パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

今年も見た「行く年、来る年」

2007-07-30 23:00:34 | Weblog
 「選挙特番」というと、選挙結果の大勢が決まるまでは、日本挙げてお祭り騒ぎ、そして大勢が判明する深夜零時前後から、コメンテーター、評論家を交えたディベート番組に、各局揃って衣替えをするところ、『行く年、来る年』などの年末番組を思わせ、けっこう好きである。
 今回も、あちこちザッピングして見たのだが、不思議なことに、政界再編成に関する話題がまったく出なかった。
 そもそも去年の衆院選挙で自民が単独過半数を制して、公明党との連立不要論が出たが、参議院では公明と組まないとやっていけないということでいったん立ち消え、次の参院選挙(今回)で単独過半数を目指すはずということになったが、選挙の結果は、一転、公明党と組んでも過半数に達しない大惨敗となった。

 ところで、「公明党と組んでも過半数に達しない」ということは、公明との連立がナンセンスになったということである。 言い換えれば、大勝利すれば公明党を切れるが、大敗北しても公明党を切る事ができる。つまり、自民党にとってはどっちでもいいのだ。

 この「どっちでもいい」ことは、事前にわかっていたことで、実際、サンケイの7月30日付朝刊によると、小泉前首相は今年の3月7日に行われた安部首相との私的会合で、「(参院選挙は)『勝ってよし、負けてよし』だ」「負けた方が面白いぞ。小沢は自民党内に必ず手を突っ込んで来る。民主党の反小沢勢力も黙ってはいまい。そうなれば政界再編だ」と言っていたそうだ。

  いずれにせよ、ここ10年くらい、国政選挙のたびに、「連立のゆくえ=政界再々編成」が話題に昇っていたのだが、それがいよいよ現実的局面に入ったと思った途端、報道されなくなってしまった。マスコミがバカで、「一度に一つ」のことしか考えられないからだろうか。

 それはともかく、このディベート番組で自民党の河野太郎が、今回の自民党敗北の大きな原因となった疑惑閣僚の対応について、「まあ、後ろからいろいろ指示があることは事実です」と言い、田原が、「《後ろ》って、役人のこと?」と聞くと、大きくうなずいていた。

 やっぱりそうだったのか~?

 話ちがって、昨年末以来、消費者金融の金利の上限が30%弱に法律で決まったが、以来、融資審査が厳しくなって、成約率が、今年半年の間に10%下落し、32%になったそうだ。そのため、「消費者金融から閉め出された人々が闇金融に流れて行く危険が現実のものになった」(サンケイ、7月20日、「正論」欄、小林節)という。

 この事態は、事前に充分予想されていたことだが、やっぱり改めて考え直すべきだろう。

 では、どうすべきか? 私の考えでは簡単だ。金利の上限は撤廃、債務者に対する督促は手紙、あるいはEメールに限るとし、電話や直接訪問による督促は実刑つきで禁止するのだ。

 これだけでいいはずだ。というのは、たとえば、トイチのような高金利を設定して、なおかつ、その回収に暴力団まがいの行為をするとしたら、なんのための高金利かということになる。回収が難しいと踏んだから、高金利を設定したのだろう。だったら、高金利を設定した上、暴力で回収するなんて、理屈にあわないし、したがって、法律で禁止すべきなのだ。

 たとえば、Mさんは、消費者金融から断られて街金融に手を出した1人なのだが、そのMさんの話によると、結局、払いきれず、踏み倒してたそうだが、その間、会社に電話がかかるとか、アパートに押し掛けてくるなんてことはなかったという。

 借りた相手がよかったということだけのことかもしれないが、しかし、Mさんのような人が相手だからこそ、高金利にしているのではないか。もっともMさんだって、まったく金を返さなかったわけではない。少なくとも借りた金をいくらかでも越えた金額を返しており、結局、残ったのは「高金利」で積み重なった分なのだ。

 つまり、あえて暴力に訴えず、手紙等による督促のみでも、高利の金融は成立するはずなのだ。

 そもそも、高利の金融が悪徳で、低利の金融が良心的なんて考えているとしたら、それは誤っている。どちらも、金融業の業態のあり方の一つなのだ。

唐沢俊一氏、ピンチ……か?

