パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

同じ本を同じ日に二冊買ったこと

2009-05-30 20:12:14 | Weblog
 フロイトの論文、「快感原則の彼岸」を読みたいと思い,それが掲載されている筑摩の学芸文庫、『自我論集』をジュンク堂で購入した。

 そのジュンク堂に行く途中に二日にいっぺんは立ち寄る古本屋があるのだが、前回立ち寄った時には、『自我論集』は置いてなかった。

 しかし、この古本屋では結構掘り出し物があるので、念のため調べてみようかなと思ったが、探すのが面倒だし、そもそも古本屋というのは、戦記物だけを扱っているところとか、映画関連のみを扱っているとか、そういう専門的に特化された古本屋の場合は別だが、大体は、何を買いたいというのでもなく、ぶらりと立ち寄って買いたいものにぶつかるという形をとる。

 だから、まず99パーセントは目的は達成されないだろうと判断し、その古本屋の前をスルーしてジュンク堂に行き、購入したのだったが、その帰り道、またその古本屋の前を通ったので,一応確認してみようと思い、入ってみたら、驚くなかれ、目の前に『自我論集』が!

 値段を見たら600円。

 新品は1260円だった。

 しかし,今さらどうすることもできず、『自我論集』は本棚に戻して立ち去ったのだが、2,30メートル歩いてから、引き返し、600円で購入した。

 書物のコレクターは読書用と蔵書用に二冊買うという話を聞いたことがあるが,ジュンク堂で買った新品はアマゾンで売ればいい。

 フロイトの『自我論集』は、フロイトの著作の中でも人気が高いので、多分,定価に近い値段で売れるだろう。

 と思ったのだが、誰か他の奴に買われてしまうのが悔しかったということもある。

 たぶん、こっちのほうが大きい。

 たとえば、もし買わないでいたら、明日、とは言わずとも,数日中にはなくなっているだろう。

 そうなったら、ショック!である。

 何がショックなんだかよくわからないが、ともかくショックに違いない。

 というわけで、二冊買ってしまったわけだが、それにしても、なんとまあ間の悪いことか。

 というか、運の悪いことか。

 大学2年生のとき、体育の授業で「レクリエーション」という科目があり、これはちょろそうだと応募したところ、定員100人のところに応募者が105人ほどいて,その場で、外れの5人を選ぶためにくじ引きをして、私が真っ先に当たってしまったことを思い出した。

 神様、他のことで埋め合わせしていただかないと、恨みますよ~。

中島梓が…

2009-05-27 14:22:50 | Weblog
亡くなった。

 びっくり!と思ったら、数年前に膵臓がんが発覚、闘病日記的な本も出していたらしい。

 以前、サン出版で校正のアルバイトをしていた時、ほとんどすべての作家の原稿が、途中で激しく睡魔に教われたのに、彼女のだけは、それがなかった。

 文章がうまいのか。

 いや、それだけではないだろう。

 小林秀雄は、文章を書く極意は、読む人が「文章を読んでいる」のではなく,作家その人を読んでいる、というか、接しているように思われるようでなければならないと言っていたそうだが、中島梓…というか、中島梓は評論時のペンネームで、小説家としては栗本馨なんだそうだが、彼女の文章はその域に達していたのか?

 よくわからないが、彼女が一種の天才であったことは確かだろう。

 何しろ、原稿用紙に「書き直し」が一切ない。

 三島由紀夫は、原稿用紙何枚でと注文されると、書き直しなく、一回でぴったりとその字数で収めることができたということだが、彼女もそれに近い才能の持ち主だったんだと思う。

 それはさておき、享年56だそうだが、かなりの美食家で、大食いだったのがいけなかったんじゃないかなーと思う。

 いずれにせよ、人の「生き死に」は天命なんかじゃない。

 かなりの部分、自分の生き方,特に食生活を直接に反映しているのだから、たとえば真っ昼間から脂っこいラーメンを食べるような無謀な食生活の習慣はあらためるよう、厚生省は警告すべきだろう。

