パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

食べ物3題

2008-09-30 16:47:28 | Weblog
 「忠臣蔵とは何か」の続きを少し書くと、要するに、60年安保世代の知識人にじかに触れた思いがしたのである。「じかに」というのがミソである。

 たぶん、それだけ丸谷才一という人が60年安保世代の特徴をよく出しているということなのだろうが,要するにナルシスティックなくせに、外向的で、がちゃがちゃと五月蝿い。「反省」ということをしない。反体制的であることがよいことであると信じて疑うことがない等々田原総一郎なんか典型だろう。筒井康隆にしても、そういう同世代連中が大嫌いなんだろうが、でも結論的には以上のような特質を持っている。

 しかし、だとしたら、柄谷行人なんかどうなんだろう。ちょっと肌合いがちがうが……と思って調べたら、1941年生れだった。60年安保世代とはちがう。むしろ、団塊に近いが団塊じゃない。

 さて、だいぶ涼しくなったけれど、アイスクリームが好きな私は、相変わらず、アイスクリームを食べている。

 一昨日も、下のコンビニでアイスクリーム(カップ)を一つ買ってきて、さて食べようと思ったら、「ない!」。アイスクリームだから、買ってすぐ食べるつもりだったから、ほんの10秒かそれくらいだと思うのだが、置いたと思う場所にない。

 ものがものだけに、溶けてしまなわないうちに見つけなければならないと、必死で探したがない。10分、20分……もうドロドロになってしまっただろうと、捜索を諦め、もう一度買い直した。(好きなんで…)

 実は,買って食べはじめると見つかるのだぞ、と呪術効果を期待していたのだが、それ以後も今日に至るまで見つからず。いったい、どこでどんな具合になっているのか、気になって仕方がない。

 食べ物ネタでもうひとつ。

 少し前に、通常、200~300円はする薄切りチーズ8枚いりを99円ショップで買ったことを書いたが、昨日、再度買ったところ、199円だった。

 99円ショップに置いてあるものは全部99円だと思い込んでいたのだ。(レジで気づけよ、という話だが)

 まあそれでも199円なら安いことは安い。

 そのかわりというわけではないけれど、近所(新宿)の安売りドラッグストアで298円だった玄米ブラン(バランスアップ)を新宿紀伊国屋の向いにある、これも安売りドラッグストアで198円で売っていた。

 もっとも、198円が普通で、298円が高すぎるのかも知れないが、いずれにせよ、随分ちがう。最初、値札のつけ間違いかと思ったが、昨日見ても同じだったので、2個買ってきた。

 玄米ブランを砕いてアイスのトッピングにするのだ。さらにバナナも混ぜると、バナナのもやーっとしたアジが加わって、ウマーである。

「忠臣蔵とは何か」とは何か

2008-09-26 15:42:44 | Weblog
 丸谷才一著、「忠臣蔵とは何か」をブックオフで購入。100円。

 丸谷才一という人はいろいろ評判のわかれる人のようだが、私は全然読んだことがなかった。別に読む必要があるとも、正直言って思わないのだが、100円だったので買った。「忠臣蔵とは何か」は丸谷の代表作と言われているし、読んでみるかと。

 ざっと読んだだけなのだが…本人,ものすごく自信があるみたいだけど…推敲したのかい?と聞きたくなるような雑然とした内容だ。本人としては「混沌」と言ってくれと言いたいところだろうが、私の見るところ、混沌と言ってみても、結局、論理に重大な欠陥があるのだ。

 丸谷の言いたいことは簡単に言えば、「忠臣蔵」は浅野内匠頭の恨みを晴らすため、すなわち、いわゆる怨霊退散を願う御霊信仰に基づく祝祭劇だというのだ。神田の三社祭りが平将門の怨霊鎮めのためのお祭りだというのと同じだというわけだ。

 その証拠として、実際に討ち入りのあった六年後の正月、三つあった歌舞伎の小屋が一斉に、当時怨霊退散祝祭劇の代表格であった、「曽我兄弟」ものを上演していることをあげている。