2007-07-29 21:28:12 | Weblog
 ネットの「お気に入り」を整理しているうち、唐沢俊一氏と漫棚通信ブログというブログを書いている人(以下、漫棚氏)が、著作権問題を巡ってバトルをくり返していることを知った。

 問題の発端は、「漫棚通信ブログ」でググっていただければ分かるのだが、簡単に言うと、唐沢氏が、『新・UFO入門』(2007年、幻冬舎刊)の中で、『少年王者』『少年ケニア』などで有名な山川惣治がUFO運動(ユートピア運動の一種で、当事、結構話題になった)に入れあげていた事を書いた箇所で、漫棚氏のブログの文章をパクったというのである。
 実際、漫棚通信ブログに漫棚氏の文章と唐沢氏の文章が並べてアップされているのだが、酷似している……というより、明らかにそれを書き写したもので、唐沢氏もそれを認め、「漫棚通信ブログを参照した」と明記しておけばよかったのに、それを怠ってしまったのはまことに申し訳ない、と唐沢氏のブログに書いている。
 それがどこでどうこんがらかってしまったのか、問題になっているものは断裁し、以後再版する場合は新たに書き直した原稿に差し換える、漫棚氏にはン十万円支払う、などの条件で話がまとまりかけたが、結局決裂に至ったというのである。

 漫棚氏の文章と唐沢氏の文章がほぼ同一である以上、唐沢氏に非があるように思えるし、実際、漫棚ブログへの書き込みは、圧倒的に漫棚氏支持、唐沢氏非難で埋まっているのだが、ここでちょっと微妙なのが、問題の、《唐沢氏に「パクられた」という漫棚氏の文章》が、実は、平野威馬雄氏の『空飛ぶ円盤のすべて』という本のうち、山川惣治に関連した部分の「要約」なのだ。

 つまり、漫棚氏が書いた、《平野威馬雄氏の『空飛ぶ円盤のすべて』の要約》を、唐沢氏が拝借してしまったというのだ。

 「微妙」というのは、この部分だ。漫棚氏が書いた、《平野威馬雄の『空飛ぶ円盤のすべて』の要約》に、漫棚氏は「著作権」をどこまで主張できるのだろう……? 今、漫棚氏の該当ブログを読み直してみたが、漫棚氏の、《平野威馬雄の『空飛ぶ円盤のすべて』の該当部分の要約》は、あくまでも《要約》で、特に漫棚氏の独特な見解が書き込まれているわけではない。

 ブログのコメント欄は、「絶対にまけるな、訴訟に持ち込め」という書き込みで溢れているが、《要約》で著作権を主張できるかどうか……微妙だなあ~……正直言って、私は難しいと思う……というか、文章書きとして、自分の書いた「他人の本の要約」を誰かに流用されたとしたら、どう思うか……私は、とても「権利」を主張する気持ちにはなれない。(植草甚一や渋沢龍彦のように、「こんな面白いものを見つけたので、紹介しよう」と書いておけば問題なかったんだけどねえ……。)

 自民党、大惨敗、ほぼ確定。問題は公明党だ。公明党と合わせても過半数に達しないようだと、公明党との連立は意味を失う。だとしたら、政界大編成は必至ということになるが……。

選挙前日

2007-07-28 21:13:38 | Weblog
 選挙はいよいよ明日に迫ったが、自民党の劣勢は挽回不可能のようで、昨日、というか今朝の「朝生」でも、出演の自民党代議士は、半ば勝利を諦めているようだった。

 何故、ここまで追い詰められたのかというと、やはり、松岡、赤城と続いて起きた、事務諸経費問題が大きいと思う。
 「朝生」の出演者も指摘していたが、「隠す」から、追求せざるを得ないだけなのだが、しかし問題は、「せざるを得ない」という消極的次元にはもはやない、と考えるべきなのだ。

 たとえば、赤城大臣の、「適法に処理している(から領収書は提出しない)」に対し、記者から、「領収書提示は法律で禁止されているのか?」と質問が飛んで、大臣は絶句していたが、この問題については、記者に理があるし、この「理」は、徹底的に追求すべきなのだ。

 というのは、今回の事務所費問題は、「旧来の法思想」に基づく秩序維持がついに限界に達して生じたと考えられるからだ。

 要するに、前にも書いたが、「やってよいことを法律で決める」のではなく、「やってはいけないことを法律で決める」ように変えていくべきなのだ。でないと、社会の変化についていけない。というか、社会の変化を抑圧してしまう。しかし、安部首相は、多分、高級官僚の指示によるものと思われるが、このことを理解しようとしない。