 フリマで10円で買った靴で歩いていたら、いきなり、底がベローンとはがれ落ち、漫画かなにかのように、オイチニオイチニと腿を高くあげて歩いた。

 10円じゃあ、しょうがないといえばいえるのだが、以前、「ただでどうぞ」と言われてただでもらったロシア製のブーツは、先が長く尖っているので、階段を上るときなど注意しないとつかえたりするが、それを除けば、軽くて、頑丈で,サイズもぴったりで,今でも履いている。(脇にステッチで模様が入っているのだが,これが気に入っている。)

 フラメンコのブーツみたいな感じだ。ロシア製だけど。

 以来,ロシア製って、少なくとも実用品については案外いいのかもと思って、意識的に「メイド・イン・ロシア」を探しているが、ほとんど見つからないのは、ちと残念。

新型インフルエンザのもたらしたもの

2009-05-24 20:49:35 | Weblog
 新型インフルエンザでもっとも深刻なのは、病気そのものよりも、ネットにおける誹謗中傷のようだ。

 多分,洗足学園の生徒だろうが、「ネットで非難されているのを見るのが一番つらかった」と告白をしたとかで、その件に関するスレッドをのぞいたら、書き込みの大半が「じゃあ、見なければいいだろう」といった、更なる誹謗中傷。

 最近,ネットの世論調査の数字がマスコミに載っているが、通常の世論調査とは極端に数字がちがう。

 採点競技では、採点の上と下は自動的にカットされるが、それと同様に、ネットの数字なんかはカットすべきだろう。

 いや、もちろん、ネットだからダメというのではない。

 極点に数字がちがうばあい、それは「世論」と言うべきではないというだけの話である。

 だから、たとえば共同通信の数字が他と極端にちがったら、それは世論調査とは言えない。

 私がニュースキャスターかなにかだったら、「○○○の」、と名前をはっきり出した上、「○○○の数字は他の数字とはまったく異なるのでお伝えしません」、と言うな。

 そうしないと、まさに悪貨が良貨を駆逐することになる。

 要するに,匿名掲示板をどう規制するかという問題だ。

 規制するか、否かということじゃない。

 「規制しなければいけない」ことは明らかで,それをどうするか、だ。

 要するに、今回のインフルエンザ騒動は、「ネット規制」の具体化への一歩となるのではないか。

 …と書き込もうと思ったらocn規制にあって書き込めず。

 くそ、ocnなんか死んじゃえ!

大宮がヤバい?

2009-05-21 20:40:44 | Weblog
 大宮のS氏から「今日,そちらに行くつもりだったが,運転手が突然高熱でダウンしちゃってさ。明日行く」

 との電話あり。

 ヤベえ。

 しかし、洗足学園の園長だか校長だか知らないが、泣くことはないだろうに。

 まあ、映画『おっぱいバレー』で「感動しました」と言って泣く奴のいる国だから、しょうがないのか。

 いや、その映画は見てないし、韓国映画の『ラブレター』で泣いた口だから大きなことは言えない。

 でも、『ラブレター』で泣いたのは、中国から、中国の属国であった朝鮮に人目を忍んで流れてきた女性が、その朝鮮の直近の支配者であった日本が残した商習慣であると思われるクリーニングの「出前」をやって糊口をしのぐという複雑な状況設定にまずぐっときたのだ。(たしか、この女性を演じた女優は、今年だったか、自殺した。韓国では大変な騒ぎになったはずだ。)

