パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「ものづくり大国」の危機

2011-03-31 11:29:12 | Weblog
 「がんばれ東北」「やればできるさ、日本は」

 という論調で今、日本は埋め尽くされているが、経済の専門家の話では、そんな「がんばる」精神でどうにかなるようなものではないようだ。

 というのは、東北の行政当局が誘致した工場でつくられている製品が、その工場の破損に伴い、別の、日本以外の国からの調達に変わる可能性があるからだ。

 「注文主」としては、当然、そうするだろうな、と思う。

 もし、日本でしかつくれないものでないとしたら、だ。

 ここが肝心だ。

 日本以外で調達できるなら、そうするだろう。

 日本は、「ものづくり大国」を標榜してきたが、「ものづくり」とは、これまで何度も書いてきたように、忍耐強く、感受性の豊かな日本人の特質を最大限に駆使した、一言で言えば「職人仕事」である。

 しかし、「職人仕事」というものは、基本的に「誰にでも出来る」ものなのだ。

 「誰にでも出来る」なら、中国人にだって、できる。

 実際、その通りではないか。

 もちろん、まだ中国人にも出来ないような製品も存在するだろうが、あくまでも、「まだ、できない」であって、いずれ「できる」ようになるにちがいない。

 中国人でなければ、他の誰かが、日本の穴を埋めることになるだろう。

 それが「職人仕事」の宿命なんだということを、私は当ブログで数年前からしきりに主張してきたのだが、「ものづくり大国を目指す」という、「国家戦略」は、なんとなく、「空気」で、「これしかない」と決まってしまった。

 10数年前、アメリカで、「工場はアメリカにいらない」という経営者が現れ、「必要だ」とする人々との間で激しい議論が展開されたのだが、日本では、「議論そのもの」がまったく提起されなかった。

 こんな「問題」があるなんて、思いもしなかったという感じ。

 というか、今も、全然気づいていない、というか、気づきたくないんだろうなあ。

 実際のところ、バブル崩壊後の日本は、議論せずして全員が賛成した(私は「賛成」なんかしていないが)「ものつくり大国」の復活を目指してきたのだ。

 しかし、それがなかなかうまくいかず、「じり貧」だったところに、この大震災。

 それで、人々は皆いっせいに「復興」を叫んでいるわけだが、「復興」で目指すところは何かというと、これもまた当たり前のごとく、「ものづくり大国」なのだ。

 橋本治は、近代以降の日本人の行動、思考を概括して、「あまり頭はよくない」と喝破しているが、現状を見ると、「そうだろうなあ」と思わざるを得ない。

震災後に思う、「貧乏は正しい」

2011-03-26 18:55:40 | Weblog
 昨日、NHKの経済番組に孫正義が出ていて、現今の福島原発問題に関連して、他の出席者がみな「希望的観測」すなわち「願望」を語っていたのに対し、「今後、さらなる被害が報道された場合、日本は崩壊せざるを得ない」と「最悪の事態」を想定して言っていた。

 さすが、在日。

 いや、別に、孫が「在日」だから、心の底で日本の崩壊を望んでいるというのではなく、島国の日本からは慣れることが出来ない日本人よりも、より客観的に、「最悪」のことを考えることが出来るのだ。

 「島国」なんで、しょうがないということもあるが、マスコミはみな「がんばれ、日本!」とか、「一つになろう」とか言っているが、言ってる人は、自分が同じことを言い続けていることに気づいているのだろうか?

 「未曾有の大地震」のずっと前から、バカの一つ覚えのごとく。

 言っている人は、たぶん、「今度こそ本当に、本気で一つにならないとダメだ」という思いを込めて、よりいっそう声高に言っているのだろうが…それって、言っている人の「信念」に過ぎないのだよな。

 それにしても、かつてイザヤ・ベンダサンは、日本人とは日本教徒であると言ったのだったが、本当に日本人は日本教の信者なんだな、と感じることしきりな毎日だ。

 しかし、日本教の信者ではない日本人もいることを忘れないでほしい。

 昨日は、久しぶりに「朝生」を見たが、同番組に出ていた池田信夫氏が、翌日の(ということは今日の)ブログで、福島、宮城、岩手の各県を被災地復興特区とし、ベーシックインカムをはじめとする諸施策を大胆に行えと書いていた。