 というのは、四十七士に切腹を命じた将軍綱吉の生類憐れみの令をはじめとする悪政に江戸の庶民は怨嗟を抱いており、その気持ちを熟知していた歌舞伎の興行主たちは、一斉に「曽我兄弟」を上演し、実際,その上演直後、綱吉は死亡、旧年来3ヶ月近く続いていた日照りも一転土砂降りの雨となり、これは劇「曽我兄弟」のおかげとみな歓喜したが、実際には「曽我兄弟」は当て馬で、庶民たちは、本当は、数年前に主君の恨みを雪いだ赤穂浪士を言祝いだのだ、というのだ。そして、それを後に劇化したものが、「忠臣蔵」だというわけだ。

 全体としては,私もそんなところだろうと思うのだが、実はこれは、私自身が整理してみた結果で、本文そのものはえらく混乱しているのだ。そして、その混乱の元は、祝祭劇というものをどう考えるかという問題から発している。

 御霊信仰というのは周知の通り,恨みを抱いて死んだものの恨みの念が後世に仇をなすので、その恨みを抱いて死んだものを神様にして現世の平安を願うというものだけれど、いったん、それが祝祭劇という「表現」のレベルになると話がちがってくる。

 怨霊の恨みも晴らされ、世の中はすっかり太平無事な平和な世の中になりました、だからこうしてお祝いをしているのですよ、それは皆、あなた様のおかげです、という神様となった怨霊への報告が、祝祭劇なのだ。

 しかし、丸谷は祝祭劇の基本は一般大衆が、権力一般に抱いている恨みだというのだ。「忠臣蔵」で言えば、将軍綱吉に対する不満、さらに一般化して言えば、為政者としての徳川家に対する一貫した不満が歌舞伎18番に代表される祝祭劇を支え、それはまた、古代からの日本人の信仰の1つの原形である怨霊を恐れる気持ちに基づいているのだという。

 もちろん、世の中が不穏な時に、より多く祝祭劇が求められるという事実の深層に、「庶民の権力者への恨み」がないとは言わないが、それが祝祭劇の基本であると言ってしまうと、それでは劇、すなわち表現でなくなってしまう。

 劇表現としての祝祭劇とは、世の中こんなに平和ですよ、だから,私はこんなに喜んでいますよという感情を一つの型、すなわち劇として表現することによって、実際の世の中もそうであってほしいと願うことなのだ。歌舞伎の場合で言えば,たとえば曽我の五郎が憤怒の表情で見栄を切れば、すべての悪霊は退散したことを意味する。

 つまり、形だけとはいえ、目的はすでに実現していると考えるのだ。

 これに対し、丸谷のように、憤怒の表情の曽我の五郎に喝采を送る江戸の庶民の心の奥底には権力者への恨みが込められていると考えると、祝祭劇ではなくなってしまう。

 以上のようなわけで,記述が混乱していると思ったのだ。要するに,いかにも旧タイプの知識人の考えそうなことだというのが感想である。

バイク便詐欺登場

2008-09-25 23:18:35 | Weblog
 振り込め詐欺で、銀行のATMが使いづらくなったため、振り込みの代わりに、バイク便を使う新手がでてきたそうだ。

 「もしもし、おばあちゃん? オレだよ、オレ。オレのミスなんだけど、会社の帳簿に穴あけちゃって、今日中に返さないと首になっちゃうんだ。500万でいいんだけど…払ってくれる? ありがとう。あ、でも最近振り込め詐欺が流行っていて、銀行がものすごく厳しくて、ATMの周辺に警官がいたりするんだよ。だからさ、おばあちゃん、バイク便を出すから、バイク便にお金渡してくれない? ああ、ありがとう、おばあちゃん」

 といった具合らしい。銀行,警察の警戒網を、その網自身を逆手に取って,正面から突破するわけだ。これは、はるかに犯人たちの方が頭がいい。

 詐欺にかからないように警戒しろ、とマスコミで言っているが、詐欺のプロにとっては、どんなに警戒されたってそんなこと、屁でもない。いったん信用させてしまったら、「詐欺ではないか?」という疑問を抱いても,それを合気道の名手のごとく、逆手に取って、「詐欺なんかじゃないよ」の一言で黙らせてしまう。