 昔はあったのだ。クリーニングの出前・配達というのが。

 「白洋舎です」、といって、オートバイに乗ってやってくる。

 オートバイの前は自転車だったんだろうが,オートバイが自動車になる頃には、そもそもクリーニングの注文取り、配達という商法そのものがなくなってしまった。

 ちょっと不思議な気がする。自動車なら、高騰する人件費をカバーするくらい、効率的に配達できるだろうと思うのだが。

 もしかしたら、共稼ぎ世帯が多くなって、ダンナのクリーニングされた背広を家で受け取ってくれる専業主婦がそもそも少なくなってしまったからだろうか。

 いや、クリーニング屋のことを語りたいんじゃなかった。

 洗足学園の先生は、インフルエンザで入院した生徒が、「申し訳ありませんでした。皆さんにおわびしますと伝えてください」と言ったことに、「ぐっ」ときちゃったらしい。

 そのことを非難するつもりはない。

 ないけれど…弱毒性でこれじゃあ、今秋にも予想される強毒性インフルエンザがやってきたらどうすんだと言いたい。

ポッポ,愛を語る

2009-05-17 19:54:29 | Weblog
 せっかく鳩山を誉めたと思ったら、マニフェストが「官僚から市民への大政奉還」だと。

 どこかの人気ブログの先生みたいに、明治維新の核になった儒教思想を吉田松陰から説き起こして「わかってない!」なんて理窟をこねるつもりはないけれど、もうちょっとどうにかならないのか。

 とはいえ、「愛」の問題が、近代日本の大問題であることは、その通りだ。

 日本人は,「他人」をどうしたら愛することができるか、わからないのだ。

 伊藤整に「近代日本における愛の虚偽」というエッセー風論文があり、そこでこう書いている。

 「勿論日本にもクリスチャンは多い。しかし我々一般日本人には、あの日本人クリスチャンたちのあり方が,実に多くの偽善性によって疑わしいもの二に見え,演技的なわざとらしい祈りや懺悔の習慣によって非現実的な宗教と思われている。賀川豊彦氏のような世界的に認められている大きな存在ですら,日本の知識階級は,何か疑わしい,ジェスチュアの多い、かなり演技の多い存在であると感じている。日本の良質のジャーナリズムの賀川氏に対する白眼視がそういうことに根ざしていることは疑うことはできない。
 それは我ら一般の日本知識階級は、不可能な愛というものを信じていないからである。不可能なことを目指して努力し,実現に到達し得ないことを感じて祈り,完成し得ないことを待ち望むことの空々しさが、我々の眼にクリスチャンを偽善者のように見させるのだ。我々には不可能なことから退いて自己を守るという謙譲や思いやりはあっても,他者を自己と同一視しようというような、あり得ないことへの努力の中には虚偽を見いだすのだ。我々は憐れみ、同情,手控え,ためらいなどを他者に対して抱くが、しかし真実の愛を抱くことは不可能だと考え,抱く努力もしないのだ。」

 テリー伊藤が、「友愛だなんてわけのわかんないことを言うな」と怒鳴っていたが、まさにテリーは、「不可能な愛など信じない一般の日本知識階級」の代表格である。(テリーは、「自分は知識人である」と自覚して振る舞っているように思う。そこがちょっと凄い。「私も大衆でございます」と言いたげな評論家とちがうところだ。)

 実際、キリスト教国において、この「愛の思想」が過去、貫かれてきたかというと、テリーが見通している通り、そんなことはない。なぜなら,己と他者を同一視することなど「不可能」なのだから。

 じゃあ、「他人への愛」なんか不可能なことは捨てて、ひたすら身内を中心とする既得権益を大事にせよ、とはさすがにテリーも言わない。

 他人を自己と同一視すると「愛」の思想は、ある局面では必要なのだ。

 それはテリーも認めるだろう。

 結局、この彼我の差は、孔子の「己の欲せざる所を人に為すなかれ」と、キリストの「人にかくせられんと思うところを人に施せ」の違いから来るが、この「かすかな違い」が、やがて、「文化の総和に置いての大きな違い」(伊藤整)となって現れたのである。