 私も賛成だ。

 だったら、番組中に言えよ、と言いたいが、それはさて、今回の津波にも耐え得るような堤防を作り、その前提で、従来の市街区を「復興」させることに意味はない。

 むしろ、「特区」をつくって、一から別の「街」をつくるしかないだろう。

 それにしても、福島原発はこの後、どうなってしまうのか。

 一進一退を繰り返しているということは、「客観的」に見れば、「悪化は防いでいる」と解釈できるので、「このまま」は、「このまま」にあらず、「このまま」であるかぎり、事態を「悪化」ではなく、「このまま」におさえている「防衛手段」が功を奏する時がいずれ訪れ、おさまるだろうと希望的に思っているのだが。

 近所のスーパーで、茨城産のほうれん草が「三束百円」で投げ売りされていた。

 けっこう売れていたみたいだが、もちろん、私もゲット。

 「貧乏は正しい」は、こういうことでもあるのだ。

 

同情するなら、金をくれ

2011-03-21 14:22:04 | Weblog
 「頑張れ」という言葉が鬱病患者に禁句であることは,鬱病患者自身から聞いたことだ。

 その「患者」は女性だったが,彼女が言うには、中島みゆきの歌なんか、「最悪」だそうだ。

 「頑張れ」と言われるような立場に立って(まあ、年齢的にとかいろいろね)、はじめて彼女の言っていることが理解できた。

 被災者も、半ば、鬱病患者みたいなものと思えば、「頑張れ」なんて言っていけないことは、理解できる。

 はっきり言って,「頑張れ」は、非当事者の言葉なのだ。

 真意は,「あんたたちはあんたたちで自立しなさいね」だ。

 「同情するなら,金をくれ」という名セリフがあったが,あれだね、今、本当に必要なのは。

 一億一心、意をひとつにして事に当たれば,何事もなし得ると言っているNHKをはじめとするマスコミの言葉は,まさに前次大戦の末期を思わせる。

 原子炉消化に突進する東電職員,消防隊、自衛隊員らは、特攻隊員だ。

 もっとも、私自身は、特攻隊員を「是認」、かつ「尊敬」しているし、現在の特攻隊員も同じだ。

 「為すべきことを為す」という意味で。

 昨日の昼過ぎ,テレビをつけたら、NHKで、アラスカのマッキンリー山の冒険譚らしきものを放映していたが,はなはだしい違和感を感じた。

 「困難に立ち向かった冒険家の悲劇」を思い出すことで,この「難局」を乗り越えようというメッセージなんだろうが、なんたる陳腐!

 「冒険」というものが、まさに日常の文明生活が安定的に営まれていることを背景に、その文明の先端で行われるものであることを、その「違和感」は物語っていた。

 「頑張る」とは,基本的に,「一人で頑張る」のだ。

 それで単独で頑張って、危機に追い込まれた東電が、「文明の危機」を招いてしまったのだ。

 そんなときに、冒険家の悲劇をうったえたところで、何になるだろう。

 言ったように、「冒険」は、それがなんであれ、文明の先端で行われるものなのだ。

 

