パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

吉田兼好の「科学精神」

2006-09-30 15:48:53 | Weblog
 小野紳先生が見ていて下さったとは。これが、ネットの面白いところ。
 と言うわけで、少し気を入れて。

 先ほど、自転車屋に行ったら、開店一分前で、まだ開いていなかったので隣の古本屋のワゴンを覗いたら、「徒然草」が目に入った。講談社学術文庫巻4で、ぱっと開けたら「ぬしある家には」で始まる二百三十五段だった。

 「ぬしある家には、すずろなる人、心のままに入り来ることなし。あるじなき所には、道行き人みだりに立ち入り、狐、ふくろふやうの物も、人げに塞かれねば、所得(ところえ)顔に入りすみ、木霊などいふ、けしからぬかたちもあらはるるものなり。
 また、鏡には色、形なきゆえに、よろづの影来りて映る。鏡に色、形あらましかば映らざまし。
 虚空よく物を容る。我等が心に念々のほしきままに来り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心にぬしあらましかば、胸のうちに、そこばくのことは入り来らざるまし。」

 要するに、主人のいる家に、通りがかりの者が勝手に入ったりはしないが、主人がいない家には、誰もが勝手に立ち入り、狐やふくろう、はては「木霊」などというあやしげなものも現れる。……だから、人は常に心に「主」なるものをしっかり持っていなければならない……と言うのかと思いきや、そうではない。むしろ、主のいない家のようなものであることこそ、心の本質だと言っている(のだと思う)。
 解説者(三木紀人)によると、「虚空=心」のような考えは大燈國師の法話などに既に見られるもので、したがって、この段も、『徒然草』の一般的評価の言葉として定着している「中世的無常感」を現わしているということになるのだが、そうだろうか? 私には、ここにあるものは、「無常感」というより、科学者のような冷静な観察眼のように感じられるのだが……。
 たとえば、「鏡には色、形なきゆえに、よろづの影来りて映る。」という箇所の現代語訳(?)は、「鏡には色や形がないので、あらゆるものの影がそこに現れて映る」と、そのまんまである。しかし、鏡にはちゃんと色や形が映っている。ただ、それは常に鏡の外の世界であって、鏡が鏡自身を映し出すことはない。鏡は「すべてを映すことによって、自分を隠す」存在なのだ。つまり、兼好の言う、「鏡の色、形」とは、「鏡の自己像」のことにちがない。さもなければ、「鏡には色、形なきゆえに」が、「よろづの影来りて映る」につながることはない。

 ライプニッツは、人間の精神jを《永遠の生きた鏡》にたとえたそうだが(ナツメ社刊『図解雑学・身近な哲学』より)、これは、吉田兼好の「鏡には色、形なきゆえに云々」と同じことを言っているのではないか。(ただし、兼好はライプニッツより300年くらい前の人。もし、この箇所が兼好自身の観察によるオリジナルな考えだとしたら、凄過ぎる)

 割と知られている話(第二百六段)だが、ある日、一匹の牛が御殿に上がり込み、大臣の座を占めたまま座り込んでしまった。この怪異をいぶかんだ人々が陰陽師を呼びにやらせるなど大騒ぎになったが、その大臣の父親が、牛は無分別なもの、御殿に上がり込んだといって、不思議なことではない、と騒ぎを納めた。その後、別に変なことはひとつも起こらなかった。
 ……というのだが、大事なのは、兼好がさらにこうコメントしていることだ。

 「あやしみを見て、あやしまざる時は、あやしみかへりて破る」

 つまり、怪しいと思うから怪しいことが起きる。怪しいのを見て怪しいと思わなければ、怪しいことなど起こらない、というのだが、ここにも、明解さを尊ぶ「論理」が確かにある。

 要するに、『徒然草』を、無常感でくくったり、そうでなければ、処世知で説明したり(たとえば、古に倣った煩雑な手続を主張する人に対し、用を足せれば良いのだといったあたり。しかし、ここにも、単なる功利主義以上に「単純なものほど論理的にすぐれている」とする、オッカム流の「論理」のにおいがする……というのは、ちと牽強付会か)するのはもったいないのではないかという話。