 私の父親は、保険業を長くやっていて、人を疑うプロみたいなものだが、知り合いの娘が日本航空のパイロットと結婚することになってその結婚式の披露宴に招かれた。

 ところが、その結婚式が終わってからしばらくして新聞を見て仰天した。パイロットは戦後、伝説的に語り継がれる有名な詐欺師だったのだ。

 父親は、その詐欺師とは、結婚式を挙げる少し前から知り合いで、一緒に食事をしたりしたらしいが、彼がパイロットであることを疑わせるような素振りはどう考えても、何一つなかったそうだ。その娘さんも、相手が詐欺師だったとわかって、逮捕されてからもまだ半信半疑だったらしい。

 詐欺師というのはそういうものなのだ。相手の食いつきが悪ければすぐに猟場を変える。そして、しっかりと食いついたものだけを相手にする。

 もちろん、だからといって警戒を呼びかけることがすべて無駄というわけではないが、いったん網にかかってしまった場合にどうするかということで、警察は、そのためにATMの周辺に警官を配置したりしているわけだろうが、それは完全に無駄と言い切っていいかと思う。「振り込め詐欺対策でATMが使えないから、現金で頼む」で簡単に突破されてしまうからだ。

 もっとも、還付金詐欺と言われるものには、ATMの周辺で警官が目を光らせるのは、多少有効かもしれないが、でもそんなことをいつまでも続けることができるのか? 交通安全週間と同じことになりはしないか。(ちょうど今交通安全週間のようだけど)

 そんなことより、前から言っているのだが、ATMであれ窓口振り込みであれ、振り込んだ金の現金化を2,3日禁止すればいいではないか。

 いずれにせよ、振り込め詐欺で捕まったものも少なからずいるはずだから、彼らに、「どのような対策を立てられたら,一番困るか?」と聞けばよいと思うのだが、そういうことはしているのだろうか? 

 話は少し変わるが、テレビに目撃証言などをする人間の首から上をちょんぎって放映する、あれはどうにかならないものか。顔を出す人もいないわけではないから、多分,本人が嫌がっているのだろうが、対策がないわけではない。

 簡単だ。そういう人は放映しなければいいのだ。顔を出してもよい、と言う人の映像だけを流せばよいのだ。

 どうせ、そう大したことを言っているわけではないし、もし重要なコメントがとれ、しかも本人は顔を出したくないと言ったら、記者が録音するなり、メモするなりして、それをアナウンサーが読むなりなんなりすればいいではないか。

 と思うのだがねえ。

久々に聞く「高速無料化」

2008-09-22 21:56:13 | Weblog
 ……というわけで、自民党総裁には麻生がなったわけだが、なんで自民党員が麻生を選んだのかよくわからない。名門の2代目3代目を選んで失敗し続けているのに。

 その麻生は、なんと言っても景気対策が大事と言っているが、なんだか「名門」のお坊っちゃんに似合わない。そんなことより、名門らしく、抽象的な理想論を語って欲しいと思うのはわたしだけか。だろうなー。

 対する小沢は、党首就任第一声で、できることをばんばんやると言って、イの2番目に高速道路の無料化を上げた。

 目玉政策としてまだ存続していたのか。もう、期待しちゃうぞ。それだけで民主党支持しちゃうぞ!とかいって、私は車もないし、免許ももってない(失効させてしまった)が、全然関係ないわけじゃない。高速バスが安くなるだろうし、宅急便も少し安くなるかも知れない。

 しかし、それより大きいのは、地方出身者が気軽に里帰りできるようになるから、全体的に活気が出るのではないか。

 とか言って、私は祖父母の代からの東京っ子なので、それも関係ないのだが、まあ、同胞として日本が活気づくのはよいことだと思うのだ。

 これに対し、石原良純が、「高速道路を無料化した場合、メンテナンスをどうするのか?」とか言っていたが、それこそ民営化した道路公団をメンテナンス会社に特化すればいいではないか。副業としてサービスエリア内の営業権を分割付与して、他の会社と競争する形でメンテナンスもやらせればいい。(そう言えば、猪瀬が、東京から名古屋までを東名高速と中央高速で競争させるのだとか言っていたが、東海経由の東名高速と、長野経由の中央高速がどう競争するのか)

 そもそも、高速道路料金を今秋から値下げすると国土省が発表したが(いろいろ条件がついているみたいだが)、道路公団は民営化したのになんで役人が値下げを発表するのだろう? 不思議でならない。