 言い方を変えると、社会の有り様を、「社会的エリート(高級官僚)によるデザイン」ではなく、自然の進化が「ルール(進化論)」で決まるように、社会の進化を促すような「ルール」に変えるべきなのだ。

 しかし、安部首相は、ここまで突っ張ったのだから、選挙後も同様に突っ張ると思われるが、だとしたら、「徹底的に追求」すれば、この問題で衆院総選挙まで行くかも知れない。だから、「徹底的に追求すべき」と書いたのだが、ただ、マスコミ、野党にそういう「法のあり方」にまで及ぶ自覚があるかどうかが……「う~ん」なのだ。

オシムジャパン、惜しくも敗れる

2007-07-26 19:12:57 | Weblog
 オシムジャパン、敗れる。

 2点とっても、3点とられたのが問題なのか、3点とることができなかったのが問題なのか、と考えると、私の考えでは、後者だ。

 というのは、オシムジャパンは結構よく点をとるが、一般的に言って、よく点をとるチームは、よく点をとられる。これは、一方が点をとれば、一方は必死になって点をとろうとするからだ。

 これに対して、点をとられない事に重点を置くチームの場合、対戦チームもまた、点をとられないような戦術をとる。その結果、なかなか点は入らない。

 ……こんなことを、日本×サウジアラビア戦の後に放映された、無得点のままPK戦にもつれこんだ韓国×イラクを見ながら考えた。

 「無得点のままPK戦」という展開は、おそらく、韓国の狙った作戦だろうが、結果としては、その韓国が負けた。一方、点の取り合いとなった日本対サウジアラビア戦は、本来、日本の展開だが、勝ったのはサウジだった。

 実際、オシム監督は、そのような事を試合後に話したようだ。すなわち、積極的に点をとりにいくチームは、リスクは大きいが見て楽しく、私はそのほうが好きだし、今の世界のサッカーの主流でもある、と。

 同感である。今回、日本チームが「アジアのベストチーム」ととても評価が高いことに、ちょっと驚いたりしたのだが、それが今回の負けで揺らぐことはないだろう。
 しかし、オシム監督は、いかつい外見と裏腹に、「勝負師」タイプの監督ではない事も、今回、はっきりしたみたいで(勝負師中の勝負師、モウリーニヨなんか、ダイジェストでしか見た事がないのでよくわからないのだが、「確実に勝つ」ものの、試合そのものは「つまらない」らしい)、もちろん川淵キャプテンはそのことを承知で、チームをオシムに託したのだろうが、いずれにせよ、次の日本対韓国の3位決定戦は、そんなこんなを考えあわせると、「消化試合」のイメージはみじんもなく、大変に興味深い。

 と、韓国の話が出たついでに、アフガニスタンの韓国キリスト教布教団の拉致事件について、一言。

 集合写真に写っている女性たちは、金正日の「喜び組」を連想させはしないだろうか?

 もちろん、「喜び組」とちがい、「全員美人」というわけではないが、美人率は明らかに通常より高く、「笑顔も」どこかプロっぽい。これはきっと、事前に「選抜・訓練」をしているにちがいない。では、何のためかというと、「見栄っ張り」だからに過ぎない。つまり、深い理由はないのだが、こうして北と南が融合して行く。

 でも……「見栄」で融合してもなあ……と言ってみたりする。

『ジェーン・エア』を読む

2007-07-24 19:45:27 | Weblog
 シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』を読む。

 一言で言うなら、叔父の遺言で伯母に引き取られたものの、その伯母に嫌われて、伯母の屋敷を追い出された孤児、ジェーン・エアの艱難辛苦の物語り。

 ――リード伯母によって放り込まれた、厳格というより、ほとんど拷問に等しいような、非人間的環境でしかなかった寄宿学校を卒業後、成績の優秀だったジェーンは、その学校の教師になる。しかし、彼女のほとんど唯一の理解者であった学校長のミス・テンプルが結婚のため職を離れたことを機に、新聞広告を出して、名門、ロチェスター家の家庭教師の職を得る。
 その寄宿学校を去る決意を固めた時の、彼女の心理は次のように書かれている。

