対的力を持つ「無」は、実は「自然」だ。それが日本的自然主義なのだが、欧米の場合はちがう。
 
 もちろん、欧米だって、「正しい人」が報われずに、不幸になったり、極端な場合には殺されたりすることは、日本と変わりない。古今東西、この事実は普遍的だ。しかし、もし「神」がいるとしたら、なんでそういうことが起きるのか? ここに、「論理性の有無」につながる、彼我の「問題意識」の絶対的相違が存在する。

 と、まあ、ここまでは、そう難しい話ではないし、誰もが「なるほど」と納得できることだと思うが、問題はその先だ。「無(自然)の絶対は神の絶対と同じように強い」(伊藤整)として、その「無」がすべてを支配する社会において、論理を担うべき知識人の役割が曖昧になってしまう。たとえば、「生きていたいんだー」と叫びながら、ビルの屋上から落ちて死んだ男の死を、誰がどのように認定するのか。「平家物語」の平智盛のように、「見るべきものは見つ」が関の山だろうか。(智盛はそういって、自害しちゃうのだが)
 ところで、昨日、『ジェラシック・パーク』を深夜放送で見たが、ジェラシック・パークの創設者の老科学者は、「見るだけでは幻と変わらない。わしは、この手で確かめたかったのだ」と言う。映画、『ジェラシック・パーク』は、テーマ的にはこの老科学者の挫折ということになるだろう。正直言って、とってつけたような感じは否めなかったが……。

 ふ、封筒がない。先にちゃんと買っておくべきだったなー。すみません。月曜日に買ってきて、すぐ発送します。よろしく。

ビルががらん……

2006-12-23 20:57:00 | Weblog
 としている思ったら、今日は祝日だった。しかも、天皇誕生日……忘れてた……非国民(笑)。

 しかし、その天皇陛下の談話を新聞で読み、いつも思うのだが、「天皇談話」なるものが実によく考え抜かれているのに感心する。広島の原爆犠牲者の数についても、「その年のうちに亡くなられた方が14万人」と、「その年のうちに」ときちんと断っている。被爆後半世紀以上たって死んだ人の数を加えて、「今年、犠牲者は20万人に達しました」、とかマスコミで報道されるので、いつも変だなと思っていたのだ。(ただし、慰霊碑に納められた名簿に書き加えられるとかそういうことはないらしい……ちょっと前、どこかで読んで「なるほど」と思ったのだが、思う一方、改めてマスコミのいい加減さに怒りがこみあげた)

 総花的にコメントしているようで、よく読むと、ぎくっとするような発言もされている。たとえば、愛子様について、「……ただ残念なことは、愛子は幼稚園生活を始めたばかりで、風邪をひくことも多く、私どもと会う機会が少ないことです。いずれは会う機会も増えて、打ち解けて話をするようになることを楽しみにしています」とある。ギクッ。「打ち解けてない」んだ。一方、悠仁ちゃんについては、「立派な新生児」、「私の近くでじっとこちらを見ている時の顔が目に浮びます」と。
 ナルちゃん、雅子様、ピンチだよ~ん。

 ところで、『どうなるどうする朝鮮半島』という、産経新聞の黒田と朝日新聞の市川両ソウル特派員の対決討論をまとめた本があって、その内容が一部ネットで紹介されているのだが、意外な展開にちょっとびっくりした。
 というのは、たとえば、朝鮮では、慰安婦と挺身隊を同じものと誤解しているとか、目隠しをして連れ去るような、いわゆる「強制連行」はなかったとか、日本当局による朝鮮行政には良い事もあったとか、そういったことについて、市川特派員は「その通りだ」と認めている。これが、意外な展開の第一だが、しかし、認めながら、こう言う。「でも、それを朝鮮人に言ってはいけないのです」。

