パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

くそったれ

2010-06-25 19:28:03 | Weblog
 やれやれ、日本がデンマークに勝ってしまった。

 …って、別にへそ曲がりなことを言っているわけではない。

 なぜ、日本人にとって日本チームが勝つことが「よい」ことなのか?

 それは、日本チームが勝つことによって、日本人がワールドカップをより多く楽しむことができるからだ。

 ところが、日本チームが勝ったことで、ワールドカップの報道は、日本チームの勝利に集中し、これまで充分おろそかだったワールドカップそのものの報道が、さらにおろそかになってしまう。

 実際、イタリア対スロベニアだったかスロバキアだったかの結果がわからず、イタリアが予選敗退し、「アズーリ」が泣き崩れているのを見たのは、山手線の車内テレビだ。

 それなのに、「ワールドカップサッカーは民放で」と、局CMをしゃあしゃあと流す。

 くそったれである。

 

馬も四つ足、鹿も四つ足

2010-06-19 19:21:29 | Weblog
 以前、事務所に壁掛け式の扇風機があったが、うっかりして落として壊してしまった。

 その代わり、というわけでもないのだけれど、冷暖房の補助として買った、室内の空気攪拌機械、サーキュレーターを扇風機代わりに使おうと思ったが、これが全然だめ。

 とても、かつて工学部に在籍したことのあるものの考えることではないが、ともかく、「ダメなものはダメ」とわかり、扇風機をセットしてみたら、これがびっくり、ちゃんと涼しいのだ。

 しかし 考えてみれば、サーキュレーターは、「室内の空気を攪拌」するのだから、当たり前の話なのだが、「風が発生する」という意味では扇風機と変わりはないのではないか?

 「馬も四つ足、鹿も四つ足」じゃないが、サーキュレーターも3枚羽根、扇風機をも3枚羽根。

 首振り機能があるかないかのちがいなのだろうか?

 わからないが、わかったことは、我が工学的センスの、あまりの貧しさである。

 ところで、菅直人って、もう少しカリスマ性があるかと思っていたのだが、「首相らしさ」という意味では、鳩山のほうがあるように感じられるのはちょっと意外。

 「場」を踏むことで、それなりに見えてくるのかとも思うのだが、いまだ、その片鱗すら見えてこないのは、どういうわけか。

 「肩の荷」をおろして、悠然と議会席に座る鳩山に、「元首相」の「貫禄」が感じられるのは実に皮肉。

 さて、日本対オランダ戦であるが、マスコミが「煽る」のは、まあ職業上やむを得ないにしても、煽る方と煽られる方が全然ミスマッチというか、意思が通じていないように見える。

 バラエティ番組の延長、「ばか騒ぎ」としてしか伝わって来ない。

 日本には勝ってほしいものの、それを思うと、勝ってほしくないとすら思う。

 心配無用か?(笑)

大奥の悲劇

2010-06-18 15:52:20 | Weblog
 ものすごい、きんきらきんのあでやかな和服姿の渡辺(旧黒田)アナ司会の、歴史番組、江戸城大奥物語を、再放送で見る。

 江戸時代の「奥女中」は、だいたい12、3歳~15歳くらいで奉公を始めるらしいが、だとしたら、『紅楼夢』とほぼ同じだ。

 AKBを見るまでもなく、やはり15歳くらいが「花の盛り」で、20を過ぎたら「大年増」というのは、マスカッツを見るまでもない。

 それはそうと、その江戸城大奥に、「50年に一人の逸材」と呼ばれた少女がいたそうだ。

 要するに、容貌もよければ、性格も従順、かつ仕事もよくでき、ということなのだろうが、彼女は、常日頃、家に戻りたいと熱望し、母親に「早く帰れるようにお願いします」と手紙に書いていた。

 ところが、その矢先に、大奥で火事が発生、仕えている女主人の行方を探すと、その女主人は既に他の女中に背負われて逃げるところで、ほっとし安心したところに、「○○は何処?」と言われ、彼女は燭台を手にさらに探していると、奥から逃げてきた女中が、「○○は奥にいる」と言われる。

 もう、到底助け出すことはできない。

 ということは、彼女には、女主人の命令を果たすことはできないということであり、そのことを察した彼女は、手にした燭台をその女中に見せ、「燭台を手にした死体があったら私と思ってください」と言い残し、燃え盛る炎の中に入ってゆく。

 この行動は「美談」として受け継がれ、女中としては異例の美人浮世絵として残っている。

 という、渡辺あゆみアナの解説だったのだが、渡辺アナは、当時と同じく、「美談」として紹介し、彼女の死が「あてつけ」「抗議」であったことには触れていなかった。

 火事の中に、「燭台」をもって飛び込むなんて、女主人、ひいては「大奥」という制度に対する、あてつけ、抗議であることは明白ではないか?