 要するに、「為すな」と「為せ」のちがいで、これは、現実には大きい差となって現れる。

 伊藤整の結論は,西洋キリスト教国では「神による強制せられた愛」という正数と、それに対応する負数,つまり「罪」を意識させられることになる。一方日本の場合、「負」を意識せられることからは免れているが、いずれが正しい認識であるか,「私はその二つの前に立って決しかねている」と結んでいる。

 まあ、いずれにせよ、鳩山の「友愛」は、日本のほとんどすべての知識人たちからは嘲笑されるだろうが、鳩山がそれを承知で、あえて引っ込めないでいる真意は案外深いところにあるのかもしれない。

 それともう1つ,伊藤整は、「近代日本における愛の虚偽」問題を、知識人の問題としている。そして,そうである限り、解決し得ぬ問題であるとしているわけだが、「大衆」には言及していない。

 多分,「大衆」は歌謡曲などで明らかな通り、江戸時代の「愛の世界」と寸分変わらぬ世界に浸っているという判断だろうが、鳩山は、今後、選挙があるわけだから,まさにその「大衆」に向かって,「愛」を説くことになる。

 さて、そんな鳩ぽっぽはどういう風に選挙民に受け止められるのか、興味深い問題である。

ポッポに期待

2009-05-16 20:05:48 | Weblog
 民主党の代表選挙をテレビで見てしまった。

 鳩山の演説が,意外によかったことに驚いた。

 昔は,「ポッポ」のあだ名がビッタリな、なんかふわふわしたイメージしかなかったが、ここ数年間、幹事長をこなしてきたことが出てきているのか。

 内容的にも、「官僚からの権力奪取」と「寛容な社会」(友愛)ということで、ウン,これなら支持すると見ていて思った。

 対する岡田は、残念ながら昔とちっとも変わっていなかった。

 目がキョロキョロしているし、言っていることもよくわからない。

 わかったことは、「官僚を叩いてばかりではいけない」だけ。

 自民党のここ1、2年の失政は,実質、「官僚の失政」だろう。

 具体的に言うと、小泉がやめる少し前あたりから、世論重視の小泉流政治を範とするような官僚の姿勢が目立ってきた。

 特に、新潟地震で一家を乗せた自動車が崖崩れの岩の下敷きになり、その救出作業をテレビ中継したことがあったけれど、あの時、いったん救出作業を中止しようとしたところが,テレビを見ていた世論の反発を受け,救出作業を再開・継続した結果、幼児が一人助かったことがあった。

 私は,あれを見ていて、官僚の行動基準が変わったのかなと思った。

 世論重視で動くということは基本的にはいいことだし、私はその時、今後の官僚の変化にちょっと期待したところもあったのだが、実際には,彼らが見る「世論」というものが、残念ながら彼らの感覚に沿ったものでしかなかった。

 それでライブドアや村上ファンドなどを皮切りに、「お金儲けのどこが悪い」という意見を、あえて言えば,岡田流の清潔さ一点張りで圧殺していった。

 昨日,銀行に,「不動産を担保にした場合、どれくらいの融資が得られるのか」と聞いたら,「個人を対象の不動産担保の融資は現在行ってません」という返事だった。

 企業向け融資も、現在は、申し出案件の中身を審査して決めるので,担保を求めるか否かははその後、決める、ということになっているらしい。

 おいおいおい、である。

 しっかりした担保があったら無条件、担保がない場合、事業内容等を審査するというのが常識的な流れだろう。

 事業計画を審査して,場合によっては担保を求める、って、それは完全に「世論」を気にした「建前」じゃないか。

 「これじゃあ、景気が回復しないわけだ」と言ってやったが、向こうは向こうで、「バカなやつにまた時間を取られた」とか思っているだろう。

 ともかく、そんな「世論重視」のあげくの果てが、インフルエンザ騒動で、患者をまるで犯罪者扱いだ。

 そんな世論はほんの一部だろうが、マスコミがしっかりしていないと、案外,そういう無茶苦茶な世論に引っ張られることがある。

 舛添は,水際作戦を「時間稼ぎだった」と説明したが、「大本営発表」じゃないかと思った。

 水際作戦にかけた金を、全部国内感染対策にあて、インフルエンザで入院治療は全額無料とか、そういう風にすべきだろう。

 大体,チフスとか、法定伝染病はそういうことになっているのじゃなかったかな?