 《(ミス・テンプルがいなくなったため)私から逃げ去ったのは、平和になるべき力ではなく、むしろ平和になるための理由であった。》

 つまり、ジェーンは、そのまま寄宿学校の教師として止まっておれば、物質的にはそこそこの平和(幸福)を保証されただろうし、実際、その積もりでいたのだが、彼女の理解者がいなくなったことで、平和(幸福)でいることの理由、根拠が失われたと感じ、外の世界にそれを求めたのである。
 『ジェーン・エア』が、女性の自立をテーマに描かれた世界初の作品というのは、そういうことなのだが、それにしても、「平和になるべき力ではなく、むしろ平和になるための理由」といった難解な表現は、先に「艱難辛苦の物語」と書いたけれど、その「艱難辛苦」は、ジェーンの意志に反して彼女に襲い掛かるのではなく、彼女自身がそれを求めているのであって、その意味で、『ジェーン・エア』は、強烈なピューリタン的世界観で覆われているのである。

 『ジェーン・エア』のピューリタン的世界は、敵役であるジェーンの伯母、リード夫人をも、しっかりと縛っている。

 死に瀕したリード夫人は、ロチェスター家の家庭教師として日々を送っていたジェーンを呼び寄せて、独身だが事業に成功した夫人の兄、ジョンが、自分の遺産の相続人としてジェーンを指名して、「ジェーンの住所を知りたい」と言ってきた手紙を、自分の嫌いな性悪のジェーンが巨額の遺産を継承する事を認めることができず、「ジェーンは死にました」と偽りの返事を出したとジェーンに打ち明け、「伯父さんのところにいって、私の偽りを暴きなさい」と言う。

 しかし――ここが凄いところと思うのだが――、リード伯母は、そう言った後、ジェーンに「すまなかった」と謝るのではなく、「お前がいなかったら夢にも思わないような罰を犯して、私は今になって(死の間際になって)苦しんでいるのだ」と、ジェーンを批難するのだ。
 「お前の存在が、私に罪(虚偽)を犯させた」というのは、一見屁理屈のように見えるが、「人の幸せはすべて神の恩寵による」という、ピューリタンの「予定説」の裏返しと考えるべきなのだ。キビシィーッのだ。

 ジェーンは、この後、ロチェスター邸に戻って、彼女の雇い主で彼女との結婚を熱望するエドワード・ロチェスターと結婚式をあげようとするが、その直前、彼が精神異常の妻を邸の秘密の部屋に閉じ込めている事が暴露され、ジェーンは、事情を説明し、結婚しないまでも、自分のそばに残ってくれと懇願するロチェスターを振り切って、家を出るのだが、実は、読んでいて、彼女が立ち去る経緯にちょっと合点がいかないところがある。

 まず、第一に、彼女が寄宿学校の教師の座を捨てる時には、「平和になる理由を求めて」という理由があったが、ロチェスターのもとを去る彼女にはそのような明確な理由はなく、ほとんど自暴自棄としか思えない。もっとも、ジェーンとロチェスターの結婚は、単に家庭教師とその雇い主の結婚ということだけではない「壁」が存在し、賢明なジェーンは、彼のもとを去りながら、実は、それを乗り越える道を模索しようとしているのかもしれないという印象はあるのだが……「私から逃げ去ったのは、平和になるべき力ではなく、むしろ平和になるための理由であった」というような、難解だが明晰な文章を書くブロンテにしては、さっぱり明確でない。

 第二に、ジェーンは、自分に遺産を残してくれた伯父を探そうとしない。ジェーンが何を考えようと、作者が、このような存在を明記した以上、物語の最後には、この「遺産」がものを言うのだろうなと、読み手に予想ができてしまうところも、ちょっと問題だろう。

 それはともかく、ロチェスター邸を出たジェーンは、文無しになって飢え死に寸前になったところを若い牧師に救われるが、その牧師が言うには、自分には商人として財をなした独身のジョンという伯父がいて、そのジョンがつい先日死に、ジェーンという姪に全遺産を残す旨の遺言を残し、私はそれを探しているのだが、どうやら、あなたがそのジェーンらしい、と言う。つまり、ジェーンと、ジェーンを救ってくれた牧師はいとこ同士だったのだ。

 こうして、金持ちになったジェーンは、ある日、彼女の名を呼ぶロチェスターの声を幻のうちに聞き、ロチェスター邸に戻ると、ロチェスターの大きな家は火事で焼け落ち、狂人の妻は死に、ロチェスター本人は、その際に焼けた柱に打たれて片腕と視力を失っていた。