 これに対し、黒田産経特派員は、市川氏こそ朝鮮人をひどく見下しているから、そんなことを言うのだと書いている。多分、そういうことなのだろうが、それはそれとして、一時期朝鮮人が日本人の徹底的支配下に置かれたことは事実なのだから、それを配慮した物言いをしたほうがいいという考えはあり得るだろう。しかし、だとしたら、少なくとも日本人にはそのことをちゃんと言わなきゃ。それをせずに、「配慮」だけを強調するものだから、朝鮮人の事実と違う指摘も黙って受け入ざるを得ず、それに日本人が反発し、それを知って朝鮮人がさらに怒る、と事態は悪い方悪い方へと悪循環してしまう。

 ところで、意外な展開の2は、この本を出しているのが、当の朝日新聞だということだ。なんとまた、ハレンチ(死語?)な会社なのか、朝日新聞は。

インディアンとヘミングウェイと24号完成!

2006-12-22 20:35:25 | Weblog
 NHK教育テレビ、高校世界地理、「アマゾン流域」を見る。

 アマゾンは一度は行ってみたいところだ。何しろでかい。中流の川沿いに100万単位の住民の住む町があり、そこまで数万トンクラスの船が遡ることができる。信濃川なんて、支流の支流の支流の支流のそのまた支流くらいだ。

 そのアマゾンに住む原住民のインディオの生活の様子が映像で紹介されていたが、彼らは「農業」あるものを知らず、なんとかというアマゾンに自生する植物を穀物代わりに摂取しているのだが、これには毒のあるものと無毒のものと2種類あり、毒の無いものは動物が食べ、動物が触れない有毒のものを採取し、叩いて潰し、それを水でさらしたりして毒を抜いて食べる。
 その後は、潰さずにとっておいた茎を地面に適当に突き刺しておけば、あっという間にまた生えてくる。
 蛋白源については、食用になるような大型動物はアマゾンにはいないので、もっぱら魚ということになるが、網ですくったり、釣りをしたりするような「漁業」は彼らにはなく、これも周囲に自生する植物の茎を集め、それを固い石か何かで叩くと、これまた「毒」がにじみ出てくる。これをもって自ら川に入り、「毒」を流すと、死んだ魚が浮いてくるから、それを掴み出す。
 毒殺した魚を食べたら危ないのではないかというと、その毒は、魚のえらを麻痺させるだけなので、人が食べてもまったく大丈夫である。

 と、なんとも「気楽」なもので、授業の生徒役の女性曰く「天国ですね」というのも否定できない。番組途中で登場した、世界有数の「アマゾンコレクター」で、自ら「アマゾン博物館」を経営するお爺さんも、「アマゾンの魅力はなんですか」と聞かれて、「天国だからですよ」と答えていた。

 しかし、その「天国」は、いかにも、明日を知らぬ「気楽さ」から来るものであって、一転、悲劇が襲ったらとても抵抗できまいと、暗澹たる気分になったのだが、果たして、昨日の今日、またまた本棚を整理していて立ち読みしたヘミングウェイの『インディアン部落』で、牽強付会かもしれないが、その「暗澹とした気分」が腑に落ちる気がした。
 『インディアン部落』という超短編は、御存知の人も多いと思うが、ヘミングウェイの分身であるニックの成長物語における、最初の、そして決定的衝撃を描いている。

 ニック少年は、医師である父親につれられてインディアン部落に行く。そこでは、産気づいたインディアン女が待っていた。女のお産は非常な難産で、麻酔を持参しなかったニックの父は、ナイフで帝王切開を試み、なんとか赤ん坊を取り上げることに成功する。
 ところが、側で見守っていた女の夫が、妻の難産に感応したか、あるいは妻の悲鳴に耐えることができなかったのか、自ら首を切って自殺してしまう。ニックの父親は、幼い子供を連れてきたことを後悔する。

 という小説で、ニックと父親の最後の会話、「死ぬのは大変なの?」「いや、案外簡単だよ。そのときの都合次第だ」が、いかにも後年のヘミングウェイの自殺を暗示しているようで、なんとも暗澹たる小説なのだが(ヘミングウェイの父親、すなわちニックの父親も、実人生においてピストル自殺しているそうだ)、もちろん、このニックとニックの父親を襲った気分は、インディアンの自殺に原因し、そして、それはまさに前日、アマゾンのインディオの「気楽」な生活を見た時の私の気分とぴたりと重なるものであった。いやはや。