 しかし世間には、無料化すると混雑するから有料のままでいいとか妙なことを言うやつがいる。本末転倒とはこのことだ。また、無料化するとガソリンの消費量が増えて地球温暖化を推進してしまうからよくないとか言う人もいるようだが、だったら自動車なんか作らなければよいのだ。ひいては、文明も不要だ……ということになってしまう。

 でも人間から文明を奪ったら悲惨なことになる。というか、人間は、ニューギニアの人食い人種も含めて、文明を作って生きる動物なんだから。

 

 

後で泣くなよ

2008-09-20 22:44:34 | Weblog
 「朝ズバ」を見ていたら、朝早くからマスゾエが出ていて、後期高齢者保険制度は、「とてもよく考えられた制度で、国民のためにもなるのだが、みな嫌だというから、考え直すことにした」と繰り返し言っていた。

 そんなにいい制度なら、国民が反対しようが断固として続ければいいじゃないか。

 「嫌だというなら変えるけど、変えてから、前のほうが良かったなんて言うなよ」と言わんばかりの嫌味な言い草。

 町村官房長官がこのマスゾエ発言を、「お先走ったお喋り」と評したことに対して、町村官房長官とは学生時代からの親友で忌憚なくなんでも言い合う間柄だとか言っていたが、要するに二人とも東大の法学部だったということを言いたいのだろう。

 町村と舛添が東大の同窓生だか同級生だか知らないが、それが後期高齢者保険制度となんの関係があるのだ。

 東大生の嫌らしさは前回書いたばかりだが、本人に自覚がないのが困りもの。

結局、時事ネタ

2008-09-18 22:10:57 | Weblog
 「時事ネタ」につきあうのは少々疲れ気味、というコメントあり。同感。

 狂牛病、姉歯物件、産地偽装、事故米事件等々、日本中ひっくり返るような大騒ぎで実は被害者一人もなし(狂牛病はイギリスで食べた肉が原因で、帰国後日本で発病、死んだ人が一人いたけど……このニュースを聞いたとき思ったことは、運の悪い人というのはどうしてもいるものだが、ここまで悪い人はいないだろうということだった)という奇妙な実態を苦笑まじりで振り返る日がいつか来るだろうか?

 今のところ、永遠に来そうにないのが、私にとって「疲れる」第一の原因。

 ちなみに、事故米について言うと、残留農薬については危険性ゼロ、発癌性のあるカビについては危険性「ゼロ」とは言い切れないが、ほとんどゼロに等しいというのが実態らしい。

 「そんなこと、なんで言えるのか?」と言う人がいるかも知れないが、今現在、年間数十万人あるいは数百万人もの多くの人が癌にかかって発病しているわけで、事故米の影響なんてあったとしても永遠にわからないということなのだ。

 いずれにせよ、問題は、「危険性」じゃなくて、不当に商売をしたということ、それだけだ。

 と、結局、時事ネタで書いてしまった。

 ついでに、アメリカの保険会社に公的資金が投入された件について、報道ステーションの真鍋なんとかというコメンテーターが、保険会社が潰れることは影響が大きすぎるとアメリカ政府が判断したのだろうと言った由だが、池田信夫ブログで、これは重大な誤りだと書いてあった。

 というのは、アメリカでも日本でも、保険会社の実際の主業務は個人に対する保険契約とは別の大規模な金融業なのだが、看板は保険業ということになっている。そして、その個人対象の保険業務に関しては、巨額資金が飛び交う本体業務に何が起きても大丈夫なように、別会計にして守られているのだそうだ。つまり、AIG本体が傾けば保険支払いにも支障が出るので、公的資金を入れざるを得なかったという真鍋の解説はまったくの無知に基づくもので、保険支払いに対する不信を招き(AIGは大きいので救済されたが小さいところは危ないとか)、パニックを起こしかねないというのである。

 なるほど。保険が別会計になっていることを私は知らなかったが(大体、保険に入ってないし)、テレビの前でえらそうにコメントをたれる人がそんなこともを知らないでぺらぺら御託を並べる。

 困ったもんだ。

ごちそうさま。お金はあんたが払ってね。

2008-09-16 21:56:11 | Weblog
 99円ショップで薄切りチーズ8枚入り、内容量130gが99円で売られていたので買った。味は全然オッケーである。

 近所のスーパーで、同じ薄切りタイプのチーズを見たら、10枚入り、内容量180gが398円だった。

 なんだろう、この違いは。

 食パンも99円ショップだと99円(当たり前だが)。コンビニだと190円近い。

 さすがに99円の食パンはあまり美味しくないと思って、コンビニで倍近いのを買って食べてみたら、味は全然同じだった。まずい!