 だったら、それに新型インフルエンザを加えればいいだけの話だ。

 メキシコで流行が拡大したのはまさに、貧乏人が病院に行くことをためらったからだというし、とりあえず、インフルエンザか否かを判断するまでのプロセスは無料ということにしないと、保険証なし家庭が膨大な数いるのだから,そこを配慮しないとヤバいだろうと、私は思うのだが…。

 まあ,そこらへんも、鳩山は工学部出身ということなので、ある程度、理論で納得すれば,その方向に動いてくれそうかな、と期待している。

いよいよ迫る危機!

2009-05-13 19:22:58 | Weblog
 梅が丘の美登利寿司が、持ち帰り品の賞味期限のシールを改竄したということで、立入検査を受けたという。

 どんな「改竄」かというと、夜7時までと10時までの表示を午前零時までと変えたらしい。

 寿司だから,多分、当日夜7時、あるいは10時までの賞味期限を、客の行動(7時までに家に帰るか、帰らないかといったら、帰らない人のほうが多いだろう)を配慮して零時に変えたのだろう。

 店で食べるなら別だが,「持ち帰り品」なんだから、数時間くらいの差はどってことないだろうに。

 そもそも、最初の賞味期限、夜7時までというのが、どういう基準で設定したのか。

 多分サラリーマンの帰宅時間に合わせたのだろうが、7時では帰宅した瞬間に賞味期限が切れてしまうことに気づいて、「改竄」したのだろう。

 大体、回転寿司だって、ぐるぐる回っているうちにひからびちゃってるのが回ってきたりするじゃないか。

 私は一度経験がある。

 で,その後、一度も回転寿司にはいったことはない。

 つまり、生涯一度だけしか回転寿司を食べたことがないのだ。

 テレビゲームも、インベーダーを人を待っている間に、10分ほどやっただけだし。

 それはどうでもよいのだけれど、梅が丘の美登利寿司なら、よく知っている。

 ただいつも行列ができているので食べたことはないが、いずれにせよ、「知っている名前」がいよいよ出てきたなという感じだ。
 
 昨日書いた、20歳の大学生が17歳の女子高生とセック○して捕まった事件だけれど、そのセッ○スしたのは、去年の9月なんだそうだ。

 いやはや…。

まだ若いのに…

2009-05-12 20:27:27 | Weblog
 近所の古本屋にぶらりと入ったら、ラジオが流れていて、そこで、日本政府のインフルエンザ対策を、「正気の沙汰ではない」と外国メディアが批判報道しているらしいことを話題にしていた。

 立ち聞きなので、全体の流れとかはわからないのだが、日本政府は、「水際対策」とかで一台300万円の器械を30台とか300台とか購入したんだそうだ。

 30台と300台では金額がずいぶんちがうが、要するに、外国メディア(あるいは、外国メディアに登場した専門家)は、完璧に水際で防ぐことは不可能なことはわかりきっているので、同じ金額を使うなら、「国内感染」への対策を考えるべきだというのである。

 また、カナダで感染した高校生の一行がマスクをしていなかったことに批判が集まっていることに対し、まさに「正気の沙汰ではない」と批判していた。

 そそもそも、マスクをしていれば防げるなんてものではない。

 実際,ちょっと前まで、マスクの着用は、被感染者がウィルスが混じった咳などを他人にかけないためであると解説されていたと思うが,そんなことはどこへやら。

 元来,インフルエンザというのは冬に流行るもので、これから大流行する可能性は低いが、ただし、一夏越えた今年の秋冬がやばいらしい。

 ウィルスが活動しやすい環境になるし、またウィルスそのものが強力なものに変身する可能性があるからだそうだ。

 斯く語っていた人物は誰なのか、立ち聞きだったので、わからないのだが、専門家による冷静な解説が必要なのに,テレビでは専門家がまったく出てこないのが問題である、と話を締めくくっていた。