 月光24号、できました! ここ一週間ほど、ちんたらしてて、発送準備してないので、土日、あわてます。では、よろしく。

単純明解だけを追うな

2006-12-21 18:06:21 | Weblog
 前東大総長、一時期、テレビなどによく出ていた佐々木毅氏が、朝日の就職新聞とやらで、「分からないことの深さ、単純明解だけを追うな」と題して、こんなことを言っている。

 さまざまな事件が起き、若い人からは虚しいといった言葉が聞こえてくる。すでに人生半ばを過ぎた大人も、満たされない焦りに似た表情をしています。……

 それは、目に見えるもの、分かりやすいもの、理解しやすいものを余りにも判断の中心に据えてしまったからではないか。人付き合いからメディアの情報、仕事の業績までうまく伝わるものは分かりやすいのです。だから全体の中の分かりにくい部分は放りおかれて、話の単純な最大公約数が伝わる悪循環が起きてくる。世界各地で発生している問題は複雑ですが、島国に住む日本人にはそれを肌で感じることも難しい。勢い、言葉や映像、数字、流行などの単純に加工された情報が入ってくるだけになり、そしてそれに条件反射しているのです。とくにお金に換算できる話は非常に通りが良く、伝播力が強い。世の中はそれだけでも動いていくような錯覚が起きてしまっています。

 分かりやすいこと、単純なこと、そして答えがスッキリ見えることは確かに心地良い。しかしその物差しで生きていくと、考えるという精神的な掘り下げが出来なくなります。

 ……うまく言えないけれど気になること、今ここで形に出来ないけれど志していること、そういう個人の思いを自分だけで考えぬく習慣が、現代の日本人には必要だと思います。組織の中でその考え方が異端であるかもしれない。まったく認知されないかもしれない。しかしそれは、別の角度で何かが見えていることでもある。分からないこと、消化できないことの中に潜む深さを放り出さないで欲しい。



 これは、『厨房日記』で横光利一が扱わんとしたことじゃないか。「分かりやすく、単純な」、言い替えれば、実感に基づいた判断でやっていけるような社会ではもはやないということは、今に始まったことではないが、ますます重要になりつつあるのだ。

 本棚整理していて、テリー伊藤の『お笑い大蔵省』が出てきた。これは、なかなかの名著で「捏造インタビュー」などではないと思うのだが、その証拠に、大蔵官僚自身が、こう言っている。「バブル崩壊がこんなことだとは想像できなかった」、「我々は分析は得意だが、予測はできない」等々。これは、明らかに彼らの本音だろう。そして、「予測ができない」ということは、佐々木氏の言う、「分からないこと」に、本来、法律家である彼らは対処できないのだ。そして、それを自覚しているということは、流石だなとも思うが、しかし、「自分達には限界があり、その枠内でやっているのだから、それを変えたければ、あなたたち(国民)が、選挙権を行使して族議員を落選させろ」は、あまりと言えばあまりの言い草である。

横光利一、再読

2006-12-20 21:36:59 | Weblog
 本棚を整理していて、横光利一の短編集を立ち読み。(これだから、作業がはかどらないのだが)

 『御身』。これがなんで横光作品なのだろうと思ったが、大正期の作品で、志賀直哉の強い影響を受けていた頃の作品ということだった。なるほどと、納得。
 姉に子供が生まれ、弟が高揚する話。姉の赤ん坊の扱いがぞんざいだと思い、一人で気に病んでいる時、「疱瘡の予防接種で、丹毒になり、一時危なかったが、片腕ですんだ」と、姉から手紙が来る。遂に恐れていたことが起きたと思い、姉がいけないんだと怒る弟。そして、片腕を失って、嫁に行けなくなったらオレがひきとって、結婚する(叔父と姪なんだけど……)と自らを慰める弟だが、周囲は、「片腕ですんだ」というのは文字通りの意味で、片腕を切り落としたわけではあるまいと、呑気である。
 あ、もしかしたらオレの早とちりかも……と考え直す弟に姉から手紙が来て、やはり、その通りで、丹毒の影響が出たが、それも片腕に現れただけですんだという意味だった。