なるほどね

2006-09-25 19:59:52 | Weblog
 丹波哲郎死去。残念。あの人が出てくると、なんか、楽しかった。今、「楽しい人」って、誰だろう。雅山かな。

 声優の曽我部さん死去。58歳だったそう。若い。ちょっと前には、その曽我部さんよりもっと若い声優さんが亡くなっているし、その前にも、その前にも……。別に特に声優さんマニアっていうわけじゃないし、というか、名前を知っているだけで、他の事は全然知らないけど、ファンたちはショックだろう。

 ミクシーのO氏の日記に、「桃栗三年」について、「臥薪嘗胆」的な意味合いがあるのではといった書き込みをしたら、「桃栗三年」は、その後、「柿八年」、さらに「梨のバカヤロ十八年」と続くので、全体としては実がつくまでじっくり待たなければいけないという意味だけれど、「桃栗」は、その中でも三年と短いので、「臥薪嘗胆」という意味合いはない、むしろ、正反対だとレスされた。

 「柿八年」はもちろん知っているけど、「梨のバカヤロ十八年」までは知らなかった。なるほど。

 しかし、私はすぐ「なるほど」と思ってしまう、「ナルホドマン」だ。もう、すっかり昔のことだけれど、朝日新聞にジャズピアニストの秋吉敏子のインタビュー記事が載っていて、その後書きだかに、秋吉敏子が取材の後、自動販売機でドリンクを買ったが、その時、ガシャンと音がして、秋吉敏子はびくっとしていた、さすが音楽家だ、とか書いてあって、「なるほど」と思ってしまったことがあった。もちろん、読んでいる最中に一瞬そう思っただけで、読み終わってからは、「バカヤロー、誰だってガシャンという音は嫌だと思うに決まっている」と思い直したが、一瞬でも「なるほど」と思ってしまった自分が今でも恥ずかしい。バカヤロー、朝日新聞。

富山県人は日本でもっとも信頼できる(?)

2006-09-23 11:37:49 | Weblog
 今朝の産経新聞一面に、国民年金加入者の56%が非正社員と無職者で占められ、その半数近くが年金掛け金を払っていないという社会保険庁による調査結果が報道されていた。
 そりゃあそうだろう。無職で毎月一万三千円を払い続けることなんてできるわけがない。

 それはそうとして、この記事はわからないことだらけだ。

 第一。国民年金加入者って誰のこと? 私はどっち? 私はかつて会社員だった(12、3年くらい)時に厚生年金に入っていたが、そこを辞めてからは、国民年金に入らなければいけないということは知っていたが、収入が不安定になったために掛け金は払ったことはない。したがって、当然、国民年金非加入者ということだと思うが、記事によると加入者の約31%が無職で、そのうち、掛け金を払っていない人が48%となっている。払っていないのに「加入者」? それとも、一度でも払ったことのある人は、その時点で「加入者」とされているのだろうか?

 第二。記事には、みずほ総研の研究員の談話として、「(今のままでは)給料から年金保険料が天引きされている会社員の不公平感が増し、年金不信に繋がる」と書かれていたが、掛け金を払っていなくても年金をもらえるの? 払っていない人は、当然、年金はもらえないものと思っていると思うけど……。

 第三。とはいえ、社会保険庁のHPなどを見ると、「年金制度は、現在働いて収入のある元気な人が、もう働けなくなった老人の生活を支えてあげようという、助け合い精神によるもの」といったことが書いてある。ということは、いずれ私も、雀の涙ほどだろうが、年金をもらえるのかな?  それとも、私は、多分非国民年金加入者に分類されていると思うので、やはりもらえないのだろうか。