二日連続で「計画停電」に遭遇

2011-03-20 20:03:43 | Weblog
 昨日、いやおととい、またも「計画停電」に遭遇してしまった。

 昼過ぎの3時からということだから、6時には終わるだろうと思い,6時少し前に、近所のスーパーの前で待った。

 スーパーの掲示板にも、電気がつき次第,開店しますと書いてあり,予定として、6時頃と書いてあった。

 しかし、6時を過ぎても一向に電気は来ない。

 実は,その前に近所の警察署、川口警察署の前を通ったのだが,警察の前の信号がついていた。

 「あ、予定より早く終わったんだ」と思ったが、すぐ隣の交差点の信号が消えている。

 よく見たら,川口警察の前の信号は、警察官が自前の発電機で動かしているのだ。

 なんか、釈然としないものを感じながら、スーパーに向かったのだったが、そのスーパーの前には信号があり,見ていると,極めて危険である。

 死亡事故が2件報告されているが,よく2件ですんだものと思う。

 アメリカだったら,ものすごい金額の賠償金を請求されるぞ、と考えながら、いくら待っても、電気はつかない。

 6時40分あたりであきらめて部屋に戻ったが、戻ってからもなかなか電気はつかない。

 やがて、パソコンの音がした。

 電気がついたのだが、パソコンは消していたはず。

 …だと思ったのだが、音が鳴ったということは、つけっぱなしであったのだろう。

 ところが、画面がつかない。

 あれと思い、パソコンを見ると電源が切れている。

 で、電源を入れると、電源が入らない。

 そういえば,「起動音」がどこか、いつもと違っていた。

 ぶっ壊れたのだ。

 実は,ノートパソコンがあるので、それで今つないでいるのだが、アメリカだったら…でも、ここはアメリカではないし、しょうがないのか。

 それにしても、二日連続の「計画停電」遭遇はきつい。

 生活のリズムが完全に崩れる。

 何にもできない,と言っていい。

 東電だけで「頑張る」のではなく、中部電力でも、東北電力でも、ロシア電力でもいいから、緊急援助を要請すればいいのに、とつくづく思う。

 こちらから、「援助」には赴くのに。

 やっぱり、「頑張る」精神hはよくないのだ。

 「助け合い」の精神で頑張っても、何にもならない。

 むしろ、「我欲」を満たすこと、あるいは守ることこそが展望を開くだろう。

「計画停電」と「買いだめ」

2011-03-18 10:02:43 | Weblog
 近所のスーパー、コンビ二はどこも空っぽである。

 なんで「空っぽ」なのかと言うと、棚の商品が見る見るうちに少なくなるので、不安に駆られたからだ。

 それはまちがいないのだが、なんで、商品がなくなるのか?

 それがわからない。

 道路の渋滞の先頭がどうなっているのか、当事者にわからないのと同じだ。

 具体的には、大雑把だが、商品の流通が地震の影響で滞っているのだろう、そう思っていた。

 商品自体が少なくなっているため、消費者の不安感が増し、「買いだめ」に走らせた。

 そう思ったのだが、実際には、商品の供給は減っていないのだそうだ。

 つまり、事実は「買いだめ行為」が先行したのだった。

 しかし、「買いだめ」が「買いだめ」を呼んでいることは分析するまでもなく、明らかであり、解明すべきは、なんで「買いだめ」が発生したか、だ。

 要するに、道路の渋滞の先頭がどうなっているか、だ。

 私が思うに、東電の「計画停電」が「買いだめ」現象の一つのきっかけになったのではないか。

 一般世論は、「計画停電」には概して好意的というか、「やむを得ない」という感じだったが、「やむを得ない」と納得する一方、「自分の身は自分で守る」ことになったのだ。

 それが「買いだめ」だ。

 このことは、「買いだめ現象」が発生した時期を検証すれば自ずと明らかになると思うが、実際のところ、「買いだめ」は「計画停電」の実施とともに始まっているのではないか。

 最初になくなった商品が乾電池だったというのが、その傍証になると思う。

 いずれにせよ、東電のなすべきことは、今の電力供給能力ではいずれ大規模停電が起こることが避けられないことを予告し、その対処方法として、大口消費者との協議を行い、同時に一般大衆に「節電」を呼びかけつつ、「大規模停電=計画停電」を避けるべく、懸命の努力をすると言明することではなかったか。

 不安感を除去すること、それが大事であるはずだが、東電は、原発問題も含め、まるで逆のことをしているとしか思えない。

 ところで、昨日、メールをいじっている最中、7時の時報とともに、突然停電が来た。

 ワンセグでテレビを見ようと思ったが、ワンセグ用の電波が届かない。

 真っ暗の中でウォークマンを聴きながらふて寝するしかない。

 停電は、3時間きっちり続いた。

意外な展開

2011-03-16 10:30:52 | Weblog
 築地の朝日新聞社で、「アサヒカメラ」のインタビューを受ける。

 インタビュアーは、私もその名を知っている、けっこう有名な写真批評家、上野修氏だったが、上野氏、開口一番、「アウトをつくっていたのはいつ頃ですか」と言う。

 「ガンダムの頃ですね」と言うと、「ウワー、実は、私の姉が熱狂的なアウシタンで、私もその影響で、アウトやアランを読んでいたんですよ。姉は、自分で同人誌をつくってコミケに出してました」と言う。

 それも、なんとなく、「今でもやっている」ぽい口調。

 「あの南原さんが、こんな本を出すとは、編集部から本が送られてきた時、びっくりしたんです」。

 その後は、できるだけ「真面目な話題」に集中するようにしたものの、相当に強烈な記憶であったらしく、話の節々で「アウト」「アラン」に話題が振れる。

 私も、「真面目な話をしていても、最後におちゃらける癖がついてしまって」と応じたり、かなり話題が拡散したが、ベテランのライターだから、そこそこ真面目で、なおかつ「あの南原さんがこんな本を」という風に話をまとめてくれるのではないかと思う。

 それにしても、ちょっと意外な展開。

 ところで、築地には、京浜東北線で新橋まで行き、そこから歩いたのだが、少し迷ってしまい、最後に高級ホテルのような、新聞社らしくない外見に、「わわわ」と驚く。

 朝日新聞社の前を往きつ戻りつしながら、朝日新聞社を探していたのだ。

 「驚く」と言えば、西川口の駅のベンチで電車を待っているとき、隣に座った若い黒人の男性が、ポケットから袋を取り出し、天に感謝を捧げるような仕草をした後、一言つぶやいてから、袋の中身を食べ始めた。

 「ホホー、いまどき、熱心なクリスチャンだな」と驚いたが、「祈りの言葉」が英語のように聞こえなかったので、もしかしたらイスラムの人かもしれないと思って、食べているところを横目で見ると、「肉まん」、関西で言う「豚まん」だったので、若い黒人は、やっぱりクリスチャンにちがいない。きっと。

「無計画より、計画的がいいに決まっている」か?

