パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

テレ朝のおかげで寝不足に

2006-05-31 13:50:30 | Weblog
 整理すると、モノがなくなっちゃうんですよね、何故か。それで、今回は整理してはいないので、なくなるはずはないと思ってましたw。でも、見つかってみたら、伊井さんのはコピーなんかではなく、貴重な(少なくとも伊井さんにとっては)ブロマイドの現物。集合写真なんかも混じっていた。なくしてたら、えらいことだった。クワバラクワバラ。

 サッカー日独戦、つい見てしまった。朝の四時半からだ。途中で寝てしまい、起きてもう一度スイッチを入れたら、日本が2点リードしていた。これはすごいと思い、その後、気合いを入れて見たら、2点とられてしまった。
 しかし、本番もこの時間ではたまらないなあと思っていたら、実際は、数時間前に行われていたとか。生中継ではなかったのだ。テレ朝、コノヤロー、騙しやがって。
 おまけに、その後のモーニングショーで、二宮なんとかというスポーツ評論家がしたリ顔で「見てる分には面白い試合でした」とか、にやにや笑いながら話していた。なんで、こう、水をかけるようなことを言うかなあ、こいつは。ドイツは、親善試合とはいえ、この時点でもし日本に負けでもしたら、監督の首が飛びかねないから、必死だったじゃないか。日本選手のユニフォームを何枚も破くくらいに。(しかし、ユニフォームって、そんなに簡単に破けるものだろうか。はずみかもしれないが、凄い力だ)
 ともかく、……眠いw。

今、私、何か言いましたか?

2006-05-30 14:25:31 | Weblog
 細木数子と島倉千代子の関係については、ここに書いてありました。
 島倉千代子の芸能生活50周年記念パーティーが今年の初めに開かれたが、そこで、挨拶に立った殿様キングスの宮路おさむが、何故か、「今日は、私の本名、細木一馬でしゃべります」と話しだして会場が凍り付いたという書き出してはじまっている。
 そうかー、宮路おさむちゃんの本名は「細木」だったんだっけーと、思い出した。
 そう、銘々伝には。「殿様キングス」も書いたのだ。

 それはともかく、そのウェブ記事によると、島倉が多額の借金に苦しんでいる時、「その筋」に顔のきく細木をマネージャーにしたが、その後も、どんなに働いてもいっこうに借金が減らず、細木に対して疑念を抱いて解雇した。それ以来の確執なのだという風になっていた。
 岡田真澄死去。びっくりした。「猿ぢえ」から姿を消して、どうしちゃったんだろうと思っていたら……。あんなに元気そうだったのに……60を越えてからようやく、自分の役割というか、役柄が定まり、すごく自由に、余裕をもって仕事をこなすようになって、めでたしめでたしと思っていた矢先に……。

 芸能ネタはこれくらいにして、前回書き込みからまた間が開いてしまったのは、月光24号の原稿が、というか、はっきり言って、私の原稿が書き上がって、さあ、まとめの編集だと思ったら、今度は、濡木さんと伊井さんのイラスト原稿がない! どっかにいっちゃった! こりゃやばいと、捜しまわっていたものですから……。
 で、肝心のイラスト、写真ですが、一生懸命探したのだが、見つからない。しょうがないから、お二人にもう一度送ってもらうように頼むか(イラストは「コピー」だったので)と心に決めたが、二年前にもらった原稿をもう一度頼むのは格好悪すぎる、というか、呆れ果てられるにちがいない、と逡巡して二、三日。今日こそは電話しなければと思いつつ、絶対どこかにあるはずなんだ、と、一番最初に探したところをもう一度、念入りにひっくり返したら、出てきました! ぞろぞろと。
 おかしーなー、一番最初に探したところは、もう、三、四回は繰り返し探したはずなのだが……多分、焦っていたので、見逃したのだろう。
 まあ、なにはともあれ、ホッとして、一服はじめちゃった。これでまたおくれるんだよな。でも、ともかく全部揃ったので、もうじきです。後は、新雑誌のタイトルをどうするか……だ。

 え? 今、私、何か言いましたか? 何?「新雑誌」って聞こえたって? へへへ、そうなんですよ。二年以上ごぶさたしちゃったし、この際、と思って、表紙もカラーにしちゃうし、乞う御期待ざんす。
 

細木さん、私を告訴しても無駄ですからー!(ギター侍風に)