 多分、今美味しいパンを食べようと思ったらベーカリーでないとだめなのだろうが、それはともかく、この値段の違いはなんなんだろう。

 はっきり言って、便乗値上げが結構多いと思うのだが、マスコミは全然調べようともしない。ニュース番組自体が、バラエティー番組同様、下請に丸投げらしいから、報道らしい心構えがそもそもないのだろう。

 三笠フーズ問題にしても、役人が数千円の接待(?)を受けていたということで、大喜びで叩きまくっているが、これは、「こっちは三笠に買ってもらう立場なので接待する理由がない」と役人が言っていることのほうが正しいだろう。大谷某が、「検査をゆるくしてもらうために接待した可能性がある」とか言っていたが、数千円で? 三笠の社長は商社出身だぞ。接待のプロだぞ。

 この問題をつっつくなら、数千円の食事代を払わせて全然なんとも思わない、「本来なら、こちらが払うべきなんだが、あっちが払うから、ごちになった」とシレと言ってのける、役人の根性のほうが問題だろう。

 結局、卑しいといえば卑しいのだろうが、要するに自分のほうが偉いと思っているので、食事代を払わせて当然と思っているのだ。額の問題じゃない。相手が払うのが当然と思っているのだ、役人というのは、

 というのは、もうだいぶ前、旧月光が廃刊になるちょっと前だが、その役人の卵――東大の大学院生二人と、原稿依頼のため会ったことがある。場所は渋谷の喫茶店で、二人はどこかの雑誌に書いた「都市論」のコピーをもってきたが、おフランスのポストモダン評論の影響を露骨に受けた文章で、全然何を言っているのかわからない。何を言っているかわからないなりに魅力を感じたかというと、それもない。こっちの能力不足かも知れないが、いずれにせよ原稿依頼は無理だなと思ったが、「後でちゃんと読ませていただきたい」とだけ答えて、それをポケットにしまい、外に出た。

 すると二人は、これからすぐ近くの中華料理屋に昼食を食べに行くところだが、一緒に来ないかという。こっちもお腹が空いていたので、じゃあ、ということで、二人の後についていった。

 二人は桜ヶ丘の丘の上にある、中国家庭料理と看板に書かれた、代官山に近いこともあって、ちょっとお洒落なカフェ風でもある、そのお店に入った。

 さて、食事が終り、代金を払おうとレジに向かうと、二人は私より早く席をたち、そのレジの前でポケットに手を突っ込んだまま、こちらに目配せしている。「金を払え」というサインだ。

 びっくりした。打合せに入った喫茶店のコーヒー代はこちらが払った。払うべきものはそれで終り。なんでその後の食事代まで払わなければならないのか。そもそもそっちが誘ったんじゃないか。

 そう思ったが、二人はそっくり反ったまま、払う素振りも見せないので、しょうがないので払った。二人分で3000円くらいだったと思う。

 その後、二人にはまったく連絡はとらなかった。たぶん、あっちとしては、「仕事を頼んでおきながら、何も言ってこないとはなんて無礼なやつだ、マイナー雑誌のくせに」とか思っているだろうが、こっちとしては、もし「月光の件、どうなりました? 書きますか? 書かないでいいのですか?」とか言ってきたら、「あれは没です。没代金として、コーヒー代と中華料理屋の昼食代しめて4000円をお支払いしました。そういうことでよろしく~」と答えるつもりだったが、何も言ってはこなかった。

 というわけで、「買ってもらっているのだから、本来ならこっちが三笠さんに食事代を払わなければならないのだが、向こうが払うっていうから、ゴチになった」という役人の言葉を聞いたとき、20年近く昔の、「東大大学院生に昼飯をおごらされてはらわた煮えくり返った事件」を思い出したのだった。

麻生、総裁に『王手』か?