 それとも、「美談」として語られることそのことに、「暗黙の抗議」が込められていることを、人々は、これまた「暗黙」ののうちに察知していたのだろうか?

 最初はそうだったかもしれない。

 しかし、それも、「美談」として語られる中で、NHKの番組がそうであったように、忘れられてゆく。

 では、もし同じ事件を、『紅楼夢』の作者が描いたらどうなるだろう。

 おそらく、女主人は「なんというあてつけがましいことを」と激怒するにちがいないが、別の女中が、「お怒りはごもっともですが、ここは彼女が命令を果たそうとしたことを不憫に思っている、とそうお言いなされませ、さもないと、人々はなんと思いますでしょう」とか助言し、「それもそうだ」と、遺族に金一封を与えて話を終わらせるだろう。

 つまり、「美談」は「美談」だが、その中に、大衆の「抗議」、「あてつけ」をしのばせる。

 その結果、「美談」は、「語られる」たびに、彼女の無念を思うことになる。

 これが、中国のやり方だが、それと対照的なのが、菊池寛の『恩讐の彼方』や、芥川の『杜士春』だと、駒田信二は言う。

 いともあっさりと「恨み」を放棄し、「人間性」の全面的的肯定で話をまとめてしまうことは、日本の大衆自身がそういうものを求めておらず、芥川も菊池もそれにしたがっただけなのかもしれないが、知識人としての文学者のあり方として、それは正しいだろうか?

 実際のところ、女形役者や遊女等に限られていた「美人画」の題材に大奥の女中があてられることは、異例中の異例なんだそうで、だとしたら、それを許可した江戸幕府は、一女中のあてつけ抗議が人々に伝わることを恐れたのだ。

 そう考えると、その底意も知らず、「美談」に終始する日本の文学者の対応は、江戸時代の馬琴を含め、いかにも不甲斐ない、と駒田は批判する。

 はっきり言って、納得。

 
 菊池寛は最初から大衆作家だから話は別として、『杜士春』、『走れメロス』のインテリ作者がそろって自殺してしまったのも、故なきとしない…のかもしれない。

萌え~の世界

2010-06-17 22:48:38 | Weblog
 「18歳未満と想定される非実在の青少年を性的対象にしたアニメやマンガ」を規制する東京都条例が問題になっている。

 との記事を読み、もう5年以上前に出した「月光」最終号(いやそう決まったわけでは…)のことを思い出した。

 それは、みんながよく知っている漫画の少年少女を「緊縛」して遊ぶマニアを紹介したもので、本にする時は、「本当はヤバいんだけど、読む人少ないし、読む人も理解もっているだろうし」と勝手に解釈したのだが、そのとき「ヤバい」と思ったのは二つあって、一つは、未成年の少年少女が「緊縛趣味」の対象になっていること(中に、小学生の子供が暴漢に襲われ、陵辱される母親を目撃して興奮してしまう、という設定もあった。これが実は一番面白かったりして…)、もう一つは、キャラクター侵害とみされて作家から訴えられないかということだった。

 いずれもごく少部数であったので(トホホの事実だが)、大過なくすんだのだが、「18歳未満と想定される非実在の青少年を性的対象にしたアニメやマンガ」って、たとえばウランちゃんなんかどうなんだろう。

 あれ(?)は、ロボットだぞ。

 って、それでも「非実在」の世界では、「性的対象」になりうるわけだが、牽強付会かもしれないが、『紅楼夢』の冒頭で、主人公の宝玉が、自分より年上の「姪」の寝室で昼寝をし、その間に夢を見るが、その夢に、仙女が現れ、宝玉に、「そなたは淫らである」と宣告される。

 宝玉は、「あっ」と驚き、

 「とんでもありません、私はまだほんの少年で、かしこくて美しい少女が好きですが、一緒にカルタをしたり、詩を作ったり、彼女たちが刺繍をしているところを見たりするのが好きなだけで、決して淫らがましい気持ちはありません」

