パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

不条理な定食屋

2005-09-30 04:58:08 | Weblog
 事務所の近所に、ちっちゃな定食屋がある。二坪くらいで、カウンターのみ。中には、熊のような大男と、その母親らしき、あまり綺麗とは言い難い、小柄な婆さん二人でやっている。メニューは、鯖の塩焼きと味噌汁、ジャガイモサラダとか、そんな類。ヤクルトみたいな(でもヤクルトではない)……あれはなんて言うのだろう……乳酸菌飲料か……がおまけでついてくるのが店の「売り」といえば、「売り」なんだろうが、大してうまくもなければ、量があるわけでもなく、なおかつ、これが肝心なのだが、安くもない。鯖の塩焼き定食で650円。正直言って、そんなもの(ヤクルトもどき)で恩を着せられても困るなあ、と思う。(いかにも「サービスですよ」といった感じでついてくる)
 そんなわけで、私は二、三度行ってやめたのだが、今考えると、リピートしたことが不思議だ。うまくもなければ、安くもない。カウンターに可愛い女の子がいるわけでもない。いるのは、熊ときちゃない婆さんだ。そんなんで、何故複数回行ったのだろう……と、つらつら考えるに、店の雰囲気が「いかにも安そうだから」だったに違いない。最初に入った時、となりに座った大学生風の男の客が、まさか「サクラ」じゃないだろうが、しきりに「安い、安い」と連発して、上機嫌の熊さんからプロレスの招待券をゲットしていたが、そんな「安い」という台詞の連発を聞かされたもので、つい、「安い」と思い込んでしまったのだろう。

 世の中には、こんな「不条理」なお店も決して少なくない。庶民的と言えば庶民的なのだが、外見は貧相で薄汚くて、味もそれに準じている。だったら、値段は安いだろうと思うと、そうでもない。しかし、「安そうだ」というイメージが強烈にあるものだから、それにごまかされてついのれんをくぐってしまう。そんなお店だ。これが、鯖の塩焼き定食が750円とか、それくらいだと、「高い」ことに気づいても、650円だとまさに「微妙」な価格で、ついうっかり「安いなー」と思ってしまう。
 今回の、小泉自民党の勝利は、この定食屋のイメージ作戦の勝利と似てはいないだろうか……ぐらいの気のきいたコメントを書けや、マスコミ・評論家ども! 誰も彼も、「国民は、後でこの選択を後悔するかもしれない」とか、まさに「曳かれ者の小唄」ばかり。

 では、私は、というと、「どっちだ3」にも書いた通り、一年前から「小泉支持」に転向しているからね。まあ、普通の人とはちょっと「支持」の理由がちがうかもしれないけれど……要するに、一年前から、日本政府の態度が自信に満ちているのだ。自信に満ちてことにあたっているということは、虚心坦懐に見れば必ずわかるものだし、今回の選挙では、一般国民もそれを支持したのかもしれない。まあ、それはわからないが、ともかく、その自信を支えているのは、実は、バブル崩壊後の10年間で学習した官僚たちではないか。たとえば、数カ月前に鶏に鳥インフルエンザが発生したけれど、いち早く、鶏を処分するかたわら、鳥インフルエンザウィルスは人間には無害である、といういことで、鶏卵、肉の流通規制は不必要という態度を明らかにした。これは、ちょっと前だったら考えられないような対応で、そのため、マスコミも、インフルエンザ発生を「ネタ」にすることができなかった。
 その「自信」がもっとも顕著なのは――マスコミの評価とは真反対だが――日米同盟を堅固なものにした「外交」だと私は思う。たとえば、国連の常任理事国入りが実現しなかったことを「戦後最大級の日本外交の失敗とみるむきがあるがどう思うか」というサンケイ新聞記者の質問に、国連特別大使だったかが、「まったくの見当違い」と全否定していたが、その口調たるや、「おめーら、どこみてんだよ」といった、「嘲笑」の雰囲気を感じたのは私の偏見だろうか(いや、ちがう)。
 同時期のサンケイ新聞でちょっと面白かったのは、ちょうど一年ほど前に外務省を退官したという人物が、今春の中国における反日デモにからんで、「バブル崩壊後の危機から復活した日本を警戒したアメリカが中国に工作員を送り込んで起こしたもの」と書いていたことだ。これがなんで面白いかというと、こんなトンでもないことを考えているんじゃあ、外務省を退官せざるを得まいが、それはそれとしちえ、世界第二の経済大国という日本の地位は当分の間は揺るがないと「アメリカが認識していると外務省が認識している」らしきことが明らかになったという意味で「面白い」と思ったのである。
 それはともかく、マスコミはそんな変化にも気づかず、相変わらず、官僚を批判すれば新聞は売れ、テレビは視聴率が稼げると思って声高に煽り立てているが、そんなマスコミの「旧態然」な体質を官僚たちは完全に見切っているのだ。