2008-09-15 22:52:49 | Weblog
 坂本順治監督、赤井英和主演シリーズの第一弾(なのかな)、『王手』をテレビでやっていたので半分ほど見る。

 赤井が「若い!」。しかし、そんなに面白いとは思わなかった。

 以前、同じ坂本、赤井コンビの『トカレフ』がすごい、という声が周辺に多く、大いに疑問に思っていたのだが、今回、『王手』を見て、『トカレフ』が「すごい」と言いたい意味がなんとなくわかった。

 エルビス・プレスリー主演の西部劇を、これも半分ほど見る。ネットで調べたら、エルビス主演映画はドキュメンタリーを含めると33本もあるんだそうだ。本人も映画に出ることがとても好きだったらしい。

 中で、ピストルで撃たれた中年の保安官が、胸の弾丸を取り出すシーンがある。西部劇ではお馴染みだが、麻酔がないので、代りにウィスキーを飲めと医者に言われて、ぐいと飲むのだが、ああいうのを見ると、映画とはいえ、やつらは体力があるなーと思ってしまう。

 中年をはるかに過ぎていても、喧嘩になると、息子みたいな若造を一発でのしちゃうし。まあ、これも西部劇、いや映画の定番ではある。映画って、洋の東西を問わず、中年以上の男に甘いような気がする。(いや、いいんだけどね)制作者が中年以上の男だからだろうか。

 自民党の総裁選挙は、麻生が圧倒的に優位を保っているらしいが、貧乏くじをひいてしまうような気がしてならない。ここは、小池百合子にまかせちゃうというのが、賢明だと思うのだけれどねえ。

 現実的に言うと、麻生と公明党の仲がよいため、選挙が心配な議員連中の多くが麻生を支持しているという感じがするが、ということは、総選挙後の政界再編の可能性が少ないということなのだろうか。その点でも、度胸のありそうな小池百合子がいいと思うのだけどなあ。

 でも、私がそう思うということは、逆の眼がでる可能性が高い……。

 井筒監督が、「どうせ誰が首相になっても変わらないさ」と言って、となりの宮崎に「そんなことはない」と言われて、「ん? そう?」とか言っていたが、。宮崎は、「そう思う根拠は?」と突っ込めばよかった。たぶん、答えられないだろう。街頭世論調査(これ自体無意味だけど)も、「誰がなっても同じ」という答はずいぶん少なくなってきたような気がするし、コメンテーターとして不勉強なのだ、井筒監督。いつも同じセリフばかりで……。

またしてもミニミニタイムスリップ……?

2008-09-14 21:39:39 | Weblog
 おかしい。前回のタイトルが「ミニミニタイムスリップ」となっているが、あれから最低2回は新規にアップしたはずだ。それとも、頭の中で「アップした」と思っていただけなのだろうか? 

 今朝早朝、木久蔵(今は名前を息子に譲って、木久扇かなにかになっているはずだが)の落語をテレビで見たというか聞いたが、中で声帯模写というか、今はなんて言うのだろう……単に物まねか? ……ああ、やっぱりアルツなんとかなのか。

 まあともかく、木久蔵が得意の物まねを混ぜていたのだが、ちょっとすごかった。今の物まね芸人がエンターテイメントに走り過ぎということがよくわかった。

 今日は少し頭が飛んでいるのでこれまで。

ミニミニタイムスリップ

2008-09-07 19:25:40 | Weblog
 先週の水曜日、テレビをつけたらタモリクラブのような番組をやっている。

 タモリクラブは嫌いではないけれど、特に必ず見るということはない。以前は、「空耳アワー」が楽しみだったが、いつ頃からか、2度聞かせるということをしなくなった。あらかじめ、「こういう風に聞こえるよ」という知識を与えておいて、あらためて聞くと、「聞こえる~!」となるわけなのに。

 それはともかく、タモリクラブといえば、金曜日の深夜という思い込みがあったので、別の番組だろうと思った。そう思うと、ちょっといつもとちがう雰囲気がする。

 それで、時計を見たら、金曜日の表示になっている。

 八月から九月に変わる時、うまくカレンダーが機能しなくて、セットし直したばかりだったので、時計の表示のほうが間違っているのだろうと、あくまでも、今日は水曜日だと思い込んでいたが、ニュースに切り替えたら、金曜日だった。

 一日、日付けをずれて思い込むということはあるけれど、二日というのははじめてだった。

 なんでだろう? やっぱり福田辞任が唐突でびっくりして、記憶が飛んだのだろうか?