 と否定すると、仙女は、宝玉が淫らであるというのは、私たちの世界(すなわち、「非実在」の世界)で「意淫」というもので、凡俗の人がふける「淫ら」とはちがうが、でも結局は、「淫ら」なのだという。

 なるほどね、である。

 「18歳未満と想定される非実在の青少年を対象にしたアニメやマンガ」は、この「意淫」のやからの「意」を対象にしたもので、主観では「可愛い」から、大好きなだけで、淫らなことをしたいのではないと言いながら、その「可愛い」と思う気持ちは、結局「淫」に発し、「淫」に帰してしまうわけだ。

 漫画の「鉄腕アトム」で、アトムの燃料が「お尻」から、それもお茶の水博士の奥さん、すなわち、実質、「母」から注入され、アトムが顔をしかめている場面があり、「あ!」と、驚いたことがあるが…まあ、今の日本で、「文明」の名に値するものといったら、この世界だけかも。

 だから、「規制するな」と言いたいわけでもないし、そもそも、「文明」とは何かという問題もあるのだが、難しい問題なので、またいずれ改めて。

紅楼夢譚

2010-06-16 20:06:44 | Weblog
 また間隔が空いてしまったが、がんばって…。

 岩波文庫版、「紅楼夢」全15巻らしいのだが、4巻まであっという間に読んでしまった。

 5巻以降は手元にない。

 買うと、文庫本のくせに、一冊500円近いので、古本屋で見つけることにし、その間、人間関係が複雑ということもあるので、一巻から読み直すことに。

 それくらい、面白い。

 私が思うに、「美少女萌え~」の典型的なお話。

 原作では登場女性はだいたい14、5歳、人妻でようやく20前後のようだが、感覚としては、4.5歳の女の子が七言律詩をつくり、哲学的会話を楽しむ、その意外なギャップを楽しむ、という世界。

 あえて例えれば、宮崎勤が法廷で、殺した女の子が夢に現れ、「お兄ちゃん、ありがとう」と言ってくれたと妄想を語って物議をかもしたが、あの世界に近いと思う。

 何に対して「ありがとう」かというと、宮崎勤の好きな「オタク」のうんちく話をたっぷり交わし、「面白かったわ、ありがとう」と、幼女と「同士」の契りを交わすことができたら嬉しいと思ったのだが…と宮崎勤は考えたのだった。

 というわけで、「もしかしたら」と思って入った、今にも建物ごと崩れ落ちそうに本が渦高く積まれた古本屋で、「もしかしたら、あるかも…でも、こういう店って見かけ倒しで案外高いんだよなー」とか思いながら店の中を歩いていると、

 「鞄、おろしてゆっくりみなよ」

 と後ろから声がする。

 振り返ると、店主らしい随分年配の老人が「本の上でも構わないからさ」と言う。

 それで、そのお言葉に従うと、追いかけるように、

 「ちょっと上見てご覧」と言う。

 仰せの通り、親父の頭の上あたりに視線をやると、何やら「額」がかかっている。

 「全国古本屋連盟、って書いてあるだろ。オレ、その全国古本屋連盟をつくったの。オレが。」

 「ほほう」

 「GHQ、ジェネラルヘッドクォーターね、あの親玉のマッカーサーに掛け合ってね。オレが」

 「ほほう」

 「それでつくったの」

 「ははー」

 「そのマッカーサーがね、トルーマンから解任されて日本を発つ前に、オレんとこに挨拶に来たんだよ。今、あんたの立っているところに立ってね、義理堅いねえ、アメリカ人らしくないよ、って言うと、貴君はよく働いてくれた、って、あんたの立っているそこに立ってさ」

 と、そろそろ退散しようと店先に出た私をとっつかまえ、逃げ出しそうな私の雰囲気を察してか、中をよく見てよ、面白い本があるよ、時間あるんでしょ、と言う。

 私は、「いや時間はないんですけどね」と言いながら、「古本屋は主人の趣味をもろに反映しますからねえ」とかお愛想を言って、薄暗い店内をもう一度のぞくように見る(振りをする)と、「聞いてよ、オレが古本屋連盟をつくったんだよ、マッカーサーに掛け合ってさ、そのマッカーサーが日本を離れる前に、来たんだよ、今、あんたが立っているそこに立ってさ」とまったくおなじことを話し始める。

 しょうがねーなーと思いつつ、下手に口に出して、「それならあるよ」と、手元に4巻まではあるものを全巻そろいで高い金で買わされはしないかと警戒していた本の名前を明らかにすると、