 しかし、この「不幸」は、実は、ジェーンとロチェスターの間の「壁」がなくなった事を意味し、二人は結婚する。めでたしめでたし。

 という話なのだが(有名なので知っている人も多いだろうが)、ジェーンがロチェスターから去った時、二人が最後に結ばれるには、ジェーンが金持ちになるか、ロチェスターが悲惨な境遇に陥るかのどちらかが必要だということは想像がつくので、だったら、何も、ジェーンと従兄弟の牧師との「偶然の邂逅」なんかを苦労して設けるより、伯父ジョンを探したほうが話が早いではないかと思うのである。

 少なくとも、ジェーンが、最後の頼みの綱として伯父ジョンを探したものの果たせず、飢え死に寸前になったところで牧師――実は従兄弟――に助けられ……という風にした方が自然だと思うのだが、作者シャーロット・ブロンテは、それではピューリタンの鑑であるべきジェーンの真実味が失われると考えたのだろうか。
 でも、農家の家の扉を叩いて一切れのパンを所望するのは、ジョン伯父を探した後でもいいと思うけどなあ……。

 それはさておき、飢えの極で野原に倒れ込み、「このまま死んでしまえば楽になる」と死を覚悟しながら、思い直す場面で、ジェーンはこんな風に考える。

 《しかし要求と苦痛と責任とを悉く伴っている生命を、私はまだ持っていた。この負担は担われねばならない。欠乏は充たされ、苦痛は忍ばれ、責任は果たされねばならない。》

 いやはや、ピューリタンはつごい。

微妙~

2007-07-22 21:48:54 | Weblog
 少し前の話になるけれど、村上ファンドの村上代表が、ホリエモンによるニッポン放送株買収問題にからむ取引で、インサイダー情報により不当な取得を得たとして執行猶予なしの実刑判決が下ったが、サンケイ新聞は、「(村上被告の)拝金主義を断罪」と報じていた。

 サンケイ新聞はなんでこう頭が悪いか。今朝の、報道2001でも、キャスターの黒岩某が、神戸震災なみの直撃を受けた柏崎原発について、東電の社長が、「想定外の経験だったが、これを今後に生かして行きたい」と言ったところ、「それじゃあ、困るんですよ。頭の中で全部わかっていてくれなければ」と反論していた。

 東電社長がどう答えたかは憶えていないが、黒岩は頭が悪過ぎる、というか、センスが悪過ぎる。(「頭の中」ではなく、「現実」から情報を読み取ること、これを工学的センスというのだ)

 その後、同番組(報道2001)ではなかったが、社民党の福島瑞穂が現れ、「(東電の説明は)信じません。我々が直接確かめます」と言っていたが、原発の内部が公開され、それをワイシャツ姿のマスコミ関係者が取材している様子を見れば、少なくとも、放射能漏れに関する東電の説明が事実である事はわかるだろうに、これも頭が悪過ぎる。
 いずれにせよ――黒岩や福島のバカが何をほざこうが――今回の柏崎原発を襲った直下型地震は、実験室では絶対に再現できない貴重な「実験」だったのであり、国際監視機関が現場を見たいと言うのは当然だし、またこれを受け入れれば、これだけの地震でも放射能漏れを起こさなかった事を世界にアピールできる絶好のチャンスだと思うのだが、日本政府はなんで断るのか。

 多分、塩崎官房長官が、「いや、断ってはいない」とか、しどろもどろで弁明するのだろうが……神戸の震災の時も、外国からの救援を日本政府は当初断っていた。現地の事情に疎い人にこれらても足手纏いになるだけ、という役人の判断なのだろう。「日本語」という壁もあるし、その懸念も、わからないでもないのだが、後々のことを考えれば、たとえ、足手纏いになったとしても、受け入れた方が賢明と思う。

 それはさておき、村上代表のインサイダー問題だが、村上は、ホリエモンの計画(ニッポン放送株の取得)を「たまたま聞いちゃったんですよ」と言っていたわけだが、判決では、ホリエモンの「計画」は、実は、村上の発案になるもので、ホリエモン(ライブドア)は、そのシナリオに乗ったものなので、当然、インサイダー取り引きになる、ということらしい。

 しかし、仮に、村上がホリエモンに吹き込んだことから話が始まったにしても、村上はライブドアの社員ではないのだから、自分がホリエモンに吹き込んだ話が、ライブドア内部でどう処理されるかはわからないはずだ。