 最近不人気らしいサッカー全日本対バーレーン戦を見る。

 最初から結構動きがよいように見えたので、勝ちそうな感じがしたが、実際、勝った。

 後半40分近くまで3対0だったのに、突如、バーレーンチームも驚いたにちがいないが、2点入ってしまってどうなるかと思ったが、なんとか逃げ切った。

 それはさておき、アラブ現地で行われる対アラブのサッカー試合というのは、見ていてあまり面白くない。なんで面白くないかというと、妙ちくりんに聞こえるアラブ音楽による応援で見ているほうもリズムが狂うということもあるが、第一の原因は、応援している観客に統一感がないのだ。

 その点、ヨーロッパのサッカーの場合、観客席を見ているだけで面白い。とくにプレミアリーグなんかは、すごい。スペインの勝利で幕を閉じたユーロ杯なんか、サッカーのプレイなんか見ていなくても、というと大袈裟だが、芝生、スタジオの美しさも含めて、観客席を見ているだけで充分楽しめた。

 話を戻すと、対中東といってもイラン戦となると、スタジアムの雰囲気がアラブとちょっとちがう。アラブ人の客席は「白い」が、イラン人の客席は「黒い」。

 いや、そもそもイランは「中東」ではないのかな?

 今、アラビアンナイトを読みかけて中断しているのだが、このお話に「外国人」と名指しされて登場する人物は、ほとんどイラン人だそうだ。イラン人――すなわちペルシャ人であり、だとしたらなんとなく、「なるほど」という気持ちになるが、「言われてみると」であって、アラブ人というのは、定義からして本当にわかりづらい。オサマ・ビンラディンは生っ粋のアラブ人だが、アルカイダのナンバー2はエジプト人だった。エジプト人はアラブ人なのだろうか? フセインのイラク人はどうだろう? 

 先年死んだ東京コミックショーのショパン猪狩のコスチュームは、いかにも「アラブ風」だが、実際はアフガニスタンじゃないかとも思うし。(というのは、日本に住んで事業を行っているアフガニスタン人が、アフガンの正装と称する服装でテレビに出ているのを見たことがあるのだが、まるっきり、「レッドスネークカモーン」だったのだ。)

 ブックオフで、三浦展の『下流社会』を購入。

 3年程前に発行され、格差社会の現実を指摘した本として評価が高い、と聞いていたのだが……まだパラパラと読んだに過ぎないが、これは酷い。こんなのを価値ある研究書として持ち上げたのは、いったいどこのどいつだ?

 『「下流」とは単に所得が低いということではない。コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低いのである。その結果として所得が上がらず、未婚のままである確率も高い。そして彼らの中にはだらだら歩き、だらだら生きているものも少なくない。そのほうが楽だからだ。』

 あまりにも表面的な観察!

 『山の上に登ろうとするのは、山の上に何か素晴らしいものがあると期待するからで、すでに七合目くらいにいて、しかも山の上に欲しいものなどなく、七合目にも欲しいものが沢山溢れているとわかったら、誰も山の上に登ろうとしなくなることは当然である。ディスカウントストアには、目を疑うような低価格で物が売られている。クラシックの歴史的名盤すら百円のCDになって売られている。こんな時代に、努力して働こうと思うほうがおかしいとすら言える。だらだら生きても生きられる。』

 いや、まったくごもっとも、と思うのだが、著者は、最近の若者は、要するに、「だらだら生きていても、生きていける」から、だらだら生きているが、これからの時代はそうではないと言う。これからは、上昇する意欲と能力をもつものだけが上昇し、それがないものはどんどん選別されて「下流社会」を形成して行くというのだ。

 「だらだらと生きるでもなく生きていける」が故に、「だらだらと生きるでもなく生きている」若者が増え、その彼らが「下流社会」を形成しつつあると著者は言いたいのだろうと思っていたが、そうではないらしい。著者曰く、「そういう時代を前にして、若い世代の価値観、生活、消費は今どう変わりつつあるのか。それが本書の最大のテーマである。」

 んんん?

 話が見えなくなってしまったが、中根千枝の「縦社会」を比べるなどしてみることにしよう。