 「『紅楼夢』ね、いい本だね、ついこの間までずっとあったんだけどさ、ようやく売れたところなんだよ」。

 「オイオイ」

 である。

 しかし、まあ、店を辞する口実はできたと思い、ほっとすると、すかさず、「全国古本屋連盟」と「マッカーサー」の話を始める。

 「ここにこういう面白い本屋さんがあるとわかったので、また来ますよ」

 と適当に言ってサヨナラしたが、かつてマッカーサーが立っていた、そこに立って、おじいさんの目に映っている、「我が身」を想像すると、「空漠」の二文字が思い浮かんだ。

 嗚呼!

 て、他人事じゃないけど。

「菅」は「すがわら」の「すが」?

2010-06-09 21:21:54 | Weblog
 「管」じゃなくて、「菅」でした。

 訂正。

 今まではっきりしなかったが、菅原(スガワラ)の「菅」なのだな。

 よし。覚えておこう。ややこしいが。

 その「菅」首相だが、自分の信念に自ら縛られるということは、あんまりなさそうな気がする。

 「現実主義者」というのはそういう意味なら、ちょっと期待するのだが、今のところは何とも言えない。

 コンビニで弁当を買い、「お箸はいりますか」と言われ、首を強く縦にふったのだが、帰って袋を明けると入っていなかった。

 中国人の店員だったので、たぶん、「お箸はいりますか?」という日本語を、英語で言うところの、ドンチューウォント?という意味合いで言っていたのだろう。

 中国語は英語と同じだから。

 というか、日本語が特異なんだが、「箸ほしいです」、といったつもりで箸が入っていないことは、これまで何度もあり、気をつけていたのだが、またやられてしまった。

 さて、今、その中国の『紅楼夢』を読んでいる。

 以前、『水滸伝』を読んでそのあまりの面白さに驚き、続いて、その『水滸伝』中の一エピソードを長編に仕立てた『キンペイパイ』に挑戦したが、あまりなじめず、『紅楼夢』においておやと思って敬遠していたのだが、これがびっくり、実に面白い。

 『水滸伝』や『キンペイパイ』は、基本的に庶民の話で、その限り、つまり、なんとうか、生活の実態としては、日本の社会とあまり変わりがないのだが、『紅楼夢』は、「これぞ大家族制度」と思わせる貴族社会の話で、そのあまりの贅沢な暮らしぶりに、中国人自身にとっても「非現実的」なお話…かというと、そうではない。

 大家族制度というのは、「大家族」を理想とする社会であり、それを実現できるのはほんのひとにぎりなのだが、「理想」として庶民の間にもしっかり根付いている。

 …ということなのだろうが、ともかく、舞台となる「家」は、常時、召使い等を含めれば、5,600人が暮らしていて、屋敷の中に、「学校」まである。

 そこには、一族以外、すなわち、「お嫁さん」の親戚もまじっているので、すべて同姓というわけではない。

 ある日、その学校で生徒同士で喧嘩となり、一人が「お前は誰の親戚だ」と喧嘩相手を問いつめると、世話係りがあわてて間に入り、「お坊ちゃん、そんなことを聞いてはいけません」と叱る。

 誰が誰の親戚かなんてことを詮索したら、「話がこじれるだけ」というのだ。

 老当主曰く、「これだけの数がいるとね、毎日10件や20件の事件が起きているのですよ」。

 じゃあ、結局、普通の「社会」と同じじゃないか…というと、そういうわけではない。

 なんだか、頭がこんがらかってくるが、あくまでも、「同族」という大きな意識が人々を縛っているのだ。

 『水滸伝』なんかは、登場人物全部が「独り者」だが、彼らの意識の中にも、ちゃんと…というか、「一族」という意識が,然るべき位置を占めている。

 ともかく、日本の社会とは成り立ちがまるで違う。

 それはそうと、『キンペイパイ』って一発変換できないので、めんどくさいのでカタカナにしておいたが、蓮舫が一発変換できて、そりゃーないだろうと言いたい。

管の勘

2010-06-05 19:35:20 | Weblog
 テレビ東京で、政治評論家の田勢某が、若い頃の管首相に直接会って、「ものすごハンサムでびっくりした」と言っていた。

 確かにハンサムではあるが、ここ数年、老けた、というか、くたびれた、というか、覇気がない。

 特に「歩き方」が、ヨタヨタしている。

 もともとハンサムな上に、「颯爽」と歩いたりしたら、世間から反発を買うかもしれないと「政治的」に配慮していたのかもしれないと思うような歩き方だが、首相になっちゃえば、そういう配慮も不要で…って、生まれつきああいう歩き方かもしれない。

 それとも、やっぱり「年」のせいか?