 第四。しかし、私は会社員時代に、会社負担分もふくめれば、少なくとも100万以上の掛け金を保険庁に納めている。この金はどうなっちゃうのだろう。保険庁の宣伝する「年金制度の助け合い精神」からすれば、老人に支払われている(あるいはすでに支払われた)ことになる。だとしたら、私にも年金を受け取る資格はあっていいことになる。さもなければ、私の払ったお金は社会保険庁に「有り難く頂戴」されただけになるが、こんなことは民間会社だったら許されるはずがない。ところが、これが、役所の場合は大いにあり得たりする。以前、保険庁のノンキャリアの元トップが書いた国民年金擁護の論陣を張った本を参考のために読んだことがあるが、「富山県は日本でもっとも年金未払者が少ないので、富山県人は信頼できる」なんて書いてあった。いかにも、キャリアの使用人でしかないノンキャリアらしい言葉だと思ったものだが、こんなセンスだからね~、役人は信頼できんのよ。

 結論。マスコミはこの辺の事実関係はわかっているのだろうから、ちゃんとわかるように説明してくれよ。お願いだー!
 

浦和、大宮……ダサイタマは過去の話か

2006-09-19 23:42:54 | Weblog
 今日ではなくて、昨日だけれど、自転車で埼玉の川口まで往復した。その前の日は、御苦労なことに、浦和。

 実は、秋葉原に引越したのはいいけれど、住む場所がまだない(笑)。いや、実は、松戸の二駅先の馬橋にいったんアパートを借りたのだけれど、思惑違いで、さっぱり帰っていない。安さにひかれたのだが、やっぱり安かろう、でしかなかったのだ。ただし、部屋や部屋の設備が良くないわけではない。それに限れば、文句はないのだけれど、いかんせん、周囲に何もない。な~んにもない。あと、痛かったのは、常磐線と常磐鈍行線の二本走っているのだけれど、てっきり、快速と鈍行のちがいだとばかり思っていたら、常磐鈍行線というのは、実質、地下鉄千代田線のことで、つまり、線路そのものがちがうため、馬橋には、途中、松戸で必ず乗り換えなければならない。それを知らなかった。
 もちろん、最初に行った時にも、松戸で乗り換えたはずだけれど、たぶん、その時は、たまたまそうなっただけで、本来は乗り換えなしで行けるんだと思いこんでいた。
 常磐線と常磐鈍行線が、「線路がちがう」ことは、東京で言えば、山手線と京浜東北線、総武線と中央線が、ある一定区間平行して走るので、その間はどっちに乗っても構わないが、でも線路は別というのと近いのだろう。しかし、普段、使っていない人は知らないのではないか。後で不動産屋の広告を見たら、松戸物件にわざわわざ「人気の快速停車駅」と謳ってあった。「快速停車駅」が特に売り物になると言うことは、私のように、一つの線路ではなく、二つの線路であることに気づかずにいて、「なんじゃこりゃ!」と怒る人が少なからずいるということではないか。深読みかもね。
 それはそうと、たとえば総武線から中央線へは、お茶の水で乗り換えることが私の場合は多いのだけれど、同一ホームで、しかも、時間ぴったりに併走してやってくるので、時間待ちはほとんどない。(代々木駅で総武線から山手線に乗り換える場合も同じで、ほとんどストレスを感じない)
 千葉県にそこまでは要求しないが(?)、常磐線と常磐鈍行線(地下鉄千代田線)の場合は、ホームがちがうので階段をのぼっておりる必要があること、また、10数分の時間待ちがあることなどで、どうしても、いらいらしてしまう。
 もっとも、松戸と馬橋の間を自転車でつなぐという方法もある。その場合は、たぶん15分かそこいらで行けるだろうから、万やむをえない場合はそうすることになるのだろうが、今の時点ではなんとも納得し難く、大分前、ちょうどサッカーのJリーグがはじまって一、二年後だったと思うが、浦和に行ったことがあり、その時の印象がよかったことを思い出し、浦和が松戸に代わり得るか、確かめてみることにしたのだ。