 もちろん、テレビにも全然専門家が出ていないわけではないけれど、発言内容について、「マスクの効能を否定するようなことは言わないでくれ」とかななんとか要請されているような感じだ。

 そして、発言時間が極めて短い。

 三木たかしが死んだ。

 大和田獏が「まだお若いのに」と言っていたが、この台詞,最近あまり聞かなくなったような気がする。

 忌野清志郎の場合も、「まだ若いのに」じゃなくて、ロッカーとして前進し続けた末の戦死(バカバカしい…)といったイメージで語られているような気がする。

 「まだ若いのに」だと、もう表現として当たり前というか、陳腐になってしまったのだ。

 「まだ若い死」が当たり前になったのだ。

 マスコミはいい加減日本の平均寿命が高いことに疑問を呈すべきだ。

 西丸震哉をはじめ、多くの医者,科学者がずっと前から指摘していたことだが,平均寿命というのは、要するにその年に亡くなった人の平均年齢なのだ。

 だから、乳幼児が大量に死んでいた昔は平均寿命が短かった。

 アフリカ等では平均寿命が30歳とか言うと、みんな30歳で死んでしまうように思うが,そうではない。

 幼児の死亡率が高いことと、若くて戦争等に巻き込まれての事故的死が多いことで「30」という数字が出てきてしまう。

 要するに日本の平均寿命が高いのは、新生児の死亡率が極めて低いことと、寝たきり老人の数が極めて多く、かつなかなか死なない(死なせない)ことで高くなっているにすぎない。

 「死なせない」というのは、欧米では、自分で食物を飲み込めなくなった老人は、無理に食堂を切開してそこから栄養物を流し込んだりはしないことになっているからだ。

 もっとも、その欧米でも植物状態の患者から延命装置を勝手に外すことは「殺人」になるみたいだから、その辺の基準はちょっとよくわからない。

 たぶん、食事をうけつけなくなった人間は、それが当人の「意志」として扱われるのだろう。

 日本の倫理基準ではそういうことはできないとか言うやつが多いだろう。というか、そういうのがほとんどだろうが,日本には「世間道徳」はあっても、「倫理」なんかない。

 だから、臓器移植も進まない。

 昔から日本人は「倫理」も輸入してきたのだし、それはちっとも恥ずかしいことではない。

 「臓器移植」については、それが行われている国の基準をそっくりそのまま「輸入」すればいいのだ。

 立花隆の、「脳死臨調批判」という文庫本を読んでつくづくそう思った。

 立花は、「日本人はアニミズムを信じている民族なので,遺体をただちに切り刻んで活用することを認めることができない」という。

 だったら話は簡単だ。臓器移植は禁止すればいい。

 外国で移植手術を受けたら厳罰に処すとすればいい。

 でも、それができない。

 だったら、臓器移植を可として盛んに行われている社会の倫理、および科学的基準、をそのまま輸入すればいいのだ。

 ミクシーで知り合った二十歳の大学生と十七歳の女子高生が大学生の自宅で淫らな行為に及んだということで、大学生が逮捕された。

 大学生は容疑を認めているという。

 なんのこっちゃである。

 20歳の男と17歳の女が性行為に及ぶことは日本の倫理基準にそぐわないのか?