2006-05-25 14:34:54 | Weblog
 「南京百人斬り競争」訴訟、高裁で控訴棄却。理由は、内容的にはホラ話の疑い濃厚だが、当事者である将校二人が記者に話したという事実は消えないからということらしい。なるほどね……ホラ話であることを知らずに、ホラ話を聞かされ、それを全国記事にした場合の責任は、ホラを吹いた当人にある、っていうことか。まあ、それはそうかもしれない。二人は、戦後、日本に帰還して普通の一市民として暮らしていたのだが、いきなり戦時法廷から呼び出しがかかり、出頭したらそのまま中国に送られ、そこで、「あれはホラ話」と主張したが、重大証人である毎日新聞(当時は日々新聞だったかな)の記者が、「ホラ話だったとは認識していなかった」と、責任を回避したため、結局、ホラ話が本当のこととなって、死刑になってしまったが、自身は「やむを得ない」というか、「身から出たサビ」なのだと、諦観の境地だったようだ。
 しかし、マスコミ人というのは、まったくタチが悪い。おそらく、「ホラ話と知りつつ、本当の事のように記事にした」(と認めてしまったら、毎日新聞の立場がなくなることを恐れた毎日新聞上層部の命令なんだろうが。
 実際、「突撃する中国兵の銃弾をあわやと避けるなり、そいつの胴を、わが愛刀で寸胴切り! 一丁上がりだ! と言いつつ、貴様はどうだと問うと、ワッハッハ、言われて片腹痛いとはこのこと、ワシなんか中国兵の鉄兜ごと真っ向から竹割りだわ! ウワハッハと豪快極まりない。日本男児まさにここにありだ」と(今のは私の創作w。でもこれに近い)、まるで講談の荒木又衛門伊賀の36人切りみたいな記述で、これを「筆が滑ったきらいはあります」と認めちゃったら記者として恥ずかしい。というか、新聞記者失格ということになるから、「あんた、俺の話は戦意高揚のためのホラ話だとわかっていたんだろう?」と本人に聞かれても、シカトを決め込んだのだろう。
 
 くだらん、まったくくだらん! おまけに、この毎日新聞記者(たしか浅見とか言ったが)は、おかげで戦後、毎日新聞の看板記者にのしあがって、中国の文化大革命礼讃記事を現地から書き送ったりしている。浅見なりの屈折した「贖罪」だったんだろうが、結果的にはまたまた「現実」を見誤って、恥をかいたわけだ。

 実は、こんな話を長くする積もりではなく、月光で連載した「歌謡界銘々伝」の島倉千代子の回で、島倉の莫大な借金を細木数子が肩代わりして救ったと書いたことがあるが、あれは、島倉千代子の自叙伝だったか、あるいは、彼女について誰かが書いたバイオグラフィーから引き写したので、細木が、「事実無根よ!」と私を告訴しても、「ホラ話をホラと認識せずに書いた記事は、必ずしもホラ報道に非ず」なる判決がありますから、細木さん、告訴しないでねと言いたかったのだ。

 しかし、なんでマスコミは細木数子と島倉千代子の関係(どんな関係かしらないが、細木が自分の経営していた銀座のクラブを売り払って、島倉千代子の莫大な借金の三分の一を返済してあげたというのだから、普通の関係ではないだろう)に触れないのだろう。島倉の方も、細木の名前はおくびにも出さないし、不思議である……と今日、「週刊文春」の「細木数子超ロングインタビュー」を立ち読みしながら、改めて思ったのである。でも、このロングインタビューは、「次号に続く」とあったので、もしかしたら、「島倉千代子借金返済肩代わり事件(?)」に触れるかも知れないが。(でも、多分、触れないだろう。)