 ちなみに、私の知る限り、一年前から小泉政権の各員の言動が自信に満ちていること、その態度の変化にこそ注目すべきであると指摘している論客が一人だけいて、それは、ここでも橋本治なのだ(「広告批評」の連載「ああでもなく、こうでもなく」)。ただ橋本治の場合は、その「変化」に否定的だが、私は「肯定的」に考えたい。「実ほど頭を垂れる稲穂かな」で、大勝利の後ほど謙虚にせよと言う人も多いけれど、それじゃあしょうがないだろ、と、私なんかは思うのだ。

/font>

これが宇宙だ!

2005-09-29 12:37:05 | Weblog
テストで、宇宙画像を入れたついでに、「どっちだ4」で書いたことに補足。
 「もし、饅頭が無限に存在するなら、それは宇宙一杯に充満している」なんて、書いたわけだけれど、これは、「無限」の解釈にからんでくる。
 アリストテレス以来、「無限」は人間の想像上にのみ存在すると考えられていた。言い換えると、「存在」は有限だ、という立場だ。有限なるもの=存在、これは、まあ、「存在」の古典的定義のようなものだけれど(カントが典型)、「無限」は実在する(数えられる)、と主張する人もいた。
 この両者の対立はアリストテレス以来、延々と今に至るまで続いているのだが、現在は、実は、無限は実在する、という立場が有力になっているらしい。典型例は「宇宙」だ。「宇宙」は、真の意味で「無限」らしいのだ。
 となるとどうなるかというと、大変に奇妙なことが起きる。「部分」が「全体」に等しくなっちゃうのだ。

その前に、無限が存在すると仮定すると、数学でどんなことが起るか。たとえば、数全体と、偶数(あるいは奇数)のどちらが多いかというと、ちょっと考えると「数全体」のほうが多いに決まっている、というか2倍あると思いがちだが、「無限は実在」すると考えると、そうではない。すべての偶数をあわせると、数全体と等しくなっちゃうのだ。あるいは、√2とか、πといった「無理数」がいくつあるかというと、人間が発見していないだけで、有理数より全然多いんだそうだ。あるいは、線分に含まれる「点」は、面に含まれる「点」と等しい、とか。
 逆に言うと、アリストテレスの立ち場では、有限のものは無限に分割できるはずであった(それがどんなに小さくとも、「分割できない」なんてあり得ない、と!)が、「無限は実在する」という立場だと、逆に、「無限に分割はできない」ということになる。

 こういった、数学の理論上起る不可思議なこと(これを始めて発見したカントールという19世紀の数学者は、「私は見た、しかし、とても信じられない」と知人宛の手紙に書いたことはとても有名。そもそも、かの大天才、ガウスは、無限のことを「言葉の綾にすぎない」といって、それと取り組むことを厳しく戒めていたという。若きアインシュタインが、重力の秘密に取り組んでいると先輩のプランクとう有名な物理学者に言ったら、プランクは「やめとけ。重力の問題の秘密を解いたところで、誰も信じないから」と言ったらしい……天才は、宇宙の仕組みがひどく奇妙であることを直感していたのだろう)が、実は、こういった数学上の現実は、宇宙の現実でもある……らしいのだ。

 てことは、どういうことか。

 「このことは何を意味しているのでしょうか? 数学上の結果と物理的な現実を混同するのは、あまり望ましい態度とはいえませんが、あえてこの禁を破って想像力をはばたかせることが許されるなら、次のようなイメージがおのずと頭に浮かんできます。/私達は宇宙から見れば本当にちっぽけな存在にすぎない。しかし、私達の髪の毛一本、いや赤ちゃんの産毛一本の中にも、この広大無辺の全宇宙空間に存在するのと同じ“数”だけの点が含まれている……というわけです。」(「ゲーデル・不完全性定理」吉永良正、講談社ブルーバックス)

 あれれ? 産毛に含まれる点は、宇宙に含まれる点に等しいって……「無限」を数えることができるならば、「無限」に分割はできない、んじゃなかったっけ? まあ、これは、譬え話ということで(笑)……うーん、勉強し直しか。

どうもどうも

2005-09-28 21:56:57 | Weblog
 ブログ、こっちに移りました。理由は、前の「明日はどっちだ4」(ココログ)に書いてありますが(実は、これから書くんだったりして)、そういうことなのです。御迷惑、おかけします。
 それから、月光HPを再開しました。ファイルを新しいパソコンに移したつもりだったのが、大分なくなっていたので、とりあえず、残ったものに、niftyのテンプレートから表紙だけ拝借しました。これから、おいおい作っていこうかと……。