 つまり、ニッポン放送株を買い進んだ村上の脳裏には、かつて自分がホリエモンに吹き込んだ事実、そして、それにホリエモンが乗るであろうという「推測」が存在していたにちがいないが、それを決定するライブドアの、内部会議に、村上が出席することができない以上、それは、あくまでも、村上の「推測」に止まる。つまり、微少とはいえリスクが存在するわけで、だとしたら、村上の行為はインサイダー取り引きではないということになるのではないだろうか。

 まあ、たしかに村上とホリエモンの関係は、「微妙」ではあるようだが……いずれにせよ、サンケイの言う通り、「拝金主義」故に罰せられたのであったりしたら、たまったもんではない。(しかし、その可能性は、昨今の風潮を見るに、結構強いようにも思う。)

昨日の続き

2007-07-18 23:38:08 | Weblog
 安部首相が、民主党の年金制度案を批判して、「年収が一度でも600万円を超えたことのある人は、年金の給付額を削られ、1200万円を超えたら、全然もらえないんですよ。それでいいのですか、皆さん」と演説し、これに管が、「事実に基づかない批判だ」と反発しているが、たしかに小沢一郎の説明では、安部首相の言うような無茶苦茶なことになるようにも思える。しかし、それは、小沢の説明が舌足らずだったからで、簡単に、「スエーデン方式を基礎にする」と言えばよかったのだ。

 昨日私が書いた、「所得税を年金掛け金に充てる」という、役人が聞いたら仰天するであろう案も、実は、スエーデン方式を言い換えただけの話なのだ。それはどういうことかというと、集めたお金は、年金の支給をはじめ、何に使ってもよい。ただ、その金額(数字)を年金ポイントに換算し、年をとったらそれを使う、という話だ。家電量販店のポイントカードみたいなものだ。

 ところで、前に何度か引用した、社保庁の年金数理局局長という役職にあった坪野剛司という人の書いた『公的年金の不信不安誤解の元凶を斬る!』という本にこんなふうに書いてある。

 《公的年金は所得能力の喪失に伴う補填です。若い時から営々と拠出した保険料に基づいて給付を受けるという基本的な考え方である社会保険方式を放棄して、負担が明確でない消費税により一律に年金を支給するという考え方は、一見平等に見えますが……自律、自助を基本とする日本の経済社会のあり方に合いません。……全額税により財源を調達する制度は、どのような制度であれ、所得制限が入る事は明らかです。(そうならば)現在の生活保護制度とどこがちがうのか、大きな問題が出てきます。税方式に変えるという事は、第二の生活保護制度をつくることと同じなのです。……年をとって収入の多寡によって年金が出たり出なかったりする年金制度を国民は選ぶのでしょうか。……日本の社会政策は、貧しくなったら救う救貧制度ではなく、貧しくしないようにする防貧制度を目標としてきました。……昭和36年に国民年金が創設され皆年金体制が出来たのは、貧しい人を救うのではなく、貧しくならないようにする社会を目指すためであったわけです。これを根本から変えて半世紀前の考え方に戻す政策には、賛成できません。……》

 さすがに安部首相をはじめ、自民党の主脳は、「貧しい人を救うのではなく、貧しくしないようにする社会を目指しているのです」なんてことは一言も発言していないが(もし言ったら「詭弁だ」と猛烈な反撥を食らうだろう。実際詭弁なのだが)「財源をどうする」「我々はできることしか言いません」といった民主党への反論の根本には、このような、「自律、自助」に基づく思想が根強く存在しているのだ。

 「自律、自助、大いに結構じゃないか」という人も多いと思うが、しかし、自律、自助のスローガンのもとに、皆が頑張れば、皆、金持ちで豊かな生活を送る事ができるだろうか? 逆の言い方をすれば、今の日本で飢え死にする人はほぼ皆無だが、それは、日本人が皆、自律、自助の精神で頑張った成果だろうか?

 自律、自助の精神で頑張る人は、まず100%、競うように貯金するだろうが、皆が競って貯金をすると、社会全体は貧しくなると言って人々を驚かせたのがケインズだったのだが……。

 もっとも、日本のお役人様たちは、皆が頑張ってためた金を、皆のためになるように、しっかり運用すればよいのだ、と、どうやら今でも信じているようだが……。

私の年金改革案

2007-07-17 22:43:44 | Weblog
 私は、給与生活をした事が少なく、していた頃は若かったので、給与明細から厚生年金の年金負担金がどれくらい引かれているかといったことは、興味がなかったわけではないのだが、全然憶えていないのだが、平成16年度改正により、対年収比率を徐々に上げて、平成29年で18.3%となったところで固定させることになったんだそうだ。(半分は会社負担)