ライオンは寝ている

2006-05-22 18:48:01 | Weblog
 ディスカウントスーパー、「ワンダフル」の店の前で、商品の梱包を解いている男性店員に、一人のお婆ちゃんがつかつかと歩み寄り、「今日は暑いの? 寒いの? どっち?」と聞いていた。店員が「さー」と答えると、お婆ちゃんは額にしわを寄せて、「どっちなのよ!」と詰問していた。今日は暑いと思うよ。Tシャツ一枚で充分だし。でも、毎年恒例の半ズボンまではいかない。
 半ズボンと言えば中島らもだが(……そんなイメージが)、その中島らものエッセイ、『固いおとうふ』を古本屋で立ち読み。その中に、ライオンのエッセイがあった。
 中島らもは、野生のライオンを写したテレビの番組が大好きだそうだ。なんでかというと、牡のライオンが何もしないところがいいと。牝ライオンを引き連れて、自分は何もしない。敵が来たら追い払ってくれるのかというと、それもしない。敵を追い払うのも牝の仕事だ。餌をとるのも牝ライオン。じゃあ、牡ライオンは何をするのかと言うと、牝ライオンを手に入れるために、他の牡ライオンと戦う。それだけだ。それが終わると、勝ったライオンは、もちろん、種付けをするわけだが、それが済めば本当に何もすることがなくなる。じゃあ、負けた牡ライオンはどうなるかというと、こっちも、当然、何もすることがない。本当のところは、餌をとってくれる牝ライオンがいないから、自分でとることになるのだろうが、そこのところは中島らもは書いていなかった。まあ、テーマと外れるからということだろう。
 要するに結論は、フセインにテレビのライオン番組のビデオを見せてやれ、ということなのだが。(だから、古本屋で立ち読みしたんだってば)

 ところで、今回一応書き上げた「映画の研究」は、この、何もしない牡ライオンが「何かやれ」と言われてやった「何か」みたいだ。……なんて、けっこう高尚なことやったみたいだったりして。

 あ、タイトル「ライオンは寝ている」はトーケンズの往年のヒット曲ね。元々はズールー族だか何族だかの歌だ。

またまた……

2006-05-20 23:26:36 | Weblog
 ……すっかりごぶさたしましたが、やっと! 「映画の研究」が脱稿しました。
 二、三ヶ月前にも同じこと書いたのだけれど……今度は本当です。前、脱稿しましたと書いた原稿は、ほぼ八割方書き直し。それでなおかつ、400字詰め換算で150枚超! 映画の現象学的研究ということなので、かなり難しいです。頑張って読んでください。

 また、子供が殺された。これで犯人が捕まらないようでは、警察はどうしようもなく無能ということになる。群馬かどこかで女の子が縛られたまま刺し殺された事件も、多分、迷宮入りだろう。山口だったかで、昼寝中の女子高生が殺されたのも、まだ捕まっていない。たまに捕まったと思うと、自首だったり。
 マスコミはまたマスコミで、ゴーケン君は脚が速くて運動会で一等だったとか、将来は大工になりたかっただとか、お通夜がどうとか、いいかげんにしてくれ。それより、世田谷一家四人殺害事件で、聞き込み捜査にひどい手抜きがあったそうだが、こっちをバッシングしてくれよ。
 女探偵芹沢雅子女史によると、犯罪捜査、特に殺人事件は一にもニにも初動捜査が大事だそうだ。何というか、血の臭いが残っているうちに、というか。しかし、そういう、「臭い」のようなものに反応する能力が、現在の警察にあるのかどうか、極めて怪しい。
 後、一般論として、何か探し物がある場合、探しても探しても見つからなかったら、探すのをやめて、ある程度時間をおいて、気持ちをリセットしてからもう一度探すと良いということがあるが、それは、そもそも、探し物を探すということは、探す方の主体的行為だからだ。パソコンの「検索」とはちがうのだ。
 世田谷一家四人殺害事件で、「手抜きがあっても、手抜きがなくても、当該警察官の担当区域に犯人はいなかったから実害はない」という警察の言い訳は、「言うに事欠いて、またなんてことを!」である。「手抜き」とは、探す側の主体性の放棄であり、これでは犯人は絶対に捕まらない。

蜜蜂万歳!と、概念芸術

2006-05-14 13:41:31 | Weblog
 二、三日前、多分NHKスペシャルか何かの再放送なのだろうが、「蜜蜂」の生態に関するドキュメント映像を見た。中身的には別にどうということのないものだけれど、でも、「蜜蜂」はいいな~。蜜蜂さえいれば、人類は生き残れる、いや、全生物は生き残れる、ということは、地球が生き残れる……とまで、蜜蜂のドキュメント番組を見るといつも思う。
 その蜜蜂の蜜を人間は途中で奪ってしまう……というのは見かけで、蜜蜂の生命線は「花」なので、その花が枯れてしまう冬をどう生き残るかが、彼らにとっては非常な問題で、花が見つからないと全滅してしまう場合も多々あるそうだ。だとしたら、養蜂家が花を求めて一年中転々としていることは、蜜蜂自身にとって大変に有り難いことということになる。ただ殺されるだけの牛や豚とは大違いだ。
 「三国志」の中で劉備に散々撃ち破られ、炎天下をなんとか逃げ延びた袁術が、土地の老人に蜂蜜水を所望し、「蜂蜜水なんかあるもんですか。血の水ならあります」と言われて「おお!」と呻いて死んでしまう場面がある。たしかに! 三国志の時代に中国人は九割方死んでしまったそうだし、「血の水ならある」というのは、実感がこもっている。