 しかし、行ってびっくり、「代わり得るか」どころではない。ベッドタウンレースでは埼玉が千葉を2馬身3馬身、いやそれ以上引き離している感じ。しかも、すっかりおしゃれな街になっている。
 大宮在住の右翼、Sさんの話では、浦和はもともと県庁所在市で、また文教地区でもあって、浦和の住人はそのことに非常に誇りを持っているのだそうだ。実際にあちこち自転車で走り回って、その気持ちがよくわかった。たしかに、落ち着いたいい街だ。しかも、眼と鼻の先の大宮には、中央官庁が大挙引越してきているとのこと。ただし、リベラル右翼のSさんに言わせると、エリート官僚の冷たい雰囲気が街を支配してしまって、大宮自身の雰囲気はあまり良くなくなったとのことだ。今回は、大宮には行かなかったのでわからないが、ともかく、浦和にはビッグなサッカースタジアムがあるし、大宮には日本屈指のコンサートホールがある。それに、ちっとも知らなかったのだが、中央官庁まで大挙移転しているとは、大袈裟でなく、ミニ首都移転が何時の間にか進行しているという感じだ。

 ところが、その浦和でうろちょろしている間に、空からぽつりぽつりと降ってきた。こりゃー大変だと慌てて帰路についたのだが、雨に弱いのが自転車のなんともいかぬ、弱点。川口市目前で本降りになってしまった。でも、しょうがない、泣きたい気持ちで荒川を越え、少し走ったところで見慣れた景色に気がついた。そうだ。凸版印刷のある志村坂上だ。大分暗くなってきたが、ほっとしたところで、道に迷ってしまった。よくあることだが、油断大敵!というやつだ。それで、びしょ濡れになりながらUターンしてなんとか元に戻ったと思ったところで、地面からごつんごつんという嫌な感触が。パンクだ! これも、自転車の弱点。パンクばかりはどうしようもない。どんなに注意しても、一定の確率で起こるのだ。しかし、幸いなことに、地下鉄の入り口が近くにあったので、自転車を捨てて地下鉄に乗り、御徒町まで帰って、代わりのタイヤを買って、舞い戻り、どうにかこうにか、無事、秋葉原に辿り着いた。

 これが一昨日の話。

 それで、昨日は、途中でちょっと気になった川口に行ってみた、というわけ。
 川口市の特徴はというと、ここもすっかりオシャレな街に変身しつつある感じだが、駅から離れると、やたらに板金屋とか、溶接工場など、鉄を扱う小さな工場が眼についた。これは、浦和にはなかった。そういえば、小学校の頃に習ったような気がする。東京の産業=印刷、埼玉=鋳物とか。あと、これは埼玉に入ってからの街道筋の印象なのだが、蕎麦屋が多く眼に入った。ああ、北関東なのだな、と、何故か思った。(千葉? 千葉はやっぱりピーナッツ屋でしょう。知らないけど)

 ともかく、二日続けてあわせて、7、80キロは優に走ったので、さすがにくたびれ、肉のハナマサで、カツオのタタキをワンパック買った。タンパク質を補充しようと思ったのだが、栄養学的にはこれでいいのかな? よくわからないけど、美味しかったのでよしとしよう。

麻原死刑確定の日に

2006-09-16 17:19:34 | Weblog
 作品(?)、二つだけだとちょっと見てくれ、寂しいみたいなので、もう一つアップしておきました。ちょっと、他のとはイメージがちがうのですが……見て下さい。

 久し振りにテレビを見る。
 大相撲。上位はすっかり外人ばかり。しかし、以前だったらしらけてしまったと思うが、「外人同士」の取り組みでもそれなりに面白い。特に、東欧、ロシア系はライバル心がすごそうで、以前の、曙対武蔵丸みたいな、「なんなんだかなー」感はない。それにしても、やっぱり、日本人力士が少しは噛んでくれないと困る。栃東は結局駄目みたいだし、雅山は面白いけど……有望なのは、結局、愛子様御贔屓の琴光喜か、朝青龍に勝った稀勢の里かな。