 別にこれが「オチ」という話ではないが、嫌味の少ない志賀作品という感じか。

 『厨房日記』。なんで、こんなタイトルなのかよくわからないが、横光の分身である「梶」のヨーロッパ見聞記を小説風に仕立てたもの。ダダイズムの首謀者で、後にシュルレアリスムに転じたトリスタン・ツァラの家で開かれたパーティーに招かれたエピソードが興味深い。
 ツァラは、梶に、「自分は他の国のことならば多少は想像がつくのだが、日本だけは少しもわからない」と言う。たぶん、ツァラの言う、「想像のつく国」には、中国なんかも入るのだろうし、アフリカの黒人王国なんかも入るだろう。もちろん、それらは子供の頃に見た絵本か何かの記憶が元となったもので、それ以上のものではないだろうが、でも、それがもし失われたとしたら、ツァラの心は何がしかの欠損を生じるであろうようなものだ。しかし、「日本が想像つかない」という『厨房日記』におけるツァラの口振りには、日本をそういう、自分の想像の国のコレクションに組み込もうとするような、積極的ニュアンスは全くない。知っても知らなくてもどっちでもよいが、たまたまその日本人がお客さんとしてやってきたのだから、聞いておこう、といった態度でしか書かれていない。切迫したものがない。どうも、俗人っぽい。
 そのツァラに、梶は、日本がどんな国であるか、日本人がどんな民族性を持つか説明する。この説明は、正直言ってあまり面白くない。(むしろ、その前に、「日本人の腹切りは見栄でやるのか、責任を感じてやるのか」と言う一婦人の質問に、「どちらでもない。日本人は社会の秩序を何より重んじるから、自然に個人を無にしなければならないんだ」と答えるところなんかのほうが面白い)
 ツァラは最後に、「日本ではシュルレアリスムは成功していますか」と聞く。もし、この会話が実際にあったものだとしたら、ツァラはやはり、俗人だと考えざるを得ないが、それはともかく、梶は、「駄目です」とだけ答えてツァラ邸を辞する。
 こうして日本に帰った梶は、「世界」と「日本」の落差に頭が混乱し、自分がヨーロッパであれこれ見聞してきたことと無縁に生きている妻に対し、「お前はいったい何者だ」と不思議な、そして不安な思いにとらわれるが、その時、先刻、くつろいで組んだ裸足の足が妻の手に触れた時の感触を、ふと思い出す。

 「……前に一足触った芳江の皮膚の柔らかな感触だけが、嘘のようなうつつの世界から強くさし閃いているのを感じると、触覚ばかりを頼りに生きている生物の真実さが、何より有り難いこの世の実物の手ごたえだと思われて、今さら子供の生まれてきた秘密の奥も覗かれた気楽さに立ち戻り、またごろりと手まくらのまま横になった」

 そして梶は、この後、急速に国粋的観念に目覚めてゆくというストーリーだが、なるほどね、日本人の「愛国心」というものはこういうものかもしれない。特攻隊の遺書なんかは、つまるところ、みな、このような「触覚ばかりを頼りに生きている生物の真実さが、何より有り難いこの世」への思い出で締めくくられているように感じられる。一方、鈴木大拙は、戦争末期の昭和19年に書いた『日本的霊性』で、こういう日本人の観念の根底にある「気楽さ」を「本当の宗教心を知らない」と、厳しく叱責したのだが……
 うーん、難しい話になったが……いずれにせよ、梶(日本)は、安心立命を得たが故に、大陸ヨーロッパで打ち当たった「渾沌とした世界」を見失っていく、ということなのだろう。(もちろん、横光はそこまで書いてはいない。「元の木阿弥かあ」とぼやく梶を、妻が笑うという曖昧な終わり方だ)