 真っ暗の写真展、はじまる。よく来る、水戸のYさんに、「全然、何も見えないわよ。これで写真なの?」と突っ込まれていた。K君がどのように言い訳をしたかは、ちょっと聞こえなかったのだが、今朝、壁一つ隔てた隣のスペースを覗いたら、K君がコンビニ弁当を食っていた。壁のあっち側で概念的展示を行いながら、こっちで弁当を食う。この「ギャップ」をどう説明するか、ということに尽きるのではないか、結局。もちろん、概念的ではない作品の場合、作者はそんなことは求められないが、概念的な作品を提示した瞬間、そうでなくなる。

 概念芸術の創始者、マルセル・デュシャンは、次のように言っていたそうだ。

 『デュシャンはピエール・カバンヌとのインタビューで次のように応えている。
 「ウィーンの論理学者はある体系を練り上げたわけですが、それによれば、私が理解したかぎりでは、すべてはトートロジー、つまり前提の反復なのです。数学では、きわめて単純な定理から複雑な定理へといくわけですが、すべては最初の定理のなかにあるのです。ですから、形而上学はトートロジー、宗教もトートロジー、すべてはトートロジーです、このブラック・コーヒーを除いて。なぜなら、ここには感覚の支配がありますから。」
 デュシャンはこの言及で、このブラック・コーヒーが存在する限り、トートロジーは完結しないということを言っている。それは分析的でトートロジカルなコンセプチュアル・アートは成り立たないということを、デュシャン自身が表明していると受けとめることができる。言い換えれば、デュシャンがこのように言うことできたのは、トートロジーの本質をつかみ、既にコンセプチュアル・アートの限界さえ捉えていたからだ。』(北川裕二という美術評論家らしい人のブログから)

 つまり、概念芸術とは、概念を示すことではなく、「概念の限界」を示すことなのだ。もちろん、それ以外に概念を示すことはできないということでもあるのだが。

レベルゼロ

2006-05-11 21:47:58 | Weblog
 二週間程前、ギブソンの本(アフォーダンス論)を買った時にもらったくじ券をもってジュンク堂に行った。一等はジュンク堂特製バッグ、二等はブックカバー、三等は栞、というしょぼいくじだが、くじはくじ、くじ運の極端に悪い私は、案の定、どれもかすらなかった。依然、くじ運、ゼロである。
 しかし、ジュンク堂も気がきかないなー、三等の栞くらい、全員当選にすればいいのに。もっとも、くじ券自体が栞なんだが……もしかして、このくじ券自体が三等賞だったりして。なんのこっちゃである。

 しかし、レベルゼロといえば、今日からはじまったK君の写真展は、会場を真っ暗にして、お客さんにろうそくを手にもって写真を見てもらうという趣向なのだが、どうしても外の明かりが漏れてしまう。
 「中の照明をほんのり暗めにすればいいんじゃないスか」と言ったら、K君は、真っ暗にしたいとのこと。レベルゼロの真っ暗ヶのヶがよいというわけだが、でも、暗闇というのは一種のメタファーだから、一寸先もわからない、いわゆる「鼻をつままれてもわからない」ような暗闇にしたら、メタファーもはたらかなくて、何がなんだかわけのわからない空間になりはしないだろうか。もしかしたら、それが「狙い」かも知れないが。
 しかし、完全な暗闇を実現しても、外から、向いの新規開店したラーメン屋の呼び込みの声が入ってしまう。
 「いかがでしょうか~、おいしいですよ~」
 「一度おためしくださ~い」
 「食べたらクセになりますよ~」
 うるせい!

「劇団ひとり」、もしかして○○賞?