2011-03-15 10:21:28 | Weblog
 「帰宅難民」を経験して以来、首都圏の「混乱」は、人災であるとの思いを深めている。

 JRが、地震当日、夕方前に駅のシャッターをおろしてしまったことについて、石原都知事がかんかんに怒ったらしいが、その気持ちは大いにわかる。

 国鉄以来の「上位下達」の官僚気質がものすごく強いのだ。

 私は今、川口市民であり、JRの利用者だが、随分JR以外の私鉄沿線を探したのだ。

 結局、家賃、運賃が高いため、またもとのさやに戻ったのだが、JRは、「人命第一」の幟を、「上位下達」の精神でごり押しすることにこりごりしていたのだ。

 東電の「計画停電」も「上位下達」の精神は共通している。

 行き当たりばったりの「無計画停電」より、「計画停電」がよいという判断なのだろうが、そもそもそれがまちがっている。

 マスコミは、「やむを得ない」という意見が強いみたいだが、ソ連をはじめとする社会主義経済が失敗したのも、「無計画経済より計画経済がいいに決まっている」という考え方そのものが根本的に間違っていたからじゃないか。

 少なくとも、鉄道は停電の対象にしないよう、節約担当大臣・蓮舫が仲介になって交渉すべきだろう。

 「民放」のCMが、すべて、公共マナーを訴えるAC広告なのも気持ち悪い。

 そんな一方で、原子炉の「空焚き」が、係員のうっかりミスで、ポンプが燃料切れで止まっていたからだとか。

 人間だから「うっかりミス」はやむを得ないにしても、「気づかずにいること」に(確か、ニュースでは2時間以上と報じられていた)気づかなかった(放置していた)とは、「体質的」なものが関係しているのではないか…と、つい思ってしまう。

 日本社会の一部が、恐ろしく官僚的であること、その勢いが増していることを、なおかつ、そのことに多くの日本人が頼ろうとしているのではないだろうか。

 そんな風に思うというか、感じているのだが。

電気は来ているが、停電なんです

2011-03-14 15:55:43 | Weblog
 3時前にゆうパックを出しに郵便局に行ったら、郵便局が閉まっている。

 あれ?と思っていると、中から局員が出てきて、「計画停電」で、1時半で、業務を停止したという。

 「郵便物の重さを量りましょうか」というので、じゃあ、切手を貼った状態で、明日の業務開始まで預かってくれるのかというと、そうではなく、純粋に「郵便物の重さをはかるサービス」だという。