 この厚生年金制度も空洞化をうんぬんされているようだが、基本的に、あまり問題はない。問題は国民年金なのだ。

 国民年金は、同じ平成16年度改正で、平成29年で16900円で固定させることに決まった(同額を国が負担する)のだが、すぐわかることは、サラリーマンの場合は所得に比例しているのに、自営業者は、所得額の多少に関わらず、毎月16900円を払わなければならないことだ。
 「そんな無茶な~、お代官さま~、御勘弁くだせ~」、というような話だが、「何を申すか、所得の少ない者、ない者には免除制度を用意しておるではないか」と役人は言う。しかし、「免除」なんて、いかにもお仕着せがましい。貧乏人だってプライドはあらい!というわけで、ほとんど利用しない。「なに! 農業、漁業従事者を含め、自営業者ども、皆正直に所得を申告せぬ故、収入比例制度は不可能であり、定額の支払いを命ずるのは、やむなき処置なのであるぞ。お前らが悪いのだ~!」と、役人は言うだろうが、方法はあるはずだ。

 たとえば、毎年年度末に確定申告を行って、必要経費等を除いた純所得が一定額以上あれば、それに対し所得税がかかるわけだが、これを全額年金掛け金にしてしまうのだ。もちろん、これは、所得課税に所得制限がともなうように、所得制限をともなう。民主答案を参考にさせてもらえば、年収600万円~1200万円が制度の対象となり、600万円以下の人は、税金(消費税)をもとにした基礎年金を受け取り、1200万円以上所得がある人は、その越えた分に対し、所得税が適用されるようにする。

 どうだろう、このアイデアは。自営業者が正直に所得を申告しないのは、税の使い道に対する不信感が大きいと思うのだが、払っても自分のところに戻って来ると思えば、随分ちがってくるのではないだろうか。(ついでに言うと、普通のサラリーマンも、天引きはやめて、確定申告制度にして、その時に所得税の代りに、年金掛け金を払えばよい。天引き制度なんて、ナチスドイツが確実な戦費調達のために始めた制度はとっととやめるべきだろうと思う。)

内田センセイと大辻センセイ

2007-07-16 20:12:10 | Weblog
 内田樹センセイと言えば、つい先日、そのブログのヒット数が1000万を越えたとかで、その「実績」を背にベストセラーを連発している売れっ子の知識人だ。私も、二年ほど前だが、センセイの、映画に関する本を読んでとても面白かった。有田万里センセイのシネマエッセイのパクリじゃないかとしか思えない文章もあったのだが、それも、有田センセイの鑑識眼の鋭さ、深さを証明するものだろうと好意的に解釈していた。しかし、その内田センセイの人気ブログが、最近、羊頭狗肉というか、頓珍漢というか、ともかく惨澹たる有り様で、件の論文(『大脱走』についてだったのだが)も本当にパクったんじゃないかとか思いだした。

 それはともかく、内田センセイは、ずっと安部首相を批判しているのだが、今日づけのブログは、特にひどかった。

 《大事なことなので、ここに大書するが、政治家の仕事の本体は「何をするか」であるよりむしろ「何をしているように見えるか」にある。(何故なら)「私はそんなつもりではなかった」という釈明が通らない、というのが政治のルールである》と大風呂敷というか、はったりをかまし、《したがって、実際には愚鈍で貪欲であっても、他人から賢明で廉潔な士とみなされるのなら、その政治家は内政にも外交にも成功するであろう。》と、めちゃくちゃな結論に導く。

 内田センセイとしては、書いた直後は「うまいこと書けたぞ!」と思ったかもしれないが、いくらなんでもな結論である。実際、すぐに同業者とおぼしき人から、「いかに口が悪い私にも、そこまでは言えません」とか、「成功しようがしまいが、政治家は誠実であって欲しいです」とか、「安部首相こそ、《どのように見えているか》を気にしているように思いますが」とか、やんわり、かつ辛らつに批判されている。

 今日ばかりでない。先にも書いたように、内田センセイはここのところ連日、むちゃくちゃな文章をアップしては、その都度こっぴどく批判されているのだが、あまり堪えていないみたいだ。「いちいちこんなんでひるんでいたら学者稼業なんてやってられないさ」というところだろうが、私だったら、こんな風に批判されたら、顔を真っ赤にして自分の軽率さを恥じるところだがなあ……。(というのは、「政治家は外見が大事」というのは、しっかり論ずれば、それなりにわからないでもないレトリックだと思うのだが、内田センセイの文章は、その以前に、ただただ「軽率」としか言い様がないのである)