2006-05-08 11:34:32 | Weblog
 事務所のすぐ近くの横断歩道で信号待ちをしていて青になったので渡ろうとしたら、自転車の後ろの荷台に女の子を載せた男の子――といっても、両方とも二十歳前後だが――が、私を追い抜きざま、「俺さあ、この信号、待ったことないよ」と後ろの女の子に話しかけていた。なるほどねえ、そういうこともあるのか。私は、ここの信号で待たなかったことはない。

「劇団ひとり」の小説本が売れているそうな。五つ程の短編集なのだが、太田光が「絶対直木賞だ」と「ひとり」の前で叫んでいた。私は、発売当初、小倉が絶賛しているのを聞いて本屋で最初の、落ちこぼれサラリーマンがホームレスを志願して……という話だけ立ち読みした。全部一人称小説だが、正直言って読みやすく、かつ面白かった。ただ、オチの構造が簡単なものなのだけれど、ちょっとよくわからなかった。伏線が張ってあるのだけれど、そのプロットのつながりが(立ち読みのせいもあったのだろうが)ちょっとおかしいと思ったのだ。
 それで、今朝、本屋に寄ったついでにもう一度、パラパラと他の話も覗いてみた。
 大体、最近の小説は、出だしが凝り過ぎていたり、あるいは私の趣味にあわなかったりすることが多いのだけれど、「ひとり」の小説はそれがない。単純ながら、私にとっては、趣味のよい出だしだ。後は端折って(笑)、ラストをパラパラと見る。「私」が、お爺さんと話しているが、すぐ近くにいるらしいお婆さんに聞こえるように話す、というオチ(?)のようだ。成る程、ホームレスの小説も、最後のオチで物語の構造が見えてくるという感じだったが、これは短編小説だったら、当然そうあるべきことだし、いいことなんじゃないだろうか。最近の読み手には、筋がわかりやすかったり、予想できたりするとそれだけでダメと言う奴が多いが……まあ、予想できてはつまらないが……その意味でいうと、私が読んだホームレスの話では、プロットの展開に疑問点がありながら、それでいて――というか、それ故にというべきかもしれないが――「ネタバレ」的な感じもなくもなかった。でも全体的に言えば、ネタバレや、読み手に見通されることを恐れて、わざとわかりにくく書いたりするよりはずっといい。

 しかし、太田光の「直木賞だ!」は見当ちがいでしょ。明らかに「芥川賞」の線だ。大体、短編作家なんだし。まあ、とれるかどうかは別として候補に上がってもいいと思う。でも、結局、もう少し洗練さが欲しい、次回を期待するとか言われて落選するのがオチじゃないかと思うが、洗練さなんて、「ひとり」の小説には必要無い。「ひとり」には、たしかに、「お話を作る」という、教わって身につくものではない才能というか、身についた何かがある。「洗練さ」なんか、その力がない人が、その代わりに求めるものに過ぎない。でも、芥川龍之介自身がそういう作家だったんで、しょうがないのかも。(谷崎潤一郎が、芥川を「おまいは、かっこつけてばかりで、お話が作れないじゃまいか」と批判したことは有名)

卓球の思い出

2006-05-01 11:04:31 | Weblog
 世界卓球選手権女子決勝中国対香港相似中国国内決勝戦電視中継誰見? 香港可憐卓球娘意外健闘我不知而見了

 翻訳。「世界卓球選手権は香港対中国の決勝戦となったが、中国国内リーグの決勝戦もどきのテレビ中継なんか誰が見るか!と思っていたが、香港の可愛い女子選手が意外に健闘したので、我知らず、つい最後まで見てしまった。」

 実は、私、中学校の時、卓球部員でした。しかも二年生になった時、部長なんかやらされたが、当時、体育館がない上に、卓球台にも脚がない。それで、通常の教室の机を10個程残し、あとは周囲にぐいと押しやってスペースを作ってから、残しておいた机の上に卓球台を載せた。しかし、卓球台は教室に入れると意外に大きく、後ろに下がろうと思っても、壁が邪魔して下がれない。それで必然的に、その後中国が編み出した「前陣速攻」を工夫し……なんてことはなく、面倒臭くて面倒臭くて、部員数がひと桁と少なかったこともあって、さぼり気味になり、ついには卓球のことなんかすっかり忘れたまま、でも本当はちょっと気にしながら、一年が過ぎ、三年生になった。
 三年生になると高校受験の準備で部活は免除という決まりなので、清々した気持ちで「卓球部部長」から解放された気持ちでいたら、ある春の某日、校内放送があって、各部活の新任部長による「今年の抱負」が次々に放送され(私の時は校内放送設備自体が、体育館と同じく整備されておらず、したがって、こんなことはしなかった)、そこで新部長に「僕は、去年の卓球部部長のようなことはしません」と宣言されてしまった。恥ずかしかった。