年末から年始にかけてのテレビ番組は極端につまらないなあ。
と思うのは私だけではないと思うのだが、理由は明確で、普段の番組が、いわゆる「おせち番組」風なので、本物のおせち番組の影が薄くなってしまったのだ。
実は、昔の、といってもそんなに極端に昔ではないが、「おせち番組」はけっこう面白く、評判がよかった。
それで、味をしめたテレビ局が、愚かにも、レギュラー番組にしてしまったため、両方ともダメになった、と私は思うのだが。
そんなわけで「どうしようもねーなー」と思いながら、ほとんど一秒未満でチャンネルを変えているうち、一つの番組に目が止まった。
フォーククルセーダーズの北山修が、久しぶりに開いた「フォークル」のリサイタルのステージで、前説のようなMCを語っているビデオだったが,そこで、こんなふうに言っていた。
「今日は何十年ぶりかのステージなので、前の晩眠れなくて、明け方、二度寝をしたのですが、そのとき、夢を見たのです。そこで、加藤和彦が、まだ、このコンサートが終わってもいないのに、もう次の準備をしているのです。私は彼に、今日のすら終わっていないのに、と言うのですが,彼は私の言うことを聞かない、そういう夢でした。よって、今日のコンサートのテーマは、“まだ終わっていない”です。」(会場どっと湧く。)
この後,北山修が、自分の夢をどう分析したのか、知らぬまま外出してしまったのだが、この夢の意味は後になってみれば明白で、北山修が、「現在」が終わっていないうちから「未来」へ進みたがる加藤和彦のことを、「フォークル時代」から危惧の念を持ってみていたこと、そして、その危惧が、不幸にも的中してしまった――ということだ。
要するに北山修は、今やっていることが「終わっていない」のだったら、我々に出来ることはそれを「終わらせる」ことだけだ、とかつての仲間、加藤和彦に向かって言ったと考えられる。
しかし、それを「今日を終わらせなければ、明日は来ない」と、ありふれた意味で言ったかというと――年末年始にかけての言葉にはふさわしいものの――ちょっと当たり前すぎる。
「今日」を終わらせなければ「明日」は来ないことは事実には違いないが、人間は、生きている限り――漱石の「道草」じゃないが――何事も「終わらせる」ことはできない。
しかし人間は、だからこそ「終わらせる」ことに象徴的な意味を与えようとするし、それの具現化が「芸術」だ、そうじゃないか、加藤君と、北山修は、多分、言いたかったのだ、と思う。
というわけで、未だ成長過程にある子供は別として、大晦日で一年を終わらせ、正月を持って新しい始まりとするのは人間の単なる願望で、したがって、それを目指して行われることもすべては「儀式」以上のものではないのだが、しかし「儀式」を行うなら行うで、それなりの「熱狂」が欲しいのだが,それもおせち番組の日常化で、テレビの世界ではまったく失われてしまった。
――と、今夜の紅白を皮切りにはじまる、全マスコミの「新生」へ向けた空疎な言葉のあれこれを思うと、今からバカらしい思いにいっぱいとなるのだが、とりあえず、皆様、
「佳いお年を」。
一月中には、写真集「風に吹かれて」出ます。
と思うのは私だけではないと思うのだが、理由は明確で、普段の番組が、いわゆる「おせち番組」風なので、本物のおせち番組の影が薄くなってしまったのだ。
実は、昔の、といってもそんなに極端に昔ではないが、「おせち番組」はけっこう面白く、評判がよかった。
それで、味をしめたテレビ局が、愚かにも、レギュラー番組にしてしまったため、両方ともダメになった、と私は思うのだが。
そんなわけで「どうしようもねーなー」と思いながら、ほとんど一秒未満でチャンネルを変えているうち、一つの番組に目が止まった。
フォーククルセーダーズの北山修が、久しぶりに開いた「フォークル」のリサイタルのステージで、前説のようなMCを語っているビデオだったが,そこで、こんなふうに言っていた。
「今日は何十年ぶりかのステージなので、前の晩眠れなくて、明け方、二度寝をしたのですが、そのとき、夢を見たのです。そこで、加藤和彦が、まだ、このコンサートが終わってもいないのに、もう次の準備をしているのです。私は彼に、今日のすら終わっていないのに、と言うのですが,彼は私の言うことを聞かない、そういう夢でした。よって、今日のコンサートのテーマは、“まだ終わっていない”です。」(会場どっと湧く。)
この後,北山修が、自分の夢をどう分析したのか、知らぬまま外出してしまったのだが、この夢の意味は後になってみれば明白で、北山修が、「現在」が終わっていないうちから「未来」へ進みたがる加藤和彦のことを、「フォークル時代」から危惧の念を持ってみていたこと、そして、その危惧が、不幸にも的中してしまった――ということだ。
要するに北山修は、今やっていることが「終わっていない」のだったら、我々に出来ることはそれを「終わらせる」ことだけだ、とかつての仲間、加藤和彦に向かって言ったと考えられる。
しかし、それを「今日を終わらせなければ、明日は来ない」と、ありふれた意味で言ったかというと――年末年始にかけての言葉にはふさわしいものの――ちょっと当たり前すぎる。
「今日」を終わらせなければ「明日」は来ないことは事実には違いないが、人間は、生きている限り――漱石の「道草」じゃないが――何事も「終わらせる」ことはできない。
しかし人間は、だからこそ「終わらせる」ことに象徴的な意味を与えようとするし、それの具現化が「芸術」だ、そうじゃないか、加藤君と、北山修は、多分、言いたかったのだ、と思う。
というわけで、未だ成長過程にある子供は別として、大晦日で一年を終わらせ、正月を持って新しい始まりとするのは人間の単なる願望で、したがって、それを目指して行われることもすべては「儀式」以上のものではないのだが、しかし「儀式」を行うなら行うで、それなりの「熱狂」が欲しいのだが,それもおせち番組の日常化で、テレビの世界ではまったく失われてしまった。
――と、今夜の紅白を皮切りにはじまる、全マスコミの「新生」へ向けた空疎な言葉のあれこれを思うと、今からバカらしい思いにいっぱいとなるのだが、とりあえず、皆様、
「佳いお年を」。
一月中には、写真集「風に吹かれて」出ます。