 要するに、切手を売ることが出来ないので、切手は他のところで購入していただいて云々という。

 しかし、中の灯りはついているし、局員がコンピュータをいじっている。

 「停電には見えないけど」と言うと、係員いわく、「電気は来ているのです」。

 そしてさらに、なんか、ごちゃごちゃ言っていたが、わけがわからず、明日の予定をきくと、今日と同じなら、今日と同じ、1時半までですと言う。

 「計画停電」は中止になったのではないの、と言うと、「一週間程度、続くでしょう」と言っていたが、そもそも電気が来ているのに、「停電」とはこれいかに。

 すべては、バカ菅のウワッスベリのパフォーマンスに起因しているように思う。

危機一髪

2011-03-12 23:27:03 | Weblog
 昨日は、3万5000歩も歩いたのに、神経が高ぶっていたせいか、眠れず。

 ケータイに、「地震速報」で何度も起こされたこともあるが、一番気になっていたのは、やっぱり「原発」問題。

 ニュースを見ると、一応JRも私鉄も動いているが、町はどこも人影がまばら。

 「昨日の今日」というわけか、今日はさすがに都心に出かける勇気はない。

 多分、みんなテレビを見ながら「原発」問題をイライラしながら見ていたと想像するが、9時頃からの枝野官房長官の説明にホッとする。

 他に見るものがないので、2chを少し見たが、「誰が信じるか」の声、強し。

 しかし、枝野の説明は、「信じるに足る」ものではなかったか。

 なんで、そんな「グッドニュース」を発表しないまま、何時間も引っ張ったのかという疑問は残るが、「慎重を期す」余裕があった故の「引っぱり」と考えれば、よい。

 記者の間から時々「拍手」のような音が聞こえていたが、テレビ解説にあたった大学教授たちの言葉も、「危機一髪、最悪の危機は脱した」という感じ。

 もっとも、実をいうと、その「最悪の事態」というのが、今ひとつよく理解できていなかったのだけど。

 というか、今も「理解」できていないのだが、とりあえず、今日は眠れそうだ。

 と思った矢先、またケータイが鳴って「地震速報」が流れた。

 見たら、警告の対象は新潟県民だった。

 新潟県民の方々、お気をつけ下さい。

 私はベートーベンのピアノコンチェルト「皇帝」を聴きながら、寝ます。

トラックも4輪、バスも4輪―帰宅難民雑感

2011-03-12 00:08:02 | Weblog
 終日、「地震」情報である。

 日本近辺では史上未曾有の大地震だそうだが、私は、赤羽駅で乗り換え中に遭遇した。

 プラットホームで電車待ちしている時に、なんか、足下がおかしいなと思っているうちにがたがたと音を立てて本格的に揺れ始めた。

 私が経験した中では、もっとも大きいように思った。

 やがて、「いつ運転再開になるかわかりません」とアナウンスが流れたが、30分ぐらいで落ち着いてきたので、「再開」を期待したが、いっこうにその気配はなし。

 やがて、プラットホームにいると危険だとアナウンスが流れ、見回すと、人がめっきり少なくなっているので、私も改札口から外に出た。

 さて、どうしたらよいだろう。

 実は、板橋に用事があったのだが、赤羽は、西川口と板橋のちょうど中間。

 板橋はあきらめ、西川口に戻るか、あくまで目的を達するか。

 選択は、この二つのどちらかなのだが、歩く距離としては、西川口と赤羽のほうが、赤羽と板橋より、少しばかり長いように思われることと、終日電車が動かなくなるとは、思わなかったこと、そして、なにより用事を済ませることが出来ること等を考え併せ、板橋行きを敢行した。

 「歩け歩け」で、だいたい40分ほどで、板橋(実際は上池袋)についた。

 案外近いと思ったが、問題は「帰り」だ。

 JRの各駅を見ると、シャッターをおろし、「とりつくしまがない」感じ。

 こりゃ、失敗だった。

 赤羽でUターンしていれば、よかったと思ったが、しょうがない。

 「帰宅難民」と一緒に、とりあえず、赤羽に戻ったが、赤羽から西川口まで、どう行ったらいいか。

 候補としては、まずバスであり、バス停で、「西川口に行くバスはあるか」と聞くと、係員はなぜか、えらく威張った口調で、「ありません」と断言し、さらに、「埼玉方面へのバスはありません」と声を張り上げて周囲の人に伝達した。

 そしてさらに、「何しろ営業所同士で電話も繋がらないんですから」と小声でぶつくさ言っていたが、いくらなんでもそんなことはあるまい。

 はっきり言って、交通機関が何から何までストップしている中でバスを運行させても焼け石に水、かえって収拾がつかなくなる可能性が強いことを危惧し、「シカトしろ」と言われているのだろう。

 しょうがない。

 赤羽から荒川大橋を渡り、川口駅、川口駅から市役所方面に曲がり、中途で左折、それでまた歩く。

 都合3万5000歩で川口市中青木の自宅に戻ったが、戻ってテレビを見たら、まさに未曾有の大地震だった。

 しかし、「未曾有」なのは、岩手、福島等であって、東京に限って言えば、それほどの被害があったわけではない。

 部屋に山積みしてあった「風に吹かれて」も無事だったし。

 少なくとも、バスの運行はできたはず。

 なぜって、他の自動車はちゃんと走っているのだから。

 トラックも4輪、バスも4輪。

 そのバスが何故トラックのように走れないのか。

 正直言って池袋と川口は、それほど離れていない。

 だから、最初から「歩く」という選択があり得たし、実行し得たのだが、しかし、浦和と池袋は、「歩け歩け」では、無理。

 要するに、東京の交通機関各社は、あえて「シカト」して、責任回避したとしか思えないのだ。

 そりゃー、世のため、人のためと、あえてバスを運行しても、「混乱しただけ」に終わったかもしれない。

 でもね、あえてそういう「混乱」を「民意」として選ぶという選択だってあり得たじゃないかと思うのだ。