 「太田総理云々」とかいうテレビ番組があるらしくて、その総集編らしきものを見た。
 「お笑い芸人」ごときがなにを言うか、とは言わないが、「俺は、政治家なんか一切信用しないから、俺が自分で喋るんだ云々」という太田の言葉はおかしい。日本は代議員制の国であって、太田はその面からすれば、一有権者に過ぎない。したがって、政治的意見を表明する場合も、「俺は自民党支持」「俺は民主党」「いや、共産党」みたいに言えばいいのだと思う。それを、太田は、まるで自分が世論を作るんだ、みたいな……まあ、そんなに形式ばって考えることもないのかも知れないけど……ともかく、政治家というのは、ある意味「喋りのプロ」であって、誰でもいいから、テレビのニュースショーでもバラエティ番組でもなんでもいいから、彼らに仕切らせれば、今すぐだって、完璧にこなしてみせるだろう。阿部晋三司会のNHKふるさとのど自慢なんか、……はまりすぎくらいはまり過ぎだ。
 もちろん、政治家をどんなにバカにしも、揶揄しても逮捕されたりはしないが、それこそ、日本が民主主義国であることの証拠であって、そのことを太田はもっと尊重すべきだろう。今のままだと、太田は結局墓穴を掘ることになりかねないのではないか。

 それはそうと、太田は護憲論者らしいが、その理由は、戦後日本は、憲法のもとで右往左往させられ、散々迷ってきたが、この「迷うこと」が大事だ、というものらしい。
 しかし、……これまた形式ばった物言いになるが、迷った際の、最後の判断のよすがになるのが憲法だろう。では、「迷うことが大事」なら、たとえば戦争責任問題で、当事者を含み、みんなで責任者を探しても、最終責任者が誰なのかわからず、結局、「一億総懺悔」という結論になったことだって、真っ先に「是」とすべきだろうが、「護憲論者」に限って、責任を曖昧にするのが日本人のいけないところだとか言う。
 私は戦争が終わってから生まれたのだが、戦争責任は誰にあるかと言えば、結局、日本人全員なんだとしか言い様がない。そして、それで、どこがいけないの?と言いたい。立派な結論ではないか。
 実際のところ、そういう結論を胸に秘め、戦後一生懸命に働いてきた結果、今の日本があるのじゃないの? お前のせいだ、いや、お前のせいだと罪の指弾に終始したら、それこそ、今のイラクみたいになっちゃってたとしても不思議ではない。大体、丸山なんとかという中途半端な近代かぶれが、「無責任体制はよくない」と言っても、その丸山自身、じゃあ、誰の責任だったの?と聞かれたら、ちゃんと答えられない。それでも、「無責任体制はよくない」って言い募るとしたら、それは、「ないものねだり」というしかないのではないか。

 それはともかく、太田の言っていることは、つまるところ、加藤典洋の『敗戦後論』そのまんまだ。そして、その加藤典洋はというと、もっとも忠実な吉本隆明主義者だろう。どこら辺でかというと、さっき、加藤の『敗戦後論』をぱらぱらとめくっていたら、こんなことを書いていた。
 「すべてが終わった後、誤らない(=正しい)考えを明らかにすること」と、「たとえ、誤っている可能性があっても、その場で考えられた思想は、その場で表明されねばならない」という二つの態度があって、吉本は、戦後、徹底的自省の結果、断固として後者を選ぶことにしたが、自分(加藤)もそれがよい、というか、それを模範としてきた、と。
 即ち曰く「思想の意味と価値が、誤らないことにあるのなら、どう考えても、誤りうる同時期の思想よりも、誤らない事後の思想のほうがよいことになるが、私たちの心の中には、たとえ、誤りうるとしても、同時期に発生する思想の中に、何か大切なものがあるのではないかという感じが生ずるのは何故だろう」
 な~んか、もったいぶった言い方が、そもそも気に食わないが(~感じが生ずるのは何故だろう、って、それはあんただけだろ、って言いたい。少なくとも、私は!)、ここらあたりから、憲法をめぐって「迷う」ことを「是」とする考えが出てくるのだろうが……しかし、「誤ってもいいのだ」って、それはよくないでしょう(笑)。加藤も吉本も「誠実」かもしれないが、それを売り物にしている……というと口が悪いが、はっきり言って、あまり頭がよくないのではないか(もっと悪いか)。
 加藤は(多分、吉本も)、「迷うこと」を「是」とする態度を、「戦争という誤りを経験した戦後日本人としての、原理的立場」として語っているようだが、ハッキリ言って、これは「原理」にはなり得ない。もし、人間がどうしても「誤りうる存在」であり(それはそうだ)、それを「原理」として表現したいのなら、むしろ、「君子豹変す」が適当でしょう。つまり、結論は、全然逆なのだ。「頭がよくない」と、言いたい由縁である。(「君子豹変す」の君子は、知識人のことで、それより上の「聖人」の場合はまたちがう言い方をするのだけれど、ちょっと忘れてしまった。ちなみに、太田は、以前は改憲論者だったと言っているそうで、つまり、今の立場を「ギャグ」として説明しうるように準備しているらしいのだが、だったら、太田君、今じゃなくてもいいから、いずれまた「豹変」しなさい。それで、「ギャグ」は完成し、君も芸人として生き長らえることができる)