 渋谷の松濤美術館で大辻清司回顧展を見る。最終日ということもあって、観覧者多し。

 大辻氏は写真家だから、回顧展とは要するに写真展なのだが、一番面白かったのは、「実験なんとか」と題された、写真に関する哲学的考察をまとめた文章だった。

 実は、私は、この一連の文章を以前に目にしているのだが、添えられた写真が、はっきりいってつまらなかったので、文章も全然読んでいなかったのだ。しかし、「つまらなかった」のは、それが実験材料としての写真だったからで(私は、自慢じゃないが、「実験」がつまらなくて、理工学部を中退した人間だ)、文章はとてもおもしろく、九鬼周三の『粋の構造』にも比肩しうる好論文だと思った。どこかで単行本にまとめないかなあ……。
 
 

ミステリー「赤いモスク」その2

2007-07-15 23:09:13 | Weblog
 「赤いモスク」事件が早速ウィキペディアにアップされていたが、以下の通り、「中国女性拉致」については、一つのエピソードとしてしか書かれていなかった。

 《学生らが蜂起した背景にはモスクの最高指導者マウラナ・アブドル・アジズ師の影響が大きいとされている。彼はパキスタンの現ムシャラフ政権が進めようとしたマドラサに近代教育を導入する改革に反対する急先鋒で、パルヴェーズ・ムシャラフ大統領を「アフガニスタンやイラクで罪のないイスラム教徒を殺害している米英の手先」と批判してきた。アフガニスタンのイスラム武装勢力タリバーンとの深いつながりが指摘され、パキスタン当局から米国大使館に対するテロ計画や国際テロ組織アルカーイダのメンバーをかくまったりしたなどとして、15の容疑をかけられていた。今年になって学生らがイスラムの教えに反して売春したとして中国人女性らを拉致する事件を起こすなど、行動をエスカレートさせていた。》

 確かに、イスラム過激派が敵視する対象は米英であって、中国ではないという図式は存在する。したがって、日本ほどではないにしても、世界のマスコミが、歴然としている中国の関与を、奇妙にも、表立って報道していないように見えるのだが、それは、一に、「イスラムが敵視しているのは英米で中国ではない」という思い込みがあるからにちがいない。たまたま、イスラム保守派の目に止まった売春婦が中国人だったに過ぎないと。

 しかし、拉致されたのが中国人女性でなかったらどうだろう。しかも、拉致後、すぐに釈放されているのだが、それにも拘わらず、中国政府は、実行犯の処罰を申し入れた。(篭城神学生が「我々は無罪」と言ったのはこのことにたいしてだろう)「盗人猛々しい」なんていうと言い過ぎかもしれないが、売春がタブーのイスラム国で売春稼業をしておいて、その保護がなんとやらなんて厚かましい事は、中国人以外になし得ないだろう。

 ところが、事件後のパキスタン人の怒りは「親中のムシャラフ」ではなく、「親米のムシャラフ」に向けられた。中国が起こした事件であるにも関わらず、それに対する怒りは英米に向かっているのだ。

 中国は、そういう「大衆感情」を見切って、ムシャラフを強権発動に追い込んだにちがいない。おまけに、英米にしても、ムシャラフの強行突入がイスラム過激派撲滅のためであると言われれば、文句はつけにくい。

 と、中国は、まさに「三国志」を思わせる権謀術数を駆使しているように見えるのだが、しかし、いったい、何のために? 

 考えるに、それは、かつての元帝国、つまりモンゴル帝国の復活ではないだろうか。毛沢東は、チベット併合の正当化を清帝国の版図で説明したが、毛沢東時代より飛躍的に経済力を増した中国がモンゴル帝国の復活を夢見ていたとしても不思議ではない。(もちろん、チンギス・ハンが中国人ではないことを中国人は知っているはずだが、それでも、そう言った方が都合のいい時には、「チンギス・ハンは中国の偉大な皇帝」などとと平気で言う。実際、ネットの書き込みで見た事がある。)
 しかし、「三国志」は、所詮はシミュレーション小説であって、いかにそれにならって知恵を絞ったとしても、その「知恵」そのものが、姑息な限界となって我が身に降り掛かるのではないかと、地球のために願う。