 しかし、文庫本(新潮文庫)の解説(篠田一士)では、テーマ的に扱いづらかったのか、この「厨房日記」の解説だけ、なかった。日本の純文学(私小説)の世界が閉鎖的と批判されるのは、作家のせいというより、むしろ、批評家が、(批評家が考える)「文学」以外のテーマを排除するような枠を設け、その内に閉じ込めようとしているせいではないかと思う。

 青島幸男死去。タレントとしての知名度だけを頼りに、というか、知名度の維持を目的に政治活動を行い、結果はただ政治を混乱させただけ、と私は思う。

狂、その2

2006-12-19 22:47:20 | Weblog
 神田の特価本屋で「太陽」の白川静特集を立ち読みしたら、白川先生と漫画家の岡野玲子さんが対談していて、その冒頭の話題が「狂」についてだった。読んでいったら、白川氏には、「狂字論」という論文も書いているそうで、「狂」についてはなみなみならぬ関心があった様子。(他に、「真字論」というのも書いているそうだが)昨今、白川ブームでもあるので、本屋で探せばいくらでもあるだろう。

 ところで、漢字というと、藤堂朋保という人もいたが、藤堂氏は白川説を「中国古代宗教研究家が畑違いのことをしている」と白川静を批判したことがあり、一時、険悪な関係だったらしい。
 白川氏は、漢字の起源はすべて祭祀の実行者が創作したものだというものらしくて……正直いって、藤堂氏の説のほうが一般受けはするし、「なるほど」と思うこともあるのだが……白川流の強引さも、捨て難い。

 それはともかく、藤堂派の漢字サイトに、「漢字家族」というのがあって、表示されているカウント数を見るとかなり盛況のようだが、そこで「狂」を検索したら、次の文章が見つかったので、コピーした。


 「中道なるものこれと与にするをえずんば、必ずや狂狷ならんか。狂なる者は新取し、狷なる者は為さざるところあるなり」(『論語』・子路)
 「帰らんか、帰らんか! わが党の小子は狂簡なり。あざやかに章をなす。これを裁するゆえんを知らず」(『論語』・公治長)

 『孟子』はこの『論語』の一節を、彼の書の巻末ににおいて、ていねいに解説している。これまさに「圧巻」の名にふさわしいもので、彼はここに儒家のほんとうの魂を見たと思ったのであろう。

 「中道が得がたいとすれば、狂狷なる者とともに行動せざるを得ない。狂(むてっぽう)なる者は新取的であり、狷(へそ曲がり)なる者はこれだけは絶対にやらぬという操がある。・・・孔子はいった、『私の門を通り過ぎながら、中へ入ってこなくてもいっこうに残念だとは思わぬ相手、それはほかでもない、郷原(くそまじめ)だろう。郷原は、素直な人間性を賊なうものである』と」
 「郷原とはどんなのをいうのですか?」
 「この世に生まれたら、世の中に合わせていけばよい。うまく調子を合わせればどうにか過ごせる。外に衣を着せて、世の中に媚びるもの、それを郷原というのだ」
 「郷党の者すべてが、あれはまじめ人間だ、というようなら、どこへ行っても原人(円満居士)として通るでしょう。それなのに、孔子が素直な人間性を賊なうものだといって悪んだのはなぜですか?」
 「それを誹ろうにも手がかりがない。刺そうにも刺すテがない。そして流俗に同調し汚世に合わせている。じっとそこにおればいかにも忠信に似ており、何かを行えば、廉潔らしく見える。人びとはそれを喜び、当人自身も是認している。だがこれではとても堯舜の道には入れない奴らである。孔子は『似て非なる者を悪む』といった。孔子が郷原を悪むのは、それが有徳者とまぎらわしいからである」


 おるなあ、こういう人は、うじゃうじゃと。(郷原の「原」には「すなお」という意味があるそうで、したがって、「郷原」とは、近所のいかにも物わかりの良さそうな人、といった意味だろう。サイト解説の「くそまじめ」では、「狷」になってしまうのでは?)