 麻原死刑確定の日に記す。(そう言えば、吉本は、麻原を希有の宗教者と言ったんだよな~、「同時期になされた真摯な発言」として。もっとも私は麻原の発言を読んだことはほとんどないし、したがって、麻原の宗教者としての評価についてはなんともわからないから、吉本が麻原を評価したことをどうのこうのは言わないがでも、今はどう思っているんだろう……そういえば、ウチの代表の原稿を『月光』に掲載したいって、オウムの広報から電話がかかってきたことがあったっけ。いや、ほんとの話。クワバラクワバラ)

it`s a small world!

2006-09-13 15:54:19 | Weblog
 展覧会もあっという間に終わっちゃいました。ま、一週間ですからね。御来場いただきました、少数の方々に深く感謝します。で、御来場いただけなかった多くの方々は、当然、見ていただけなかったのですが、全部で九点、展示したうち、見本として三つほど、アップします。

    

 ン? そう、見ての通り、潰れた空き缶です。街で拾った空き缶をスキャナーでスキャンしたもので、光が脇から入らないように向かって左がアルミホイール、右がジーパンで覆いました。、
 アップした画像はほんの200KBほどしかありませんが、展示したものは、出力サイズ約七十センチ、解像度400で指定したので、一点で250MB近くあります。しかもtiffで圧縮したて
そのサイズなので、その前は、300MBを優に越え、スキャンに一点あたり20分以上かかりました。後で、リスマチックなどの出力センターのスキャンサービスの料金を調べたら、50MBで5000円、以後10MBあたり1000円とか書いてあったので、250MBだと……2万5千円?! 金額に換算すると実感が出ると思うけれど、展示したものはかなりの精細度です。あるいは、たとえば、蚤の眼が人間なみの解像度、色感を持っていたとしたら、こんな風に見えるのではないか、というか。

 そんなわけで、これは、厳密に言うと、いや、厳密に言わなくとも、明らかに写真ではありません。何故なら、写真はレンズを使うのが大前提だけれど、これは(スキャナーの構造はよく知らないけれど)レンズは使ってないのです。使っていたとしても、少なくともカメラのようには使っていない。したがってこれは、写真だとどうしても「潰れた空き缶のイメージ」ということになるけれど、「イメージ」ではないのです。では、なんというかというと……レーザー光線で実物をなぞることで、位相変換したというか……しかし、人間はどうしても、対象となる存在を、どこかの段階で「イメージ」という、一種のイデオロギーというか、可能性に変換してしまわざるを得ない。
 しかし、たとえば全盲の人は、そのような「可能性」に賭けるわけにはいかない。そんなことをしたら、たちまち車に引かれて死んでしまう。全盲の人は、あくまでも「接触」を基礎とする世界で生きるしかないわけで、それはたとえばこの潰れた缶の世界で言えば、ここには極めて細かい傷が無数に刻まれているのだけれど、その傷一つ一つがリアリティを持つ世界、そういう世界に生きているというか……。