 ケネディ大統領は、「世界一セクシーな猫背」と言われたが、あれは、日本軍の魚雷艇に乗艦がやられた「名誉の負傷」の後遺症で、それでよけいセクシーに見えた。

 というわけで、記者の前には、がんばって背筋を伸ばして現れてほしい。

 その管首相の記者経験は、やたらに慎重な物言いで、何を言っているのかわからないという意見もあるようだが、そうでもない。

 その「慎重さ」がかえって管首相の立場を明瞭に語っている。

 というのが田勢氏の見方のようで、それは当然ながら、小沢のことを指している。

 小沢は、樽床議員が120票余をとったことで、いつでも、その気になれば民主党代表=首相の座を手に入れることができると自信を深めたらしい。

 なるほどね。

 「政局」というやつは、サッカーなんかよりももっと面白い。

 ところで、「ある意味」、「ある意味」…の連発だった新首相の会見の中で、「ある意味」と似たような意味ながら、一カ所だけ違う表現があった。

 それは、消費税問題だったと思うが、「この問題については今までいろいろな表現をしてまいりましたが」と言ったのだ。

 我々は、つい「“表現”でごまかすな」的な見方をとりがちで、実際、そう思われるのを警戒してか、日本の政治家でこれまで、自分の言葉(政治的方針)を「表現」と表現した(?)人はいなかったのではないか。

 まあ、それはわからないが、管首相が、「表現」という言葉を自覚的に使ったのだとしたら、それは、これまでの日本の政治家になかった一つの見識を示したのだと思う。

 というのは、「政治」とは、畢竟、「表現」だと思うからだ。

 もちろん、「そうじゃない、政治とはまさに現実的実体に関わり、それに影響を与えることなんだ」と言う人もいるかもしれないが。

 たとえば、社民党とかね。

 夢のような、非現実的なことを主張しながら、「現実化されなければならない」と「夢」にしがみつく。

 「お前ら、政治に関わること禁止ィ」と言いたくなる。

 ボランティアしていろと。

 それはともかく、「管」という人は、それこそ「勘」のいい人、という印象が私にはある。

 その点では、小泉に匹敵するものがあるのではないかと思うのだが、それを充分に発揮するには、ちょっと元気が足りない、覇気がない、疲れているんじゃないか、とそんな気がちょっとするのだ。(「勘」だけ、というのもなんなんだけど…)

悪いことをしていないはずはない

2010-06-04 15:02:58 | Weblog
 菅直人が次期首相に決まったが、舛添がテレビで、「小沢を完全に切ることができたら、連携してもよい」とか、「自分はこれまで一貫して反小沢でやってきた」とか言っていた。

 要するに政界再編成の可能性について述べたのだが、小沢も有名な「政界再編成論者」だ。

 ということは、あり得る政界再編成の軸は、「小沢」対「反小沢」ってことになるのか?

 それは、あまりにも不毛ではないか?

 それとも、小沢をのぞくことができて、はじめて政策本位の「再編」が可能になるという話か?

 これも変な話というか、自分が、政治家として無能であることを告白しているにすぎない。

 そもそも、「反小沢」「小沢打倒」が自分の政治使命だというのだが、舛添に限らず、「政治家小沢」の、具体的にどこがいけないのか、ちっとも明らかにされていない。

 「金?」

 しかし、政治力を使って直接、間接に金を集めて私腹を肥やすことは、今の法体系ではまず不可能だろう。

 検察審査会が「絶対権力者が金の流れを把握していないはずがない」と、検察に再捜査を要請したが、結局、不起訴となった。

 この「事件」については興味がないので、詳しい事情は知らないが、小沢は、父親の遺産を担保に銀行から借りた金で土地を購入したと説明していたと思う。

 これに対し、検察側は、父親の遺産の「担保提供」は事実だろうが、それを可能にしたのは、某建設会社からの違法献金があったからではないかという推理で綿密な捜査を行ったが、違法性を証明できず、不起訴にした…という話だろう。