 警察,検察はそう考えているらしい。

 それとも、ミクシーだからいけなかったのか?(案外そうかも)

 驚くべき世の中である。

 別に恐ろしいというのではない。

 全然恐ろしくなんかない。

 ただ、ばからしすぎるばかりである。

気楽な商売

2009-05-11 20:00:21 | Weblog
 「小沢が辞めれば潮目が変わって、総選挙では民主が有利になる」

 と、ほとんどすべての評論家が言い続けてきたが、なんでそういうことになるのか、その説明がまったくない。

 それで、昨日だったか今日だったか、ニュースで世論調査の結果が流れていて、そこでは小沢に関する支持不支持の率は、依然不支持の方が多いにせよ、明らかに支持が増えていた。

 そもそも、世論調査の結果と選挙の結果は必ずしも連動しないことは、これまでの経験から明白であり、そのことを政治記者,評論家が知らないはずはない。

 だったら、何を根拠に「小沢が辞めると民主有利」になるのか、最新世論調査の数字を見ながら,ますますわけがわからなくなったが、そう思っていた矢先に、「小沢辞任」のニュースが流れた。

 小沢のいい分だと、このままだと、選挙に向けた挙党態勢が組めないから辞めるということだった。

 なるほどね~。

 要するに,「小沢が辞めれば選挙有利」というのは、民主党の党内世論だったのだ。

 だから、一般世論の「好転」なんかは問題外なんだ。

 しかし、小沢の目的は「政権奪取」じゃなくて、「政界再編」ですからね。

 政治記者,評論家,学者先生たちは、福田政権発足直後の「大連立」騒動をお忘れなく。

 しかし、さて、小沢が辞めたことで、「これで民主有利が固まった」とアホどもは言うかな?

 「遅すぎた」とかなんとか難癖つけて、逃げるのだろうな。

 まったく気楽な商売だ。

歩く死体

2009-05-08 21:22:07 | Weblog
 びっくりしたなもーである。

 何にびっくりしたかというと、愛知県の二人殺し+猫殺し事件。

 警官が現場に駆けつけた時,犯人らしき男がドアの陰にうずくまっていたとか。

 両手を縛られた三男が「犯人は逃げた」と言ったので、目を離してしまったらしいが、その間,報道によると2分間。

 2分間って、結構長いぞ。

 そもそも、パトカーで現場に駆けつけたんだろうが、ということは警官は二人いたんだろう。

 だったら、一人が怪我している三男をパトカーに誘導し,もう一人が「うずくまっている男」に声をかけるべきだろう。

 その時、三男は、「二人殺された」と警官に言ったらしいが、それで見つかった死体が二男一人。

 それで、マスコミには、母親は行方不明と報じたわけだが、その母親は押し入れから発見された。

 しかし、「二人殺された」という証言があって、見つかった死体は1つ。

 残る1つがなんで「行方不明」なんだ? 死体が歩くか?

 残る1つは当然、家の中にあるはずだろう。

 しかも警察は,当初、「母親が行方不明」と言っていた。

 じゃあ、三男の証言は最初から信用していなかったのか?

 正直言って,警察は頭から、三男はウソを言っていると思い込んでいたとしか思えない。

「信用しない」のは警察の仕事としてわかるけれど、「本当かもしれない」とは思わなかったのか?

 いやはや、なにがなんだか、もうボロボロ。

 母親を殺して逃げていた男が5年ぶりに捕まったと思ったら,金がなくなって自首してきただと。

 かと思えば、食品の原産地を虚偽表示しただけで、会社を一斉に家宅捜索。

 捜索された会社は確実に倒産するだろう。

 虚偽表示なんか、担当官庁の「注意」で十分。

 なんで、警察が出てくるのだ。

 ともかく酷すぎる。

 知り合いの元編集の人が定期的にメール通信を送ってくれるのだが、一月ほど前、検察官僚の講演会に出席したところ、その官僚が、「我々は充分に世論の動向に注意を払っています」と言ったそうだ。

 それで、どうやって「世論の動向」を知るのですか?と聞いたら、週刊誌の名前を挙げたそうだ。

 なるほど…。