 うーん、どうしても、一度は、生まれついての全盲の人に、その「感覚世界」というものを聞いてみたいと思うところだが……たとえば、全盲の天文学者というのはあり得るだろうか。そもそも、天文学というものは、宇宙のイメージを研究しているわけではない。むしろ、健常者ほどそのイメージにごまかされて、宇宙の真相から妨げられているとも言えるとしたら、盲目はハンディなどではないかもしれない。
 たとえば、大学の先生から、宇宙がいかに広大であるかを聞かされた時、健常者は、どうしてもイメージをそれに合わせて膨らませることで理解しようとする。言い変えると、「自分」が膨らんでしまう。全盲の人は、少なくとも、そういうことはありえない。逆に、「自分」がどんどん小さくなっていくのかもしれない。「潰れた缶」を宇宙と仮定すれば、「自分」が、その微細な傷の中にどんどんどんどんどんどん……入り込んでいくというか。そんなイメージが……うーん、またイメージが(笑)。


 それはともかく、展覧会は終わりましたが、まだ部屋にはそのまま飾りっぱなしなので、興味のある方はどうぞ、見に来て下さい。(ちなみに、it`s a small world!は展覧会のタイトルです)

 ではでは。

親王誕生

2006-09-09 00:03:37 | Weblog
 相変わらず蒸し暑い。天気予報では、明日から気温が下がるようなことを言っているが、汗っかきな私としては、期待したい。

 山手線で、ぼんやり、液晶テレビのサービス画面を見ていたらつんくが現れ、自分が企画したリズムゲームの宣伝をはじめたが、一瞬、誰だかわからなかった。すっかり落ち着いたいい男になっている。「いい男」は言い過ぎかもしれないが、つんくは前から好きなので、変貌にちょっと満足した。

 紀子様、男児御出産。テレ朝のスーパーモーニングを見ていたら、街頭インタビューの形で、女性天皇でもいいじゃないか、みたいな意見をしきりに流していた。しかし、いわゆる男系を守れとする保守派も「女性天皇」を否定しているわけではなく、たとえば、愛子ちゃんが天皇に即位することは問題ないが、即位された愛子天皇が結婚されて子供が生まれたとして、その子供が次の天皇位につくと、以後、小和田朝になってしまうので、まずいと言っているはず。
 しかし、「小和田朝」という言い方もちょっと実感からずれているような気もする。何故なら、中国や朝鮮では、女性は結婚しても旧姓のままだが、それは、妻は夫の一族には入れないという意味だ。これが、本当の意味の「男系社会」だが、しかし、日本の場合は女性は結婚したら夫の姓を名乗る。つまり、夫の一族に入るわけだから、雅子様も結婚された時点で「小和田家」の人間ではなく、天皇家の人間であり、したがって、そのお子さまである愛子ちゃまのお子さまが天皇になったとしても、「小和田朝」ができたという印象は、少なくとも一般にはないと思うのだが……。

 こういうのはどうだろう。
 次の天皇は愛子ちゃま。その次の天皇は、愛子ちゃまのお子様ではなく、今回お生まれになった親王様か、親王様のお子様(男女不問)に大政奉還する。ちょっと御都合主義かな。(正直言って、「女性君主」なる存在はこれからの国際社会にアピールするところ大だと思うのだ。前にもちょっと書いたけど)

新マーフィーの法則

2006-09-04 10:33:50 | Weblog
 T村A子さんから、マイミクシーへの……えー、なんていうんだろう……参加要請というか、そういうメールを頂いたのだけれど、承認のメールを出す途中で、知りたいことがあったので、ちょっとヘルプ機能をよそ見したら、メールが消えてしまいました。すいません、谷Mさん、もしこのブログを見ていたら、もう一度メール下さい。

 ヤフオクでまたしても自転車(ロードタイプ)の入札に競り負ける。欲しいものは競り負け、大して欲しくもないものを競り落としてしまう。これもマーフィーの法則?