 しかし、検察審査会は「そんなはずはない」という理由で再捜査を要求し、その再捜査の結果、またしても不起訴となったわけだが、マスコミは、「そんなはずはない」という理屈を、「普通の庶民感覚」と評して支持していたが、それはないだろう。

 「有罪でないはずがない」が民意だとしても、「だから有罪」はあまりにも危険な飛躍であると警鐘を鳴らすのがマスコミの使命だろう。

 検察庁としては、「有罪でないはずがない」という「民意」を梃子に小沢を捕まえることもできるだろうが、「小沢の宿敵」といわれる彼らもそれは行わなかった。

 「希望」があるとしたら、この検察の対応だ。

 役人とマスコミのどちらを信用するかとなると、「役人」になってしまうのが不幸な現実だ。

 高速道路料金を一律2000円にする案が小沢の反対で白紙になった件についても、マスコミの解説では、2000円一律案は選挙対策の一環として高速道路建設を続行せよという小沢の命令でそうなったのに、それに反対するとは、小沢は自分の提案に自分で反対しているので、矛盾だというものだった。

 もし、それが本当だとしてても、こんな話がある。

 エーザイという製薬会社があるが、ここの創業社長は広告部と営業部の部長を兼ねていて、広告部が出した案を営業部長として却下するなんてことをしていたらしいのだが、そういう「矛盾」はあり得るのだ。

 話がそれたが、新首相は、「高速道路無料化」の言い出しっぺであり、私は車を持っていないし、免許もないが、ぜひ、実現してほしい。(それだけの理由で昨夏民主に投票したんだし。)

鳩山首相が

2010-06-02 20:49:28 | Weblog
 今朝、辞意を……と書くと、細川総理の真夜中の辞意を、「え、真夜中にオナニーしてますなんて言っちゃっていいの?」と茶化した爆笑問題を思い出してしまうが、まあ、それはそれとして、この鳩山首相の辞意表明について、極東ブログ氏は、「あらためてダメな人だと思った」と書いている。それは、特に安全保障問題に著しい。すなわち、鳩山首相曰く、

 『私はつまるところ、日本の平和、日本人自身で作り上げていくときを、いつかは求めなきゃならないと思っています。アメリカに依存し続ける安全保障、これから50年、100年続けていいとは思いません。そこのところもぜひ、みなさん、ご理解をいただいて、だから鳩山が何としても、少しでも県外にと思ってきた。その思い、ご理解を願えればと思っています。その中に今回の普天間の本質が宿っていると、そのように思っています。…』(極東ブログからコピペ)

 と言ったのだったが、極東氏は、普天間問題の本質は市街地に基地が近いのであぶないという単純な問題であって、鳩山は問題の根本を把握し損ねていると批判している。

 私も極東氏に同意だが、ただし、「日本の平和は日本人自身が作り上げるべきもの」云々について、「まあ、その通りかもしれないが」と極東氏が言っているところは不同意。

 第2次大戦を戦った国同士は、これからまた戦うということは、多分ない。

 少なくとも、国家同士の利害関係を「戦争」で解決するということは、日米欧各国の間ではもうない。

 では、戦争はもはや地球上から姿を消したかというと、もちろん、そうではない。

 今回、「抑止」という言葉が踊ったが、これは、この「地球」において、将来あり得るかもしれない戦争すべてに対する「抑止」と考えるべきなのだ。

 そのための米軍を支えるために、沖縄に基地を提供する、そう理解すべきなのだ。

 と、大風呂敷を広げてしまったが、「戦争」なるものを、「自衛」の視点で考えるのは、もはや適当ではない、そんな時代認識が必要なのではないか、とまた大風呂敷。
 

見えない脅威

2010-06-01 20:52:37 | Weblog
 カスペンスキーとかいう、ウィルス対策ソフトの立て看板があった。

 ゴミのようなものが写っていて、それに「見えない脅威に」とかコピーが添えられている。

 「おお、かっこいい!」と思ってよく見ると、カメレオンのようなものがゴミの中にいる。

 「な~んだ」とがっかり。

 「見えない」はずなのに、見えてる。

 私がアートディレクターなら、ゴミのままにしておく。

 で、「え? 何も見えませんよ」と言ったら、

 「“見えない脅威”だから、見えないんですよ~」と答える。

 かっこいいでしょ。

 しかし、そのためには、写真に何も写っていないことが求められる。

 難しい。 

 でも、それが、究極的にかっこいい。